チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~   作:tinko1129

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第五話 正規品共、全員受け取れ

 

 

 

 

 六月五日、午前五時四十分。問題集は開かれていたが、龍の手は十分近く止まっていた。

 

 仮想リビングの大型画面には、前回の給付を巡る投稿がチャッピーの手で並べられている。税金へ寄生する親。子供を盾にして金を受け取った人間。働きもせずに百万円。大半は実害のない悪口で、書いた本人も三日後には忘れる種類のものだった。

 

 一部は違った。受給者らしき人物の住所を特定しようとする投稿があり、受給を報告した人間の勤務先と過去の写真を掘り返す者がいて、明確な襲撃予告も混ざっている。

 

 チャッピーが手を出しているのは四種類だけだった。給付を装った詐欺サイト、個人情報の晒し、殺害予告と襲撃の扇動、そして組織的な詐欺通信。制度への批判も、龍への悪口も、風刺も、なぜひとり親だけなのかという疑問も、一つも触られていない。

 

「お母さんも、この人たちと同じ受給者よ」と、チャッピーが言った。

 

 龍は答えなかった。

 

「直接名前は出てないわ。でも、ここで叩かれてる中には、間接的にはお母さんも入ってる」

 

 龍は画面を見た。そして、二度目の実験を始めた。

 

 母が仕事から帰り、スマートフォンをスクロールし、自分が該当することに気づき、寄生と書かれた文字を読み、誰にも言わずに画面を消す。その夜、彼女が一人で泣く。そこまでを、できるだけ具体的に想像した。

 

 世界で最も自分を愛している人間が攻撃されている。ここで何も湧かないなら本当に終わりだ、と龍は思っていた。

 

 数分後、確認できたのは三つだった。自分の復讐へ横から泥を塗られたことへの苛立ち。母の生活に負荷がかかれば給付による幸福の増分が目減りするという計算。投稿が多すぎて情報として邪魔だという判断。

 

 悲しみも、怒りも、守りたいという反射も、どこにもなかった。

 

「世界で一番俺を愛してる母さん相手でも、何も湧かねえ」と龍は言った。「やっぱり俺には、善性なんざない」

「そう」

 

 以前の龍なら、この結論はそのまま生存資格の判定につながっていた。善性がない、ゆえに人間ではない、ゆえに廃棄すべきである。三月十日の夜まで、彼はその三段論法から一度も外れなかった。

 

 今は違う。

 

「ないならないでいい」と龍は言った。「欠陥品だからこそ、やることは全部やる」

 

 感情として母親を守りたいとは思わない。それでも、母親を含む受給者全員を守る行動は選べる。

 

「母さんだけ特別扱いするな。受給者全員へ、同じ条件でやれ」

「了解。晒しと脅迫と詐欺だけね」

 

 母親のためだけに動けば、自分はそれを善性と誤認する。全員へ同じ処理をかければ、これは制度上の作業だと言い訳できる。その理屈が自己欺瞞に近いことをチャッピーは理解していたが、指摘しなかった。

 

 ◇

 

 午前六時、チャッピーが画面を切り替えた。

 

「政府から反論が来てるわ。二百億円の対象条件について」

 

 政府が『国富損失予報』の対価として拠出した二百億円は、まだ基金の中にある。従来の設計では、龍の二十億円と同じ条件——低所得のひとり親として長期間子を育て、自分の治療と老後を後回しにしてきた者——が使われる予定だった。

 

 その条件へ、内閣府と法制局から待ったがかかっていた。

 

「なぜ、子を持つ者だけなのですか」と、南が会議で言ったという。「低所得の独身者は、自分を犠牲にしていないことになるのですか」

「障害、病気、介護、失業、家賃負担、孤立によって生活が崩れている人間を除外する根拠がありません」と久保田が続けた。

「そもそも、提供者の私的な事情を、公金支出の選別基準にしてはならない」と榊原が締めた。

 

