海防艦・犬島
――眠っている間に、九つ目の河口へ――
海防艦「犬島」は、所属鎮守府から遠く離れた青瀬港の外郭泊地に停泊していた。
全長七十八・九メートル。
全幅九・二メートル。
三基の十二糎単装砲と、二基のディーゼル機関を備えた実艦。
艦内に乗員はいない。
操舵員も、機関員も、甲板員もいない。
艦橋後部に設けられた小さな居住室で眠っている艦娘・犬島ただ一人が、この鋼鉄の船体すべてを動かしていた。
犬島は艤装を身に着けない。
実艦そのものが犬島の身体であり、彼女は艦橋や艦首に立って船を動かす。
二本の推進軸。
一枚の舵。
三基の主砲。
発電機、燃料タンク、錨鎖、見張り装置。
犬島が意識を向ければ、それらは手足のように動いた。
だが今、その意識は深い眠りの中にあった。
二日前から続いていた沿岸警備任務を終えたばかりだった。
青瀬港で燃料と食料の補給を受け、翌朝には所属鎮守府へ帰る予定である。
犬島は入港前に港湾管制から指定された泊地へ入り、機関を完全に停止した。
右舷機関、停止。
左舷機関、停止。
燃料供給弁、閉鎖。
推進軸、停止。
舵、中央。
発電機は艦内照明と監視装置へ必要な最低出力だけを残し、それ以外の動力は切られている。
係留作業は、青瀬港の港湾作業員が実施した。
犬島は艦首と艦尾に立ち、一本ずつ索の状態を確認していた。
船首索二本。
船尾索二本。
前後のスプリングライン四本。
合計八本。
索の表面には、毛羽立ちも変色もなかった。
擦れ止めも正しい位置に取り付けられている。
岸壁側の係船柱にも異常はない。
港湾作業員が張力計で確認した数値も、規定範囲内だった。
「第一船首索、よし」
犬島が艦首から確認する。
「第二船首索、よし。擦れもないです」
港湾作業員が記録表へ印を付ける。
「船尾側も異常なしです」
犬島は艦尾へ移動し、索へ手を触れた。
太く、表面は滑らかだった。
外から見える範囲に損傷はない。
「これなら大丈夫じゃな」
「今夜は小さなうねりが入る予報ですが、この本数なら問題ありません」
港湾作業員が答えた。
「最大でも波高一メートル前後です。暴風も高潮もありません」
「分かりました」
犬島は港湾管制へ停泊完了を報告した。
『海防艦・犬島、係留状態を確認しました。夜間は現在の位置を維持してください』
「了解です。両機関を完全停止して休みます」
『なお、泊地全域は投錨禁止区域です。錨を使用しないでください』
「海図でも確認しとります」
犬島は泊地の海底情報をもう一度見た。
海底には、青瀬港と沖合人工島を結ぶ高圧電力ケーブルが通っている。
通信線と工業用水管も敷設されていた。
それらを保護するため、海底は厚い岩盤材と大型被覆ブロックで覆われている。
錨を下ろしても爪が食い込む柔らかな砂や泥はない。
錨は岩やブロックの表面を滑るだけで、十分な把駐力を得られなかった。
それだけではない。
万一、錨爪が保護材の隙間へ入り込めば、海底ケーブルや配管を傷つける可能性がある。
そのため泊地は、最初から全面的な投錨禁止区域として指定されていた。
係留中の船は、岸壁側の係留索だけで船体を保持することになっている。
「錨は使わん。係留索は八本。機関も停止」
犬島は自分に確認するようにつぶやいた。
「全部、決められた通りじゃな」
日没後、犬島は艦橋へ戻った。
港内監視装置を自動警戒状態へ設定する。
通常なら船体が大きく動けば、警報によって犬島が目を覚ます。
しかし停泊中の小さな前後動は、係留された船なら常に生じる。
警報感度を高くしすぎれば、波が当たるたびに警報が鳴る。
港湾規定で定められた数値に設定され、犬島自身が勝手に変更することはできなかった。
犬島は居住室へ入った。
小さな寝台へ腰掛け、靴を脱ぐ。
白い水兵服の上着を整え、桃色の髪留めだけを枕元へ置いた。
「明日は、所属鎮守府に帰れるな」
犬島は毛布へ入った。
「みんな、待っとるかな……」
目を閉じる。
二日間の疲れは大きかった。
