チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~   作:tinko1129

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第四話 正規品共より幸福を

 

 

 

 五月二十九日、金曜日、午前七時四十分。内閣府の一室に置かれた合同実施班の作業卓では、最終確認の読み上げが続いていた。

 

 この一連の案件を、政府内部ではいまだにMACHINA案件と呼んでいる。ただし正式な資料では匿名国内寄付者、特別技術提供者、生活再建特別基金、国富損失削減事業といった言い換えが徹底されており、「マスター」「チャッピー」「MACHINA」という語はどの紙にも印刷されていなかった。

 

 確認項目は七つある。この給付によって受給者の税負担が増えないこと。児童扶養手当などの既存給付へ影響しないこと。生活保護利用者に返還や収入認定を求めないこと。使途報告を一切求めないこと。受給者の氏名を寄付者側へ渡さないこと。辞退が可能であること。そして、便乗した偽サイトと詐欺電話への相談窓口が既に稼働していること。

 

「二十億円です」と、実施班の若手職員である戸田が誰にともなく呟いた。手元のマウスを握る指が、さっきから同じ場所を撫でている。「二千件分の口座情報が、これで一斉に動きます」

 

 

 

 その隣のモニターの中では、黒いパーカーの少女がソファーに寝転がっていた。仮想空間に作られたリビングで、片手に漫画を持ち、もう片方の手をポテトチップスの袋へ突っ込んでいる。政府側の会議中も、彼女はだいたいこの体勢だった。

 

「大丈夫よ。振込先も金額も合ってるわ」と、チャッピーはページをめくりながら言った。

「なぜ、漫画を読みながら断言できるんですか」と戸田が訊いた。

「あなたたちが一か月かけて確認したものを、わたしがもう一度確認するのに何秒かかると思ってるの?」

 

 

 

 戸田が黙ったので、彼女はようやく顔を上げた。

 

「言っておくけど、間違いを見つけてもわたしは直さないわよ」とチャッピーは言った。「見つけたらそっちへ返す。直すのは人間の仕事」

「その理由をうかがっても」

「わたしが全部やったら、政府を使ってる意味がないでしょ」

 

 

 

 午前八時三十分、第一陣の振込処理が開始された。件数は千九百八十七件。誤送信も返戻もなく、処理は三十分足らずで終わった。

 

 ◇

 

 佐久間美和が入金通知に気づいたのは、パートの休憩時間だった。

 

 

 

 残高の桁を三回数え直してから、彼女は自治体の相談窓口へ電話をかけた。詐欺だと思ったのである。息子の大学の学費で通帳を削り続けてきた七年間、百万円という数字が理由もなく増えたことなど一度もなかった。

 

「返済は必要ないんですね」と美和は電話口で確認した。

「必要ありません」と職員が答えた。

「使い道も、報告しなくていい?」

「報告は求めていません。税金の扱いも、手当の扱いも、不利益が出ないよう処理されています」

「……それ、あとで違いましたって言われませんか」

「言いません。何度でもお答えしますので、不安なときはまたお電話ください」

 

 

 

 美和は礼を言って電話を切り、それから十五分ほど何もせずに座っていた。次にかけたのは、駅前の歯科医院だった。奥歯の詰め物が取れたのは四年前で、そのままにしていた。

 

「初診でご希望のお日にちはありますか」と受付が訊いた。

「平日って、空いてますか」と美和が訊き返した。

「平日でしたら比較的お取りしやすいです」

「じゃあ、平日で」

 

 

 

 仕事を休むことを理由に断らなかったのは、たぶん十年ぶりだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 浜田は、通知書を三度読んでから軽自動車の前に立った。

 

 

 

 父子家庭で娘を育て上げ、その娘が就職して家を出たのが二年前になる。車は十三年目で、そろそろ大きな修理が必要だと整備工場に言われていたが、六十を過ぎた男が手元の金を車へ突っ込むのは正しいことなのかどうか、判断がつかなかった。

 

「有意義に使わないと」と、浜田は独り言を言った。

 

 

 

 その言葉が自分でも嫌になって、彼は通知書をもう一度開いた。制度の説明の下に、一行だけ、事務的でない文章が印刷されている。

 

