チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
七月二十日、午前七時四十分。篠塚拓也が職員用の駐車場へ自転車を停めると、その正面に見慣れない車が入っていた。
白い輸入車で、ナンバーはまだ真新しい。隣には経営陣の大型SUVが二台並んでいる。
車そのものが気に入らないわけではない。儲けた人間が高い車に乗るのは勝手だと思っているし、篠塚自身、先月受け取った百万円で生活に必要のない中古の釣り竿とリールを買っている。
気に入らないのは順番だった。金がない、今は厳しい、我慢してほしい。そう言い続けてきた側の駐車スペースだけが、毎年きれいに更新されている。
「新車ですね」
更衣室で会った同僚の田口が、着替えながら顎で外を指した。
「見た」
「先月、俺らの夏の一時金が去年の八割になったって説明あったじゃないですか」
「あったな」
「あれ、どこ行ったんですかね」
「知らん。俺に聞くな」
篠塚は制服のボタンを留めた。その制服代も、毎月の給与から天引きされている。ほかに職員食代、駐車場代、互助会費、名目のよく分からない積立が引かれ、残った数字を時給に直すと、この地域の最低賃金とほとんど変わらない。
入浴介助、排泄介助、移乗、食事介助、記録、家族対応、そして夜勤。本来なら二人でやる作業を一人で回す日も珍しくない。
三年前、給与の改善を求めた職員に対して、理事長はこう答えた。介護はお金だけでやる仕事ではありません、利用者さんの笑顔が一番の報酬です、福祉を給与だけで考えてほしくないのです。
同じ年度に役員報酬が増えていたことを、職員は全員知っていた。
◇
もっとも、篠塚は介護という仕事そのものを嫌ってはいない。
午前の入浴介助で担当した八十代の女性は、篠塚の名前をもう覚えていない。会うたびに初対面のような顔をする。それでも、車椅子から浴室の椅子へ移る瞬間だけは、何の抵抗もなく体重を預けてくる。
身体の方が先に、この手は大丈夫だと判断している。三年かけて積み上がったものが、名前より深いところに残っているらしかった。
昼の食事介助を終えたとき、別の利用者から短く声をかけられた。
「ありがとうね」
「はい」
「あんた、いつもいるね」
「いますよ。仕事なんで」
人生を賭ける使命だとは思っていない。ただ、この仕事をやっていてよかったと思う瞬間くらいはある、という程度には思っている。
だからこそ、介護が好きなら安く働け、という理屈には最後まで納得できなかった。仕事に意味があることと、その労働者を安く使っていいことは、まったく別の話である。
◇
五月までの篠塚は、文句があっても辞められなかった。
家へ入れる生活費があり、返済の途中の借金があり、貯金は転職の期間を支えるには足りず、無収入の月が一度でも来れば全部が崩れる。介護福祉士の講座は、三度申し込みを見送っていた。
悪い職場だから辞める、という話ではない。辞めれば経営者が困るのではなく、辞めれば自分が死ぬ。そういう構造の中にいた。
それが六月の百万円で変わった。
まず利息の高い借金を潰した。次に、四度目の延期を回避して講座へ申し込んだ。滞納しかけていた支払いを片付け、家へ入れる分を確保して、それでも残った金額の一部で、中古の釣り竿とリールを買った。
家族のためでもなく、将来のためでもなく、自分が遊ぶためだけに買った物である。
買った日の夜、篠塚は部屋の隅に立てかけたそれをしばらく眺めていた。生活に必要のない物を、必要ないと分かったうえで買ったのは、いつ以来か思い出せなかった。
◇
七月六日には、二十五万円が入った。
百万円のときは、入金の通知を見た瞬間に用途が全部決まっていた。借金、講座代、家族への生活費。決めたというより、順番が最初から決まっていた。
今回は違った。
講座代は既に払ってある。危険な借金は減った。今月の生活費も確保済みで、家電も今すぐ壊れそうなものはない。
だから七月二十日になっても、その一部が口座に残っている。
金があるのに、使い道を今日じゅうに決めなくていい。篠塚にとって、それはほとんど初めての状態だった。
◇
七月に入ってから、施設の職員が続けて辞めた。
最初は二十代半ばの男性職員で、県内の部品工場へ移った。夜勤がなくなり、給与は前の一・八倍になったという。次に辞めた女性職員は物流企業へ行き、勤務時間が安定した。今週は別の一人が、設備関係の会社の面接を受けに行っている。
篠塚が世界の変化を実感したのは、テレビのGDPでも株価でもなかった。休憩室の壁に貼られている求人票の数字が、春と比べて明らかに違うことだった。
