チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
六月十三日、午前零時過ぎ。MHC-01の試験は終了していたが、研究棟の照明は一つも落ちていなかった。
門脇が政府へ提出する報告書の文面は、興奮とは正反対だった。実用化成功、という語はどこにも入っていない。連続運転、腐食、汚損、冷媒の劣化、振動、数万時間後の性能、工場ごとに違う排熱条件、保守性、安全性。確認しなければならない項目を並べ、その全部に未確認と書いた。
「数時間動いたからといって、産業機械として完成ではありません」と門脇は釘を刺した。
経済産業省の側も、そこは否定しなかった。にもかかわらず、彼らは評価を一段上げた。国家戦略技術候補。
理由は単純である。量産できるかは分からない。十年壊れないかも分からない。それでも、現代の材料と、現代の工作機械と、既知の熱力学だけで組まれた一メガワット級の試作機が、八十度の廃熱から百八十度の工程熱を高い効率で返してしまった。
会議室で誰かが漏らした言葉が、その夜の空気を正確に表していた。
「未知の物理じゃないんだ。……なんで、もっと早く見つけられなかったんだ」
◇
午前二時、マキナ合同班の緊急会議が開かれた。経産、内閣官房、財務、特許、輸出管理、デジタル、サイバー、研究者、産業界。最初に揉めたのは、誰に作らせるかだった。
一社独占案は、責任の所在が明確で速い。国有企業案は、流出の管理がしやすい。複数の大企業案は現実的で、全国分散案は政治的に配りやすい。
決着したのは、認定製造網という形だった。
桑原精密だけに量産させない。大企業一社にも独占させない。かといって設計図を全部インターネットへ放流もしない。安全規格、接続規格、性能の測定方法、緊急停止、施工基準。これらは広く公開する。内部の流路、接合条件、重要な公差、制御モデル。この核心部分は閉じる。
「囲い込むな。だが流出もさせるな」
その短い合言葉が、その日から班の壁に貼られた。
桑原精密工業の位置づけも、そこで決まった。量産工場ではない。原型を作り、校正し、試作し、理論と現物の差を拾う拠点である。正式な名称はもっと行政的なものになったが、現場では別の呼び方が先に広まった。
マキナ工房。
本人は、その呼称を心底嫌がった。
◇
朝八時、性能の概要が秘密保持契約のもとで国内企業へ通知された。企業名は公表せず、問い合わせ窓口だけを開いた。
最初の一時間で数十件。昼には数百件。夕方には、受付システムそのものを拡張する必要が出た。
食品、飲料、製紙、化学、製薬、塗装、乾燥、洗浄、電子材料、自動車部品、繊維、工業材料。業種は違っても、訊いてくることはほとんど同じだった。
うちの工場で使えるか。排水が何度なら対象になるのか。二百度が要るが可能か。一号量産機を確保したい。海外工場へ持っていけるか。補助金なしで買えるのか。何年で元が取れるのか。
MACHINA LINKが、各工場の条件から一次判定を返した。
一週間以内に、本気度の高い国内案件だけで三千から五千メガワット相当が積み上がった。標準機に換算して三千台から五千台。本体を四千万から六千万円、そこへ設置、配管、電源、制御、工事、保守を足すと、案件候補の総額は三千億から六千億円規模になる。
ただし、誰もこれを売上とは書かなかった。注文書は一枚もない。装置も一台しかない。それでも、成功したら買う、という意思だけが一日で数千億円分積み上がっていた。
◇
政府より先に本気で動いたのは、銀行だった。
理由は環境ではない。金になるからである。
地方銀行の融資担当が、その日のうちに社内資料を作った。標準モデル、条件の良いケースで年間の燃料費削減は三千万から四千万円前後。設備の総額が五千万から八千万円なら、数年以内に回収できる。
