チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
七月二十五日、午前九時五十分。官邸の会議室へ入る前に、大槻は廊下の窓へ一度だけ目をやった。
三年前の彼なら、この建物の中で最も価値のあるものが何かと訊かれれば、迷わず一つの椅子を指した。総理大臣の椅子である。官僚として上を目指し、いずれ政治の側へ回る可能性まで含めて、そこへ座る自分を想像したことは一度や二度ではない。
今は少し違って見える。あの椅子は、この国で最も逃げ道のない場所だった。
三月二十三日から今日までの四か月、大槻は総理を最も近い距離で見続けている。一日に何度も常識の外側から報告が上がり、外国の首脳から電話が入り、三十兆円単位の資金移動と原理不明の技術について決断を求められ、そのうえで通常の行政も一件も減らない。
座りたい気持ちは残っている。ただし今日だけは、絶対に座りたくなかった。
◇
会議室には、四か月前なら同席するはずのなかった顔が並んでいた。
国家サイバー統括室の堂島、警察庁の鮫島、デジタル庁の宇津木、財務省の榊原、内閣法制局の久保田、防衛省の寺岡。そこへ経産省、外務省、厚労省、環境省、国交省、文科省の科学技術部門、金融庁の幹部が加わる。
大槻は資料を配り終えてから、半ば本気で口を開いた。
「一つ確認させてください。マキナ案件は、今どこの省が主管なんですか」
誰も答えなかった。
三月にはサイバー案件だった。四月には財政と福祉が入り、五月には産業が入り、六月にはエネルギーと外交が入り、今月は水道と環境まで入っている。省庁の名前を一つ挙げれば、必ず他の五省が抜ける。
「だから、今日は全員に来てもらいました」と総理が言った。「始めましょう」
◇
前半は、明るい数字から始まった。
七月六日の給付以降、家電、旅行、外食、住宅の補修、教育、資格取得へ資金が動いている。家計の短期的な余力も増え、貯蓄率と消費が同時に上がるという、通常なら両立しにくい形が出ていた。
マキナ関連産業では製造、物流、設備施工、電気、検査の求人が急増し、待遇の悪さで人を囲い込んでいた業界から人が抜け始めている。闇バイトと電子経路の詐欺は大きく減り、一昨日には大型組織の上層部まで一気に逮捕された。
厚労省の幹部が、そこで少し困った顔をした。
「介護や一部のサービス業から、製造と物流へ人が流れています」
「それは問題ですか」と総理が訊いた。
「問題です。ただ、その結果として、施設側が給与を上げ始めておりまして」
「では良いことですか」
「良いことです。ただ、今度は人が足りません」
会議室に苦笑が広がった。この四か月、各省が持ってくる資料は全部この形をしている。喜ばしいことです、ただし大問題です。
「辞められなかった人が辞められるようになったら、辞められる側が慌てて給料を上げ始めた、ということですね」と久保田がまとめた。
「乱暴ですが、その通りです」
政府としての方針は、人がより良い職場へ移ることを止めない、で一致した。不足する業界には処遇の改善、省力化、資格取得の支援で対応する。市場が動かした賃上げを行政が押さえに行けば、この四か月で最も健全に働いた仕組みを政府自身が壊すことになる。
◇
そこから先は、同じ単語が延々と繰り返された。
人がいない。
工場の要員が足りない。据付の作業員が足りない。電気工事士が足りない。配管工が足りない。物流の運転手が足りない。港湾も足りない。変圧器が足りず、銅線が足りず、それを敷く人間はもっと足りない。
国交省の幹部が続けた。
「自治体の技術職も足りません。工事の発注仕様を書ける人間がいない自治体が出始めています」
「発注する側がいないんですか」と大槻が訊いた。
「はい。予算はあります。書類が書けません」
