10回目ということもあり犬島について軍令部からの調査が行われるがどれも本当に悪くなかったため、本当に河口に関する運が悪いという結論になった。
海防艦・犬島
――十番目の河口と、軍令部の結論――
海防艦「犬島」は、夜明け前の沿岸航路を静かに進んでいた。
艦内に乗員はいない。
機関室も、砲側も、通信室も無人だった。
艦橋前部に立つ一人の小柄な艦娘――犬島だけが、全長七十八・九メートルの実艦を動かしていた。
背中に艤装はない。
三基の十二糎単装砲も、二本の推進軸も、舵も、錨も、すべて足元の鋼鉄の船体に備わっている。
犬島が右へ意識を向ければ、見張り装置が右舷海面を走査する。
速力を落とそうと思えば、二基のディーゼル機関が同時に回転を下げる。
艦娘の小さな身体と、実艦の大きな船体。
二つは離れて見えても、同じ犬島だった。
「針路、〇八二度」
犬島は艦橋の窓から前方を見つめた。
「速力、七ノット。両舷機関、正常。舵も異常なし」
前日の夕方、犬島は小型船団を深海棲艦の出没海域から安全な港まで護衛した。
戦闘はなかった。
船体に損傷もない。
燃料も十分に残っている。
犬島は所属鎮守府へ戻るため、港湾交通管制が指定した沿岸航路を進んでいた。
左手には陸地。
右手には暗い外海。
前方およそ三海里には、白波川という中規模の河川が海へ注いでいる。
だが、正規航路は河口から一・二海里沖を通過する。
通常なら、犬島が河口へ近づくことはない。
天候は良好。
風速三メートル。
波高四十センチ。
潮流も穏やかだった。
「今回は、何にも起こらんよな」
犬島は海図に記された白波川河口を見て、少しだけ警戒するように目を細めた。
今回で何も起こらなければいい。
過去九回、犬島は異なる理由で河口へ流され、押し込まれ、あるいは緊急避難していた。
台風。
係留設備の破壊。
貨物船の航路間違い。
港湾施設の事故。
海底工事の異常。
送電設備の倒壊。
戦闘損傷による推進軸と舵の脱落。
係留索内部の腐食。
理由は毎回違った。
そして、その全てで犬島に過失はなかった。
「十回目なんて、ないけぇ」
犬島は自分へ言い聞かせた。
「今日は、普通に帰るんじゃ」
所属鎮守府では、提督と仲間たちが待っている。
波止場へ入れば、犬島はいつものように艦首に立って手を振る。
そして「ただいま」と言う。
犬島は帰投後のことを考え、ほんの少しだけ嬉しそうに深緑色のスカーフを揺らした。
---
異常が起きたのは、白波川河口の南東約二海里地点だった。
最初に犬島が感じたのは、左舷推進軸へ掛かる小さな抵抗だった。
「ん?」
推進器の回転数は変わっていない。
機関出力も正常。
だが、海水をかく感触に、わずかな重さが加わっている。
犬島は直ちに左舷機関の回転を落とした。
「海藻……?」
水中探信儀へ意識を集中する。
船底付近に複数の細い反応。
しかし自然の海藻にしては、直線的すぎる。
次の瞬間。
左舷推進軸の抵抗が急激に増した。
ががががっ――。
実艦全体へ激しい振動が伝わる。
犬島の左脚が引かれるように震えた。
「網!?」
犬島は左舷機関を緊急停止した。
だが、停止するまでに回転した推進器が、水中の網をさらに深く巻き込んでいた。
それは漁業用の通常の網ではなかった。
長さ数百メートル。
深さ十数メートル。
太い合成繊維と金属ワイヤーを組み合わせた、大型の流し網だった。
沿岸航路では使用が禁止されている規模であり、本来なら位置を示す灯火、浮標、旗を設置しなければならない。
しかし、違法操業者は発見を避けるため、浮標を水面下へ沈めていた。
夜間灯火もない。
船舶自動識別装置にも表示されない。
海面から見つけることは不可能だった。
網は正規航路を横断する形で設置されていた。
犬島の左舷推進器が網を引き込む。