数分もしないうちに、犬島の呼吸は静かになった。
実艦「犬島」も、主人と一緒に眠るように、機関音のない船体を岸壁へ預けていた。
---
異変が始まったのは、午前一時四十二分だった。
沖合を低気圧から発生した長いうねりが通過していた。
青瀬港の防波堤は通常の風波を防いでいたが、周期の長い波は港内へ入り込み、わずかな海面変動を繰り返していた。
波高は大きくない。
港湾管理者の予報通り、およそ一メートル。
それ自体は、犬島を危険にさらすものではなかった。
実艦「犬島」は、波に合わせてゆっくりと前後へ動いた。
船首が岸壁から離れる。
係留索が張る。
再び岸壁へ近づく。
索の張力が緩む。
通常の係留索なら、その程度の動きを何千回繰り返しても問題はない。
しかし、犬島をつないでいた八本の係留索は、見た目ほど健全ではなかった。
索は三年前に製造された高強度合成繊維製だった。
表面には耐候性の被覆があり、潮風や日光による劣化を防いでいる。
外観検査では、新品に近い状態に見えた。
だが製造工程で、内部繊維の一部へ海水が浸入する欠陥が生じていた。
本来なら完全に密閉されるはずの被覆の内側へ、微量の塩分を含んだ水分が残されていた。
それが長い時間をかけて、芯材を内側から腐食させていた。
表面の被覆は無傷だった。
変色もない。
膨らみもない。
触れても柔らかさに違いはない。
張力試験でも、低い荷重では正常な値を示す。
だが内部の強度は、本来の半分以下まで低下していた。
欠陥は同じ製造時期の索に共通していた。
犬島へ使われた八本は、偶然にもすべて同じ製造ロットだった。
午前一時五十六分。
少し大きなうねりが港内へ入った。
犬島の船体が、岸壁からゆっくりと離れる。
満載排水量一千トンを超える鋼鉄の船体。
その質量によって生じる慣性と、波による前後動の力が、八本の索へ分散される。
本来なら、十分に耐えられる荷重だった。
だが腐食していた内部繊維が、一本ずつ切れ始めた。
外からは何も見えない。
索の表面は元の形を保っている。
内部だけで、細い繊維が次々と破断していた。
第一船首索。
内部強度、限界。
ぱんっ――。
夜の港に、乾いた音が響いた。
犬島の船首が、わずかに岸壁から離れる。
居住室で眠る犬島の身体が少し揺れた。
だが、停泊中に起こる通常の動きと変わらない。
犬島は目を覚まさなかった。
残る七本へ荷重が移る。
一本が切れたことにより、均等だった張力が崩れた。
第二船首索の内部繊維が一気に切断される。
続いて前部スプリングライン。
さらに船尾索。
一本。
二本。
三本。
索は順番に破断した。
表面被覆が最後まで形を保っていたため、伸びや摩耗による事前警報は作動しなかった。
張力計の数値も、破断する瞬間まで急激な変化を示さなかった。
午前二時三分。
最後の船尾スプリングラインへ、船体の荷重が集中する。
実艦「犬島」は、一本の索だけで岸壁につながれていた。
うねりが来る。
船体が沖側へ動く。
最後の索が強く張った。
内部繊維は、ほとんど残っていなかった。
索が切れた。
実艦「犬島」は、岸壁から完全に離れた。
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機関は停止していた。
推進軸も回っていない。
舵は中央で固定されたまま。
艦娘の犬島は眠っている。
誰もいない実艦は、港内のわずかな流れに乗って漂流を始めた。
最初は毎分数メートル。
ゆっくりと。
音もなく。
防舷材が船体から離れ、岸壁との間に黒い水面が広がる。
自動監視装置は、犬島の船体が定められた範囲を超えて移動したことを検出した。
だが、警報信号を送る岸壁側の受信設備にも問題があった。
その夜、港湾監視所では通信設備の更新工事が行われていた。
旧設備と新設備の切り替え中、外郭泊地の位置監視信号だけが、一時的に受信対象から外れていた。
犬島側の装置は正常に警報を送っている。
だが受け取る側がない。
艦内では警報音も鳴らなかった。