「これは、借金をして設備を買う話じゃありません」と、その担当者は上司へ説明した。「返済額より大きい額の光熱費が、毎月消える設備へ金を貸す話です」
上司が資料を二度読み返した。
「うちが貸さなくても、他行が貸すな」
「はい。それと、もう一つ気づいたことがあります」
「言え」
担当者は、その日いちばん重要なことを口にした。
「今までの省エネ設備って、環境のために少し損をしてください、という商品でしたよね。補助金をつけて、企業に頭を下げて、それでやっと入る。この機械は逆です。入れれば入れるほど、その工場の財布が軽くなる。そして同じだけ、燃やす燃料が減ります」
「……つまり」
「環境と儲けが、同じ方向を向いてます。企業が自分の欲でこれを増やせば増やすほど、勝手に燃料消費が落ちる。我慢が要らないんですよ。だから止まらない」
その週のうちに、地方銀行、信用金庫、メガバンク、設備リース会社が、一斉にMHC導入向けの金融商品を準備し始めた。企業側からは、補助金を待って半年遅れるくらいなら借りたい、という相談まで来た。
財務省の担当者が、報告を読んで初めて笑った。国費を一円入れるたびに一円分しか設備が増えない政策ではない。民間の金が、勝手についてくる。
◇
桑原精密工業では、電話が鳴り止まなかった。
前の週まで、この工場は倒産寸前だった。桑原は受話器を取っては切り、また取っては切った。銀行。商社。テレビ局。工作機械メーカー。三年前に仕事を打ち切ってきた元の取引先。
「線を抜いていいですか」と桑原が言った。
「駄目よ。今日から忙しい会社なんだから」とモニターのチャッピーが答えた。
笹本と井口も、状況を把握しきれていなかった。一人は先週まで転職の面接を控えていて、もう一人は会社が潰れたら工具を持ち出そうかと考えていた。それが今、自分たちの作った銀色の箱について、国中の工場が同じものを作れないかと問い合わせている。
ただし、桑原たちに与えられた仕事は量産ではなかった。
チャッピーから届いたのは、新しい流路、違う金属、違う板厚、別の接合条件。二号試作、三号試作、四号試作。次から次に構造だけが送られてくる。
彼らの価値は、神の図面をありがたく量産することではない。マキナ側が出す構造を現実の金属へ翻訳し、これは作れる、ここは無理だ、こっちならいける、と返すことである。設計と現実の間に、人間の手が要る。
正規品の歯車ども。龍はそう呼んでいたが、その歯車を切る気は最初からなかった。
◇
MACHINA LINKが本格的に動き出したのは、同じ日の午後だった。
各企業は独立したままである。資本も経営者も別で、機密も全部は共有しない。繋がるのは必要最小限だけだ。この部品を誰が作るのか。いつ終わるのか。次の工程はどこか。輸送はどれか。どの機械が空いているか。不良が増えていないか。材料は遅れていないか。
長野の加工会社が半日遅れると、大阪の組立順が勝手に組み替わる。愛知の材料納期が一日縮むと、神奈川の検査予定が前倒しになる。新潟の表面処理ラインが空けば、別会社へ振っていた部品がそちらへ移る。
各社が見ているのは自分の仕事だけだった。全体を見ると、日本中が一つの工場になっていた。
「うちは、結局どこの下請けなんです」と、ある中小企業の社長が窓口へ電話をかけてきた。
回答は、誰の下請けでもありません、だった。必要な工程を、必要な精度と納期で受注している。従来の系列とも違う。社長はしばらく黙って、それから、そんな話は聞いたことがない、と言った。
◇
問題も同じ速さで出た。
受注はある。加工する人間が足りない。工作機械が足りない。測定機も、設備を据え付ける業者も足りない。
もともと人手が余っていた経済ではない。人手不足のところへ、追加の需要が丸ごと落ちた。