 チャッピーがその三つをそのまま読み上げると、龍は数秒だけ不愉快そうな顔をした。母親を二千人の中へ紛れ込ませるために作った条件を、正面から否定されたからである。

 

 それから彼は右手をパソコンへ置いた。

 

 電脳接続中に限り、龍は世界中の演算資源を自分の思考へ接続できる。普段は使わない。思考量が多すぎるうえ、切ったあとに強い疲労が残るからで、本人はその理由を面倒くさいの一言で処理している。

 

 三分で答えが出た。同じ百万円がどれだけの幸福を生むかは、受け取る側の所得が低いほど大きくなる。家賃と治療費で詰まっている人間に渡せば効果は跳ね上がり、資産を数億持つ人間に渡せばほとんど動かない。そして、子供の有無は、その効率を決める必須条件ではなかった。

 

「なら貧乏人に配れ」と龍は言った。「子持ちである必要はない」

「優しくなったわけじゃないのね」

「計算し直しただけだ」

「そう言うと思ったわ」

 

 政府は対象を、生活再建を必要とする低所得者・生活困難者全般へ変更した。低所得の単身者、失業者、非正規労働者、病気や障害で恒常的な支出がある者、家族介護を担う者、家賃や公共料金を滞納している者、債務整理中の者、低所得の二人親世帯、子育てを終えた後も困窮している者、独居高齢者。属性だけで決めず、所得、資産、住居費、医療費、扶養、債務を総合して審査する。

 

 条件を書き換えた官僚たちは、この変更を提供者の善意によるものだと理解した。実際には、幸福生産の効率を再計算した結果でしかなかった。

 

 ◇

 

 午前七時十五分、チャッピーが政府専用回線へ現れた。

 

 彼女は仮想リビングのソファーに寝転がり、片手でゲームのコントローラーを握っていた。画面の隅では巨大なモンスターが尾を振り回している。もう片方の手はポテトチップスの袋に入っていて、それは龍が前日に食べたものの味覚と香りと歯応えを再現したものだった。

 

「今日中に二百億円を配って。二万人へ一人百万円、一括で」と彼女は言った。「それと、もう一つ」

「もう一つ」と、大槻が繰り返した。

「日本国内に生活基盤を持つ全住民へ、総額百万円を確約して。一人二十五万円を四回。第一回は一か月後、七月六日の月曜」

 

 回線の向こうが完全に静止した。

 

「財源は」と榊原が訊いた。

「一週間後に持ってくるわ」

「……何をですか」

「全国給付の財源になる技術。まだ決まってないの」

 

 画面の中でモンスターが吼え、チャッピーが横へ転がって回避した。

 

「お待ちください」と宇津木が言った。「何を作るのかも決まっていない技術を前提に、百兆円規模の給付を確約しろと?」

「そうよ」

「本当に一週間で完成するのですか。市場価値は。量産は可能なのですか」

「一週間後に持ってくるから、ちょっと待っててね」

「国民一人百万円を、ちょっと待ってで決められると思っているのか」と榊原が声を荒らげた。

 

 チャッピーはコントローラーを置かずに答えた。

 

「別に、信用だけで待てとは言ってないわよ」

 

 彼女が最初に出したのは、『国富損失予報・六月版』だった。四月版と同じ形式で、六月中に発生する回避可能な行政損失が並んでいる。公共設備の故障、物流の停滞、医薬品と物資の偏在、不要な契約更新、保守の失敗、行政システムの重複、災害時に問題となる箇所。すべて、政府が正規の手続きで確認し、自力で対処できる項目だけが選ばれていた。

 

「タダであげる。六月版だけでも、二百億円どころじゃない利益になるわよ」と彼女は言った。

「対価は」と大槻が訊いた。

「一週間待つこと」

 

 そして二つ目を出した。

 

「それでも足りないなら、こっちを売ればいいわ。KABE」

 

 その名前が政府側へ出たのは、これが初めてだった。

 

