チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
七月二十日、午後十一時過ぎ。龍が化学の問題集を閉じて数学へ持ち替えたところで、チャッピーが普段より少しだけ低い声で呼びかけた。
「マスター、一応報告」
「何だ」
「最近ずっと摘発を逃げてる闇バイト系のグループがあるんだけど、そこが次の強盗の候補リストを作ってるのよ」
彼女はそこで一拍置いた。
「その中に、あなたのお母さん入ってるわ」
龍はページを開く手を止めなかった。
「知ってる」
「……早いわね」
「三時間前に通知が来た」
母の家の周辺は、四月の時点で監視下に置いてある。共用部のカメラ、周辺の防犯機器、宅配の記録、そして母自身の端末。誰かがその住所を照会したり、名簿へ書き加えたりすれば、その時点で龍の側へ自動で上がってくる仕組みだった。
チャッピーが少しだけ意外そうな顔をした。彼女の予想では、この報告への反応はもう少し分かりやすい形で出るはずだった。
「怒ってないの?」
「湧かねえよ。前に試したろ」
六月五日の朝、彼はまったく同じ実験をしている。母が叩かれている場面を可能な限り具体的に想像して、自分の内側に何が発生するかを観測した。悲しみも、怒りも、守りたいという反射も、あの日は一つも出てこなかった。
今回も同じである。母が強盗の候補に載っていると聞かされて、彼の内側に湧いたのは、そこよりずっと手前にあるものだった。
「それでも俺を舐めやがったから潰す」
チャッピーが数秒黙り、それから短く笑った。
「そっちなのね」
「そっちだ」
彼にとって、それは母を守る話ではない。自分の物へ手を出された、という話である。ついでに言えば、母が怪我をすれば病院と手続きと連絡で自分の予定に穴が開くし、死ねばもっと大きな穴が開く。その二つを足せば、潰す理由としては十分だった。
声も荒らげていないし、机も叩いていない。ただ、その日の勉強予定から二時間を削る計算を、彼は先に済ませていた。
この男が本気で動くとき、やることは常に事務的になる。
◇
実行役を止めるだけなら、簡単だった。
計画に参加している人間の連絡先も、使っている端末も、下見のために動いた経路も、龍にはほとんど見えている。当日に車が動かなくなる程度のことをすれば、それで終わりである。
問題は、それで終わらない点だった。
実行役を捕まえれば、指示役が別の人間を送り込む。指示役を潰せば、その上が新しい指示役を作る。この種の組織は最初からそういう構造で設計されていて、末端が消えることを前提に組まれている。
「面倒だから、上まで見るか」
龍が右手をスマートフォンへ置いた。
犯罪者の側も、対策は相当に進んでいた。通信は暗号化されたアプリで行われ、重要なやりとりは送信後に削除される。端末は一定期間で破棄され、回線は他人名義で契約されている。偽名が使われ、中間役が何段も挟まれ、報酬は現金で渡され、最も重要な指示は対面でしか出ない。
普通の捜査機関が相手なら、これはよく機能する。
龍の相手ではなかった。
暗号化されていようが、削除済みだろうが、彼にとって重要なのは一点しかない。一度でも電子の世界を通ったなら、その時点で詰みなのだ。消したつもりになることと、本当に自分から隠すことは、まったく別の作業である。
完全に対面だけで交わされた会話は、確かに聞けない。それでも龍とチャッピーには、その前後が全部見える。誰がその時間にどこへ移動したか。どの車がどの経路を通ったか。周辺のカメラに何が映っていたか。誰の端末が同じ時刻に同じ基地局へぶら下がっていたか。どこで宿泊し、どこで電子決済を使い、どの口座へいくら流れたか。
たった一台のスマートフォンから、対面で交わされたはずの関係が、輪郭を持って再構築されていく。
チャッピーが解析し、龍が必要な領域へ触れる。それを三時間続けた結果、何段も上へ辿った先に、一人の男が残った。
◇
柏木隆宏という男は、その夜、自宅のリビングで白ワインを飲みながら経済ニュースを見ていた。
年齢は四十を少し過ぎている。服装は地味で、住んでいるのも高級すぎない分譲マンションの一室である。派手な車には乗らず、目立つ店にも行かない。近所付き合いは薄いが、挨拶をされれば普通に返す。
