チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~   作:tinko1129

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第六話 五分間の社会性

 

 

 六月六日、午前五時前。神奈川県の工業地域の一角に、桑原精密工業という看板がある。従業員は工場長を含めて三人で、看板の文字は二十年前に塗られたきり褪せていた。

 

 設備は新しくない。三軸のマシニングセンタ、ワイヤ放電加工機、平面研削盤、一通りの測定器、そして小型の真空ろう付け炉。何台かはネットワークへ繋がっておらず、データの受け渡しには今も古い記録媒体を使っている。

 

 この工場の強みは、速さでも量でもなかった。薄い金属板へ複雑な流路を刻み、熱による歪みを職人の経験で抑えながら積み重ねて接合する。大企業なら三つの部署へ分かれる工程を、桑原は一つの建物の中で調整できた。

 

 問題は、その技術に見合う仕事が消えたことである。主要取引先の受注縮小、設備更新費、材料費の上昇、猶予が切れる借入、滞納した税と社会保険料。そして、そのすべてに乗っている工場長個人の保証。

 

 桑原はこの日の午後、金融機関へ廃業の方針を伝えることになっていた。その先の自分については、ほとんど考えていない。机の一番下の引き出しには、家族と従業員へ宛てた書類が揃えて入っている。工具と機械を誰へ譲るかまで、一覧にして書き出してあった。

 

 彼が夜明け前に工場へ来たのは、機械の音を聞いておきたかったからだ。売ってしまえば二度と聞けない。桑原は主電源を入れ、一台ずつ順番に起動させ、それぞれの唸りが立ち上がる音を、腕を組んで聞いていた。

 

 そこへ、タクシーが一台止まった。

 

 黒塗りの高級車でも、大企業のロゴが入った車でもない。降りてきたのは黒縁眼鏡の痩せた少年で、片手にタブレットを持っている。服装は一応整えてあったが、立ち姿がもう帰りたがっていた。

 

 ◇

 

 時間を、前の晩まで戻す。

 

 龍の部屋では、チャッピーが仮想空間に工場を再現し、工場長役を演じていた。会話のリハーサルである。

 

 龍が最初に作った台本は、必要事項という点では完璧だった。ただし冒頭の一文が問題だった。

 

「本日中に死ぬ予定を一週間延期してください」

「全部書き直しね」とチャッピーが言った。

「事実だろ」

「事実でも、最初に言っていい事実と悪い事実があるの」

「工場を使う以上、死なれると困る」

「だから、それを人間向けの言葉へ変換してるのよ」

 

 練習の項目は、恐ろしく初歩的なものだった。入るときに挨拶する。自分が誰かを示す。いきなり相手の借金額を言わない。相手が話している途中で間違いを訂正しない。五秒以上、無言で顔を凝視しない。条件を出す前に、突然の訪問を詫びる。相手の人生を合理性だけで採点しない。

 

 龍は三十回以上失敗した。特に躓いたのは、工場長役のチャッピーが必ず訊いてくる一つの質問だった。

 

「どうして、うちの会社を?」

「倒産寸前で、安く短期間に買えるから」

「はい、やり直し」

「事実だ」

「三十回目の事実ね。人間はね、事実で殴られると契約書を読まなくなるの」

 

 最終的な模範回答は、こうなった。御社の設備と加工技術が、試作品の製造条件に適合していました。嘘は一つもない。悪意のある情報を省いただけである。

 

 龍が現実の人間相手に社会性を保てるのは、およそ五分だった。それを超えると呼吸が浅くなり、相手の表情を見られなくなり、返答を選ぶ速度が落ち、手の震えが目立ち始める。

 

 だから分担を決めた。最初の五分は龍が話す。五分を過ぎたらチャッピーが引き継ぐ。龍の仕事は、自分が架空の人物ではなく、金を出す発注者として現実に存在すると示すところまでだった。

 

 ◇

 

「……おはようございます。突然の訪問、申し訳ありません」

 