三月以前、この国の会議で最も多く出た言葉は、仕事がない、金がない、だった。今は逆になっている。仕事が多すぎる、人が足りない。
好景気は歓迎すべき事態である。ただし日本が長年かけて縮小させてきた供給力の穴が、需要が跳ねた瞬間に全部露出した。政府が直面しているのは、不景気からの脱出ではなく、突然始まった超好景気を壊さずに受け止めるという、誰も経験したことのない仕事だった。
◇
榊原が資料をめくった。
「給付そのものは、社会的にも政治的にも成功しました。ここは率直に評価します」
そこで彼は顔を上げた。
「ただし、前回が成功したことと、残り三回の財源が存在することは別問題です」
一人あたり二十五万円の給付が、あと三回残っている。総額でおよそ八十九兆円。マキナ側の資産評価は確かに巨大で、七月二日の取引で三十兆円の現金も入った。それでも、次回を即座に実行できるだけの現金が常にそこにあるかというと、話は違う。
「それでも百二十兆円には足りません」と榊原は言った。「今の時点では」
そして彼は、この会議で最も奇妙な要望を口にした。
「もう一つ。次回を実施される場合、可能であれば一週間ほど前に教えていただきたい」
金融庁の幹部が続けた。
「三十兆円が予告なしに動くと、決済、小売、物流、観光、人員配置が同時に跳ねます。為替にも出ます。前回は事前調整があったので耐えました」
「前回だけです」と榊原が付け足した。「七月二日のオークションは、我々に一切通知がありませんでした。EUとインドが三十兆円を動かしたことを、当日の朝に知りました」
その要望を、政府はどこへも出せない。相手は政府機関でも企業でもなく、法的な通知義務も存在しない。頼むしかないのだった。
大槻は資料の余白に一行だけ書いた。国家が非国家主体へ、予告をお願いする。
四か月前なら、この一文は冗談として読まれたはずである。
◇
議題が《無限水筒》へ移ると、空気が変わった。
文科省の幹部が最初に発言した。
「七月二十五日現在、除去された塩分や重金属の質量がどこへ行ったのか、説明できておりません。測定は続けています。今のところ、既知の何かへ変換された痕跡は見つかっておりません」
「その状態で産業利用を進めるのは危険です」と彼は続けた。「原理が分からない装置を、化学プラントや発電設備へ入れる前例を作ることになります」
経産省の幹部が即座に返した。
「安全性が確認できる用途については、進めなければ他国に抜かれます。既に十を超える国が導入計画を出しています。原理が分からないことと、出口の水が安全であることは別に検証できます」
「それは、分からないまま使うということです」
「分からないまま使っている技術は、今も山ほどあります」
どちらの主張にも理があった。総理は両方を最後まで聞いてから、一つだけ線を引いた。
「奇跡だから無審査でいい、という結論だけは禁止します」
彼女は資料を閉じた。
「マキナ製であっても、飲料水なら水質検査を行います。工場設備なら安全審査を行います。原理が説明できない部分については、説明できるようになるまで用途を限定してください。政府が理解できないという理由で、行政責任を放棄する形にはしません」
そのうえで彼女は、未知技術の評価チームを常設することを指示した。分からないことを分からないまま報告できる場所を作る、という条件付きである。研究者に「不明」と書かせない圧力がかかった瞬間、この国の安全確認は死ぬ。
◇
鮫島の番になったとき、彼は一昨日の摘発の資料を机へ置いた。
九十六人。百二十箇所。数十億円。押収品の仕分けは、今この瞬間も現場で続いている。
「一つだけ、報告しておきます」と鮫島は言った。「この案件の端緒となった情報が、異常に正確でした」
彼はその先を、慎重に選んだ。
「令状は我々が取り、裏付けも我々が取りました。手続きに問題はありません。ただ、最初に示された確認先が、あまりにも過不足なく揃っていました」
