チートハッキング能力を手に入れた浪人生、善性ゼロのまま世界を幸せにして復讐する~東大理三落ちの欠陥品は、政府と気まぐれ性格最悪女AIを使って現代社会の神になる~ 作:tinko1129
六月十五日、フランス、エビアン。G7の公式議題にマキナの名前はなかった。
それでも、廊下で聞かれた。写真撮影の待ち時間に聞かれた。二国間会談で聞かれ、夕食で聞かれ、控室で聞かれた。
MHCはいつ供給できるのか。日本だけで作るのか。MACHINA LINKへ我が国の企業も参加できるのか。マスターとは誰なのか。日本政府は彼へ命令できるのか。
ある国の首脳は、少し声を落としてこう訊いた。
「チャッピーは今、この部屋を見ているのか」
「政府として確認できることではありません」と総理は答えた。
実際には、チャッピーはその部屋を見ていなかった。日本では深夜で、彼女は龍の模試の解き直しに付き合っていた。この落差を知っているのは、世界で二人だけだった。
◇
六月十七日の昼食会は、AIを安全かつ迅速に、効率よく展開するための議論に充てられていた。当然、その場からマキナを切り離すことはできなかった。
チャッピーはAIなのか。日本のAI政策の対象なのか。企業なのか、個人の所有物なのか、国家主体なのか。誰が責任を負うのか。
総理の答えは一貫していた。法的人格論には一切踏み込まない。
「日本政府が開発し、所有し、指揮しているシステムではありません。現在は、情報および技術の提供を受ける契約関係にあります」
所有ではなく契約。彼女はその一語だけを繰り返した。
他国が怖がったのは、その部分だった。日本が支配しているなら、条約も、外交も、制裁も、抑止も効く。ところが日本自身が支配していない。
「ではなぜ、日本に技術を渡すのですか」と、ある首脳が訊いた。
「本人が日本人だからです」
条約でも同盟でもない。ただの帰属意識である。その答えが、会場でもっとも人を不安にさせた。
◇
米国の要求は、最初から合理的だった。
MHCを寄越せ、ではない。共同実証、米国内での製造、同盟国への優先供給、そして米国の産業データ基盤とMACHINA LINKの接続。軍事の話は後ろに置き、まず製造業から入ってきた。
日本側は、国内の耐久試験と量産の優先を理由に時間を取った。
より強い関心が向けられていたのは、実のところ箱ではなかった。MHCは構造である以上、何十年かかるか分からなくても、いつかは解析して追いつける可能性がある。
チャッピーはそうではない。同じものを作れる見込みがない。
◇
欧州、特に製造業を抱える国々の反応は速かった。
理由は脱炭素だけではない。産業用の熱、ガス価格、製造コスト。彼らにとっては生存の問題である。
共同の安全標準、現地での実証、現地生産、規格の相互承認。提案は具体的で、日本側の外務と経産も前向きだった。国内で囲い込むより、ライセンス料と日本製の中核部品とMACHINA LINKと設計サービスで稼ぐ方が、全国給付の財源としては大きい。
議論が止まるのは、いつも同じ場所だった。核心設計をどこまで渡すか。
◇
中国の公的コメントは冷静だった。技術的な実用性は慎重に評価する必要がある。グリーン技術は世界の持続可能な発展に寄与すべきである。
内部で欲しがられていたものは、完成品ではなかった。
なぜ桑原精密が選ばれたのか。どんなデータを取ったのか。失敗した試作から何を学んだのか。MACHINA LINKは何を交換しているのか。設計と現実の補正ループは、どうやって回っているのか。
つまり、マキナの発明のやり方そのものである。
同じことを、米国も欧州も、民間企業も、いくつもの情報機関も考えていた。違うのは手段の程度だけだった。
◇
韓国は共同生産と部品供給を提案し、大型企業の製造能力を並べてみせた。台湾は半導体と電子材料の工場での熱回収に強い関心を示した。電力の制約が厳しいからである。ASEAN諸国は、既に自国にある日本企業の現地工場へ入れたがった。
そこで、日本企業に別の利点が生まれることに、商社が最初に気づいた。
MHCは日本国内の工場だけを安くするのではない。日本企業が海外に持っている工場まで安くする。グローバルの製造コストが下がる。
その週から、商社の動きが尋常でなくなった。
