深海棲艦との戦闘を少しだけ描写して
海防艦・犬島
――河口の手前、錨が止めた場所――
深海棲艦との戦闘が終わったとき、海防艦「犬島」の右舷後方には、黒い煙が細く残っていた。
全長七十八・九メートルの実艦。
白い波を切る艦首。
三基の十二糎単装砲。
艦尾には爆雷投射機と投下軌条。
しかし、艦内に乗員はいない。
艦橋にも、機関室にも、砲側にも、犬島以外の姿はなかった。
濃紺色の短い髪を風になびかせた小柄な艦娘が、艦橋前部に一人で立っている。
背中に艤装はない。
足元にある鋼鉄の実艦そのものが、犬島の身体であり、艤装でもあった。
犬島は手すりへ片手を置きながら、後方の海面を見た。
先ほどまでそこには、深海棲艦の小規模な襲撃部隊がいた。
敵は潜水艦型二隻と小型の水上艦一隻。
犬島は沿岸輸送船を護衛し、所属鎮守府へ戻る途中で攻撃を受けた。
最初に魚雷を発見したのは、艦首に立っていた犬島自身だった。
「魚雷、右舷前方!」
叫ぶ相手はいない。
それでも犬島の意思と同時に、舵が左へ切られた。
右舷機関の回転数が上がり、左舷機関がわずかに減速する。
海防艦「犬島」は小さな船体を大きく傾け、魚雷の航路から外れた。
一本目は艦首の前を通過した。
二本目は艦尾すれすれを横切った。
その直後、近距離で爆発した魚雷の水圧が、船尾を下から持ち上げた。
どんっ――。
犬島の背中へ、重い衝撃が走った。
「っ……!」
船体が海面へ落ちる。
右舷推進軸に、これまでとは違う細かな振動が生じた。
舵取機にも、一瞬だけ重い抵抗が伝わった。
だが、操艦は可能だった。
犬島は損傷確認より先に、輸送船と敵の位置を把握した。
潜水艦型の反応は右舷後方。
犬島は船体を反転させ、爆雷攻撃へ移った。
「輸送船には、近づけさせんけぇ!」
艦尾の爆雷投射機が左右へ開く。
爆雷が連続して海へ落とされた。
数秒後、海面が大きく盛り上がる。
水柱の向こうで、深海潜水艦の反応が途切れた。
残る水上艦が砲撃を開始する。
黒い砲弾が犬島の周囲へ着弾した。
一発が右舷側の海面へ落ち、その破片が艦尾外板を叩いた。
犬島は第一、第二十二糎砲を敵へ向けた。
「照準、よし」
砲塔に人はいない。
装填手も砲手もいない。
だが、犬島が意識を集中させると、揚弾機が動き、砲弾が装填され、砲身が目標を追った。
「撃ちます!」
二門がほぼ同時に火を噴いた。
最初の斉射は敵艦の前方へ落ちた。
犬島は自分の船体を少し右へ向ける。
右舷推進軸の振動が強くなる。
舵の反応も、ほんのわずかに遅れている。
それでも戦闘を続けられないほどではなかった。
二度目の斉射。
一発が深海棲艦の船体中央へ命中した。
黒い炎が上がる。
敵は速力を落とし、やがて海面へ沈んでいった。
戦闘は、十分にも満たないうちに終わった。
護衛していた輸送船に被害はなかった。
犬島は輸送船が安全海域へ入るまで付き添い、その後、所属鎮守府へ向けて単独で帰投を開始した。
---
戦闘終了後、犬島は速力を六ノットまで落とした。
艦橋から艦尾へ意識を伸ばす。
右舷推進軸。
左舷推進軸。
軸受。
推進器。
舵取機。
船尾外板。
一つずつ状態を確認する。
右舷推進軸には、周期的な振動が出ていた。
戦闘前にはなかったものだ。
魚雷の近距離爆発による水圧で、軸受がわずかにずれた可能性がある。
舵も、中央から右へ切る際に小さな引っ掛かりを感じた。
「右舷軸に振動……舵取機にも、ちょっと違和感」
犬島は艦橋の机へ海図を広げた。
現在位置から所属鎮守府までは、およそ七十海里。
途中には、応急修理が可能な港が二つある。
しかし機関出力は維持できていた。
速力を八ノットまで上げても、振動は一定以上強くならない。
舵も左右へ動く。
旋回試験を行うと、通常より反応がわずかに遅いものの、航行に支障はなかった。
浸水もない。
潤滑油圧も正常。
推進軸トンネルの温度上昇も確認されない。
犬島は交通管制と所属鎮守府へ、損傷状況を報告した。
『犬島、最寄りの港へ寄港できますか』