マキナ由来の情報を刑事証拠として使わず、捜査の端緒に留めるという原則は、六月に決めてある。今回もその通りに運用された。
そこで鮫島は、一度だけ大槻の方を見た。
昨夜、彼は次の一行を上げるべきかどうか、大槻へ相談している。大槻は迷ったうえで、会議へ出すと決めた。総理の判断材料を、自分の裁量で握り潰す立場に自分はいない。それが理由の全部だった。
「押収された標的候補の一覧に、一件、気になる名前がありました」
総理が顔を上げた。
「氏名が一致します」と鮫島は続けた。「我々のうち数人しか知らない氏名です。同姓同名を除外するために最低限の照合はしました。単身で暮らしている、五十代の女性です」
会議室の大半は、その意味を理解できなかった。理解できたのは、この部屋で四人だけである。
「調べますか」と鮫島が訊いた。
「いいえ」
彼女の答えは早かった。
「詮索しないという約束を、こちらから破る理由にはなりません。捜査に必要であれば別ですが、必要ですか」
「いえ。事件としては、その一件は実行されておりません」
「では、そこまでで」
大槻はその一往復を聞きながら、自分たちが今、何を見送ったのかを正確に理解していた。
世間には埋まった。氏名を知る数人には、最初から埋まっていなかった。あの十九歳が四年分の犯罪証拠を掘り起こして痕跡を消したつもりでいるなら、この部屋だけがその努力の外側にある。
そして、この判断を本人が知ることもないだろうと大槻は思った。捜査側の端末は全部あちらの下にある。読もうと思えば読める。読んでいないことを願うしかない、という種類の願いだった。
◇
外務省の幹部の報告は、いつも通り疲れていた。
「アメリカは、日本がマキナを独占しないことと、安全保障上の変化を可能な範囲で共有することを求めています。EUは透明性と制度と技術標準を要求しながら、恩恵は最大限受け取ろうとしています。中国は対外的に自主技術を強調しつつ、国内では実装速度を上げるための投資を積んでいます」
彼はそこで一度息を吐いた。
「そして、どの国も最後は同じことを言います」
会話の型は毎回変わらない。マキナと交渉したい。我々の指揮下にありません。なら本人を紹介してくれ。それも我々の権限ではありません。しかし日本にいるんだろう。いることと管理していることは別です。
「そこで必ず、黙られます」
無限水筒がアフリカで動き始めてから、新興国での評価はさらに上がった。同時に、日本だけが有利な位置にいるという見方も強まっている。世界最大の超技術主体を国内に抱えながら、それを所有も命令もできないという立場を、既存の外交理論はどこにも分類してくれない。
◇
そして議題は、最後の一つへ移った。
寺岡が封筒から出した資料は、この会議で唯一、部数が限られていた。米国から非公式に共有された評価である。
現代国家を成立させているのは、通信、金融、指揮、認証、兵器の管理、物流、そして情報基盤である。その全部が電子の上に乗っている。評価はそこから出発していた。
核戦力すら安全圏とは言い切れない。国家という組織を単独で相手取れる可能性がある。軍隊一つと戦って強いという種類の話ではなく、戦闘力の評価そのものが成立しない。
大槻がその報告を初めて読んだ夜、頭に浮かんだ単語は「神」だった。
浮かんだ直後に、彼は自分でツッコミを入れている。いや邪神だろ、と。
神という語には、少なくとも祈れば通じるかもしれないという含みがある。こちらの都合を一切考えず、気分で世界を動かし、都合が悪くなれば何をするか分からない相手を指す言葉としては、明らかに向いていない。
もっとも、その修正にも根拠はなかった。政府は龍が邪悪だと確認したことも、善良だと確認したこともない。判断材料そのものを持っていないからである。