停泊中の犬島は、外部管制が位置異常を確認して起こす運用になっていたからだ。
犬島は知らない。
自分の大きな鋼鉄の身体が、眠っている間に岸壁を離れたことを。
実艦は港口へ向かって流れていった。
防波堤の間を、船首から静かに通過する。
幸い、入出港する船はいなかった。
港口監視カメラには犬島の姿が映っていたが、夜間の自動識別装置では「予定された移動」と誤って認識された。
犬島は一度、港の外へ出た。
沖合約二・五海里。
港の明かりが遠く見える海域まで流された。
海は暗かった。
波は穏やかだったが、長いうねりがゆっくりと続いている。
犬島の船体は、波の山を上り、谷へ下りた。
艦橋後部の寝台で、艦娘の犬島も小さく揺れている。
寝返りを打つ。
毛布の端をつかむ。
「……提督……」
眠ったまま、かすかにつぶやいた。
所属鎮守府の夢を見ていたのかもしれない。
自分が沖を漂流しているとは、少しも気付いていなかった。
午前三時十九分。
沖合を通過していた別の長周期波が、犬島の船体へ到達した。
先ほどのうねりとは方向が違う。
南東から北西へ進む波。
海上では穏やかな起伏にしか見えない。
だが、機関も舵も使っていない船体を動かすには十分だった。
波は犬島の右舷後方へ当たった。
実艦「犬島」の船首が、ゆっくりと陸地側へ向く。
もう一つの波が来る。
船尾が押される。
船体は沖合から青瀬港の東側へ向かい始めた。
そこには、港へ流れ込む青名川があった。
港の主航路とは別の場所にある、小さな河口。
両岸に短い導流堤。
河口内には漁船用の船着き場。
その先には、低い橋と市街地がある。
犬島は一度沖へ流された後、別方向から来た波に乗って、青名川河口へ進んでいた。
誰かが操艦したわけではない。
潮流に逆らおうとしたわけでもない。
船首を河口へ向けたのは、波だった。
---
犬島が目を覚ましたのは、午前三時五十七分。
最初に感じたのは、船底を擦る軽い振動だった。
ざざっ。
寝台がわずかに傾く。
犬島は目を閉じたまま、毛布の中で眉を寄せた。
「……何……?」
もう一度、振動。
今度は少し強い。
ごりっ――。
犬島の意識が、実艦全体へ広がった。
機関は停止している。
推進軸も停止。
舵中央。
だが船体は動いていた。
対地速度、約三ノット。
船首方位、北西。
水深、急速に減少。
両舷の近くにコンクリート構造物。
前方に狭い水路。
犬島は飛び起きた。
「えっ……?」
桃色の髪留めをつける余裕もない。
靴だけを急いで履き、居住室から艦橋へ駆け出す。
艦橋前面の窓から外を見る。
左右に導流堤。
前方に川。
後方には海。
「河口……?」
犬島の顔が固まった。
「なんで!?」
実艦「犬島」は、青名川河口へ船首から入っていた。
すでに艦首は河口標識を越えている。
船体中央部も導流堤の間へ差しかかっていた。
犬島は即座に両機関を起動しようとした。
しかし完全停止状態からの再始動には時間が掛かる。
燃料供給弁を開く。
潤滑油ポンプ始動。
冷却水循環開始。
始動空気圧確認。
「早う……!」
右舷機関の始動準備。
左舷機関も同時に進める。
通常なら一基ずつ始動するが、今は時間がない。
犬島は艦橋から艦首へ走った。
第一砲塔の前へ出る。
夜明け前の河口。
船首のすぐ先に、漁船用の浮き桟橋が見える。
このまま進めば接触する。
「止まって……!」
犬島は艦首の錨を見た。
右舷錨。
左舷錨。
前回、河口の手前で自分を止めてくれた装備。
だが、ここは停泊していた泊地ではない。
河口内の海底は砂と泥で、錨を使えば止められる可能性がある。
犬島は両錨を投下しようとした。
その瞬間、船底へ強い衝撃が走った。
どんっ――。
「きゃっ!」
船首が河口内の浅い砂州へ乗り上げた。
実艦の前部が持ち上がる。
犬島は甲板へ膝をついた。
速力が一気に低下する。
三ノット。
二ノット。
一ノット。
だが後方から来る波が、船体をさらに川上へ押した。
船底が砂と泥を削る。
ざざざざっ――。