「できます。でも、現時点では航行可能です」
『右舷推進軸の振動は増えていませんか』
「六ノットでも八ノットでも、ほぼ同じです。温度も正常です」
『舵は』
「動きます。少し重いですけど、操艦に支障はありません」
通信の向こうで検討が行われた。
やがて所属鎮守府から返答が届く。
『無理に速力を上げず、所属鎮守府へ帰投してください。異常が拡大した場合は、直ちに最寄りの港へ退避すること』
「了解しました」
犬島は速力を六ノットに定めた。
右舷機関の出力を少し下げ、左舷機関との負担を調整する。
「ゆっくり帰ろうな」
足元の船体へ話し掛ける。
「帰ったら、明石さんにちゃんと見てもらおう」
右舷推進軸の細かな震えが、犬島の右脚から背中へ伝わっていた。
怖くないわけではない。
犬島は推進軸の振動を苦手としている。
建造直後から続いた軸系の問題。
機雷によって傷ついた艦尾。
河口で破断し、再建された後部船体。
それらの記憶が、小さな振動とともによみがえる。
それでも犬島は、異常を無視していたわけではなかった。
速度を落とした。
温度を監視した。
旋回試験を行った。
管制にも鎮守府にも報告した。
航行を継続できるという判断には、十分な根拠があった。
「大丈夫」
犬島は自分へ言い聞かせる。
「無理はしとらん。ちゃんと確認したけぇ」
---
午後になると、海はさらに穏やかになった。
風はほとんどない。
海面には細かな波が浮かぶだけで、船体を押し流すような潮流もなかった。
犬島は沿岸航路を進んでいた。
左手には陸地。
右手には広い海。
前方数海里には、小さな漁港と、その隣へ流れ込む川がある。
川の名は久瀬川。
河口幅は百メートルほど。
両岸には短い導流堤が設けられている。
ただし犬島の航路は河口から一キロ以上沖を通過する。
通常であれば、河口へ近づく理由はない。
犬島は海図上の河口記号を見つけ、少しだけ眉を下げた。
「近くに川があるんじゃな……」
これまでの経験から、河口を見るだけで少し落ち着かなくなる。
それでも今回は天候が穏やかだった。
台風もない。
横流れもない。
港湾事故もない。
他船も近くにいない。
船体は沿岸航路を正確に進んでいる。
「大丈夫。今回は関係ない」
犬島は艦橋から艦首へ移動した。
艤装を持たない小さな姿で、第一砲塔の前へ立つ。
海風が濃紺色の髪を優しく揺らす。
深緑色のスカーフも、ほとんど垂れたままだった。
所属鎮守府までは、あと二時間ほど。
犬島は帰港したときのことを考えた。
工廠へ入る。
明石に右舷推進軸と舵を見てもらう。
修理が終わるまでは、工具や部品の整理を手伝う。
そして夕方には、遠征艦隊の帰りを波止場で迎える。
「提督、待っとるかな」
犬島は少しだけ嬉しそうに笑った。
通信では無事を伝えている。
それでも、所属鎮守府の港へ自分の船首を向け、「ただいま」と言うまでは帰投ではない。
犬島は艦首旗竿の近くへ立ち、水平線を見つめた。
そのときだった。
右舷推進軸の振動が、突然消えた。
「……え?」
直ったのではない。
右舷機関は回転している。
軸受も動こうとしている。
だが、推進器からの抵抗が一切感じられない。
回転が船尾へ伝わっていない。
直後、艦尾下方から鈍い衝撃音がした。
ごんっ――。
犬島の右脚から力が抜ける。
「右舷軸……?」
犬島は意識を艦尾へ集中させた。
右舷推進軸が、軸受とともに船体から抜け落ちていた。
戦闘時の衝撃で軸受固定部に亀裂が入り、帰投中の回転によって少しずつ広がっていたのだ。
温度も油圧も正常だった。
外から見えない場所で、固定材だけが疲労していた。
推進器と軸後部が、海底へ向かって沈んでいく。
「軸が……落ちた?」
犬島は右舷機関を緊急停止した。
だが、異常はそれだけでは終わらなかった。
右舷軸が脱落した際、軸周辺の外板と支柱が後方へ引かれた。
その破片が舵下部へ衝突する。
すでに戦闘で取り付け部を傷めていた舵が、大きく揺れた。