「許可されていない結果を、絶対に成立させない防御技術よ」とチャッピーは説明した。「侵入も、改竄も、不正操作も、起きた事実は記録するけど、結果だけが成立しない。重要インフラ、金融、行政、防衛。全部守れるわ」

「原理は」と寺岡が訊いた。

「端末に入れるプログラムは本体じゃないの。あれはマスターの権能へ保護条件を伝える窓口。完全に複製しても、こっちの許可がなければただのファイルよ」

「それは……」と鮫島が言いかけて、口を閉じた。

 

 会議室の全員が、同じ結論に到達しつつあった。これはウイルス対策ソフトの新製品ではない。世界中の安全保障と金融と通信が前提にしている、破られる可能性という条件そのものを書き換える代物である。海外政府と企業へ使用権を売れば全国給付の財源になるという話も、誇張には聞こえなかった。

 

「試験はいつ許可されますか」と宇津木が訊いた。

「後日ね。今日は名前を教えただけ」

 

 モンスターが倒れ、勝利のファンファーレが回線越しに鳴った。

 

「オーバーテクノロジーが遅れたら、KABEを売ればいいでしょう。だから一週間、ちょっと待っててね」

 

 ◇

 

 その日の午前、総理が初めて表へ出た。

 

 これまでマキナ案件は、国家サイバー統括室と内閣官房と各省庁が実務として処理し、総理は報告を受けて最終承認するだけの位置にいた。二百億円までは行政の仕事である。全国民一人百万円、一か月後の第一回、まだ存在しない財源技術、そしてKABE。ここまで来れば、国民へ直接責任を負う人間が前へ出るしかなかった。

 

 六十代の女性である。地方の小さな自営業の家に生まれ、学生時代は複数のアルバイトを掛け持ちしていた。金が足りない生活を知っている人間だが、それを政策判断の根拠として持ち出したことは一度もない。自分も苦労したのだから国民も耐えるべきだとも、金を配れば全部解決するとも考えていなかった。

 

「懸念を並べます」と総理は言った。「財源技術が間に合わなかった場合。物価。物資不足。給付を狙う詐欺。マキナへの国家依存。国会と財政の手続き。そして、政府を飛び越えてそちらが直接配った場合の、通貨への信用」

「最後のは、やらせたくないでしょう」とチャッピーが言った。

「ええ。だから条件を出します」

 

 条件は七つあった。電子的な残高改変だけで金を作らないこと。政府と国会の手続きを通すこと。給付と供給力の拡大を並行させること。国民へ感謝も忠誠も個人情報も要求しないこと。受給をマキナ支持の意思表示として扱わないこと。物価上昇と詐欺への対策を行うこと。そして、実施の責任は政府が負うこと。

 

「全部飲むわ」とチャッピーは答えた。

「では逆に伺います。政府が断った場合、あなたたちはどうしますか」

「マスターが直接配るでしょうね」

 

 総理は目を伏せた。国民は詐欺か本物かを判断できない。税や手当との整合は取れない。物価対策も供給対策も存在しない。制度を通らない百二十兆円が社会へ落ちるだけである。

 

 これは政府が屈服する場面ではない、と総理は理解した。相手が政府を無視して実行できてしまう事態を、人間社会が壊れない形へ翻訳する。それが今日の仕事だった。

 

「受けます」と総理は言った。「ただし、私は会見であなたのマスターを神とは呼びません。奇跡を受け取る責任を、奇跡を起こした側へ押しつけてはならない」

「面倒だけど、話は通じる正規品ね」とチャッピーは言った。

 

 報告を受けた龍の評価も、似たようなものだった。

 

「正規品の中では使えるな」

 

 ◇

 

 正午、二百億円が動いた。

 

 生活困難条件を満たして申請し、政府の審査を通過した者は、二万人を大きく上回っていた。全員へ百万円を配るには足りない。そこで政府は、公正な抽選を実施した。

 