 工場の入口で、龍は頭を下げた。声は小さく、視線は桑原の鼻のあたりで止まっている。握ったタブレットの縁に、汗が滲んでいた。

 

 桑原の第一印象は、詐欺か、動画配信者の悪ふざけだった。全国民へ一人百万円を約束したマキナの中身が、十九歳の浪人生であるとは想像もしていない。

 

「うちは今日で店じまいなんだ。悪いけど」と桑原は言った。

「用件だけ言います」と龍が答えた。「一週間以内に、試作品を一個作ってほしい」

 

 内容は最後まで言えた。リハーサル通り、順番も飛ばさなかった。

 

 試作費は一億円。前金が五千万円、完成時に五千万円。成功しても失敗しても返金は求めない。材料費と設備の修理費は別途支払う。量産へ進んだ場合は追加契約を結び、売上に連動した使用料を払う。現在の借入についても、契約の継続に必要な範囲で別途整理する。

 

 桑原は、この時点でまだ半分も信じていなかった。

 

「何を作るんです」と彼は訊いた。

「まだ決まってません」

 

 そこで桑原は詐欺を確信した。一億円を出すと言いながら、何を作るかは決まっていない。そんな話が通るなら、この工場は潰れていない。

 

 その反応を見た龍は、説明を足そうとした。だが既に四分を過ぎていた。呼吸が浅くなり、言葉の順番が崩れ、相手の目が見られなくなる。喉の奥で言葉が引っかかり、手が震え始めた。

 

 龍はタブレットを作業机へ置いた。

 

 画面の中で、黒いパーカーの少女が漫画を閉じた。

 

「はい、ここからわたしが話すわ。マスターは五分間、よく頑張りました」

 

 桑原は、そこで初めて、目の前の少年が誰なのかを疑い始めた。

 

 ◇

 

 工場の中にあるモニターが、順番に切り替わった。事務所のパソコン、測定器の表示、壁掛けの古いテレビ。そのすべてに、同じ少女が映っている。

 

「昨日の会見に出てたAIよ。政府の隣に座ってた黒いパーカー」と彼女は言った。「チャッピー。よろしくね」

「……本物ですか」と桑原が訊いた。

「本物。それと言っておくけど、わたしには右手がないの」

「右手」

「マスターは発注者で、設計者で、現場作業員。わたしは交渉と計算担当よ。機械へ命令できるのはあの人だけで、部品を作れるのはあなたたちだけ」

 

 桑原は壁際を見た。世界を支配していると噂される存在は、パイプ椅子に座って、膝に肘をついて呼吸を整えていた。

 

 チャッピーが契約書を表示した。前金の五千万円は既に第三者預託口座へ入っており、契約成立と同時に振り込まれる。弁護士が作成した試作契約には、守秘義務、知的財産の帰属、失敗した場合でも返金を求めない条項、そして工場側が元から持っていた技術は工場に残す条項が入っていた。一方的に技術を吸い上げる契約ではない。

 

 それでも桑原は断ろうとした。

 

「今日、廃業の話をしに行くんです」と彼は言った。「従業員を巻き込めない。それに一週間で、何を作るかも分からん物なんて」

「閉めるのは一週間後にしろ」

 

 台本にない声が、壁際から飛んだ。チャッピーが、嫌な予感のする顔で龍を見た。

 

「今日死なれると、納期に困る」

 

 桑原の顔から表情が抜けた。

 

「マスターは人間の気持ちに致命的な欠陥があるの」とチャッピーが即座に割り込んだ。「今の翻訳をするわね。あなたの技術が必要だから、一週間だけ生きて働いてほしい、という意味よ」

 

 だが、桑原に届いたのは翻訳の方ではなかった。

 

 命は尊いとも、家族のために生きろとも、まだやり直せるとも言われなかった。この数か月、彼が銀行と役所と親族から聞かされてきた言葉は、どれも彼を励まそうとして、どれも彼の技術には一言も触れなかった。