舵軸の亀裂が一気に広がる。
ばきっ――。
今度は犬島の腰の奥に、何かが抜ける感覚が走った。
「舵まで……!」
海防艦「犬島」の舵が、舵軸の根元から脱落した。
大きな鋼板が水中で一度回転し、右舷推進軸の後を追うように沈んでいく。
右舷推進器なし。
舵なし。
残っているのは左舷推進軸だけだった。
犬島はすぐに艦橋へ戻ろうとした。
しかしその必要はなかった。
艦首にいても、実艦全体を動かすことはできる。
左舷機関を後進に入れる。
船体を減速させようとする。
だが片側だけの推力によって、艦首が右へ振られた。
右。
陸地側。
久瀬川河口の方向へ。
「待って……そっちは……!」
犬島は左舷機関を停止した。
船体は惰性で進む。
速力は五ノット。
四・五ノット。
舵を失っているため、進路を修正できない。
右舷推進器もない。
左舷機関を前進にすれば、さらに右へ回る。
後進に入れても、今度は艦尾が左へ振られ、船首はより陸側へ向く。
海防艦「犬島」は、緩やかな弧を描きながら久瀬川河口へ向かっていた。
「また河口……?」
犬島の顔から血の気が引いた。
久瀬川河口まで約千二百メートル。
速力四ノット。
このままなら、十分以内に河口入口へ達する。
海は穏やかだった。
押し波も横流れもない。
だからこそ船体の動きは遅い。
だが操舵手段をすべて失った犬島には、その遅い進路変化すら止められなかった。
犬島は通信を所属鎮守府と沿岸交通管制へ送った。
「海防艦・犬島、緊急報告! 右舷推進軸および舵が脱落! 操舵不能!」
『犬島、現在位置を確認しました。速力は四ノット。久瀬川河口方向へ進んでいます!』
「確認しとります!」
『左舷機関による回頭は可能ですか』
「試しました。でも河口側へ船首が振られます!」
『曳船を派遣します』
「到着までの時間は?」
『最寄りの港から約二十五分です』
犬島は河口との距離を確認した。
九百五十メートル。
「間に合わん……」
犬島は自分の船体を見回した。
推進軸も舵も使えない。
横風もない。
潮流も弱い。
海底は砂と泥。
水深は十五メートル。
犬島の視線が、艦首の錨へ向いた。
左右に一つずつ備えられた主錨。
普段は船首外板に収まっている。
「錨……」
犬島はすぐに海図を確認した。
現在地から河口入口までの海底には、海底ケーブルも配管もない。
投錨禁止区域ではない。
底質は錨の効きやすい泥混じりの砂。
風と波は穏やか。
錨を下ろせば、停止できる可能性が高い。
ただし、速力四ノットのまま一気に投錨すれば、錨鎖や揚錨機に大きな衝撃が掛かる。
最悪の場合、錨鎖が切れる。
犬島は左舷機関を慎重に後進へ入れた。
船首がさらにわずかに右へ向く。
河口の中央へ向かう形になる。
それでも速力は下がった。
四ノット。
三・五ノット。
三ノット。
「もう少し……」
左舷機関の出力を上げすぎれば、船体が回転する。
犬島は回頭を最小限に抑えながら、速度だけを落とした。
河口まで六百メートル。
速力二・五ノット。
「今なら……!」
犬島は左舷機関を停止した。
艦首の右舷錨を投下する。
錨止めが外れる。
重い錨が船首から海へ落ちた。
錨鎖が勢いよく繰り出される。
がらがらがらっ――。
実艦全体へ振動が伝わった。
犬島は艦首の手すりを握った。
「海底まで十五メートル……」
錨が海底へ到達する。
最初は砂の上を滑った。
錨鎖が斜めに張る。
犬島はすぐに制動を掛けず、ある程度の長さを繰り出した。
三十メートル。
四十メートル。
五十メートル。
船体はまだ前へ進んでいる。
河口まで四百メートル。
「お願い……かかって!」
右舷錨の爪が海底の泥へ食い込んだ。
錨鎖が強く張る。
艦首が一度、下へ引かれた。
犬島の体が前へよろめく。
速力二ノット。
一・五ノット。
しかし、右舷錨だけでは船体が左へ回ろうとしていた。
犬島は左舷錨も投下した。
二本目の錨鎖が海へ落ちる。
「左も……!」
左舷錨が海底へ到達する。
砂を削りながら進み、やがて泥へ食い込んだ。