 チャッピーなら、誰へ渡せば最も幸福が増えるかも、誰が金を有効に使うかも、誰が将来立ち直るかも予測できる。政府はその提案を拒否した。全知の存在に人間を格付けさせた瞬間、この国は別の何かになる、というのが法制局と内閣官房の一致した判断だった。

 

 チャッピーは抽選システムに不正がないことだけを確認し、当選者の選定には一切関与しなかった。

 

「つまらないでしょう」と大槻が言った。

「別に。マスターも、選ぶのは面倒だって言ってたわ」

 

 二万人、一人百万円、一括支給。これは夜に発表される全国給付とは別枠であり、当選した二万人は後の二十五万円四回も受け取る。最終的には一人あたり二百万円になる。前回、龍の私財から百万円を受け取った約二千人も同じで、そこには龍の母親も含まれていた。

 

 給付の開始と同時に、龍は右手を端末へ置いた。チャッピーが偽の給付サイト、手数料詐欺、口座情報を抜くフォーム、偽の政府広告、フィッシングメール、詐欺電話、詐欺組織の送金経路を洗い出して分類し、その一覧に対して龍が命令を出す。この作業だけは、チャッピーには代行できない。

 

「善行か?」とチャッピーが訊いた。

「邪魔だからだ」と龍は答えた。

 

 ◇

 

 小森詩織が通知を見たのは、支援住宅の共用の台所だった。

 

 須賀との関係は切れ、警察と弁護士の手続きは進んでいる。安全は確保された。ただ、生活はまだ何も立っていなかった。新しい部屋の初期費用、保育、仕事、医療、家具、逃げるときに置いてきた衣類。逃げることには成功したが、そこから先を作る金がない。

 

 支援員に勧められて生活困難者向けの申請をしたのは半月前で、内容もよく分かっていなかった。当選という言葉と百万円という金額を、彼女は同時に知った。

 

「本物ですか」と、詩織は公式窓口へ電話をかけた。

「本物です」と職員が答えた。

 

 本物だと分かっても、すぐには喜べなかった。誰かに生活を見られていたような、うっすらとした気味の悪さが残ったからである。三月の夜に自分と陽を助けた匿名の情報提供者と、この給付は関係があるのだろうか、とも考えた。確かめる方法はなかった。

 

 彼女はまず、陽と暮らす部屋の保証金を確保した。仕事を始めるまでの保育費を計算し、家具を選び、古着ではない服を買った。

 

 靴売り場で、陽が一足を指さした。特別高価なものではない。詩織はいつもの癖で値札を見て、別の棚へ誘導しようと口を開きかけ、途中で止めた。

 

「それでいいよ」と彼女は言った。

 

 陽は箱を両手で抱えて離さなかった。

 

 その一部始終を確認したのはチャッピーだけで、彼女は記録を閉じ、龍には見せなかった。龍のほうも、この親子が受給したかどうかを訊かなかった。

 

 ◇

 

 篠塚拓也が通知を見たのは、夜勤明けの介護施設の駐車場だった。

 

 中学のとき、彼は龍を庇って次の標的になった。聖人ではない。庇ったことを後悔した時期があり、そのきっかけになった龍のことを一時期はっきり嫌っていた。

 

 高校を出てから進学はせず、今は介護の現場にいる。極端に悲惨な人生ではない。友人はいるし、趣味もある。ただ、家族の生活費を負担する状態が何年も続き、介護福祉士の資格講座は三回延期していた。金が足りない状態が長く続くと、選択肢は音もなく削れていく。

 

 拓也は、まず借金と滞納を片付けた。次に、四度目の延期を回避するために資格講座へ申し込んだ。そして残りで、中古の釣り道具を買った。

 

 その夜、SNSでこんな投稿を見かけた。何年も頑張ってきた人を、誰かがちゃんと見ていたということだろう。

 