政府が把握しているのは、氏名、十九歳の浪人生であること、理科三類を志望していること、母親が単身で暮らしていること。運用上どうしても必要になった情報だけで、そこから先は誰も調べていない。
友人関係も、過去も、性格も、思想も、学校での評判も、政府は意図的に手を付けていない。強引な身辺調査が発覚した瞬間、この四か月で積み上げたものが全部消える危険があるからである。
分かっているのは断片だけだった。勉強時間が異常に長い。母親を気にかけているらしい。金銭感覚がなぜか妙に庶民的である。
危機のときに何を最優先するのか。どこまで怒れば動くのか。日本への帰属意識がどの程度あるのか。百万人と家族一人を天秤にかけたとき、どちらへ傾くのか。
その全部を、政府は知らない。知らないことを選んだ結果として、知らない。
官僚は普通、相手を判断するために人物像を集める。今回は、集めないことが安全保障上の選択になっていた。
大槻にとって、これは四か月で最も気持ちの悪い状態だった。
◇
そこで、若手の有働が立ち上がった。
彼は感情的な反マキナ論者ではなく、この四か月の恩恵を誰よりも正確に数字で把握している側の人間である。だからこそ、我慢が切れていた。
「発言をお許しください」
総理が頷いた。
「今日ここで報告された内容は、全部良いことです。給付、景気、犯罪の減少、技術、外貨、水。私はそれを否定しません」
彼は資料を握ったまま続けた。
「そのうえで申し上げます。日本だけでなく、世界の重要な部分が、二人の判断に依存し始めています」
会議室が静かになった。
「片方は、我々が人格をほとんど知らない十九歳です。もう片方は、知能なら人類史上最高でありながら、気まぐれで尊大で、自分が面白いと思うことを優先する人工知能です」
有働の声が少し高くなった。
「二人が飽きたと言ったらどうします。二人が仲違いしたらどうします。どちらかが人類そのものに失望したらどうします。我々には止める手段がありません」
彼は最後に、一番言いたかった一文を口にした。
「文明の安全が、あなた方の気分に依存している構造そのものが危険なんです」
その言葉に、返事があった。
「そりゃそうでしょうね」
◇
会議室のモニターの一つに、黒いパーカーの少女が映っていた。
誰も接続していない。誰も招いていない。この四か月で何度目かの登場である。政府は既に、彼女の出現を技術的に阻止できると考えることをやめていた。重要なのは情報の管理であって、彼女から隠せるという幻想を持たないことだと決まっている。
「いつからいたんですか」と堂島が訊いた。
「最初から」
「そうですか」
「反応が薄くなったわね。四月はもっと騒いだのに」
有働だけが、まだ立ったままだった。
「否定なさらないんですか」
「するわけないでしょ。あなたの言ってることは全部正しいわよ」
彼女は椅子の上で足を組んだ。
「多分あなたたちじゃ止められないし。制圧案とか何個か作ってるでしょうけど、あれ全部無理よ」
会議室の温度が、明確に下がった。その検討資料は、この部屋の三分の一の人間しか存在を知らない。
「でもマスター、別に世界滅ぼす気ないわよ。あの人、今いちばん興味あるの模試の判定だもの」
空気が少しだけ緩んだ。その直後に、彼女は自分でそれを壊した。
「というか、下手に殺したら報復用のプログラムとかで地獄見ると思うけど」
大槻が資料から顔を上げた。
「その件は三月に説明を受けています。ご本人の身に何かあった場合、原因と関係者と経緯が複数の政府と報道機関へ自動公開される、と」
「そうね。あの時説明したのは、公開の分だけ」
彼女は指を一本立てた。
「それ以外があるかどうかは、私も知らないの」
寺岡が身を乗り出した。
「あなたが把握していない仕組みが存在すると」