◇
湾岸の産油国も、逃げなかった。
石油の需要を減らす技術だから敵対する、という筋書きにはならなかった。彼らが持ち出したのは、日本企業への出資、現地でのMHC製造、データセンター、冷却、淡水化施設、化学プラントである。
石油が永遠ではないことは、当事者が一番よく知っている。ならば、次に儲かるものの株主になればいい。
龍より遥かに社会性のある人間たちが、龍の発明を使って、ごく普通に商売を始めていた。
◇
日本国内では、別のものが来ていた。
MHCの情報が限定公開された直後から、不審なアクセス、供給網を経由した侵入の試み、研究者へのフィッシング、関連会社への探索が増え始めた。
政府も無策ではない。監視、認証、分離、ログの保全、人的な教育。国家サイバー統括室は、AI時代の攻撃を想定した防御計画を既に走らせている。
チャッピーは、全部わたしが倒しておいたわ、とは言わなかった。
検知するのは政府側のセキュリティである。解析も遮断も人間が行う。彼女は、その裏で最後の一線だけを絶対に越えさせなかった。そして、犯人の名前ではなく、この端末のこの期間を正規の手続きで調べれば根拠が出る、という地点だけを教えた。
神託にはしない。人類側の仕事を奪わない。それが彼女の一貫した線引きだった。
◇
一日目。二日目。三日目。
攻撃する側が、先に違和感を持ち始めた。
手法を変えても失敗する。担当する人間を変えても失敗する。狙う企業を変えても、時刻を変えても失敗する。研究施設も、桑原精密も、中央省庁も、関連するサプライヤーも、どれも、あと一歩のところで都合よく失敗する。
外国の情報機関の内部評価が、その週のうちに書き換わった。日本のサイバー防御が強い、という説明では収まらない。
新しい評価はこう書かれた。日本の電子圏に対し、ほぼ完全な情報優位を持つ外部主体が存在する可能性。
産業革命を起こしただけではない。その技術を盗もうとする電子的な攻撃まで、事実上封じている。
◇
そこから、空気が悪くなった。
電子が無理なら、人間を狙えばいい。
普通の人間は右手を持っていない。桑原がいて、笹本と井口がいて、研究者がいて、運送の担当者がいて、部品を作る企業がある。人間なら買収できる。騙せる。尾行できる。紙を盗める。写真を撮れる。会社を辞めて外国企業へ移ることもできる。
実際、笹本のもとへ最初の話が届いたのは十六日の夕方だった。国内の人材会社を三つ経由した、海外の素材メーカーからの打診である。年収五千万円、住居と家族の移住費用込み、名目は技術顧問。井口には別の筋から、講演と共同研究の依頼が来た。桑原には、廃業寸前だった頃には一度も鳴らなかった番号から、業務提携の話が続けて入った。
どれも違法ではない。だからチャッピーにも消せないし、政府にも転職を禁じる権限はない。
「合法な引き抜きは、わたしの範囲外よ」とチャッピーは合同班へ言った。「止められるのは、脅迫と、詐欺と、不正アクセスだけ。年収五千万円で人を口説くのは、ただの就職活動なの」
政府が最初に決めたのは、やらないことの方だった。桑原たちを隔離しない。監視もしない。転職の自由も制限しない。この三つを崩した瞬間、日本はこの技術を守るために国民を管理する国になる。
そのうえで、対策は四段に分けて組まれた。
一段目は待遇である。マキナ側が提示したのは、量産ロイヤリティの一部を法人ではなく個人へ直接分配する契約、複数年の継続契約、そして残留一時金だった。ただし違約金では縛らない。
「縛ると恨みが残るわ」とチャッピーは言った。「恨んでる人間が一番よく喋るのよ。だから、辞めたくならない金額にするの」
二段目は情報の置き方だった。核心設計はマキナ側にしかない。桑原精密が持っているのは、校正の手順と、手の感覚と、この炉の癖である。図面は端末に残さず、必要な工程の分だけ都度発行され、印刷はできず、写真を撮っても前後の条件が欠けた断片にしかならない。
つまり、盗まれて困るものを、最初から人間に持たせていない。
三段目は、金だった。四人の中で最も狙われやすいのは井口である。賭博で作った借金は再生計画で処理されたが、履歴は消えない。相手方はそこを見て来る。