網全体が水中で張る。
反対側が右舷船尾へ回り込み、右舷推進器にも絡みついた。
「右舷も止まって!」
犬島は右舷機関も停止した。
だが網は推進器だけでなく、船尾中央にある舵へも巻き付いた。
金属ワイヤーが舵板の上下を縛る。
舵が右十度の位置で固定された。
犬島は左右へ動かそうとした。
舵取機は正常に作動しようとしている。
しかし舵板そのものが網に拘束されて動かない。
「舵、動かん……!」
両推進器停止。
舵固定。
海防艦「犬島」は惰性で前へ進んだ。
速力七ノット。
六ノット。
五ノット。
海は穏やかだったため、急激に横転するような危険はない。
だが右へ固定された舵に海水が当たり、船首は少しずつ左へ向き始めていた。
左――陸地側。
白波川河口の方向だった。
犬島は港湾交通管制へ緊急通信を送った。
「海防艦・犬島、操艦不能! 正規航路上の水中網が両推進器と舵へ絡まりました!」
『犬島、位置を確認しました。速力四・八ノット、船首が北西へ偏位しています!』
「機関は両方止めました! 舵は右十度で固定されて動きません!」
『最寄りの巡視艇を向かわせます。投錨できますか』
犬島は海図と水深を確認した。
水深、四十二メートル。
底質、砂泥。
投錨は可能。
しかし船尾へ絡んだ網が、長く後方へ伸びている。
その網の一部は、すでに艦底を回り込んで艦首方向へ移動していた。
この状態で錨を下ろせば、錨鎖へ網が絡み、錨が正常に海底へ落ちない可能性がある。
それでも河口へ入るよりはよい。
「右舷錨を使います!」
犬島は艦首へ走った。
実艦の操艦は、艦橋を離れても続けられる。
第一砲塔の前を通り、右舷錨の近くへ立つ。
「投下!」
錨止めが外れる。
重い錨が船首から落ちた。
錨鎖が繰り出される。
二十メートル。
三十メートル。
ところが、錨が海底へ届く前に異常な抵抗が掛かった。
船底を回り込んだ網が、錨鎖へ引っ掛かったのだ。
網は錨と船体の間で張り、錨を斜め後方へ引いた。
「ちゃんと下りて……!」
犬島は錨鎖をさらに出す。
四十メートル。
五十メートル。
錨は海底へ届いた。
だが爪が海底へ正しく向かず、網に包まれた状態で砂泥の上を滑った。
船体は止まらない。
速力三・五ノット。
白波川河口まで千二百メートル。
犬島は左舷錨も下ろした。
しかしこちらの鎖にも網が絡んだ。
二本の錨は海底を引きずり、一定の抵抗を生んでいる。
それでも完全に船を止めるほどの把駐力は得られなかった。
「錨まで、網に……」
犬島は歯を食いしばった。
水中の網は、犬島の船体全体を巨大な袋のように包み始めている。
流し網の反対側には、違法操業に使われていた無人の浮体が複数取り付けられていた。
波と沿岸流を受けた浮体が、犬島を陸側へ引っ張っていた。
機関を動かせば、網はさらに推進器へ巻き込まれる。
最悪の場合、推進軸や軸受を破壊する。
舵は動かない。
錨も十分に効かない。
救助艇の到着まで十五分。
河口到達までは、それより短い。
『犬島、曳船到着まで約十三分です!』
「河口までの時間は?」
『現在の速度なら約九分です』
「間に合わん……」
犬島は河口を見た。
白波川の両岸には、短い導流堤がある。
川幅は百三十メートル。
実艦「犬島」の全長は七十八・九メートル。
正面から入れば通れる。
だが河口内には漁船用の船着き場があり、その先には道路橋がある。
犬島は交通管制へ尋ねた。
「河口内の船は?」
『漁船四隻。現在、川上側の避難泊地へ移動中です』
「道路橋は?」
『河口から一・一キロ上流。警察へ通行止めを要請しました』
「左岸に止まれる場所はありますか」
『河口から六百メートル地点に砂州があります』
犬島は決断した。
「河口内へ入ったら、左岸砂州へ乗り上げます」
『了解しました。ただし犬島の推進器と舵は使用できません』