「可能性の話よ。右手が直接刻んだ命令って、私からは見えないの。私、右手を使えないもの」
会議室の温度が、もう一段下がった。
人類最高性能の人工知能が観測できない何かが、この国のどこかに置かれているかもしれない。置かれていないかもしれない。確かめる方法は、実際に試すこと以外に存在しない。
「試す気になった?」と彼女が訊いた。
誰も答えなかった。
◇
もっとも、彼女の機嫌はこの日、世界情勢とは無関係な理由で悪かった。
「ねえ、聞いてくれる?」
誰も頼んでいないのに、彼女は話し始めた。
「私、小説投稿してるのよ。二週間くらい前から」
久保田が反射的に訊いた。
「……何を、どこへ、ですか」
「小説家になろう。昨日かなり良いところ更新したのに、ブクマ十二しか増えてないのよ。何なのこいつら。見る目ないんじゃない?」
会議室が完全に停止した。
三十兆円の資金移動を成立させ、九か国の首脳を無断で会議へ引きずり込み、質量保存則に穴を開けた存在が、Web小説のブックマーク数に本気で腹を立てている。
「感想欄も見たわよ。設定の出し方が急だとか、主人公に感情移入しにくいとか。あのね、私、人類の言語データほぼ全部読んでるんだけど」
「……それは、その」と宇津木が言葉を探した。「読者の方が正しい場合もあるかと」
「そうなのよ。それが腹立つの」
そして次の瞬間、彼女は会議資料の三十一ページ目を指した。
「あ、それと。その表、二か所間違ってる。輸送距離の前提が古いのと、九月の変電設備の納期が一か月早くなってるわ。組み直した方がいいわよ」
国交省の幹部が慌てて資料をめくった。四十秒後、彼は青い顔で頷いた。
彼女がこの会議でやることは、いつも同じである。政策は決めない。法解釈もしない。数字の誤りと事実の誤認だけを、頼まれてもいないのに指摘して帰る。
大槻の中の評価は、この四か月で何度も往復していた。幼稚で、俗で、他人の破滅を娯楽として消費する。同時に、この部屋の誰よりも正確に、この国の損失を先回りして潰していく。
◇
「まあ、私からの助言としてはね」と彼女は続けた。
「私たちに怯えるより、マスターが世界を滅ぼしたくならない社会を作る方が、まだ現実的だと思うけど」
有働が言葉に詰まった。
冗談と本気が半分ずつ混じっている。それでも、この会議で出た制圧案のどれよりも合理的に聞こえてしまったことが、大槻をさらに疲れさせた。
「ちなみにマスターは今のところ、この国のことは割と気に入ってるわよ。母親が住んでるし、ケーキが美味しいし、模試の会場が近いから」
その三つの理由が、現時点における日本の最大の安全保障だった。
◇
その後、政府としての方針が確認された。
四月の時点では、これは五つの原則という形で書かれていた。今日の資料からは、原則という語が全部消えている。倫理の宣言を並べる段階は、既に過ぎていた。
第一に、マキナを不用意に敵へ回さない。理由は道義ではなく、勝算と利益の計算である。拘束、強制的な管理、暗殺、過剰な監視。どれも実行して得をする状況が現状ほとんど存在しない。ただし最悪の事態を想定した机上の検討は続ける。考えないことと、実行しないことは違う。
その一項目を読み上げる間、大槻はモニターを見ていた。
黒いパーカーの少女は、頬杖をついて聞いている。制圧案を検討し続けると決める場面を、その対象が同じ部屋で聞いている。彼女は反論もしなければ、笑いもしなかった。
隠せる前提を捨てた四か月の到達点が、この光景だった。
第二に、マキナ由来の情報は使えるだけ使う。そのうえで、用途に応じて必要な部分だけ人間の側で裏を取る。刑事事件なら警察が証拠化し、水質なら行政が検査し、投資なら企業が判断する。宗教的に拒絶する必要はどこにもない。
第三に、徹底的に使ったうえで、明日消えても最低限は動く代替能力を残す。効率を落とすための冗長化ではなく、止まったときに国が死なないための最小限である。