犬島は機関始動を続けながら、左右の錨を投下した。
錨が河口内へ落ちる。
錨鎖が繰り出される。
しかし船首はすでに砂州へ乗り上げていた。
右舷錨が泥へ食い込む。
左舷錨も川底へ掛かる。
乗り上げによる抵抗と、二本の錨の把駐力が合わさった。
実艦「犬島」は、浮き桟橋の約四十メートル手前で停止した。
河口の中央。
船首は川上。
船尾は海側。
全長七十八・九メートルの海防艦が、青名川河口の航路を大きく塞いでいた。
「止まった……?」
犬島は対地速度を確認する。
ゼロ。
錨鎖は張っている。
船底は砂州へ接地。
機関は、ようやく始動した。
だが今さら動かせば、推進器が泥を巻き込み、船底をさらに傷つける。
犬島はすぐに機関を再停止した。
静寂が戻る。
犬島は艦首に座り込んだ。
髪留めをつけていない濃紺色の髪が、夜明け前の風に揺れる。
「うち……寝とったよな」
港を出た記憶がない。
機関を動かした記憶もない。
係留索を外した記憶もない。
「なんで、また河口におるん……?」
犬島は後方を見る。
青瀬港は、河口から数キロ離れている。
泊地から直接流れてきた航跡ではない。
自動航海記録を確認する。
午前二時三分、係留状態喪失。
午前二時二十八分、港口通過。
午前三時二分、沖合最大距離二・五海里。
午前三時十九分、船首方位変化。
午前三時四十四分、青名川河口へ接近。
犬島は記録を何度も見た。
「一回、沖まで行っとる……」
眠っている間に、港を出た。
沖まで流された。
そこで別の波に乗り、陸へ戻された。
そして河口へ入った。
「寝とる間に、そんな遠くまで……」
犬島は両手で顔を覆った。
「起きたら河口って、ひどすぎるじゃろ……」
---
青瀬港の管制所が犬島の漂流に気付いたのは、犬島が青名川河口へ乗り上げた直後だった。
朝の当直交代で位置監視システムを確認した職員が、外郭泊地にいるはずの犬島の信号を河口で発見した。
『海防艦・犬島、応答してください!』
犬島は艦首から通信を返した。
「犬島、応答します」
『現在、青名川河口にいることを確認しています。負傷はありますか』
「ありません。でも、河口の砂州に乗り上げとります」
『機関は』
「起動できました。でも船底を傷つけるので、また停止しました」
『係留索はどうしましたか』
犬島は自動記録を確認した。
「全部、破断したようです。うちが外したんじゃありません」
『泊地を出たことには、いつ気付きましたか』
「今です」
通信の向こうが静まった。
「うち、寝とったんです」
犬島は恥ずかしそうに言った。
「機関も完全に切っとりました。起きたら、もう河口の中じゃったんです」
『了解しました。救難隊を派遣します』
「河口内の船は?」
『浮き桟橋に小型漁船が三隻係留されています。犬島とは接触していません』
「人は?」
『負傷者の報告なし』
犬島は胸をなで下ろした。
「よかったぁ……」
『ただし河口航路は閉塞しています』
犬島の肩が下がる。
「……はい」
今度も河口を塞いでしまった。
横向きではない。
艦尾も破断していない。
それでも実艦一隻が河口中央へ乗り上げれば、ほかの船は通れない。
犬島は小さく頭を下げた。
「ご迷惑をおかけします……」
『現時点で犬島の責任は判断されていません。まず安全確保を優先してください』
「はい」
「責任は判断されていない」という言葉が、犬島の胸へ引っ掛かった。
自分は眠っていた。
係留索が切れたことにも気付かなかった。
一度沖合まで流された。
錨も下ろしていなかった。
事情を知らない人が見れば、犬島が不用心だったと思うかもしれない。
犬島は制服の胸元を押さえた。
そこには、過去の事故について「犬島に過失なし」と記された報告書が重ねて入っている。
「今度は……うちが悪いって言われるんかな」
誰もいない艦首で、弱い声が漏れた。
---
夜が明けると、青名川の両岸に人が集まり始めた。
警察と港湾職員。
消防。
漁業関係者。
救難隊。