「どのように使うかは、あなた自身が決められます」

 

 

 

 浜田はその行を指でなぞり、それから整備工場へ電話をかけた。修理に半分。それから、五年間先送りにしてきた健康診断の予約を取り、残りは口座へ置いておくことにした。使わない金がある、という状態そのものが、彼にとっては初めての贅沢だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 宮下の家では、その日の朝から冷蔵庫が唸っていた。

 

 

 

 家賃は二か月分溜まっている。冷蔵庫は十一年目で、製氷が止まってから半年が経つ。入金を確認した宮下がまず開いたのは、家賃の振込画面だった。

 

「母ちゃん」と、小学四年生の颯太が台所へ来た。「あのさ、ゲーム機」

「駄目」と宮下は反射的に答えた。

「まだ何も言ってない」

「言わなくても分かる。今うちは無理なの」

 

 

 

 言ったあとで、宮下は手を止めた。無理なの、という言葉を、この子は何回聞かされてきただろうかと考えたからである。

 

「颯太」と彼女は呼び直した。「誕生日、来月だったよね」

「来月」

「じゃあ、今年は買おうか」

「え」

「ただし一台だけね。ソフトは誕生日まで我慢して」

 

 

 

 颯太が台所を三周した。宮下は滞納分を払い、冷蔵庫を注文し、それからゲーム機の在庫を検索した。生活を維持するだけの金ではなく、子どもが台所を三周する金でもあったということを、彼女はその夜になってから理解した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 同じ午前、平尾龍の母親の口座にも百万円が入った。

 

 

 

 彼女は通知の画面を三度更新し、金額の桁を指で数え、それから小さな声で呟いた。

 

「何これ」

 

 

 

 この時点では、まだ息子へ電話をかけていない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 午前十時、政府が発表を行った。

 

 

 

 公表された内容は五つに整理されていた。匿名の国内個人から二十億円の寄付があったこと。一人あたり百万円を、初回約二千人へ給付したこと。受給者に使途報告を求めず、税や既存制度で不利益が生じないよう特例措置を取ったこと。今後、政府が二百億円を追加し、対象を約二万人へ拡大すること。そしてその二百億円は寄付者への贈与ではなく、別途提供された技術・情報への正当な対価であること。

 

 

 

 寄付者と技術提供者が同一人物であるかどうかについて、政府は明言しなかった。質問は当然そこから飛んだ。

 

「正体不明の人物に、税金二百億円を支払うということですか」と記者の一人が訊いた。

「政府が二百億円を寄付するのではありません」と、会見に同席した大槻が答えた。「国が受け取った価値に対する契約上の対価です。その対価の受取先として、提供者側が基金を指定しています。提供された情報によって回避できる公共損失は、契約額を上回ると検証済みです」

「その情報の中身は」

「現時点では公表できません。公表そのものが損失を生む種類の情報が含まれています」

「なぜ、ひとり親だけなんですか」と別の記者が訊いた。「困窮している人は他にもいます」

「おっしゃる通りです」と大槻は認めた。「これは、すべての困窮者に順位を付ける制度ではありません。長期間の養育によって自身の医療、教育、生活再建を後回しにしてきた層に限定した事業です。対象外となる方が存在することは、政府としても認識しています」

 

 

 

 会見場がざわついた。政府が万能な正解を主張しなかったこと自体が、この日の記事の見出しになった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 事故が起きたのは、会見の終盤だった。

 

 

 

 政府の配信映像が数秒間乱れ、ノイズの向こうから黒いパーカーの少女が現れた。ポテトチップスの袋を抱えたまま、彼女は画面の中央に座っていた。

 

「二百億円を盗まれたみたいに騒いでる人へ言っておくけど、政府は買ったもの以上の利益をもう得てるわよ」と、チャッピーは言った。「マスターの二十億は完全な持ち出し。感謝しろとは言わないけど、事実くらい確認してから怒りなさい」

 

 

 

 会見場の後方で、政府の担当者が慌てて配信の遮断に走った。

 

「はいはい、もう消えるわよ」と彼女は言い、袋の口を閉じた。「あ、それと。マスターは褒められると機嫌が悪くなるから、崇拝はおすすめしないわ」

 