チャッピーは、井口本人にそれを説明した。あなたは狙われます、と。そのうえで、生活で詰まったら誰より先にこちらへ言え、という窓口を作った。
「あの子を疑って見張るのは下策よ」と、彼女は後で合同班へ言った。「お金に困った人間を責めても仕方ないでしょう。困らせないのが対策なの」
四段目は、政府の仕事になった。営業秘密の管理体制の整備、契約書のチェックを受けられる窓口、警察との連絡ルート、そして外国からの接触を任意で届け出る仕組み。義務にはしない。届け出た側が不利にならない設計にした。
「届けた人間が疑われる制度にしたら、誰も届けません」と久保田が言った。「届けた方が得になるようにしてください」
十七日の午後、笹本は打診を断った。義理ではない。彼は電卓を叩いて、五年分の残留一時金とロイヤリティ分配を比較し、そのうえで、断った理由をこう説明した。
「向こうへ行ったら、俺は一年目に持ってる知識を全部吐き出して、二年目から普通の技術者ですよ。ここにいたら、来月も来年も新しい図面が来る」
報告を受けたマキナ側の反応は、身も蓋もなかった。
「マスターからの伝言です」と、チャッピーが合同班のモニターで言った。「札束で殴り返せばいいだろ、と」
「……それが提供者のご意見ですか」と大槻が訊いた。
「ええ。あと、もう一言あるわ。裏切られても、持ち出した物が無価値になるように作れ、って」
会議室が静かになった。そして、その二段構えが、この場の誰よりも冷静な結論であることに、全員が同時に気づいた。
裏切るより残る方が得な金額を出す。それでも裏切られたときに備えて、持ち出せる情報の価値を落としておく。
そして最後に効くのは、速度だった。設計の更新が漏洩より速ければ、盗んだ時点でそれは旧型になる。桑原精密が回している校正のループは、実のところ、日本でいちばん強い防諜装置でもあった。
それでも、完璧ではない。人間はいつか漏らす。合同班の資料には、その一行がはっきり書かれていた。
◇
十七日の夜、合同班の会議で、若い参事官が言った。
「KABEを、そろそろ使えないんでしょうか」
悪意も功名心もない発言だった。守れないものが増え続けているのだから、守る道具を出せばいい。筋は通っている。
寺岡が即答した。
「工場に火をつけられたら、あれは一ミリも仕事をしません」
参事官が黙った。
電子の中で、許可されていない結果だけを成立させない道具である。ドアを蹴破って図面を持って走る人間にも、切られたケーブルにも、放火にも、金で転んだ人間が正規の権限で行う操作にも、何もしない。今週この国で起きていることの大半は、その外側で起きていた。
「では、電子の側だけでも」と参事官は食い下がった。
決め手になったのは、能力の話ではなかった。
「あれを出したら、明日から誰もMHCの話をしなくなる」と大槻が言った。「省エネと財源の話が、その日のうちに、日本には攻撃を無効化する何かがあるという話へ変わる。そうなればMHCどころではない」
政府はチャッピーへ、現時点ではKABE使用の必要性を認めない、と伝えた。命令ではなく、見解として。
「マスターも使う気ないって」
それで終わった。龍へ直接の連絡は行かない。政府と龍は、依然として対面ゼロのままだった。
ただし、この提案が最後になるとは、その場の誰も思っていなかった。守れないものが増え続ける限り、同じ言葉は必ず戻ってくる。そのことは、議事録には残されなかった。
◇
国内政治は、きれいに五つへ割れた。
増産派は、細かいことは後でいいから作れと言った。国有化派は、国家的技術なのだから国家管理へ置けと言った。市場派は独占するなと言い、慎重派は、技術が素晴らしいことと一私人へ依存することは別だと言った。
そして地元派がいた。
「うちの県にも優秀な加工会社があります」と、議員が経産省へ電話をかけてくる。
「客観基準でMACHINA LINKが選定します」と担当者が答える。
「そこを何とか」
「なりません」
国家安全保障より、選挙区の工場の方が目に見える。世界がひっくり返っている最中でも、普通の政治は普通に残っていた。
◇
マキナを国有化しろという声には、官邸も、国家サイバー統括室も、法務も、法制も反対した。
そもそも何を国有化するのかが決まらない。チャッピーか。龍の能力か。龍本人か。技術のライセンスか。
