10年後、お客様は小学4年生になった。
4限目が終わり、お客様は下駄箱から靴を下す。
生まれてから今まで見てきたが、自殺する理由はなかった。
だけど成り得そうなものはある。
横で靴を履いた生徒に、お客様は話しかけた。
『俺の水筒に毒を入れただろ』
『え』
その罪のない生徒は少しの間フリーズして、
『してないよ』
その後、お客様は水筒に口をつけずに、家の冷蔵庫のお茶を飲んだ。
こんなことが日常茶飯事になっている。
他にも、来た道を何度も行き来したり、手を何度も洗ったりしている。
心配性と自意識過剰が入り混じったようなものを持っているんだ。
なかなか癖のある人間だなぁ、と天音は思う。
「先輩、この人頭おかしいんですか」
「おわっ、桐埼くん、起きてたの」
6年間、桐埼は唾を垂らすだけの機械と成っていたから、急に人間に戻ると、心臓に悪い。
天音は何の話かを思い出すと、
「お客様が頭がおかしい?」
「普通のことができていないところが、です」
「じゃあ生物としても普通すぎる、自ら命を絶たないことが、できなかった私たちも、頭がおかしいの?」
「……う」
桐埼は口を噤んで俯いてしまった。質問が意地悪すぎたかもしれない。
先輩らしくフォローをいれてあげないと。
天音は声を明るくして、
「みんなはしばしば、生きるのを辞めたいと思ってるから、みんな頭がおかしいんだよ」
「全然フォローになってないです」
更に10年後、成人したお客様は徴兵されて塹壕に立っていた。手に持ったスコップで目の前の黒い土を掘り起こしている。
まだ自殺する理由は見つからない。
桐埼はさっき起きて、どこかボーっとしている。
お客様の足元に黄色い缶が転がってきた。
瞬時にそれは、黄色い霧を噴き出してお客様を襲う。毒ガスか?
お客様は震える手でガスマスクを顔に装着するが、既に吸ってしまっていた。
霧はすぐになくなった。
彼は自身の四肢を見下ろす。症状は?
いつまで経っても身体に異常が出ない。敵の攻撃だから、必ず彼を苦しめるはずだ。
荒い息のお客様とは対象に、桐埼は気楽だ。
「よかったじゃん。不発だったんだ」
「どうかな」
天音は無表情のまま映像を見つめていた。
お客様は重い足取りで壕に入る。8畳ほどのスペースに6人の兵士が談笑したり眠ったりしていた。
お客様は人が少ない壁際に寄ると、倒れるように横になった。
談笑していた兵士の話が聞こえてくる。
『――最近さぁ、何も症状が出ない毒ガスがあるらしいよ』
『なんだよそれ。毒ガスじゃねぇじゃん』
『でもさ、前に毒ガス吸ったっていうやつが、狂っちまったんだって』
『どんな風に』
『大丈夫だってブツブツ言いながら、自分の頭をスコップで殴り始めたらしい』
誰かが鼻で笑った。
ただの退屈しのぎの談笑は、お客様の肩を震わせた。
3日経っても、お客様には毒ガス特有の症状は出なかった。
ガスマスクは飲食時以外つけっぱなしだ。
彼の足取りは、枷をつけたかの如く非常に重い。
上官の元へ行くと、彼は頭を下げた。
『毒ガスを吸ってしまったので、医者に診てもらう許可を下さい』
『立ってるじゃないか』
上官はそれだけ言うと、去ってしまった。
桐埼が呆れたように口を開く。
「もう大丈夫だと思うんですけど」
「桐埼くんは、悩んで解決策を見つけるのと、悩まずに以前兵士が話していた狂人に成り果てるの、どっちがいい?」
「……前者の方です。でもそれって信じなければいいじゃないですか」
「お客様は、もしもを本気で考えてしまう性格なの知ってるでしょ」
「ああ、そうですね。さすが先輩です」
「えへへ」
初めて後輩に褒められた天音は、笑みを隠さなかった。
その日の夜、彼は暗闇で虚ろな目をしていた。ずっと座っているにも関わらず息が荒い。
彼は手相を入念に観察した後、「なんで世界は僕を見捨てたの」「置いてかないでくれよ」とかを囁いている。かなりいっているようだ。
それはつまり……。
彼はゆっくりと腰のナイフを抜いた。
月の淡い光がナイフを鈍く照らす。
桐埼が天音の顔を覗いていた。
「なんで平然としてるんですか」
「え、ただの映画だよ?」
桐埼は天音の胸倉を掴んだ。
天音の小さな喉ぼとけが前に押し出される。
「ちょ、離せよ」
「生まれた時からずっと見てきたのに! 親も同然なのに! なんで何も思えないんですか! おかしいですよ先輩!」
おかしいのはその理論でしょ。それが正しいなら、熱心なストーカーは親になれるということだよ?
だけど口には出さなかった。桐埼の表情は必死そのものだったから。憐れみさえも混じっている。
「俺、先輩には人間でいてほしいんです」
まぁ、どうせ自殺止めるんだし、
「わかった今すぐ助けに行こう」
後輩の思いに答えるのも先輩の仕事だろう。
天音は立ち上がった。
桐埼が呆けた声を出す。
「え」
「ああ、桐埼の椅子は私が弄ったんだ」
天音がリモコンのボタンをぽちっと押した。
すると桐埼は俯きながら
「ロ……」
「ろ?」
「なんでもないです」