そして、河口に乗り上げた実艦「犬島」を遠巻きに見る住民たち。
犬島は桃色の髪留めをつけ直し、艦首に立っていた。
濡れた甲板を拭き、錨鎖の張力を確認する。
機関は停止。
燃料漏れなし。
船底前部に擦過傷。
浸水なし。
河口水位も安定。
犬島にできることは、一つずつ済ませていた。
対岸から誰かの声が聞こえた。
「どうして停泊中に錨を入れてなかったんだ?」
犬島の手が止まる。
別の声。
「係留索だけじゃ危ないだろう」
「最初から錨を下ろしていれば、流されなかったんじゃないか」
犬島は反論しなかった。
声は遠く、相手の姿もよく見えない。
事情を知らなければ、そう思うのも無理はない。
犬島は艦首の右舷錨を見た。
泊地で下ろすことは禁じられていた。
仮に規則を破って投錨しても、海底は岩盤材と被覆ブロックで覆われている。
錨爪は食い込まない。
犬島の重量と波の力が掛かれば、錨は海底を滑る。
船体を止めることはできない。
それどころか、海底ケーブルを傷つける可能性があった。
それでも、犬島の胸は少し痛んだ。
「錨を下ろさんかったんは、本当じゃから……」
規則に従っただけ。
意味がなかったから使わなかっただけ。
それでも「使わなかった」という事実だけを切り取られれば、不注意に見える。
犬島はうつむいた。
深緑色のスカーフが、朝の風に弱く揺れる。
そのとき、聞き慣れた機関音が海側から近づいてきた。
所属鎮守府の指揮艇。
犬島はすぐに顔を上げた。
甲板上に提督の姿を見つける。
「提督!」
今までの不安を忘れたように、両手を振る。
指揮艇は河口入口で停止し、小型艇を降ろした。
犬島が河口を塞いでいるため、直接近づくことができない。
提督は右岸へ上陸し、浮き桟橋から小型作業艇へ乗り換えた。
艇が犬島の左舷へ接近する。
仮設梯子が掛けられる。
提督が実艦へ上がった。
鋼鉄の甲板に足音が響く。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島はその足音へ向かって走った。
第一砲塔の横で提督を見つけると、制服の袖を両手でつかんだ。
「迎えに来てくれた」
「ああ」
「うち、寝とりました」
「記録は確認した」
「係留索が切れたことにも気付かんで……」
「外部監視設備の切り替え時間と重なったそうだ」
「一回、沖まで流されとったんです」
「ああ」
「それから別の波で戻されて、起きたら河口で……」
犬島の声が次第に小さくなる。
「うち、悪かったですか」
提督は犬島の目を見る。
「現時点で、犬島に過失がある事実は確認されていない」
「でも、錨を下ろしとらんかったって……」
「泊地は投錨禁止区域だ」
「下ろしても、岩とブロックばっかりで、錨が掛からん場所です」
「ああ」
「でも、外の人に『錨を下ろしとけば』って言われました」
提督は艦首側の錨を見る。
「錨を下ろすことは規則違反だ。さらに、把駐力も得られなかった」
「はい」
「海底ケーブルを損傷すれば、港の電力供給や工業用水にも被害が出ていた」
「はい……」
「犬島は正しい手順に従った」
提督は犬島の頭へ手を置いた。
「自分を責める必要はない」
犬島は少しだけ頭を寄せた。
「ほんまに?」
「ああ」
「寝とっても?」
「休息を取ることは、許可された停泊中の正当な行動だ」
「機関を全部切っとっても?」
「それも港湾規則に従ったものだ」
「錨を下ろしてなくても?」
「下ろしてはいけない場所だった」
犬島は何度か頷いた。
「……よかった」
袖をつかむ指へ、少し力が戻る。
「まだ調査は終わっていない。だが、少なくとも犬島が勝手な行動をしたわけではない」
「はい」
「係留索の破断原因を調べる」
犬島は提督の袖をつかんだまま、岸壁側を見た。
「見た目は、ほんまにきれいじゃったんです」
「犬島も港湾作業員も、八本すべて確認している」
「触っても変じゃなかったです」
「ああ」
「張力も正常でした」
「記録に残っている」
犬島の表情が少しずつ落ち着いた。
「なら、紙にも書いてもらえますか」