工作機械メーカーが増産を検討している、という記事が出た。特殊溶接の技術者募集が増え、配管施工の経験者が奪い合いになり、高専卒の採用枠が広がり、工業高校へ企業説明会の申し込みが殺到した。
《大学行くより旋盤覚えた方が勝ち組じゃね?》
《極論で草》
《でも高卒技能職の初任給、本当に上げてきてる》
《マキナ景気、工業高校に直撃してる》
《親父の町工場が二十年ぶりに求人出した》
一週間で給料が倍になるわけではない。それでも、人間の技能に値札がつき始めていた。
◇
実物のMHCは、まだ世界に一台しかない。市場はそんなことを気にしなかった。
市場が買うのは来年であり、再来年であり、五年後である。
日本株全体が二から四パーセント上がり、産業機械とFAが八から十五パーセント、熱と冷熱の関連が十から二十五パーセント、プラント工事が七から十五パーセント、一部の精密加工銘柄は三十パーセント近く跳ねた。地方銀行まで上がった。
危険なのは、値上がりそのものではなかった。マキナの認定製造網に入るらしい、という噂だけで、実態の分からない中小株が急騰し始めたことである。
政府は認定候補の企業名を公開しない。公開すれば、その瞬間にインサイダー取引の温床になる。
チャッピーも、この市場には一切手を出さなかった。詐欺は潰せても、合法な熱狂は潰せない。正規の市場が、勝手に期待して勝手に上がっていた。
◇
夕方、財務省が冷水をかけた。
MHCの国内省エネ効果も、設備市場も、輸出も、全部これからの話である。今週、日本が数兆円豊かになった事実はどこにもない。
第一次の内部試算はこうまとめられた。直接の省エネ利益で年間〇・八兆円から一・三兆円が中心レンジ。設備、設置、配管、制御、保守などの国内設備需要が数年間の累計で八兆円から十五兆円級。国内の年間経済波及は二兆円から四兆円、極めて順調に運べば四兆円から七兆円。海外展開が成功すれば、関連産業全体で年五兆円から十兆円級へ育つ可能性がある。
上限値は公式資料に載せなかった。載せた瞬間に、それが約束になる。
そしてMHC一つで、全国民一人百万円の百二十兆円を賄えるわけでもない。
それでも、財務省の評価は完全に変わっていた。以前の関心は、本当に次の技術を出せるのか、だった。今の関心は違う。
一週間で数兆円産業の候補を一つ作った人間が、次に何を持ってくるのか。
MHCそのものより、龍の次の発明を買える権利に、値段がつき始めていた。
◇
もう一つ、MACHINA景気の陰に隠れて効いているものがあった。
特殊詐欺である。
以前なら、一日に十億円前後が消えていた。それが成立しなくなっている。政府内部は控えめに、週あたり五十億から七十億円程度の家計資産流出抑止、と暫定評価した。
これはGDPを同額押し上げる数字ではない。ただし、海外の犯罪拠点へ消えていたはずの金が、預金、消費、治療、住宅、正規の投資として国内に残る。
銀行の窓口では、今週は被害相談が妙に少ない、という話が続いていた。通信会社では、迷惑電話の相談件数が減りすぎている、と担当者が首を捻っていた。
異常が、日常になりつつあった。
◇
マキナ合同班は、三日目まで地獄だった。
企業からの問い合わせ、外務省、国会、銀行、試験、輸出管理、サイバー、財源、そして百万円給付。全部が同時に来る。
見かねたチャッピーが、ある夜に口を挟んだ。ただし彼女は政策を決めない。法律判断もしないし、外交判断もしない。潰したのは別のものだった。同じ数字の再入力、同じ資料の様式違い、過去文書の検索、日程調整、重複した質問の整理、議事録、資料の要約。
「ねえ。同じ数字、なんで六つの表に書くの?」と彼女が訊いた。
「そういう様式なので」と職員が答えた。
「誰が決めたの?」
「……分かりません」