二本の錨鎖が、船首から左右へ開く。
海防艦「犬島」の進行方向へ、鋼鉄の綱が強く張った。
艦全体が大きく震える。
錨鎖の一節一節に、船体の運動エネルギーが伝わる。
犬島は両手で甲板へしがみついた。
「止まって……!」
速力一ノット。
〇・八ノット。
〇・五ノット。
河口入口の導流堤が、目前に迫っていた。
犬島の艦首から河口標識まで、およそ百二十メートル。
これまでなら、もう河口へ入っていた距離だった。
錨鎖がきしむ。
右舷側の鎖が一度だけ海底を引きずる。
犬島の船首が、さらに数メートル進む。
「切れんで……!」
〇・三ノット。
〇・一ノット。
そして。
海防艦「犬島」は、完全に停止した。
河口入口まで九十六メートル。
艦首は久瀬川の河道へ向いている。
だが赤と緑の河口標識の手前、海側に留まっていた。
犬島は動かなかった。
本当に止まったのか、何度も確かめる。
対地速度、ゼロ。
錨鎖張力、安定。
走錨なし。
潮流による移動なし。
船体の傾斜、正常。
「止まった……?」
通信の向こうから管制官の声が届く。
『犬島、停止を確認しました! 河口入口まで約百メートルです!』
犬島はその場へ座り込んだ。
「河口に……入っとらん?」
『入っていません』
「ほんまに?」
『河口標識より海側です。犬島は河口へ進入していません』
犬島は大きく息を吐いた。
「よかったぁ……!」
全身から力が抜ける。
艦首甲板へ仰向けに寝転び、青空を見上げた。
「止まれた……」
今回は河口へ突っ込んでいない。
砂州にも乗り上げていない。
導流堤にも接触していない。
艦尾も破断していない。
推進軸と舵は失った。
だが、河口の手前で止まった。
犬島は少し笑った。
「錨、よう頑張ったなあ」
艦首から伸びる二本の錨鎖へ手を触れる。
「ありがとう。うちを止めてくれたんじゃな」
---
救難艇が到着するまで、犬島は艦首に座っていた。
海は穏やかなままだった。
錨鎖は安定している。
二本の錨が、船体をしっかりと海底へつなぎ止めていた。
河口から漁船が一隻出てきたが、港湾管制の指示を受け、犬島から十分な距離を取って通過した。
漁船の乗員が甲板から手を振る。
犬島も片手を振り返した。
「ご迷惑をおかけします!」
漁船から声が返る。
「河口は塞いどらんから大丈夫じゃ!」
犬島は少し照れくさそうに笑った。
「今回は、塞いどらんもん」
これまでとは違う。
今回は犬島の実艦が川へ入り込んでいない。
河口の手前で、海防艦らしく海に浮いたまま停止している。
犬島は制服の内側へ手を当てた。
過去の事故報告書は七枚。
今回も犬島に責任がないのは明らかだった。
戦闘による潜在的な損傷。
通常の確認では発見できなかった軸受固定部と舵軸の亀裂。
航行に支障がない状態から、突然の同時脱落。
それでも今回は、報告書に「河口進入」や「乗り上げ」と書かれることはない。
「八枚目にはなるんかな……」
犬島は少し考えた。
「でも、河口事故の報告書じゃないな」
その事実が、なぜか嬉しかった。
遠くから、曳船と工作艦の姿が見えた。
その後ろには、所属鎮守府から来た指揮艇もいる。
犬島は立ち上がった。
提督の姿を確認する。
まだ遠い。
それでも犬島はすぐに両手を振った。
「提督ー!」
声は届かない。
指揮艇から提督が手を振り返す。
犬島の表情が明るくなる。
艤装はない。
尻尾もない。
けれど、待っていた人の姿を見つけた犬島は、隠しきれないほど嬉しそうだった。
---
指揮艇は犬島の左舷側へ接舷した。
提督が梯子を上り、実艦「犬島」の甲板へ移る。
犬島は艦首から足音を聞き分けた。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島は提督が姿を見せる前に立ち上がった。
「提督」
提督が第一砲塔の後ろから現れる。
犬島は小走りで近づいた。
今度は背中も腰も痛んでいない。
自分の足で提督の前まで来ると、いつものように制服の袖を両手でつかんだ。