「これ、去年と同じ会社ですよね」と田口が求人票を指した。
「同じだ」
「未経験可で、この金額出すようになったんですか」
「人が足りないんだろ」
「うち、資格持ちでこれより低いんですけど」
田口は少し黙ってから、思い出したように付け足した。
「なんかもう、募集してる側が焦ってません? 前は俺らが頭下げる側だったのに」
◇
経営側の最初の反応は、これまでとまったく同じだった。
退職の意思を伝えた職員には、利用者を置いて辞めるのか、という言葉が向けられた。こんな時こそ皆で支えるべきだ、とも言われた。介護は金だけではない、という決まり文句も出た。
ただし今回は、続きがあった。
言われた側が、翌週にはもっと良い条件の会社で働き始めている。
これまでは、職員が辞めると言えば困るのは職員本人だった。次の職場が見つかるまでの空白が怖いから、みんな最後は残った。今は逆になっている。
八月の夜勤表が、どう組んでも埋まらない。残った職員に追加の夜勤を頼んでも断られる。断った職員を強く責めることもできない。責めれば、その職員も来月にはいなくなる。
経営側がようやく理解したのは、自分たちの交渉力が消えたという一点だった。
◇
七月二十日の夕方、臨時の職員説明会が開かれた。
理事長は資料を配り、長い前置きを述べてから本題に入った。
「来月から、皆さんの給与を現行の二倍近い水準まで引き上げます」
半年前なら、この場で歓声が上がった可能性がある。実際、理事長はそれを期待していたように見えた。
誰も拍手しなかった。
職員たちは既に、他業種と他施設の求人票を並べて比較している。二倍と言っても、元の金額が異常に低かっただけの話である。夜勤があり、身体介助があり、資格が要り、感染症のリスクがあり、家族対応があり、人の生死に関わる責任がある。それを全部足してようやく、他の業種とテーブルに並べられるかどうかという水準だった。
沈黙が続いたあと、理事長が笑顔のまま少し声を硬くした。
「……何か、ご意見が」
篠塚が手を挙げた。交渉が得意なわけではない。人前で話すのも好きではない。それでも今は、事実だけは手元にある。
「二倍だと、残る理由としては弱いです」
理事長の表情が動いた。
「篠塚さん。うちがどれだけ厳しい中でこの数字を出したか、分かっていて言っていますか」
「厳しいのは分かります。介護報酬が急に増えるわけじゃないのも知ってます」
「なら」
「それでも、うちの職員が三人辞めた先は、全部それ以上出してますよ」
篠塚は鞄から折りたたんだ紙を出し、机の上へ広げた。求人票のコピーが四枚である。
「先週、休憩室に貼ってあったやつです。未経験可でこれです」
「業種が違います」
「違いますね。でも、生活費は業種で割引されないので」
理事長が言葉を探している間に、篠塚は続けた。
「あと、天引きも見てもらえますか。制服代と駐車場代と互助会費と、名前の分からない積立。二倍にしても、ここが残ってると手取りはそこまで増えません」
「あれは制度上」
「制度上どうしても必要なら、内訳を教えてください。納得したら払います」
理事長が黙った。
しばらくして、彼は別の角度から来た。
「篠塚さん。あなたは今、施設が弱っているから強く出ているんですか」
「違います」
篠塚は少し考えてから答えた。
「今までは、辞めたら俺が死んだんですよ。だから言えなかっただけです。今は辞めても死なないんで、言えるようになっただけです」
そこで初めて、理事長は理解した顔をした。この男は脅しているのではない。本当に辞められる。
「じゃあ俺は、ここを受けます」と篠塚は求人票の一枚を指した。「別に、介護しか仕事がないわけじゃなくなったんで」
沈黙のあと、後ろの席から田口の声が上がった。
「夜勤手当も見てください。夜勤一回で、あの金額はおかしいです」
そこから止まらなかった。基本給、夜勤手当、資格手当、不透明な天引き、休日の取り方。三年間、誰も口に出さなかったことが、三十分で全部出た。
最終的に施設側が飲んだのは、天引きの廃止と縮小、基本給の大幅増、夜勤手当と資格手当の増額、継続勤務手当の新設、そして勤務体系の一部改善だった。
基本給が三倍になったわけではない。ただし、手当と天引きの改善まで合わせた実際の手取りで見れば、篠塚の収入は従来の三倍近い水準まで動くことになった。
◇
説明会が終わったあと、田口が廊下で並んで歩きながら言った。
「篠塚さん、労組でも作る気だったんですか」
「作らねえよ」
「じゃあ何であんな喋れたんですか。普段そんな喋らないのに」
「求人票があったからだ」
篠塚はそれ以上うまく説明できなかった。