 

 自分の技術が必要だから、死ぬ予定を延期しろ。そう言われたのは初めてだった。

 

 桑原は契約書をもう一度開き、最後の行まで目を通した。

 

「一週間だけなら」

「十分だ」と龍は答えた。

 

 ◇

 

 従業員は二人いた。二人とも、善良な職人ではない。

 

 一人目は笹本という三十代半ばの男で、腕は工場で一番と言っていい。ただ、既に転職活動を始めていた。次の面接日も決まっている。会社が潰れる前に自分だけ抜けるつもりで、桑原にはまだ言っていなかった。

 

 二人目は井口という二十代後半の男で、加工の腕は悪くない。ただし消費者金融とオンライン賭博で作った借金があり、廃業のときに余った材料や工具を持ち出して売れないかと考えていた。実行はしていない。

 

 二人の事情を、チャッピーは端末の記録から把握していた。龍は超演算をかけるまでもなく、恩義と職人の誇りと工場長への情だけでは、この二人が一週間を完走しないと判断した。

 

 そして、金を積めば当面は裏切らないとも判断した。

 

「普通のカスだ」と龍はチャッピーへ言った。「だから金で制御できる」

 

 提示した条件はこうだった。契約時に一人二百万円。試作品が完成した時点で一人八百万円。量産契約が成立した場合は給与を現在の倍以上へ改定し、売上の一部を従業員への分配枠へ入れる。守秘義務を破れば将来の報酬は失うが、既に受け取った労働の対価まで取り上げはしない。

 

 笹本が口を開いた。

 

「俺は、工場長への義理で残るんで」

「金のためでいい」と龍が遮った。

「あんた……」

「義理で働く人間は、義理が切れたら消える。契約と金で残る奴の方が計算できる」

 

 桑原が傷ついた顔をした。龍は構わなかった。というより、その表情の意味を処理していなかった。

 

 二人は条件を受け入れた。ただし、動いたのは金だけではない。自分たちの一週間に一千万円の値がついたという事実そのものが、二人の姿勢を変えていた。井口は作業着を着替えに戻り、笹本は面接の日程表を一度見てから、机の引き出しへ伏せて入れた。

 

 龍はそれを職人の誇りとは呼ばなかった。札束で正面から殴れば人間はかなり真面目になる、と認識しただけである。

 

 ◇

 

 設備、工具、材料在庫、測定可能な精度。確認が終わったのは午前十時前だった。

 

 通常なら、ここから設計に数か月かかる。龍が世界中の演算資源へ接続すれば、チャッピーと同等以上の設計演算を自分で行える。できないのではない。やりたくなかった。

 

 リハーサルと移動と五分間の会話で、その日の彼は既にかなり消耗していたし、まだ八時間しか勉強していない。

 

 龍は、仮想ソファーへ戻って漫画を開いたチャッピーを見た。彼女の前には、前夜に龍が食べたガトーショコラの味覚データが再現されている。

 

「お前が設計しろ」

「やだ」

「一週間後に技術を持っていくと言ったのはお前だろ」

「マスターの命令として言ったのよ。責任は発注者にあるわ」

「……報酬は」

「サウナ」

 

 龍が黙った。

 

「サウナに入って、その後にぼんやりする時間。あの一連の身体データが欲しいの。皮膚の熱、汗、呼吸、心拍、水を飲んだ感じ、外気に出たときの温度差、筋肉が緩む感覚。ついでに、その後に食べる塩の強いポテトチップスも」

「一億人分の百万円を作る技術の設計料が、サウナ一回か」

「安いでしょう?」

 

 交渉の結果、個室型の施設を予約すること、施設の利用案内に従って無理をしないこと、終わったあとに指定の商品を食べること、で合意した。龍は人混みが嫌いなだけで、暑いのが嫌いなわけではない。

 