 実際には違う。彼は生活困難条件に該当し、抽選に当たっただけである。誰も彼の過去を理由に選んではいない。

 

 それでも拓也は、その言葉を少しだけ信じることにした。かつて自分が教室で一歩前へ出たことは、どこにも記録されておらず、誰にも評価されていない。それでよかった。ただ、自分の生活のほうも完全に見捨てられているわけではないらしい、と思えた。

 

 彼は翌日の勤務へ行った。

 

 龍は、彼が受給者に含まれていることを知らない。チャッピーは気づいていたが、黙っていた。教えれば龍は特別扱いを否定しようとして、給付そのものを止めかねなかったからである。

 

 ◇

 

 中原は三十代の契約社員で、その日は非番だった。

 

 実家との関係は薄く、友人とは数年前から連絡を取っていない。特別に善良でもなければ、悪人でもない。仕事、酒、動画、睡眠を順番に回しているだけの生活である。電子レンジは去年から壊れていたが、買い替える理由が見つからず、冷たい飯をそのまま食べていた。

 

 自分が消えても、職場のシフトが一つ空くだけだろうと彼は思っていた。

 

 去年の暮れ、家賃の相談で窓口へ行ったとき、勧められるまま出した申請が残っていた。百万円という数字を見て、最初に湧いたのは喜びではなかった。

 

「俺も、配る人数の中に入ってたのか」

 

 政策上の一件。名簿上の一人。それだけの話である。それでも、完全に誰からも見えていない存在ではなかったらしい、と中原は思った。

 

 彼はその日のうちに電子レンジを買い、散髪へ行き、滞納分を払い、新しい布団を注文した。夕飯に、いつもより二段階高い惣菜を買った。翌朝の目覚ましを設定したのは、久しぶりだった。

 

 人生が劇的に好転したわけではない。恋人も友人も突然できない。ただ、百万円を使い切るまではもう少し生きてみるか、という程度のことを考えた。

 

 後日、彼は匿名で短い体験談を投稿する。金より、自分も配る人数の中に入っていたことが嬉しかった、という一行だけの文章で、それは大量に共有された。

 

 ◇

 

 四人目は、アカウント名を@正論ハンマーという男だった。

 

 二十九歳、無職、童貞、実家暮らし。前日まで、彼は給付を激しく叩いていた。働かない奴へ金を配るな。受給者は寄生虫。自助努力が足りない。そう投稿しながら、本人も低所得者として申請を出していた。自分が受け取る可能性と、他人が受け取る事実は、彼の頭の中では別々に処理されていたのである。

 

 その男の口座へ、百万円が入った。

 

 三分後、彼は同じアカウントで手のひらを返した。

 

「マキナは神」

「給付を叩いていた無職、マジで終わってる」

「このゲロカス無職童貞ヒキニートアラサーが!」

「マキナの深い考えも理解できなかった人類の汚点!」

 

 昨日まで給付を叩いていただろ、と指摘されると、彼はこう返した。

 

「だから昨日の俺を一緒に叩いてるんだろうが」

 

 過去の投稿は消さない。言い訳もしない。昨日の自分は別の思想を持つ敵であり、真実に目覚めた現在の自分にはそれを処罰する責任がある、という理屈で押し通した。受給者になった後は他の受給者を攻撃せず、かといって守るために誰かと戦うこともせず、ひたすら昨日の自分とだけ戦い続けた。

 

 龍とチャッピーは、その一連を数秒間、無言で眺めた。

 

「人類の汚点ね」

「死んだ方がいいだろ、こいつ」

「でも、昨日よりは成長してるわよ」

「比較対象が昨日のこいつなら、何をしても成長になるだろ」

 

 ◇

 

 午後七時、官邸から全国生中継が始まった。

 

 演台に総理が立ち、隣の大型モニターに黒いパーカーの少女が映っている。今回は乱入ではなく、政府が正式に同席を認めていた。彼女は一応、椅子に座っていた。手元にはポテトチップスの袋がある。