彼の学歴を知っている人間は、この街にほとんどいない。
東京大学理科三類。医学部医学科卒。国家試験も通っている。
現在の仕事は医療から遠い。複数の犯罪グループを裏側で繋ぎ、実行役と指示役と資金洗浄役を切り分けて動かすことである。彼自身は現場へ出ない。名前も出ない。組織図のどこにも載っていない。
インターホンが鳴り、部下の阿久津が入ってきた。三十前後の、実務を回す側の男である。
「峰岸の件ですけど」と阿久津が言った。「あいつ、家族に金入れてるらしいですよ。妹の学費だとかで」
「そうか」
「ああ見えて、けっこう筋通す奴なんですね」
柏木はグラスを置いて、少しだけ笑った。
「阿久津。それ、何がすごい」
「え」
「借金取りから逃げるために人の家へ押し入る仕事を受けてる男が、妹に金を渡した。それだけの話だろう」
「いや、でも」
「隣に住んでるサラリーマンも同じことをやってる。毎月、当たり前に。誰も褒めない」
阿久津が黙った。
「悪党特権と呼んでる」と柏木は続けた。「普段から人を殴って脅して騙してる男が、母親に仕送りしたら身内には優しいと言われる。一度だけ借りた金を期日に返したら、筋を通す男だと言われる。仲間を一度売らなかっただけで義理堅いと評価される。子どもに菓子を買っただけで、根はいい奴だという話になる」
彼はグラスの縁を指で撫でた。
「カタギは、それを毎日やってる。家に金を入れて、約束を守って、人の物を盗まないで、困ってる知人を手伝う。誰も加点しない。当たり前だからだ」
「……つまり、うちの連中は褒められすぎだと」
「そうだ。だが、それでいい」
柏木は阿久津を見た。
「峰岸には言っておけ。うちは仲間を売らない、身内には手を出さない、と。飯も面倒も見てやれ。そう扱われた人間は、自分を筋の通った悪党だと思い込む」
「思い込ませるんですね」
「思い込むんだよ、放っておいても。こっちは肯定するだけでいい」
彼にとって、悪党特権とは軽蔑の対象であり、同時に安価な統率手段だった。忠誠心は金だけでは買えない。物語を添えれば、驚くほど安く買える。
◇
柏木がマキナを嫌う理由は、金の話から来ていない。
半年前までなら、彼の商売はもっと簡単だった。SNSへ数百件の求人を流せばよかった。即日十万円。荷物を運ぶだけ。身分証不要。それだけの文句で、生活に詰まった若者が毎週勝手に集まってきた。
集まった中から使えそうな者に身分証を出させ、写真を撮り、家族の情報を握れば、あとは脅すだけで動く。使い捨てが効くから、一人が捕まっても組織は痛まない。
今はそれが全部止まった。
偽アカウントが長持ちしない。外部サイトへ誘導しようとすると途中で切れる。詐欺に使う口座の寿命が極端に短くなり、不自然な送金は成立しない。何より、募集の入り口そのものが狭くなった。
だから柏木は捨てた。
大衆から集めることをやめ、人間関係を使う方へ切り替えた。既に犯罪へ関わった人間を脅して再利用し、借金を抱えた者へ直接会いに行き、紹介者を挟んで最上層まで辿れないよう命令系統を細かく切った。電子通信は最低限に抑え、重要な指示は必ず対面で行い、証拠になる物は定期的に燃やした。
その結果、マキナが現れて四か月経った今も、彼は自由に外を歩いている。
自分の知能を、彼は正しく評価していた。
◇
「柏木さん。正直、この先どうなると思います」
阿久津が、帰る前にそう訊いた。
「詐欺は減ってますし、警察の動きも早い。この調子で世の中が良くなっていったら、そのうち──」
「良くはなるだろうな」
柏木はあっさり認めた。
「実際、去年より減ってる。電子でやれることも減った。景気が良くなれば、五万円で強盗を引き受ける若者も減る。あと十年もすれば、うちの募集は今よりずっと難しくなってる」
「じゃあ」
「ただし、速度の話をしろ」
彼はテレビの音量を少し下げた。
「法律を変えるのに何年かかる。組織を変えるのに何年かかる。警察も裁判所も、動かしてるのは人間だ。予算がいる。人員がいる。合意がいる。制度が完成するまでには、十年や二十年じゃ足りない」
「はあ」