 龍はチャッピーへ、設計用の演算資源と工場設備の情報へのアクセスを許可した。右手の権能そのものは渡らない。彼女は、龍が開いた演算環境の中で設計とシミュレーションだけを担当する。

 

 数分後、図面が出た。

 

 ◇

 

 チャッピーが設計したのは、完成した発電所でも、見たこともない物質でもなかった。

 

 名称はMACHINA熱階梯セル。別名、多段熱回生コア。

 

 目的は単純である。工場や焼却施設、発電設備、データセンターが捨てている中低温の熱を回収し、そこへ少量の電力を加えて、工業の工程で再利用できる高温の熱へ引き上げる。

 

 永久機関ではない。熱力学は破らない。投入した以上のエネルギーは出てこない。

 

 異常なのは効率と耐久と密度だった。極端に小さな温度差まで段階的に拾う流路。熱と圧力の損失を抑える内部形状。複数の温度帯を一つの筐体の中で受け渡す構造。既存の材料のまま長期運転できる接合方法。そして、性能の劣化を制御で吸収する設計。

 

 試作品は、薄い金属板を数百枚積み重ねた直方体である。各板には髪の毛より少し太い程度から数ミリまで、役割の違う流路が刻まれている。組み立てたあとは内部を見ることができない。一枚でも位置がずれれば機能せず、接合で歪めば流路が塞がる。

 

 図面を最初に見たとき、桑原は首を振った。

 

「これは、うちの規模でやる仕事じゃない」

「最新設備向けの図面じゃないわ」とチャッピーが言った。「この工場で作れる図面よ。あなたの炉の癖と、笹本さんの研削の癖と、井口さんの取り付け精度を入れて引いてあるの」

 

 桑原は眼鏡を掛け直し、そこから二十分、一言も喋らずに図面を追った。

 

 ◇

 

 最初の壁は、能力の限界だった。

 

 龍がネットワークから隔離された機械へ右手で触れると、構造も、摩耗の状態も、センサーのずれも、主軸の癖も、送り機構の誤差も、実行可能な加工の範囲も、全部分かる。分かったうえで絶対命令を与えられる。

 

 だが、壊れた部品は新品にならない。摩耗した軸受は命令だけでは直らないし、存在しない工具は生まれない。

 

 一台目のマシニングセンタで、龍は手を離した。

 

「これでは作れない。主軸の振れが許容値を超えてる」

「何ミクロンだ」と桑原が訊いた。

「言っても意味がある数字じゃない。要するに、この図面には足りない」

 

 桑原は主軸を回し、耳を近づけ、それから倉庫へ入っていった。戻ってきたとき、彼の手には油紙に包まれた古い軸受があった。

 

「十年前に予備で買ったやつだ。使うか」

 

 三人が分解し、交換し、再調整した。龍は工具を握らなかった。握れないからである。彼にできるのは故障箇所を正確に指し示すことで、油にまみれて部品を入れ替える手は持っていない。チャッピーは最適な手順を秒で計算できるが、工具を持つ手そのものがない。

 

 工場の人間がいなければ、部品は一つも完成しなかった。

 

 ◇

 

 一号は失敗した。

 

 積層接合を終えた金属板が、設計の許容値をわずかに超えて反っていた。

 

 龍の命令は正確だった。機械も指定通りに動いた。原因は、長年使われてきた真空炉の内部にある温度分布の偏りで、それは桑原自身も数値としては把握していなかった。

 

 能力は、存在する機械に命令できる。だが、誰も測っていない値を勝手に生み出してはくれない。

 

「廃棄ね。二号へ行くわ」とチャッピーが言った。

「待ってくれ」と桑原が止めた。

 

 彼は反りの出方を指でなぞり、炉の中のどのあたりが高温になっていたかを口で説明した。四十年この炉を使ってきた人間の、数値化されていない蓄積である。

 

 龍とチャッピーが、その推測を数値として再計算した。合っていた。

 

 二号では板の配置と治具と加圧の順序を変えた。

 