「迎えに来てくれた」
「ああ」
提督はまず犬島の姿を確認した。
「怪我は」
「ありません。艦尾も切れとりません」
「報告は受けている」
「河口にも入っとりません」
「それも確認した」
「九十六メートル手前で止まりました」
犬島は少し胸を張った。
「錨を二つとも使ったんです」
「適切な判断だった」
提督が犬島の頭へ手を置く。
犬島は嬉しそうに目を細めた。
「えへへ……」
「今回は、よく止めたな」
「海が穏やかじゃったからです」
犬島は二本の錨鎖を見た。
「風も波も強かったら、錨が流されとったかもしれません」
「それでも、投錨の判断と手順は犬島のものだ」
「はい」
褒められた犬島は、袖をつかむ手に少し力を入れた。
「提督」
「何だ」
「うち、今回は河口に突っ込んどらんですよね」
「入っていない」
「河口を塞いでもないです」
「塞いでいない」
「砂州にも干潟にも乗り上げてません」
「海上で停止している」
犬島は何度も頷いた。
「よかったぁ」
提督は艦尾方向を見た。
右舷推進軸は脱落。
舵も失われている。
自力航行は不可能だった。
「損傷は大きいな」
「右舷軸と舵は、海の底です」
犬島の表情が少し曇る。
「回収できますか」
「位置は記録されている。潜水作業で捜索する」
「見つかったら、持って帰ってください」
「ああ」
「壊れとっても、うちの部品じゃから」
「分かった」
犬島は安心したように頷いた。
「左舷軸は無事です。機関も両方とも大丈夫です。ただ、右舷機関は軸がないので動かせません」
「曳航して鎮守府へ戻る」
「錨は?」
「曳航準備が終わってから揚げる」
犬島は錨鎖を見た。
「この子たちが、うちを止めてくれました」
「帰ったら点検してもらおう」
「新しい錨鎖に替えられるんですか」
「衝撃を受けている。必要なら交換する」
犬島は少し寂しそうに鎖へ手を置いた。
「使えん部分も、捨てんでください」
「保管しておく」
「今日、うちを河口の手前で止めてくれた証じゃから」
提督は静かに頷いた。
---
曳航準備が始まった。
工作艦が右舷軸の脱落孔を応急閉鎖する。
舵軸周辺の外板も補強される。
艦首の錨鎖には、曳航時に安全に揚収できるよう補助索が取り付けられた。
犬島は艦首に立ち、一連の作業を自分の感覚で確認した。
右舷軸がなくなった場所には、空洞のような違和感がある。
舵の感覚も消えている。
船体後部を動かそうと思っても、何も応えない。
それでも犬島は沈んでいない。
船体中央部も艦尾も無事だった。
二本の錨鎖が、まだ海底と自分をつないでいる。
作業員が離れ、曳船から準備完了の通信が入った。
提督が犬島の隣へ立つ。
「揚錨できるか」
「はい」
犬島はまず左舷錨鎖の張力を緩めた。
揚錨機を低速で動かす。
鎖が少しずつ船内へ戻ってくる。
海底に深く食い込んでいた錨が、最初は動かなかった。
犬島は無理に引かなかった。
曳船に船体を数メートル前へ動かしてもらい、錨の爪を抜く。
左舷錨が海底を離れた。
続いて右舷錨。
こちらは犬島を止めた際、特に強い力を受けていた。
揚錨機が低く唸る。
錨鎖がきしむ。
「ゆっくりでええよ」
犬島は自分の錨へ話し掛けた。
「もう頑張らんでええけぇ」
右舷錨も海底を離れた。
泥をまとった二つの錨が、艦首へ戻ってくる。
犬島は手すりから身を乗り出して確認した。
錨爪には傷が入っていた。
鎖の一部もわずかに伸びている。
それでも切れてはいなかった。
「おかえり」
犬島は小さく言った。
「よう止めてくれたなあ」
錨が元の位置へ収められる。
曳航索が張る。
海防艦「犬島」は、ゆっくりと河口の前から離れ始めた。
舵も右舷推進器もないため、自分だけでは進路を保てない。
それでも犬島は曳船へ引かれながら、艦首で周囲を見張っていた。
久瀬川河口が少しずつ遠ざかる。
犬島は振り返った。
赤と緑の標識灯。
穏やかな川面。
導流堤。
どこにも、犬島が突っ込んだ跡はない。
「今回は、普通の河口のままじゃな」