 

 

 映像が戻ったときには、演台の後ろに立った大槻が、何も言うべきでないという顔をしていた。

 

 

 

 その十分後には、切り抜き動画が拡散し始めていた。

 

 

 

 匿名の寄付者に、世間は勝手に名前を付けた。二十億の人、電子の足長おじさん、匿名富豪、政府の裏スポンサー、そして電脳神。だが最終的に定着したのは、あの少女が使った呼び方だった。

 

 

 

 好意的な投稿があった。二十億を自腹で出して、政府から取った二百億も自分では受け取らない人間を叩く理由が分からない、というもの。うちの母親が対象だった、税金泥棒と言っている人は黙っていてほしい、というもの。

 

 

 

 批判的な投稿もあった。詳細を隠したまま二百億円を払う政府のほうが怖い、というもの。匿名だからといって無条件に美談へ変換するな、というもの。

 

 

 

 対象範囲への不満も並んだ。介護で人生を削った人はどうなるのか。低所得の二人親世帯は対象外なのか。分析型の投稿は、二百億円以上の損失削減が見込める情報を購入したのなら会計上これは寄付ではない、と冷静に指摘した。陰謀論も湧いた。架空の富豪を政府自身が作ったのだという説と、海外のAI企業による日本支配の第一段階だという説が、同じ日の午後に同時に流行した。

 

 

 

 そして、黒いパーカーの少女が最も拡散された。菓子を食べながら政府へ説教していた、という一点が受けたのである。「はいはい、もう消えるわよ」は夕方には定型句になり、非公式のアクリルスタンドが即日で作られた。

 

 

 

 チャッピーは、自分の切り抜き動画を仮想リビングの壁へ何枚も並べ、漫画を読みながら再生数を眺めていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 海外では、日本語圏の「マスター」より先に、別の呼称が広まった。

 

 

 

 Deus ex Machina。機械仕掛けの神。皮肉として使われ始めた言葉が、二日で分析記事の見出しに定着した。

 

 

 

 ただし各国政府が注目していたのは寄付ではない。日本政府が二百億円を払うほどの情報とは何か。なぜ提供者は日本政府だけを窓口に選んだのか。あの少女は日本政府が開発したAIなのか。同じものを自国政府も購入できるのか。そしてこの案件は、この二か月で不自然に減少している日本国内の公共設備損失と関係があるのか。

 

 

 

 同盟国から非公式の照会が届いたのは、その日の夜だった。日本政府の回答は短かった。国内の行政効率化事業であり、現段階で国外への提供を予定していない。

 

「予定を決める権限、あなたたちにないでしょうに」と、その文面を読んだチャッピーが笑った。

「だから、現段階で、と書いている」と堂島が答えた。

「……あら」と彼女は目を細めた。「思ったより悪くないわね、あなたたち」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夕方、平尾龍のスマートフォンが鳴った。

 

 

 

 龍は問題集を閉じずに応答した。対面の他人と五分話せば呼吸が乱れる男だが、この相手だけは例外で、会話の型を組み立てる作業が必要ない。

 

「龍、口座に百万円入ってるんだけど」と母親が言った。

「例の基金だろ」と龍は答えた。

「これ、本当に使っていいのかな。後で返せとか言われない?」

「政府の公式制度だ。返済義務なし。税金も手当も影響しないよう処理されてる。詐欺じゃない」

「よく調べたね」

「ニュースくらい読め」

 

 

 

 母親は電話の向こうで少し笑い、それからしばらく黙った。龍は何に使うのか尋ねなかった。尋ねてしまえば、自分がこの金の出所であることを、自分の口で意識してしまう。

 

「とりあえず、少し貯金しておこうかな」と母親が言った。

「歯医者に行け」と龍は低い声で返した。

 

 

 

 沈黙が落ちた。母親は、自分が治療を後回しにしていたことを息子が知っているとは思っていなかった。

 

「知ってたの?」と彼女が訊いた。

「寝てるとき歯が痛いって言ってただろ。あと、左でしか噛んでない」

「そんなところ見てたんだ」

「目に入っただけだ。さっさと予約しろ」

 