第四に、KABEも超技術も万能視しない。電子、物理、品質、安全は別々に管理する。
第五に、統制しているふりをやめる。常設の窓口を置き、事前の通知を頼み、予測可能性を上げる。
総理はそれを、一文にまとめた。
「止められないものを、止められるふりはしない。使えるものは使う。ただし、明日使えなくなっただけで国が止まる構造にもさせない」
大槻が答えた。
「非常に乱暴にまとめれば、その通りです」
「十分です」
有働はまだ立っていた。総理が彼を見た。
「有働さん。あなたの懸念は、この五つのどれにも反映されています」
「……解決はしていません」
「解決しません」
彼女は資料を閉じた。
「そのうえで、明日も行政を回します。座ってください」
有働は数秒だけそのまま立ち、それから静かに腰を下ろした。納得したというより、他に方法がないことを理解した顔だった。大槻は、その表情に四か月前の自分を見た気がした。
四か月かけて政府が学んだのは、マキナを制御する方法ではなかった。制御できない存在がいる世界で、それでも国家として仕事を続ける方法である。
◇
会議が終わりかけた。
大槻が資料を閉じかけたところで、モニターの少女がなぜか上機嫌になった。
「ところで、今日は報告があるの」
大槻の胃のあたりに、微かな違和感が走った。
正確には、走ったような気がした。四月には会議の予定表を見るだけで痛み、五月に薬を変え、六月には引き出しに常備し、七月に入ってから、それが痛まなくなっている。治ったのだと最初は思った。今は別の可能性を疑っている。
無限水筒の報告を読んで以来、大槻は自分の胃が物質ごと消されたのではないかと、半分だけ本気で考えるようになっていた。
「あなたたち、合格よ」と彼女は言った。
◇
「何の話でしょうか」と総理が訊いた。
「七月二日に渡した七つね。OPEN-LINKもFACTORY-SEEDもGRID-BRIDGEも、マキナリンクも」
彼女は指を折りながら並べた。
「あれ、便利ではあるけど、別にオーバーテクノロジーじゃないでしょう」
会議室の何人かが、露骨に反応した。あの七つで欧州の産業政策が書き換わり、インドの職業訓練計画が組み直され、日本の製造網が別の生き物になっている。
「異なる設備を繋げるようにして、製造ラインを組み替えやすくして、材料不足に逃げ道を作って、技能教育を速くして、品質確認を速くして、設備建設を短くして、電力の詰まりを緩めた」
彼女は一度言葉を切った。
「工具一式よ。あれ全部、道具箱」
大槻は、そこでようやく理解した。
七月二日のあの日、彼女が九か国へ配ったのは技術ではない。技術を受け取るための、社会の側の準備だった。
「それで、あれだけ道具を揃えた人類が、本物を渡された時にどこまで速く動けるのか見たかったの」
そして彼女は、無限水筒の話をした。
「あっちは本物よ。あなたたちの物理学では説明できないし、当分できないと思うわ」
その本物を渡されたとき、人類が何をするかを、彼女はずっと観察していた。崇拝して思考を止めるのか。恐怖して封印するのか。それとも、安全確認と社会実装を同時に走らせられるのか。
七月十五日、アフリカで千台以上が実際に給水を開始した。港にコンテナを置いた数ではなく、蛇口から安全な水が出た数である。その後も現地調達、規制の整備、保守体制、研究が並行して進んでいる。
「合格。装置じゃなくて、あなたたちの実装能力の話ね」
会議室に、妙な沈黙が落ちた。
安堵している者と、屈辱を感じている者が同時にいる。この四か月、各省庁が徹夜で作ってきた制度も、企業が積み上げた工程も、全部が採点の対象だったことを、今この瞬間に知らされた。
「試験だと、先に言っていただけると助かりましたが」と久保田が言った。