提督が答える。
「犬島が手前で止まったからな」
「河口も、うちが入ってこんで安心しとるかもしれません」
「七回も入れば、そう思われても仕方ない」
犬島の頬が膨らむ。
「今回は入っとらんです」
「分かっている」
「大事なことじゃけぇ、何回でも言います」
「河口進入なし。閉塞なし。乗り上げなし」
「はい」
犬島は満足そうに頷いた。
---
所属鎮守府へ到着したとき、波止場には多くの艦娘が集まっていた。
右舷推進器も舵も失い、曳船に引かれる犬島の姿が見える。
それでも艦首には、いつもの小柄な艦娘が立っていた。
犬島は港の仲間を見つけると、両手を大きく振った。
「ただいまー!」
波止場から声が返る。
「おかえり、犬島!」
「よく帰ってきたね!」
「今回は川じゃないんだね!」
最後の一言で、犬島の動きが止まった。
「河口には入っとらんです!」
港全体に笑いが広がる。
犬島は頬を膨らませたが、すぐに小さく笑った。
笑われるのは恥ずかしい。
それでも、自分が無事に帰ってきたからこそ笑ってもらえるのだと分かっていた。
曳船に導かれ、犬島は工廠前の岸壁へ接岸した。
係留索が取られる。
今度は切れず、正しく船体を岸壁へつなぎ止めた。
犬島は艦首から艦橋を通り、舷梯へ向かった。
実艦から離れる前に、右舷側の船尾を振り返る。
推進軸と舵がない。
けれど修理できる。
また海へ戻れる。
提督が犬島の隣へ来る。
「工廠へ入れるぞ」
「はい」
「戦闘損傷の調査も行う」
「はい」
「今度から、推進軸や舵に異常があれば最寄りの港へ入ることも検討する」
犬島は少しうつむいた。
「うち、判断を間違えましたか」
提督は首を横に振った。
「当時の数値と状態なら、帰投継続は妥当だった。航行に支障がなく、温度や油圧にも異常はなかった」
「じゃあ……」
「犬島に過失はない。ただ、今回の経験から点検基準を変える」
犬島は安心したように頷いた。
「分かりました」
「帰投途中で異常が消えた場合も、故障の前兆として扱う」
「右舷軸の振動が、突然なくなったときですね」
「ああ。直ったのではなく、切れた可能性を考える」
犬島は少し顔をしかめた。
「直ったと思う暇もなかったです」
「そうだろうな」
「舵まで一緒に落ちるとは思わんかったし……」
犬島は工廠の床へ視線を落とした。
「でも、錨がおってよかったです」
「犬島の船には、推進器と舵だけではなく、錨もあるからな」
「はい」
犬島は少し胸を張った。
「動けんようになっても、止まる方法は残っとりました」
その言葉には、以前より少しだけ強くなった自信があった。
---
数日後。
潜水作業によって、犬島の右舷推進軸と舵が海底から発見された。
推進軸の固定部には、魚雷爆発によるものと思われる細い亀裂が複数確認された。
舵軸にも、戦闘時の衝撃と脱落した推進軸部品の接触痕が残っていた。
通常の船内計器では発見できない場所だった。
犬島の判断や整備に問題はなかった。
事故報告書には、次のように記された。
«海防艦「犬島」は深海棲艦との戦闘後、右舷推進軸の振動および舵反応の軽微な変化を確認したものの、機関温度、潤滑油圧、浸水、軸受温度および操舵能力に異常は認められなかった。»
«帰投継続の判断は、事故発生時点で得られていた情報に基づけば妥当であり、艦娘・犬島に過失は認められない。»
«推進軸および舵の脱落後、犬島が速やかに機関を停止し、底質と水深を確認した上で両舷錨を投下した処置は適切であった。»
«この処置により、海防艦「犬島」は久瀬川河口入口の約九十六メートル手前で停止し、河口への進入、閉塞、座礁および沿岸施設への衝突を回避した。»
犬島は報告書を読んだ。
制服の内側には、過去七枚の報告書が入っている。
新しい一枚を重ねる。
「八枚目……」
明石が隣から書類を見る。
「でも今回は、河口事故ではないですね」
「はい」
犬島の表情が少し明るくなる。
「河口接近事故です」
「分類を細かくするんですね」