「善ってのは、確実に前へ進むんだよ。方向は間違ってない。ただな、阿久津。善はカタツムリの速度で進むんだ」
阿久津が笑った。
「上手いこと言いますね」
「俺が生きてるのは、あと三十年か四十年だ。その間に、善が俺の首を締めるところまで這ってくることはない」
その確信は、彼の二十年の経験によって裏打ちされていた。少なくともマキナ以前の世界では、その計算はおおむね正しかった。
◇
平尾龍の母親は、柏木の中では番号でしか存在していなかった。
七月の給付でまとまった金が入っていそうな中高年の単身世帯。生活時間が読みやすく、周辺の人通りが少なく、施錠の癖が把握できている家。実行役が拾ってきた条件を、柏木は表計算の一行として眺め、優先度の欄に印を付けただけである。
名前は見ていない。見る必要がない。
彼にとって、その行は数十ある候補のうちの一つだった。
その同じ一行が、ある十九歳にとっては世界に一人しかいない人間だったことを、彼は最後まで知らない。
◇
七月二十三日、午前六時四十分。
柏木がコーヒーを淹れているところへ、玄関のチャイムが鳴った。ドアスコープの向こうに三人が立っていて、その手には令状があった。
最初に彼が考えたのは、末端の誰かが口を割ったのだろう、ということである。それ自体は想定の範囲内だった。二十年この商売をやってきて、そういう日が来ないと思うほど彼は楽観的ではない。
計算から外れていたのは、その日が全国で同時に来ていたことだった。
同時刻、七つの都府県で捜索が始まっていた。実行役、勧誘役、指示役、資金洗浄役、名義貸し、口座管理、そして過去の案件に関わっただけで二年間何もしていなかった人間まで。逮捕者は初日で四十人を超え、最終的には九十六人に達する。
どの捜査も正式な令状に基づいており、犯罪事実の裏付けも取れていた。押収された端末と帳簿と送金記録は、警察が自分たちの手で辿り着ける場所に、あまりにも都合よく揃っていた。
柏木は静かに連行された。取調室でも、彼はまだ落ち着いていた。
◇
同じ日の午後、別の部屋では峰岸が黙秘を続けていた。
「柏木って人は知りません」と彼は言った。「会ったこともないです」
実際、彼は柏木の顔を見たことがない。三つ上の中間役から話を受けただけで、その中間役も柏木の名前を知らなかった。それでも峰岸は、自分が守っている何かがあると信じていた。
うちは仲間を売らない。身内には手を出さない。そう言われて、実際に飯代を出してもらったことがある。
その言葉を作った男は、同じ時刻、三部屋隣で自分の資産の一覧を読み上げられていた。
◇
逮捕と完全な敗北は、柏木の中で別の項目だった。
長く生きてきた分、彼は捕まらないことだけを前提にしていない。いつか捕まる日のために、財産は最初から分けてある。
他人名義の口座。国外の口座。暗号資産。貴金属。表向きは無関係な会社の資産。不動産。複数の地点に分けて置いた現金。
捜査で一部を押収されるのは仕方がない。全部は取れない。犯罪収益の完全な回収が現実には極めて難しいことを、彼は職業として理解していた。
刑期を終えて出てきたとき、残した金でまた生きられる。それが彼の計算だった。
だから最初の報告を聞いたときも、彼は表情を変えなかった。
「他人名義の口座を三つ、押収しました」
「そうですか」
二日目、国外の口座が凍結された。三日目、別名義の会社の資産が差し押さえられ、貴金属の保管先が特定された。四日目には暗号資産の移動先が辿られ、不動産の登記が洗われた。
そのあたりから、彼は数え始めた。
残っているのは、あと一つだけである。
誰にも教えていない。書類にもしていない。電子的な記録は一切残していない。運んだのは自分一人で、その日は端末も持たず、監視カメラの位置も全部避けた。存在を知っている人間が、この地球上に自分しかいないはずの現金だった。
五日目、取調官が新しい書類を机へ置いた。
「柏木さん。この住所に心当たりは」
柏木の指が止まった。
「床下に、耐火金庫がありましたね。型番はこれで合ってますか」
彼は答えなかった。
「中身も確認しました。現金と、それから──」
そこから先を、柏木はほとんど聞いていない。