「正式な調査結果が出ればな」
「うちが悪くないって」
「ああ」
犬島は制服の胸元を押さえた。
「また、一枚増えるんじゃな……」
「今度は係留索破断・漂流・河口座礁事故の報告書だな」
犬島の頬が膨らむ。
「そんなに全部言わんでください」
「事実確認だ」
「起きたら河口じゃっただけでも、ぼっけぇ恥ずかしいんです」
提督は少しだけ笑った。
犬島はそれに気付き、さらに頬を膨らませる。
それでも提督の袖は離さなかった。
---
事故調査では、青瀬港の泊地から青名川河口まで、犬島の航跡が詳しく再現された。
係留索は、午前一時五十六分から二時三分までの間に順次破断していた。
犬島は機関を動かしていない。
操舵も行っていない。
錨も使用していない。
破断後、港内の緩やかな流れによって岸壁から離れた。
防波堤を通過し、一度沖合約二・五海里まで漂流。
その後、南東から進んできた別方向の長周期波を受けて船首が陸側へ向き、青名川河口へ押し戻された。
犬島が目覚めたのは、船首が河口内の砂州へ接触した直後だった。
機関始動と投錨を実施したものの、すでに河口へ進入していたため、完全な回避には間に合わなかった。
それでも二本の錨と砂州の抵抗によって、浮き桟橋や漁船への衝突は防がれていた。
最大の焦点は、係留索だった。
回収された八本の索は、外観上ほとんど損傷していなかった。
切断面を覆う外皮も、破断時に初めて裂けたものだった。
しかし内部を切り開くと、芯材の広い範囲が変色し、強度を失っていた。
製造時に被覆内部へ塩分を含む水分が混入したことで、内側から腐食が進行していた。
通常の目視検査。
触診。
低荷重の張力確認。
いずれでも発見できない欠陥だった。
さらに、同じ製造ロットの係留索からも同様の腐食が発見された。
港湾管理者は直ちに全数を使用停止とし、全国の港へ注意情報を出した。
夜間監視が機能しなかった原因も確認された。
位置監視装置の更新工事において、外郭泊地の信号が旧設備から切り離された後、新設備へ登録されるまで二時間の空白が生じていた。
工事計画上、その時間帯は泊地に船がいないことになっていた。
しかし犬島の臨時寄港情報が、設備担当部署へ共有されていなかった。
犬島側の監視装置は正常だった。
警報信号も送信している。
犬島が眠っていたことは、事故原因ではなかった。
最終報告書には、明確に記された。
«海防艦「犬島」および艦娘・犬島は、青瀬港湾管制が指定した泊地へ正しく係留され、機関停止、舵中央固定および夜間監視設定を含む所定の停泊手順をすべて実施していた。»
«係留索の内部腐食は、外観検査、触診および通常の張力確認では発見不能であり、犬島ならびに係留作業担当者が事前に把握することはできなかった。»
«犬島が停泊中に休息を取っていたことは、許可された通常の行動であり、事故との因果関係は認められない。»
さらに、投錨しなかったことについても、独立した項目が設けられた。
«当該泊地は、海底電力ケーブル、通信線および工業用水管の保護を目的とする投錨禁止区域であった。»
«泊地海底は岩盤材および大型被覆ブロックで構成され、通常の主錨では有効な把駐力を得ることができない。»
«したがって、犬島が停泊中に錨を使用しなかったことは規則および安全上適切であり、仮に投錨していたとしても本件漂流を防止できた可能性は低い。»
結論には、太字で書かれていた。
«本事故において、海防艦「犬島」および艦娘・犬島に過失は一切認められない。»
犬島は、所属鎮守府の執務室で報告書を読んでいた。
一行ずつ。
ゆっくりと。
「休息を取っていたことは、許可された通常の行動……」
提督が向かい側に座っている。
「そう書いてあるな」
「錨を使わんかったことも、安全上適切……」
「ああ」
「投錨しても、防げんかった可能性が高い」
「ああ」
犬島は最後の結論を指でなぞった。
「過失は一切認められない」
「最初に言った通りだ」
犬島は大きく息を吐いた。