「突っ込んだんと、突っ込みかけたんは、ぼっけぇ大きな違いです」
「九十六メートルですものね」
「はい。九十六メートルもあります」
犬島は自信を持って答えた。
明石は修理中の右舷推進軸を示す。
「新しい軸と舵は、もうすぐ付きますよ」
犬島は実艦の船尾を見た。
回収された古い推進軸と舵は、工廠の脇に置かれている。
損傷が大きく、再使用はできない。
それでも犬島は処分しないよう頼んでいた。
「古い方は、保管庫へ入れてもらえますか」
「もちろんです」
「戦って、帰ろうとして、最後まで頑張ってくれた部品じゃけぇ」
犬島は損傷した舵へ手を触れた。
「お疲れさま」
次に、艦首側へ回る。
二つの錨も点検のため取り外されていた。
錨本体には傷。
錨鎖の一部には永久伸びが確認されている。
交換が必要な部分もあった。
犬島は右舷錨へ近づき、その大きな爪を撫でた。
「こっちは、うちを止めてくれた子」
左舷錨にも触れる。
「二人とも、ありがとうなあ」
提督が工廠へ入ってくる。
その足音を聞いた犬島が、すぐに振り返る。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島は小走りで提督のそばへ行き、袖を軽くつかんだ。
「提督」
「修理の具合はどうだ」
「もうすぐ新しい推進軸と舵が付きます」
「そうか」
「錨も、新しい鎖に替えてもらいます」
「また止まれるようにな」
犬島は頷いた。
「はい。でも次は、河口へ向かわんうちに止まります」
「そうしてくれ」
「戦闘で異常が出たら、近くの港へ寄ります」
「ああ」
「振動が消えても、直ったとは思いません」
「ああ」
「それでも突然落ちたら……」
犬島は少し考える。
「今度も錨を使います」
提督は犬島の頭へ手を置いた。
「十分だ」
犬島は嬉しそうに目を細めた。
「えへへ」
深緑色のスカーフが、小さく揺れる。
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修理を終えた日。
実艦「犬島」は工廠前の水面へ浮かんでいた。
新しい右舷推進軸。
新しい舵。
点検された左舷軸。
一部を交換した錨鎖。
艦橋には犬島一人。
艤装はない。
乗員もいない。
犬島は自分の意思で右舷機関を起動した。
新しい推進軸がゆっくりと回る。
続いて左舷機関。
二本の推進軸が同じ回転数で海水をかく。
舵を右へ。
船首が右を向く。
舵を左へ。
船首が滑らかに戻る。
犬島は目を閉じ、全身で反応を確かめた。
「右舷軸、振動なし」
舵中央。
左右の反応差なし。
温度正常。
油圧正常。
「全部、元気です」
提督は試運転のため艦橋後方へ乗っていた。
「では出港するか」
「はい」
係留索が外される。
犬島は両機関を低速前進に入れた。
実艦が岸壁から離れる。
港口へ向かう。
犬島は艦橋から艦首へ移動した。
第一砲塔の前に立ち、広い海を見る。
遠くに川の河口が一つ見えた。
犬島は少しだけ警戒するように目を細める。
それでも船首は河口へ向いていない。
舵は正常。
推進軸も二本ある。
錨も艦首へ収まっている。
「今日は普通に海へ行けるな」
提督が後ろから答える。
「ああ」
「舵もあります」
「ああ」
「推進軸も二本あります」
「ああ」
「錨も二つあります」
「確認済みだ」
犬島は満足そうに頷いた。
「なら、大丈夫です」
実艦「犬島」は港口を抜け、穏やかな海へ出た。
今回は河口に突っ込まなかった。
寸前で止まった。
犬島を止めたのは、幸運だけではない。
損傷後も状況を確かめ続けた慎重さ。
海底の状態を調べた判断。
速力を落としてから錨を入れた操艦。
そして、船を構成する一つ一つの装備を信じたことだった。
犬島は艦首甲板へ手を置いた。
「今度も、みんなで帰ろうな」
推進軸。
舵。
錨。
機関。
鋼鉄の船体。
それらすべてが、犬島自身であり、大切な相棒だった。
海防艦「犬島」は艦首に小さな艦娘を立たせ、河口ではなく、広い海へ向かって静かに進んでいった。