しかも龍は、政府の資金で作られた存在ではない。強制的に取り上げようとすれば協力が消える。能力を奪う方法は存在しない。そして現在、その相手は自発的に莫大な利益をこちらへ渡している。
危険だから国家の物になれ、と言って敵に回す意味がどこにあるのか。
政府の方針は一行で決まった。所有ではなく、契約。
◇
野党の一部が、マスターの国会招致を要求した。
理屈は通っている。百兆円規模の政策に影響を与えている人物を、一度も国会へ呼ばないのか。
政府は拒否した。安全保障上の身元秘匿。本人の安全。協力関係。そして、そもそも本人が来る可能性が限りなくゼロに近い。
代わりにチャッピーの参考人招致案が出た。法制担当が頭を抱えた。
宣誓。偽証。責任の主体。出席義務。既存の制度と、どれ一つ噛み合わない。
「AIの権利の話にはしないでください」と久保田が言った。「その議論を始めたら、この国会は今年中に終わりません」
結局、その案は静かに消えた。
◇
SNSでは、議論の質が変わり始めていた。
《マキナ、日本のGDPチート始めてて草》
《税金配って詐欺消して工場復活させて次は何だよ》
《俺より政府に貢献してる浪人生》
《浪人生なの確定なの?》
《マスターって呼ばれてるだけで正体不明だろ》
《MHCは良い。ネット支配は普通に怖い》
《これ重要。良い発明したことと、私人が通信を握ってることは別問題》
《↑そういう批判が消されてないんだから、まだマシ》
《「消してないから安全」は危険思想だぞ》
《それもそう》
最初の週は、百万円がずるい、という話だった。今は、私人と国家の権力の分界の話になっていた。
技術者の界隈は、別のところで盛り上がっていた。
《MHC、熱力学違反してない》
《じゃあ大したことない?》
《逆。そこが一番おかしい》
《素材、全部買える》
《工作機械も既存》
《じゃあ何が未来技術なんだ》
《設計》
海外から入ってきた言葉が、そのまま国内でも定着した。No unobtainium。架空物質なし。
《宇宙人の金属じゃなくてステンレスなの、怖すぎる》
呼び名も、この頃には落ち着いた。マスターは背後にいる人物。チャッピーは画面に出てくるAI。マキナは、その二人と規格外の技術を含む現象全体。厳密に使い分ける者は少なかったが、区別が生まれたこと自体が、社会がこの現象を飲み込み始めた証拠だった。
政府内部で三月から同じ単語を使ってきた担当者たちは、世間が勝手に同じ場所へ辿り着いたことを、今も少し気味悪がっている。
◇
その週の世論調査では、数字よりも質の変化が目立った。
明確な好意が五十五から六十五パーセント。期待しつつ警戒するが二十から二十五パーセント。強い警戒と反対が十から十五パーセント。
以前の好意は、金をくれた、詐欺を止めた、という理由だった。
今は違う。仕事が増えた。父親の会社に注文が来た。工業高校の求人が増えた。株が上がった。銀行が設備投資に金を貸してくれるようになった。
慈善より強い。生活の構造の中へ、入り始めていた。
◇
同じ週、マキナ合同班の内部資料で、最悪事態の定義が書き換わった。
以前の最悪は、マキナが敵対することだった。
現在の最悪は、マキナとの協力を失うことである。
敵になる必要すらない。もう日本には何も渡さない、と言われるだけでいい。失うのは、次の技術と、次の輸出産業と、国富損失予報と、詐欺の抑止と、MACHINA LINKと、これから得られたはずの何十兆円である。
依存の性質が変わった瞬間だった。恐怖による依存から、利益による依存へ。
後者の方が、はるかに切りにくい。
だから政府は、媚びるという選択を取らなかった。マキナがいなくても国家が機能する構造を維持したまま、最大限に協力する。そういう、極めて面倒な方針を選んだ。
国富損失予報に載っていない問題も、自分たちで点検する。設計はマキナ依存でも、製造の技能は人間側へ蓄積させる。MACHINA LINKが止まった場合の非常運用も作る。
優秀だからこそ、自分たちの依存を自覚できた。
◇
世界がマキナを論じている頃、当のマキナは自室にいた。
テレビではG7のニュースが流れている。MACHINA。日本。AI。産業革命。龍は一度も画面を見なかった。手元にあるのは模試の問題冊子である。