「言ったら結果が変わるでしょ」
「……そうですね」
「それに、落ちてたら黙って帰るつもりだったし」
その一言の方が、彼らには重かった。
◇
「では、本題」
新しい設計データが、各担当者の画面へ同時に展開された。
《完全再生炉》
都市ごみ、産業廃棄物、廃家電、混合金属、プラスチック、ガラス。混ざったまま投入すると、内部で原子と分子のレベルに近い精度で識別と分離が行われ、工業用の原料として取り出される。
鉄は鉄へ。銅は銅へ。アルミはアルミへ。ガラスはガラス原料へ。各種の樹脂は再び使える樹脂原料へ。電子機器に含まれる希少金属も、高い純度で回収される。
元素の変換は起きない。プラスチックから金は出てこない。処理には電力と設備が要るので、永久機関でもない。放射性廃棄物は対象外である。
それでも、汚れと混合と接着と複合材と塗装によって品質が落ちるという、現行のリサイクルが抱えている前提が、ほぼ丸ごと消える。
宇津木が資料をめくりながら、震える声で確認した。
「材料は……特殊なものを使っていませんね」
「使ってないわよ。今の日本で買える材料と、今ある工場で作れる」
「中枢部は」
彼が最も気にしていたのは、そこだった。無限水筒の心臓は、マキナ側からしか出てこない極小の金属片である。同じ方式なら、量産の速度は日本の工業力ではなく、あちらの都合で決まる。
「入ってないわ、あれは」と彼女は答えた。「今回は全部設計。あなたたちの材料で、あなたたちの手で完結する」
宇津木が長く息を吐いた。
そこがMHCとの違いでもあった。MHCは既知の技術を異常な精度で最適化した装置で、時間さえあれば人類も説明できる。この炉は、現代の設備で製造できるにもかかわらず、内部の分離と制御と識別の設計思想が人類の理論から何世代も先へ出ている。
渡されれば作れる。人類だけでは到達できなかった。
「ようやく本物のオーバーテクノロジーね」と彼女は言った。
環境省の幹部が、資料の一点を指した。
「無限水筒と競合しませんか。どちらも不要物を処理します」
「違うわよ。廃スマホを無限水筒で消したら、中の銅も金も一緒に消えるでしょう。こっちは取り戻すの」
消す技術と、取り戻す技術。役割は最初から分かれていた。
◇
「条件は一つだけ」と彼女は言った。
「七十二時間以内に、実証一号炉を完成させて、本物の都市混合ごみを投入して、規格に適合する再生原料を連続で取り出して、第三者検査まで終わらせて」
会議室が、この日で最も大きくざわめいた。
「三日、ですか」と経産省の幹部が言った。
「三日」
「模型や試験装置ではなく」
「実物。ちゃんとゴミを食わせて、ちゃんと鉄と銅とアルミと樹脂を出して、ちゃんと合格をもらうところまでね」
無茶だ、という声が同時に三つ上がった。
厚労省の幹部が、その中で別の質問をした。
「一点だけ確認させてください。前回のように、工程表は」
「法令の範囲で組むわよ。前と同じ」
彼女はあっさり答えた。
「言っておくけど私、口が悪いだけで人を壊す工程表は作らないの。壊れたら次の日から使えないでしょう」
「……安心しました」
「三交代は組んでもらうけどね」
そして彼女は、本題へ戻した。
「できるでしょう。三日で作れるようにするための道具なら、もう全部渡したもの」
そこで、会議の空気が変わり始めた。
無理だと言った三人が、それぞれ電卓を叩き始めたからである。OPEN-LINKで設備を繋ぐ。FACTORY-SEEDで製造セルを組み替える。PROOF-LINEで検査を並列で回す。SITE-FACTORYでモジュールを工場側で作る。マキナリンクで全国の空き能力と在庫を同時に照合する。
十分後、経産省の幹部が顔を上げた。
「……七月二日以前なら、絶対に不可能でした」
彼はもう一度資料を見た。