この結果を作ったのは、自分の交渉力でも、勇気でも、正義感でもない。工場が人を欲しがり、物流が人を欲しがり、施工業者が人を欲しがっているという、ただそれだけの事実である。
マキナが介護士の給料を上げろと命令した事実は、どこにもない。マキナの技術が設備投資を呼び、設備投資が工場と物流と施工の人手を呼び、その結果として安い給与では人を囲えなくなり、最後にこの施設の給与表が書き換わった。
その因果を、篠塚は正確には辿れていない。ただ、三年間動かなかったものが二か月で動いたことだけは分かる。
◇
施設は、いろいろな階層を覗ける窓でもあった。
面会に来る家族の話は、この二か月で明らかに変わっている。
古いエアコンをようやく交換した家庭がある。先送りにしていた歯科治療へ行った家族がいて、眼鏡を買い替えた人がいて、玄関に手すりを付けた家がある。親子で温泉へ行ってきたと報告する家族もいれば、孫に何かを買ってやったと嬉しそうに話す利用者もいた。
「全部貯金しますって言ってたのに、うちの旦那が焼肉行こうって」
そう笑っていた家族もいる。
二十五万円で全員の人生が逆転したわけではない。ただ、死なないから後回しにされていた不便が、一つずつ消えている。
以前、面会の会話でよく出たのは、何を削るか、という話だった。今は少しだけ、何に使うか、という話が増えた。
◇
もう一つ、施設の中で目に見えて減ったものがある。
去年の冬、ここの利用者の一人に警察官を名乗る電話がかかってきた。本人は途中まで完全に信じており、職員が気づいて家族へ連絡するまで、あと一歩のところまで進んでいた。
役所を騙る還付金の話も、息子を名乗って送金を求める電話も、この施設では珍しい話ではなかった。
その種の相談が、最近ぱたりと減っている。
「うちの母、先月一件も変な電話来てないって言うんですよ」と、ある家族が言った。「ずっと週に二、三回はあったのに」
「うちもそうですよ」と職員が答えた。「注意喚起のチラシ、しばらく貼ってません」
犯罪が消えたわけではない。知り合いを経由した話も、対面での勧誘も、昔からある組織も残っている。
篠塚の理解は単純だった。世の中の悪人が減ったわけではない。ただ、悪いことを始める入口の方が減ったらしい。
◇
好景気は、面会に来る家族の職業からも見えた。
町工場に勤めている息子がいる。春に会ったときは、こう言っていた。
「うちの会社、来年まで残ってるかな」
今月はこうだった。
「半年先まで埋まってるんですよ。もう機械も人も足りない。設備屋に電話しても、来月まで来ないって言われて」
同じ困ったでも、意味が正反対である。
家電量販店に勤めている家族は、エアコンと冷蔵庫と洗濯機が売れすぎて配送が追いつかないとこぼしていた。物流会社に勤める家族は、求人を出しても人が来ないと言っていた。
篠塚が普段使うスーパーも、駅前の飲食店も、ホームセンターも、春より明らかに混んでいる。
全員が豪遊しているわけではない。我慢していたものを一つだけ買う人間が、全国で同時に増えただけである。
◇
いいことばかりでもなかった。
篠塚は久しぶりに釣りへ行こうと思い、少し遠い海沿いの宿を調べた。そして値段を見て、そのまま予約画面を閉じた。
「高いな」
去年の同じ時期と比べて、目に見えて上がっている。エアコンは買っても設置が二週間待ちで、設備工事の業者はどこも捕まらず、行きつけの定食屋は人手が足りなくて夜の営業を短くしていた。
篠塚は日帰りに切り替えた。
そこまで決めてから、彼は少しだけおかしくなった。以前は、旅行に行くかどうかではなく、旅行という選択肢を最初から考えなかった。今は、一泊にするか日帰りにするかで悩んでいる。
悩みの種類が、静かに入れ替わっていた。
◇
平等な世界になったわけでもない。
夜のニュースは、この四か月で資産を大きく増やした層の話をしていた。工作機械、電線、変圧器、電力設備、FA、施工、物流。そのあたりの株を持っていた人間は、二十五万円などとは比べものにならない額を得ている。
不公平だと思う気持ちが、篠塚にまったくないわけではなかった。
ただ、以前との違いが一つある。昔なら、株価が上がったというニュースはそこで終わりだった。自分の生活とは何の関係もない、遠い場所の数字である。
今回は、同じ波が自分のところまで来た。百万円が来て、二十五万円が来て、借金が減って、講座に申し込めて、求人が増えて、給与表が書き換わった。
金持ちも儲かっている。でも今回は、自分のところにも流れてきた。篠塚の感覚は、その一行で足りていた。
◇
休憩室のテレビは、夕方から別のニュースを流していた。