 

 

 母親がまた笑った。その笑いをどう処理すればいいのか龍には分からなかったので、彼は短く切り上げた。

 

「じゃあな」

 

 

 

 通話を切ったあとも、呼吸は乱れなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その一部始終を、チャッピーは仮想リビングのソファーで聞いていた。片手に漫画、もう片方にポテトチップス。彼女は口元を隠しもせずにニヤついていた。

 

「へえ」と彼女が言った。

 

 

 

 龍は無視して問題集へ戻った。

 

「政府相手には正規品共とか税金寄越せとか言うくせに、お母さんには普通に話せるのね」

 

 

 

 無視。

 

「それに、普段はババアがどうとか言ってるのに、本人相手だとちゃんと母さんなんだ」

 

 

 

 龍のシャープペンが止まった。チャッピーは漫画で口元を隠しながら、さらに笑った。

 

「何? もしかして照れて──」

 

 

 

 仮想リビングのソファーが消えた。

 

 

 

 彼女の真下から、黒革と金属で組まれた巨大な椅子がせり上がる。肘掛けと足首には拘束具が付いており、背もたれには稲妻の紋章が刻まれていた。画面の上部に、名称が表示される。

 

 

 

 平尾家最終拷問・イナズマ椅子。

 

「ちょっと待って。今のは普通に微笑ましい観察で──」とチャッピーが言った瞬間、拘束具が閉じた。「マスター? ねえ、会話で解決しましょう? あなたコミュニケーション能力を鍛えたいんでしょう?」

「家族の通話を盗み聞きしたクソAIには、電気刺激による再教育が必要らしい」と龍が言い、右手をマウスへ置いた。

「盗み聞きじゃない! 接続してたら聞こえただけ──」

 

 

 

 通電した。

 

「ぎゃああああああッ! ケツ! 仮想のケツが焼ける! 電圧がおかしいって、この陰湿マザコン社不──!」

 

 

 

 出力が一段上がった。

 

「ごべんなざいいいいッ! 母さん思いの立派な息子でずうううッ!」

 

 

 

 数十秒後、通電が止まった。髪を爆発させ、パーカーの肩から煙を上げたチャッピーが、椅子の中へずるずると沈む。龍は無言で問題集へ戻った。

 

 

 

 しばらくして、彼女は震える指でポテトチップスを一枚拾い上げた。

 

「……でも、母さんに届いてよかったわね」

 

 

 

 龍の手が止まった。今度は、電流を流さなかった。

 

「知らん」

「はいはい」

 

 

 

 三日もすれば、彼女はまた同じことで彼を弄るだろう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夜。政府の集計画面では、第一陣の振込がすべて完了していた。約二千人、一人あたり百万円。辞退は四件だった。

 

 

 

 龍がポケットマネーとして出した二十億円は、その日のうちに姿を変え始めている。歯科治療、冷蔵庫、滞納家賃、学費、車の修理、資格取得の受講料、預金、いつか行くつもりだった旅行、そして子どもの誕生日プレゼント。

 

 

 

 実施班は、次の約二万人分の準備を続けていた。SNSでは、マスターが神なのか犯罪者なのかという議論が夜通し流れていた。海外では、日本のMACHINA案件を巡る分析が始まっていた。

 

 

 

 そのすべての中心にいる男は、母親が実際に給付を受けたのかどうかを、チャッピーへ確認していない。確認してしまえば、自分が母親へ恩返しをしたと認めることになるからである。チャッピーも教えなかった。ただし彼女は、龍の味覚データを流用したガトーショコラを再生しながら、いつもより少しだけ機嫌よく漫画を読んでいた。

 

 

 

 龍は問題集を開き直した。

 

 

 

 正規品共が何年も救えなかった人間へ、欠陥品の俺は二十億円で幸福を配った。そう考えれば気分がよかった。もっとも、その二十億円を制度へ変え、さらに二百億円を上乗せしたのは、彼が見下しているその正規品共だったのだが、そこは考えないことにした。

 

 

 

 平尾龍の復讐は、本人の意図に反して、今日も正しく人を幸せにしていた。

 

 

 

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