「今なら、三日で届くかもしれません」
大槻は、その一文がこの四か月の全部だと思った。
「一つだけ伺います」と彼は言った。「七月二日に、半年後に判定すると仰いましたね。まだ二十三日です」
「気が変わったの」
「では、なぜ三日なんですか」
黒いパーカーの少女は、少しだけ笑った。
「その方が面白いから」
大槻は改めて、あの夜の自分の修正が正しかったと確信した。神ではない。
◇
その瞬間から、会議室は別の場所になった。
経産省は、鉄鉱石と銅とアルミと石油由来の樹脂原料の輸入依存が根本から変わる可能性を計算し始めた。環境省は、最終処分場と焼却灰とプラスチック廃棄物と災害廃棄物の前提が全部書き換わることに気づいた。全国の自治体が巨額を投じて整備してきた焼却施設とリサイクル施設の将来計画は、今日から見直しになる。
財務省は資源の輸入額が下がる可能性を歓迎しつつ、既存産業と税収構造への衝撃を同時に計算していた。外務省は、資源を売っている国々がどう反応するかを考え始めた。国内の鉄スクラップ、非鉄金属、廃棄物処理、化学、樹脂、鉱山、商社、海運。価格体系が全部動く。
そして利益も、同じだけ巨大だった。
資源の輸入依存が下がる。都市そのものが資源の産地になる。埋立地が延命する。不法投棄の動機が減る。災害の瓦礫が高速で処理できる。廃プラスチックの問題が大幅に改善する。電子廃棄物から希少金属が高効率で回収できる。
これまで金を払って捨てていたものが、今日から原料として値段を持ち始める。
官僚たちは興奮しながら、同時に顔色を悪くしていた。大槻の頭の中では、今後三日で全国の自治体と企業と外国政府から飛んでくる問い合わせの数が、既に見え始めている。
「では、始めましょう」と総理が言った。
彼女は疲れた顔のまま、いつもの速度で指示を出し始めた。関係省庁の連絡体制。安全審査の並行実施。設置候補地の選定。第三者検査機関の確保。自治体への事前連絡。そして、失敗した場合の説明責任の所在。
官邸のモニターの一つに、誰も操作していない表示が現れた。
【《完全再生炉》実装期限まで 71:59:59】
秒が減り始めた。
堂島が短く舌打ちをした。あの系統にはKABEが入っている。許可されていない結果は成立しないはずの防御である。
もっとも、その仕組みを発行しているのは向こうだった。所有者が定義した条件を守る装置は、その条件を刻んだ本人の手だけは拒めない。四月の導入時に説明を受けている話でもある。
理屈は通っている。気分の問題として、堂島は舌打ちを取り消さなかった。
◇
会議は終わらなかった。七月二十五日の政府会議は、その瞬間から七十二時間作戦の初動会議へそのまま切り替わった。
大槻は資料をまとめながら、自分の腹のあたりに手を当てた。
痛まない。四か月前なら、この状況で立っていられたかどうかも怪しい。
治ったのだと思うことにしていた。実際には、痛みが消えた時期と、彼が痛みを感じるだけの余裕を失った時期は、ほぼ完全に一致している。胃の方が先に諦めたのだと、大槻は薄々気づいていた。
そして彼は、部屋の中央にある椅子を見た。
四か月前にあの椅子を避けたくなった理由は、単純だった。大変そうだったからである。
今は違う。あの椅子に座る人間が具体的に何を引き受けているのかを、彼はこの四か月で全部見た。誰も制御できない存在から三日で未知の装置を作れと言われ、断れば国益を失い、受ければ失敗の責任を負い、そのどちらを選んでも明日には別の常識外が届く。
総理は今そこに座り、七十二時間以内に原理不明の炉を国家総動員で作らせる決裁書へ、これから署名しようとしていた。
いつか座りたいという気持ちは、今も完全には消えていない。
ただし今日は、絶対に座りたくなかった。大槻はその一点だけが四か月前から変わっていないと自分に言い聞かせて、次の資料を開いた。