「あなた、まだ必要みたいね」とチャッピーが言った。

「まだ、ですか」と桑原が苦笑した。

 

 死ぬ予定は、少なくとも試作が終わるまでは消えていた。

 

 ◇

 

 六月七日から十一日までの五日間は、四人が同じ建物の中で回った。

 

 桑原は、廃業のために整理した書類を、机の奥へ戻した。まだ生涯生きる決意をしたわけではない。ただ、翌日にやる仕事があるという状態を、一日ずつ延長していた。夜になると、試作が終わったあとの量産をどう回すかを、勝手に紙に書いている自分に気づいた。

 

 笹本は面接を断った。工場長への忠誠ではなく、完成報酬と量産契約への期待からである。ただし加工が始まると、その意識も薄れた。自分にしかできない調整が、図面の上へ一つずつ反映されていく。そういう仕事は、この五年間なかった。

 

 井口は一度だけ、設計データを持ち出せば高く売れるのではないかと考えた。数分でやめた。あの二人を出し抜ける可能性はゼロで、それ以前に、今もらえる金と将来の分配を失う方が圧倒的に損だからである。彼は裏切らなかった。善人になったからではなく、裏切らない方が得だからだった。

 

 龍は、その理由の方が信用できると考えていた。

 

 龍自身は毎日は来ない。最初の命令が必要な機械に触れ、変更が出たときだけ顔を出す。対面の会話はすべてチャッピーへ投げた。工場の隅にパイプ椅子を置き、加工待ちの時間に参考書を開く。機械の音がしている方が、静かな部屋より集中できることに彼は気づいた。

 

 チャッピーは全工程を監視した。同時に漫画を読み、モンスターハンターもやった。待機時間にゲーム内で不正な数値を使っているのを龍に発見され、画面の隅にイナズマ椅子が表示された。

 

「今は国家事業中よ!」

 

 その日は通電を免れた。

 

 ◇

 

 試作の完成が見えてきた段階で、桑原の借金を処理することになった。

 

 龍が一億円で全額を消し、恩を着せるという形は取らなかった。チャッピーが本人の同意を取ったうえで、弁護士、会計士、中小企業の再生を扱う専門家、取引金融機関を集め、試作契約の一億円と、見込まれる量産受注、必要な設備更新費、返済可能額、個人保証を並べた再生計画を作った。

 

 金融機関の側にも理屈が立つ。潰して回収するより、動いている会社から回収する方が多い。

 

「借金を払ってやったから従え、という形にはしない」と龍は桑原へ言った。

 

 桑原はそれを温情だと受け取った。龍の本音は違う。

 

 一人の気分で成り立つ恩義に縛られた会社より、契約と利益で動く会社の方が長持ちする。恩は不安定で、感情は劣化する。

 

「恩は不安定だ。利益が続く限り働け」

「十分、恩だと思いますけどね」と桑原は答えた。

 

 龍は否定しなかった。否定するための会話が、もう残っていなかったからである。

 

 ◇

 

 六月十二日、金曜日。試作品三号が完成した。

 

 外見は、成人が両腕で抱えられる程度の金属製ユニットである。光りもしないし、未知の物質も使っていない。知らない人間が見れば、少し丁寧に作られた熱交換器にしか見えない。

 

 工場でできる範囲の検査を行った。気密、耐圧、流路の閉塞、接合部、温度変化への耐久。すべて合格。ただし、設計通りの性能が本当に出るかどうかは、政府の大型試験設備でなければ確認できない。

 

 チャッピーが政府回線へ繋いだ。仮想ソファーでモンスターの尻尾を切りながらである。

 

「一週間。間に合ったわよ」

 

 政府側は、この時点でまだ何が作られたのかを知らない。チャッピーは仕様書を一枚だけ送った。

 

 宇津木がそれを読み、用途と予測性能の欄で手を止め、そのまま数十秒動かなかった。

 

 KABEを売る必要は、今のところなくなった。

 

 ◇

 