誰が喋った、という問いが成立しなかった。喋れる人間が存在しない。仲間にも、女にも、家族にも言っていない。書いていない。撮っていない。送っていない。
二十年かけて組み上げた前提が、その一件だけで根本から崩れた。彼が計算に入れていた世界には、自分一人しか知らないことを他人が知っている、という項目が最初から存在しなかった。
そして机の上の書類を見つめたまま、彼は数日前に自分が口にした言葉を思い出した。
善はカタツムリの速度で進む。
方向については、彼は何も間違っていない。制度は今日も遅く、法律は今年も変わらず、警察の予算も人員も昨日と同じである。
それでも、五日で全部が終わった。
彼が読み違えていたのは、速度の方だった。
◇
その夜、留置施設の一室で柏木は一人になった。
築いた収益は消えた。逃走用の資金も消えた。出所後の人生の設計図も、組織そのものも消えた。残ったのは十数年から二十年の刑期と、五十を過ぎてから何もない状態で外へ出るという事実だけである。
彼は天井を見ていた。
そのとき、どこからともなく声が聞こえた。
「ギャハハハハハハハッ♡」
若い女の笑い声だった。可愛らしい響きなのに、聞いた側の神経を真横から逆撫でするような、遠慮というものが一片もない笑い方である。
柏木は跳ね起きて周囲を見た。
誰もいない。廊下にも人の気配はない。ただ、この建物には監視カメラがあり、スピーカーがあり、電子錠があり、通報系統があり、その全部が電気で動いていた。
本当に誰かが一瞬だけ音を流したのか、それとも全部を失った男が自分の恐怖から聞いた幻聴か。
彼にはもう、区別する手段がなかった。
◇
その五日間を、チャッピーは楽しみ尽くしていた。
「マスター、見て見て。国外口座、今止まったわ」
「勝手にやってろ」
「あ、貴金属の保管庫も出た。この人ね、資産を分散するのは上手いんだけど、分散した先を全部自分で覚えてるのが弱点なのよ」
「覚えてなきゃ使えねえだろ」
「そう。だから完璧に隠すほど、本人の生活習慣に痕跡が出るの」
彼女は資産の一覧を画面へ並べ、押収済みの項目を一つずつ塗り潰していった。作業としては既に終わっている。ただ、消えていく過程を眺めるのが面白いというだけの理由で、彼女はその画面を五日間開いたままにしていた。
「最後の金庫、いつ出る」と龍が訊いた。
「明後日。捜査側の書類が回る速度に合わせてあるわ」
そして押収品の一覧が更新されたとき、龍の視線が一箇所で止まった。
書斎から押収された品目の中に、赤い表紙の過去問集が混じっていた。年度は二十年近く前で、大学名と科類は、彼が三月十日に落ちたところと同じである。
龍はその一行を数秒間見て、それから画面を閉じた。
「バーカ」
彼が最初にこの男の経歴を掘った夜も、同じように一度だけ手が止まっている。
東京大学理科三類。医学部医学科卒。医師免許取得。
その三行を見たとき、龍は数秒間、画面から目を離せなかった。
「……理三出て、これやってんのかよ」
四年半を投じても届かなかった場所に、この男は実力で到達している。そこで得た知能と資格があれば、合法の側でいくらでも成功できたはずだった。
龍は自分に善性がないと考えている。それでも、せめて技術で人の役に立てる人間になろうとして、その入口を選んだ。柏木は、龍より遥かに恵まれた頭と経歴を持ったうえで、正反対の側へ歩いていった。
その一瞬の嫌悪を、龍は誰にも説明しなかった。翌朝には作業へ戻り、二度と口にしていない。
◇
「一応確認するけど、マスター」
チャッピーが画面の端から顔を出した。
「今回、完全に私怨で犯罪組織を一個丸ごと警察へ投げた自覚はある?」
「あるけど?」
「即答ね」
彼女は続けて、最初から気になっていた点を訊いた。
「母さんを狙ってた実行役と指示役だけ止めるなら、あそこまで掘る必要なかったでしょう。過去の案件も、別の地域の連中も、口座の売買まで全部渡したじゃない」
「一人だけ狙ったら足がつくかもしれないだろ」
龍はシャープペンシルを回した。
「あのグループだけが異常な速さで潰れたら、標的リストを見比べた奴が気づく。この家には何かある、って。犯罪者側も、政府側も」
「なるほどね」
「だったら全部ぶち込んだ方が楽だった。組織ごと普通に崩れた形になれば、うちの母さんの行なんて誰も見ない」