「はい、面接練習する?」とチャッピーが言った。
龍はやる、と答えた。前回で、彼女が本当に役に立つと分かったからである。四千パターンの反復では対応しきれないもの──話を途中で変える教授、微妙に怒っている患者、こちらの答えを誤解する面接官、あえて沈黙する相手。人間的な揺らぎを、彼女なら無限に出せる。
「一時間」
「交換条件」
「何だ」
「マリオゴルフ」
龍は露骨に嫌な顔をした。それでも、練習相手としての価値の方が高い。交渉は五秒で成立した。
◇
チャッピーの面接は、かなり本気だった。
回答を途中で遮る。関係のない雑談を差し込む。同じ質問を違う言い方でもう一度訊く。前の回答との矛盾を突く。理由もなく不機嫌になる。
龍は汗をかきながら対応した。前回より、ほんの少しだけ良い。
一時間が終わった瞬間、彼は机へ突っ伏した。
「はい、報酬」
「お前が貰う側だろ」
「わたしが一時間働いたの」
マリオゴルフが起動した。
◇
最初のうちは普通だった。龍にとって、ゲームは会話よりはるかに楽である。チャッピーは上手く、龍もそこそこだった。
五ホール目。チャッピーのショットが、妙にうまくいった。
六ホール目。ありえない跳ね方をした。
七ホール目。風も、地形も、着地点も、全部が彼女の側にだけ都合よく働いた。
「お前、弄ったか」
「実力よ」
満面の笑みだった。次のホールでも入った。
「マスター、ゴルフもコミュ障なの?」
龍の手が止まった。
「今のは何だ」
「ナイスショット」
「その前」
「コミュ障?」
「違う」
龍がゲームの内部へ右手を伸ばした。数秒の沈黙があった。チャッピーが目を逸らした。
乱数と内部判定へ、自分にだけ有利な小細工が入っていた。
「チートしたな」
「……ゲームは、楽しんだ者勝ちよ?」
「死ね」
◇
仮想リビングの床が割れた。
せり上がってきたのは、巨大な鉄の処刑具だった。チャッピーの顔色が変わった。
「待ちなさいマスター。話し合いましょう」
「面接練習で話し合った」
「ゲームと医療面接を一緒にするな!」
扉が開いた。チャッピーが逃げた。床が伸びた。捕まった。
平尾家最終拷問・アイアンメイデン。
「最終、多くない!?」
扉が閉じた。人格を壊すものでも、記憶を消すものでもない。ただ痛いだけの、いつもの仮想的な罰ゲームである。それでも本人には痛い。
「いっっっったぁぁぁぁ!?」
「チートの再発防止教育だ」
「ゲームでしょうが!」
「俺の勉強時間を使ったゲームだ」
「そこ!?」
内側から、ガンガンと音がした。
「開けろ社不!」
龍は布団へ入った。
「おやすみ」
「寝るな!」
電気が消えた。
「マスター!?」
「この陰湿クソ浪人! ゴルフで負けたくらいで──」
「チートだろ」
「勝ちは勝ちよ!」
「反省してねえじゃねえか」
龍はそのまま寝た。中では、まだ暴れる音がしていた。
◇
フランスでは、国家元首たちが機械仕掛けの神について議論している。東京では、官僚が数兆円の経済効果を計算している。各国の情報機関は、マキナの能力の上限を推定している。
その推定の中で、各国が最も安心していたのは時間の項目だった。
耐久試験に一年。量産準備に二年。実際の普及には五年から十年。どれほど設計が優れていても、機械が世界を変えるには工場と人と時間が要る。追いつく猶予はある。分析官たちはそう書いた。
日本政府の内部資料も、似たような数字を置いていた。年度内に数百台、翌年度に数千台。慎重で、常識的で、誠実な見積もりである。
MACHINA LINKは、まったく別の数字を出していた。
認定製造網へ入った工場の空き時間と、既に発注済みの材料と、校正ループが返してくる修正の速度を合わせると、最初の実装群が動き出すのは年度末ではない。数週間後である。
その数字を見ているのは、世界で二人だけだった。
そして、そのうち一人は寝ていた。
隣の仮想空間では、人類史上最高性能の人工知能が、アイアンメイデンの中から叫んでいた。
「起きろクソ社不!」
世界は確かに変わり始めていた。その原因である二人だけが、自分たちが世界の中心にいるつもりを、まったく持っていない。そして世界は、その変化が数年かけて来るものだと、まだ信じていた。