数時間後、マキナ合同班にだけ変則の運用が適用された。同一データの再入力禁止。会議資料は原則十ページ以内。既に決まった事項の再説明禁止。確認済み資料の省庁間共有。決裁に使わない参考資料は原則作らない。担当は二交代。
若手の戸田が、休憩室で誰にともなく呟いた。
「この案件だけ、役所が二十年先に行ってない?」
チャッピーが役人の代わりに国家を決めているわけではなかった。役人が判断するために邪魔な作業だけが消えている。だから官僚は相変わらず忙しい。ただ、意味のあることで忙しかった。
◇
龍の部屋には、政府からの報告がチャッピー経由で流れてくる。彼はいまだに政府と一度も会っていないし、電話もしていない。本名を知る政府の人間は、依然として数人だけである。
画面には、量産計画、銀行の融資商品、工場の改修、新規の求人、設備の発注、海外からの照会が並んでいた。
「早いな」と龍は言った。
「正規品共、優秀でしょう?」
龍は否定しなかった。彼は最初から、彼らを本気で馬鹿だと思ってはいない。契約も、工場も、社会も、仕事も、信用も、自分一人では絶対に作れないものだった。
ただ、そこから感動的な結論へは進まなかった。
「ならもっと働け」
「性格悪」
龍は参考書へ戻った。
◇
その言葉が世間に出たのは、六月十四日の夜だった。
経済番組の解説者が、銀色の箱の模型を前にして話していた。工場の映像。工作機械。若い技術者。銀行。証券取引所。
「この機械の一番の特徴は、性能の数字ではありません」と解説者は言った。「環境対策なのに、我慢がいらないことです」
司会が意味を問い返した。
「これまでの省エネや脱炭素は、企業にとって基本的にコストでした。だから補助金が要るし、政治的な圧力も要る。景気が悪くなれば真っ先に後回しになる。ところがこの装置は、入れた工場の燃料費が年に数千万円単位で消えます。二年前後で元が取れる。つまり、企業が自分の利益のために台数を増やせば増やすほど、燃やされる燃料が減っていく」
「儲けと環境が、同じ方向を向いていると」
「そうです。しかも一台入れて終わりではありません。浮いた燃料費で次の一台が買える。二台目が浮かせた金で三台目が入る。入れれば入れるほど財布が軽くなり、そのぶん環境も良くなる。この二つが逆を向いていた時代が、たぶん、今週で終わりました」
その放送の中で、解説者が一度だけ口にした言葉が、翌朝には日本中で使われていた。
MACHINA景気。
《これ、単発の奇跡じゃないんじゃね?》
《一週間で産業一個作ってない?》
《電脳神→詐欺絶対殺すマン→工業神》
《銀色の箱、見た目地味すぎる》
《魔法じゃないって専門家が言ってる》
《魔法じゃないからヤバいんだろ》
《百年後の設計図を今の町工場に渡しただけ、って説明が一番怖い》
《No unobtainiumって海外で言われてるの草》
架空物質なし。その一言が、その週最大のミームになった。
◇
六月十三日、女性総理は英国とイタリアを経由して、フランスのエビアンへ向かった。
もともと重い出張だった。中東情勢、欧州の安全保障、経済安全保障、貿易、そしてAI。そこへ、一週間前まで存在しなかった議題が追加されている。
出発の直前、外務省から渡された想定問答は、いつもの倍の厚さがあった。
MHCとは何か。同盟国へ売るのか。マキナは日本政府の所有物か。チャッピーは外国政府のネットワークへも入れるのか。詐欺師を誰が裁いているのか。政府はマスター本人と会ったことがあるのか。
最後の項目の回答欄には、一行だけ書かれていた。
会ったことがない。
総理も会っていない。名前を知る数人を除けば、日本政府は、世界経済を動かし始めた十九歳の浪人生を見たことすらなかった。
総理は資料を閉じ、そのまま飛行機へ乗った。