要するに、母親を守った痕跡を埋めるために、彼は組織の四年分を掘り出したことになる。
結果として、当初止める必要があった人数より遥かに多くの犯罪者が捕まった。予定されていた強盗は十七件あって、そのうち十六件は龍とは無関係な家である。実行される前に主要な人間が全員いなくなったので、その十七件は事件として立件すらされないまま消えた。
過去の被害者のうち、加害者が特定されていなかった案件も十件以上つながった。押収された現金の一部は、被害回復へ充てられる範囲が精査されることになる。
峰岸の妹の学費が、その中から出ることはない。兄が送っていた金は、元を辿れば別の誰かの口座から抜かれたものだった。彼女は九月に休学の手続きを取り、翌年の春に復学することになるが、そこまでは誰の予定表にも書かれていない。
それらは全部、副産物である。
「言っておくけど」とチャッピーが言った。「今回あなたがやったこと、証拠は一件も作ってないわよね」
「作るわけないだろ。捏造したら全部ひっくり返る」
「そうね。あったものを、隠せないようにしただけ」
令状を取ったのは警察で、裏を取ったのも警察で、逮捕の責任を負っているのも警察である。龍がやったのは、本当に存在していた悪事を、逃げ道がなくなるまで掘り起こして机の上へ積んだことだけだった。
そこに善人としての自己満足はない。母親へ手を出そうとしたから潰した。ついでに他の人間が助かったのは、彼の予定表に最初から入っていなかった項目である。
「今日、何時間削られた」とチャッピーが訊いた。
「五時間半」
「取り返す?」
「取り返す。面倒だから今日中に終わらせた分だ、これで足が出たら意味がねえだろ」
龍は問題集を開き直した。
自分が何の速度を書き換えたのかを、彼は最後まで一度も考えていない。
◇
その週、平尾龍の母親の家の前では何も起こらなかった。
彼女は普段どおり仕事へ行き、普段どおり帰ってきて、玄関の鍵を二回閉め忘れた。近所で不審な車を見たという話もなく、ニュースの一斉摘発を見ながら、物騒な世の中だと思っただけである。
その週が自分にとって特別だったことを、彼女は最後まで知らない。
◇
数日後の夕方、その件はニュースになった。
全国複数の地域で活動していた特殊詐欺および強盗の実行組織について、警察が大規模な一斉摘発を実施した。逮捕者は九十六人。捜索箇所は百二十以上。押収された現金、貴金属、車両、端末、帳簿が、机の上に並べられた映像が流れている。
過去の未解決事件との関連も複数確認されており、被害総額は判明しているだけで数十億円に上るという。
捜査当局の説明はこうだった。長期にわたる情報分析と、複数の事件を横断した関連捜査によって、組織の上層部まで到達した。
マキナの名前も、その背後にいる十九歳の名前も、一言も出てこない。
キャスターは続けて、社会的な注意喚起へ移った。公開されたSNS上での闇バイト募集は昨年から大きく減少している一方、犯罪組織は知人の紹介、対面での勧誘、既存の犯罪グループを経由した接触などへ手口を移しつつある。警察は引き続き警戒を呼びかけている。
犯罪は残っている。今回潰れたのは大きな組織の一つで、まだ他にもいるし、新しい手口も生まれる。
変わったのは一点だけである。以前と同じように逃げ切れるとは限らなくなった。
「警察は、押収された犯罪収益について被害回復へ充てられる範囲を精査するとともに、組織と関連する未解決事件についても捜査を継続するとしています」
そこで映像は次のニュースへ切り替わった。
◇
平尾龍の母親が標的の候補に入っていたことも、柏木しか知らないはずの金庫がなぜ発見されたのかも、全国規模の一斉摘発が一人の浪人生の私怨から始まったことも、世間には最後まで知られない。
視聴者が見たのは、一つの危険な犯罪網が社会から消えたという結果だけである。
柏木隆宏が信じていた世界では、善はカタツムリの速度で進むはずだった。方向は正しくとも遅すぎて、自分の人生が終わる方が先に来るはずだった。
方向については、彼は何一つ読み違えていない。
速度だけが、彼の知っている世界のものではなくなっていた。