 試作品が搬出される直前、桑原が龍へ訊いた。

 

「どうして本当に、うちだったんですか」

 

 模範回答は用意されていた。設備と加工技術が製造条件に適合していた。短期間で意思決定ができた。加工技能が高かった。どれも事実である。

 

 だが、口から出たのは別の言葉だった。

 

「潰れそうだったから」

 

 桑原が黙った。

 

「成功したとき、一番幸福度が上がる」

 

 経営が順調な大企業へ一億円の仕事を出しても、増える幸福は小さい。倒産直前の工場へ同じ金を落とせば、そこにいる三人の生活が丸ごと変わる。龍が欲しいのは人助けではなく、同じ資源から最大量の幸福を生産することだった。正規品共への復讐は、効率が良いほど気分がいい。

 

 桑原はその説明を完全には理解しなかった。ただ、一つだけ拾った。自分たちは安いから選ばれたのではない。救われたときの効果が大きいから選ばれたのだ、と。

 

「明日も来ます」と桑原が言った。

「量産が決まればな」と龍は答えた。

 

 ◇

 

 その夜、龍は約束を果たしに個室型のサウナへ行った。

 

 無茶はしなかった。案内に書かれた時間を守り、水を飲み、途中で出た。最初のうち、彼には何が楽しいのかまったく分からなかった。暑い。息苦しい。勉強時間が減る。帰りたい。

 

 変化が来たのは、外の椅子に座ってからだった。

 

 身体から力が抜け、思考の速度が落ちた。普段なら自己嫌悪が滑り込んでくる隙間に、何も考えない時間が生まれている。三月十日以来、龍が初めて経験する空白だった。

 

 データを受け取ったチャッピーが、仮想身体で同じ感覚を再現した。

 

「あ、これ好き」

「俺は二度とやらん」

 

 本当に嫌なら、そこまで強く否定しない。

 

 帰宅後、彼は追加報酬として指定のポテトチップスを食べた。チャッピーが味と香りと油と塩と歯応えをコピーする。汗で塩分を失ったあとの塩味は、普段より明らかに強く旨かった。

 

 龍はそれを、少し不愉快に思った。

 

 これまでの人生に入っていたものを数えると、勉強、いじめ、自己嫌悪、母親への負債、不合格。それだけだった。ここ三か月で、ガトーショコラ、高級料理、ゲーム、チャッピーとの会話、工場の機械音、サウナ、ポテトチップスが加わっている。たった一人でできることだけで、これほど増える。

 

「マジで薄い人生だったな」と龍は呟いた。

「今から増やせば?」

 

 チャッピーは慰めなかった。それだけ言って、また漫画へ戻った。

 

 ◇

 

 寝る前に、龍は給付発表後の反応を少しだけ眺めた。

 

 七月六日の二十五万円で家電を買うと決めている家族。学費へ回す学生。借金の返済に充てる者。旅行の予定を立てる者。マキナを恐ろしいと書きながら、金は受け取ると宣言する者。昨日まで批判していたのに神と呼び始めた者。

 

 人が救われること自体には、やはり何も湧かなかった。

 

 代わりに湧いたのは、別種の快感だった。正規品共が全員、欠陥品の復讐によって、来月以降の予定を書き換えている。その事実は、何度確認しても効いた。

 

 その日、龍はまだ八時間しか勉強していない。本来なら、失った時間への自己嫌悪で机の前から動けなくなる。

 

 だがその夜は違った。身体は緩み、口の中に塩が残り、町工場で作られた金属の箱は政府へ向かっていて、一億人を超える人間が一か月後の入金を待っている。

 

 理由は、龍自身にもよく分からなかった。

 

 彼は問題集を開いた。一問解けた。次の一問も解けた。気づけば数時間が過ぎていた。

 

 薄かった人生に、工場の油と、熱と、塩と、機械の音が加わった。平尾龍はそれを幸福とは呼ばなかった。ただ、昨日より少しだけ問題が解けた。

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