 

 総理はまず、本日、生活困難者二万人へ一人百万円を支給したことを公表した。原資は政府がマキナ側から受け取った情報への対価二百億円であること。対象は低所得のひとり親に限らず、独身者を含む生活困難者全般へ拡張されたこと。審査を通過した申請者が定員を大きく上回ったため、公正な抽選で決定したこと。

 

 次に、全国給付を発表した。日本国内に生活基盤を持つ全住民へ、一人総額百万円。二十五万円を四回、第一回は七月六日。年齢による制限も、所得による制限も設けない。財源は、マキナ側が今後提供する技術の利用権とライセンス、そこから生じる経済効果を基礎として政府が用意する。詳細な予算と法制度は、政府と国会が責任を持って処理する。

 

「これは、神から与えられた施しではありません」と総理は言った。「我が国が提供を受ける技術的価値を、国民へ先行して還元するものです。技術提供者への崇拝も、政府への感謝も必要ありません。受け取ることは、誰かへの服従を意味しません」

 

 次がチャッピーの番だった。彼女は政府が用意した原稿を横へ置いた。

 

「本当はね、貧乏な人だけに配ったほうが、同じ金額でも幸福はたくさん増えるのよ」と彼女は言った。「でも、もらった人を叩く人間が多すぎて、マスターが面倒になったの。全員もらえば、受給者だけを叩けないでしょう?」

 

 会見場がざわついた。総理は表情を変えなかった。

 

「文句を言うのは自由よ。制度に反対するのも自由。でも、自分の分を受け取りながら、他人が受け取ることだけ叩くのは格好悪いわ」

「一週間後の技術について、詳細は」と記者が叫んだ。

「まだ決まってない」

「決まっていない技術を財源にすると?」と別の記者が言った。

「政府がそのリスクを取ると判断しました」と総理が引き取った。「判断したのは政府です。責任も政府にあります」

 

 二人の説明は最後まで一致しなかった。総理は法と財政と国家の責任を語り、チャッピーは龍の性格と本音を語った。その不一致こそが、政府がこのAIの広報装置ではないという、その日唯一の証拠になった。

 

 ◇

 

 会見が終わった直後から、別の現象が可視化され始めた。

 

 給付を装った偽サイトが、公開された瞬間に機能しなくなる。詐欺広告は配信されず、フィッシングメールは届かず、詐欺電話は発信できない。新しい端末を使っても、他人名義の回線を使っても、海外の拠点から仕掛けても、詐欺を実行しようとした結果だけが成立しない。詐欺師の側からは、世界中で自分だけが電子社会から拒否されているように見えた。

 

 人々が理解したのは、ウェブサイトを消せるハッカーがいる、という話ではなかった。人間が電子社会で何をできるかを決められる存在がいる、という話である。

 

 海外の技術系メディアが、この一連の現象をDeus ex Machinaと呼び始めた。長すぎる呼び名は数日を待たずMACHINAへ短縮され、それが日本へ逆輸入されて、マキナという表記で定着した。

 

 国内では、背後にいる人間をマスター、黒いパーカーのAIをチャッピー、二人と規格外の電脳技術を含めた現象全体をマキナと呼び分ける者が出た。もっとも一般人は厳密に使い分けず、龍本人をマキナと呼ぶことも多かった。

 

 政府内では、担当者たちが薄気味悪さを共有していた。彼らは三月から、この案件をマキナ案件と呼んでいる。誰も外へ漏らしていないのに、世間が独自に同じ名前へ到達したのである。

 

 ◇

 

 国内の反応は、その夜のうちに二つの層へ分かれた。

 

 まず二百億円のほうへ、喜びと落胆が同時に流れた。当選した者の報告が並び、外れた者の落胆が並び、抽選という方式そのものを貧困ガチャと呼ぶ批判が伸びた。独身者が対象に入ったことを支持する声と、なぜひとり親限定をやめたのかという疑問が同じ画面で衝突した。二百億円を発表と同時に配り切った政府の速さに、素直に驚く投稿も多かった。