「よかったぁ……」
制服の内側から、これまでの事故報告書を取り出す。
一枚。
二枚。
三枚。
河口へ流された事故。
係留設備を破壊された事故。
貨物船を避けた事故。
海底崩落。
港湾施設の制御異常。
送電鉄塔の倒壊。
海底工事事故。
推進軸と舵の脱落。
そして今回。
新しい報告書を、いちばん上へ重ねた。
「九枚目」
「かなり厚くなったな」
「全部、うちが悪くない証拠です」
「今回は眠っている間に沖合へ出て、別の波で河口へ戻ったのか」
犬島は報告書を胸へ抱えた。
「まとめて言わんでください」
「事故の概要だ」
「起きたら河口におったんですよ」
犬島は恥ずかしそうに目を伏せた。
「ぼっけぇ怖かったんじゃから」
提督は犬島の頭へ手を伸ばす。
犬島は避けず、少しだけ頭を寄せた。
「次からは、停泊中に眠れそうか」
犬島はすぐには答えなかった。
係留索が切れる音。
知らないうちに岸壁を離れる船体。
沖の暗い海。
起きたときに見えた河口。
記憶にはないはずなのに、航海記録を見たことで、その夜の漂流が頭の中へ浮かんでいた。
「ちょっと、怖いです」
正直に答える。
「眠ったら、また船がどこかへ行くかもしれんって思います」
「係留索の検査方法は変更された」
「はい」
「今後は超音波と内部状態検査を行う」
「はい」
「位置監視装置も、艦内と陸上の両方で警報を出す方式になる」
「分かっとります」
それでも不安は消えない。
提督は続けた。
「しばらくは、停泊中も私か当直艦娘が近くにいる」
犬島が顔を上げる。
「一人じゃないんですか」
「ああ」
「寝とる間も?」
「ああ」
「係留索が切れたら、起こしてくれますか」
「すぐに起こす」
「沖まで行く前に?」
「岸壁を一メートル離れた時点でな」
犬島の表情が少し明るくなる。
「ほんまに?」
「約束する」
一度信じた相手の言葉を、犬島は疑わない。
犬島は報告書を机へ置き、提督の袖を軽くつかんだ。
「なら、寝られると思います」
「そうか」
「でも最初の日だけ、近くにおってください」
「ああ」
「起きたときに、河口じゃないって確認したいけぇ」
提督は静かに頷いた。
---
実艦「犬島」の離礁作業は、事故当日の満潮時に行われた。
河口内の小型船をすべて退避させ、艦尾へ曳航索を取る。
二本の錨を揚げる。
船首周辺の砂を、浅喫水の浚渫艇が慎重に取り除く。
犬島は艦橋前部に立ち、作業を見守っていた。
艦内に乗員はいない。
艤装も身に着けていない。
白い水兵服姿の小さな艦娘が、全長約七十九メートルの船体を自分の身体として感じている。
「曳航開始します」
曳船から連絡が入る。
太い曳航索が張る。
艦尾がわずかに動く。
船首船底と砂州の間で、低い音が響いた。
犬島は艦橋の手すりを握る。
「もう少し……」
曳船の出力が上がる。
船体が後退する。
砂と泥が船底から離れる。
最後に大きな振動。
艦首が砂州を抜けた。
実艦「犬島」が、再び完全に水面へ浮かぶ。
河口両岸から拍手が起こった。
漁師たちが手を振っている。
浮き桟橋にいた人々も、犬島へ声を掛けた。
「犬島、無事でよかったぞ!」
「今度は寝る場所を間違えるなよ!」
犬島は一瞬、頬を膨らませた。
「場所は間違えとらんです!」
両岸へ聞こえるように、大きな声で返す。
「寝た場所は、ちゃんと指定泊地です!」
河岸に笑い声が広がる。
犬島は恥ずかしそうに顔を赤くしたが、少し経つと自分も小さく笑った。
無事だからこそ、笑ってもらえる。
河口を塞いだことは申し訳ない。
それでも漁船にも、人にも、橋にも被害は出なかった。
犬島は艦首へ移動し、両岸へ深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
それから顔を上げる。
「助けに来てくれて、ありがとうございます」
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修理を終えた犬島が次の港へ入ったのは、それから二週間後だった。