アフリカで千台以上の《無限水筒》が給水を開始したという話である。泥水からも塩の混じった水からも安全な飲料水が作れて、取り除かれた物質がどこへ消えたのかは分かっておらず、世界中の物理学者が議論している。
「また出たんですか」と田口が言った。
「らしいな」
「消えた塩、どこ行ったんですかね」
「知るか」
「篠塚さん、興味ないんですか」
「水が飲めるようになったなら良かったな、以外に感想がねえよ」
田口は少し笑って、テレビから目を離して弁当の続きを食べ始めた。
「またマキナか、って感じですよね」
「そうだな」
数か月前なら、この一報だけで世界が震えていたはずである。今は昼休みの背景として流れ、二人はそれぞれの弁当を食べていた。
マキナが、ニュースの主役から生活の背景に変わり始めていた。
◇
その夜、篠塚は帰宅してから介護福祉士の講座の教材を広げた。
机の横には、中古の釣り竿が立てかけてある。
問題集の余白にペンを走らせながら、彼はふと、数日前の温泉旅館のことを思い出した。
母親に付き合って行った先で、平尾龍と鉢合わせした。中学以来である。挨拶を二言交わしたところまではよかった。
問題はそのあとだった。
平尾の母親が、善意しかない顔で、中学生だった息子の言葉を朗読し始めたのである。
拓也くんは他人の幸福のためなら自分が傷ついてでも助けられる正規品で、ちゃんと社会を回している歯車で、本当の人間なんだ。自分も何を犠牲にしてでも、そうなれる心が欲しかった。
平尾本人は最後まで聞かず、浴衣のまま廊下を全力で走って逃げていった。
「……いや、意味分かんねえだろ」
篠塚は誰もいない部屋で、独り言を漏らした。
友達ではない。連絡先も知らない。一緒に帰った記憶もほとんどないし、放課後に遊んだこともない。まともに話した回数など、片手で足りる。
やったことは一度きりである。何人かで一人を囲んでいる光景が気に入らなかったので、間に入っただけだ。
正義感で人生を賭けたわけでもなかった。その後、自分まで面倒に巻き込まれたときには普通に後悔したし、平尾のことを面倒くさい奴だと思った時期もある。
「一回止めただけだぞ。何で人生の基準になってんだ」
◇
そして篠塚には、逆の記憶があった。
あの一件の少し後から、平尾は異常な勢いで勉強を始めた。
休み時間も、放課後も、登下校の途中も、周りが騒いでいる時間も、いつ見ても何かを開いていた。成績は目に見えて上がり、篠塚の感覚では完全にエリート校としか言えない高校へ進んだ。
そこで終わらなかったところが、篠塚には理解できない。
その後も何年も同じことを続け、東京大学の理科三類を受けるところまで行った。落ちたらしいが、それは本人にとって重大な失敗であって、篠塚にとってはそうではない。
理三を受けて落ちた、という地点まで辿り着いていること自体が、意味不明なくらい凄い。
自分は、介護福祉士の講座への申し込みを三度延期した。金がなかったという事情はあるにせよ、仕事のあとに毎日机へ向かうことがどれほど大変か、今まさに実感している。三十分で瞼が落ちる日もある。
それを一日十六時間、何年も続けた人間の方が、自分には到底できないことをやっている。
「一回他人を庇うくらい、普通だろ」
篠塚はシャープペンシルを回しながら、天井を見た。
「それより、あそこまで勉強続けた平尾の方がよっぽど凄いだろうが」
同じ時期に、同じ出来事を、逆側から見ていた二人がいる。
どちらも、自分に自然にできたことを大したことではないと思い、相手が持っていて自分には難しいものを、必要以上に大きく見積もっていた。それぞれの手元にある鏡は、相手だけを映して自分を映さない。
もっとも、そんな構造を本人たちが言葉にすることはない。片方は逃げて布団に潜り、もう片方は問題集の余白にペンを走らせていた。
◇
篠塚は教材へ視線を戻した。
問題はまだ残っている。家へは今まで通り生活費を入れる必要があるし、資格試験に落ちる可能性もあるし、介護の仕事が楽になったわけでもない。世界が楽園になったとは、彼はまったく思っていない。
それでも、五月までの自分が考えていたのは、今月の支払いをどうするか、借金をどう返すか、講座をまた延期するか、という三つだけだった。
今日の夜に考えているのは、別の三つである。
資格を取ったあと、この施設に残るのか。給料が増えたら、家へいくら入れるのか。次の休みは、どこへ釣りに行くのか。
そこまで考えて、彼は机の横の竿へ目をやり、四つ目を足した。
来年には、もう少し良いリールを買ってもいいかもしれない。
来月の支払いではなく、来年の資格と次の釣り場を同じ夜に考えられること。篠塚拓也にとっては、それがどんな経済指標よりも分かりやすい好景気だった。