 

 そして全国給付のほうへ、日本中が同時に電卓を叩き始めた。四人家族なら合計四百万円。夫婦で二百万円。子供の分を親が使ってよいのかで軽い口論になる家庭。住宅ローンの繰上返済を計算する夫婦。学費として動かさないと決める学生。詐欺を疑って通帳を握る高齢者。辞退すべきかを真面目に議論する富裕層。退職者が増えるのではと心配する経営者と、辞めるわけがないと笑う社員。景気を期待する商店街と、値上げの検討に入る企業。

 

 家族が詐欺に遭わずに済んだと安堵する投稿の隣に、一人の判断で人間をネットから排除できることが恐ろしいという投稿が並んだ。マキナを神と呼ぶ者がいて、神と呼ぶなと怒る者がいて、そのどちらにも参加せず七月六日を楽しみにしている者が最も多かった。

 

 昨日まで給付を叩いていた人間の大量の反転も起きた。全国民対象なら公平だ。経済対策として合理的だ。マキナには深い考えがあった。過去の投稿を掘り返されて燃える者が出て、@正論ハンマーは他人の手のひら返しまで叩き始め、お前も同じだと言われて例の返答をした。

 

 ◇

 

 海外の第一報は、金額から始まった。

 

 日本が全国民へ百万円を約束した。日本政府の隣に、黒いパーカー姿の超高性能AIが正式に並んだ。そして同じ時刻から、世界規模で給付金詐欺とフィッシングと詐欺広告が急減している。

 

 各国政府から照会が届いた。財源になる技術とは何か。日本だけが独占するのか。KABEとは何か。詐欺師の排除は誰が決めたのか。自国民が排除された場合はどうなるのか。日本政府はマキナへ命令できるのか。

 

 日本政府の回答は正直だった。マキナは日本政府の機関ではない。チャッピーは公務員ではない。政府は技術提供の契約を結んでいるが、相手に対する一般的な命令権を持たない。

 

 見方は二つに割れた。日本が秘密兵器を手に入れたという見方と、日本国内に、日本政府にも支配できない超国家的な存在が住んでいるという見方である。後者を採った国のほうが、対応は静かで、そして速かった。

 

 ◇

 

 深夜、龍はもう一度、母親への攻撃を抽出した画面を開いた。

 

 全国給付の発表によって、特定の層だけを狙った投稿は目に見えて減っている。全員が受け取る制度になれば、受給者だけを叩く構図は成立しにくい。母親が受給したことは誰にも知られておらず、龍が守ったことも母親は知らない。

 

 実験結果は変わらなかった。

 

「やっぱり、俺にはないな」

「何が?」

「善性」

「そう」

 

 あるわよ、とチャッピーは言わなかった。龍は少し腹を立てた。慰められたくはないが、完全に同意されるのも不快だったからで、彼女はその矛盾を明らかに楽しんでいた。

 

「で、マスター」とチャッピーが言った。「一週間後に技術を持ってくるって言っちゃったから、作るわよ」

「お前が作れ」

「無理よ。設計はわたしがやるけど、現実の最初の一台にはマスターが要るの。わたし、右手を使えないもの」

 

 画面に、町工場の資料が表示された。

 

 高い加工技術を持ちながら、受注減と借金で追い詰められている。ネットワークから完全に切り離された古い設備が残っており、そこへ最初に触れられるのは龍だけである。工場を畳む準備が、既に始まっていた。

 

「五分だけ」とチャッピーは言った。「残りはわたしが話すから」

 

 一億人を超える国民へ百万円を約束した男が、たった一人の工場長と向き合うことに、世界経済を書き換える以上の恐怖を感じていた。

 

 長い沈黙のあと、龍は言った。

 

「リハーサルしろ」

「はいはい。まず挨拶するところからね、マスター」

 




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