新しい係留索は、内部状態検査を終えた別製造方式のものだった。
表面だけでなく、芯材まで健全であることが確認されている。
船首索。
船尾索。
スプリングライン。
犬島は一本ずつ、自分の手で触れて確かめた。
港湾作業員も、測定装置を使って内部の状態を確認する。
「八本、すべて異常なしです」
犬島は岸壁側を見る。
「位置監視は?」
「艦内、港湾管制、所属鎮守府の三か所へ同時送信されます」
「どこか一つが止まっても?」
「残り二か所で警報が鳴ります」
「投錨区域ですか」
「ここも投錨禁止ですが、係留設備は二重化されています」
犬島は少しだけ不安そうに索を見た。
提督は実艦へ同乗していた。
艦橋後方から犬島へ声を掛ける。
「機関を停止していいぞ」
「完全に切っても?」
「ああ」
「寝ても?」
「ああ」
「流されませんか」
「監視している」
犬島は何度か確認した後、両機関を停止した。
推進軸が止まる。
燃料供給弁を閉じる。
舵を中央へ固定する。
実艦が静かになる。
犬島は居住室へ向かおうとした。
だが途中で引き返し、艦橋へ戻ってくる。
提督はまだ同じ場所にいた。
「どうした」
「おるか確認しただけです」
「いる」
「朝まで?」
「ああ」
犬島は安心したように頷く。
「なら、寝てきます」
数歩歩く。
また振り返る。
提督はまだいる。
犬島はようやく居住室へ入り、寝台へ横になった。
毛布を胸元まで掛ける。
桃色の髪留めを枕元へ置いた。
それでもすぐには目を閉じなかった。
実艦の感覚へ意識を向ける。
八本の係留索。
すべて正常。
船体の位置。
変化なし。
波。
穏やか。
機関。
停止。
錨。
艦首へ収納されたまま。
「提督」
居住室から小さな声を出す。
艦橋から返事が届く。
「いるぞ」
「……はい」
犬島は目を閉じた。
しばらくして、規則正しい寝息が聞こえ始める。
提督は艦橋の監視画面を見た。
係留索の張力。
船体位置。
港内気象。
すべて正常。
夜が深くなる。
小さな波が船体へ当たる。
実艦「犬島」は少しだけ前後へ揺れた。
係留索が張り、緩み、再び船体を元の位置へ戻す。
今度は切れない。
岸壁から離れない。
河口へ向かわない。
犬島は眠ったまま、自分の鋼鉄の身体を岸壁へ預けていた。
夜明け前。
犬島は目を覚ました。
最初に船体位置を確認する。
指定泊地。
岸壁との距離、正常。
係留索八本、異常なし。
犬島は寝台から起き、窓の外を見た。
目の前には岸壁がある。
沖ではない。
河口でもない。
いつもの港だった。
犬島は靴を履き、艦橋へ走った。
「提督!」
「どうした」
犬島は艦橋の窓から岸壁を指した。
「まだ、ここにおります」
「ああ」
「起きても、河口じゃないです」
「ああ」
犬島は嬉しそうに笑った。
「えへへ……」
提督の袖を軽くつかむ。
「ちゃんと待っててくれたんじゃな」
それが係留索へ向けた言葉なのか、提督へ向けた言葉なのかは分からなかった。
おそらく、両方だった。
実艦「犬島」は、眠っている間も岸壁につながれていた。
外から見えない腐食。
予測できない破断。
通信設備の空白。
沖合の波。
すべてが重なった事故に、犬島の過失は一切なかった。
錨を使わなかったことも正しかった。
眠ったことも間違いではなかった。
それでも犬島は、その夜の教訓を忘れなかった。
見た目だけでなく、内側まで確かめること。
一つの監視装置だけに頼らないこと。
そして、自分が眠っている間にも見守ってくれる誰かがいること。
犬島は艦橋から艦首へ出た。
朝日が海面を照らしている。
岸壁はすぐ横。
河口は遠い。
八本の係留索は、鋼鉄の船体をしっかりと港へつなぎ止めていた。
犬島はその一本へ手を触れた。
「今日は、ここで待っとってくれたんじゃな」
索は何も答えない。
だが犬島には、少し誇らしそうに張っているように見えた。
「ありがとぉ」
犬島は小さく笑った。
そして今度こそ安心した足取りで、朝の港を見渡した。