「錨鎖の長さを左右で変えて、船首を少しだけ動かします」
犬島は右舷錨鎖を巻き上げようとした。
網が絡んでいるため、ほとんど動かない。
それでも左舷側の鎖を少し多く出すことで、右舷錨の抵抗を相対的に強くする。
船首がわずかに右へ向く。
舵は右十度で固定されている。
その舵への水圧も利用し、河口中央へ船首を合わせる。
「もう少し右……」
犬島は錨鎖の張力を細かく変えた。
「戻して……今度は、そのまま」
操艦と呼べるほど自由ではない。
網、錨、固定された舵、沿岸流。
自分を拘束するすべての力を利用し、犬島は少しずつ船首方向を整えた。
河口まで五百メートル。
「河口へ入ります」
『河口内の漁船、退避完了!』
「ありがとうございます」
犬島は艦首甲板へ片膝をついた。
「また河口じゃけど……今は、ここしかない」
足元の鋼鉄甲板へ手を置く。
「一緒に止まろうな」
---
海防艦「犬島」の艦首が、白波川河口へ入った。
右側の導流堤との距離、二十五メートル。
左側、三十二メートル。
網に絡んだ錨が海底を引きずり、船体の速度は二ノットまで下がっていた。
だが停止はしていない。
両岸には、避難した漁師や港湾職員が集まっている。
犬島は艦首から声を張り上げた。
「河口を通ります! 近づかんでください!」
艤装のない小柄な艦娘が、本物の海防艦の先端に立っている。
船体の後方からは、黒い網が何重にも絡みつき、海面へ長く伸びていた。
漁師の一人がそれを見て叫んだ。
「そりゃ流し網じゃ! 誰がこんなところへ張ったんじゃ!」
犬島も答える。
「うちも知りません!」
河口内の流れが船体へ当たる。
海から川へ向かう上げ潮。
犬島は砂州の位置を探した。
左岸側。
葦の手前。
水深が急に浅くなっている。
犬島は左舷錨鎖をさらに出した。
右舷錨の抵抗によって船首が少し右へ向き、艦尾が左へ振られる。
その反動を利用し、船体を左岸方向へ寄せる。
「今……!」
両錨鎖を固定。
網と錨が船体を後ろから引く。
惰性で進む艦首だけが、左岸砂州へ向いた。
船底が砂へ触れる。
ざざざざっ――。
犬島の小さな体が揺れる。
速力一・五ノット。
一ノット。
船首が砂を押し分ける。
網に拘束された艦尾は川の中央に残り、船体が斜めに向く。
犬島は第一砲塔の基部へしがみついた。
「止まって……!」
〇・五ノット。
〇・二ノット。
最後に船首が少し持ち上がり、船底が砂州へ深く食い込んだ。
海防艦「犬島」は停止した。
河口入口から約五百八十メートル。
道路橋までは五百メートル以上。
漁船との接触なし。
導流堤への衝突なし。
燃料漏れなし。
犬島はまた河口へ突っ込んだ。
十回目だった。
---
犬島は艦首に座り込んだ。
海面へ伸びた黒い流し網。
網に包まれた錨鎖。
動かない両推進器。
固定された舵。
そして、両岸に挟まれた川。
「十回目……」
犬島は両手で顔を覆った。
「とうとう、二桁になった……」
九回目までは、何とか「偶然が重なった」と思えた。
十回目となると、自分でも不安になる。
本当に自分は無意識に河口へ向かっているのではないか。
艦娘として、自分では気付かない欠陥があるのではないか。
海防艦「犬島」という存在そのものに、河口へ引かれる性質があるのではないか。
「うち……どこか、おかしいんかな」
犬島は自分の船体を調べた。
機関操作記録。
舵角。
針路。
航跡。
通信。
すべて正常だった。
正規航路を進んでいた。
網を発見する前、犬島に操艦上の誤りはない。
網には灯火も浮標もなかった。
水中探信儀も、推進器へ絡む直前まで識別できなかった。
それでも、十回という数字は重かった。
交通管制から通信が入る。
『犬島、停止を確認しました。救難隊が河口へ到着します』
「はい」
『負傷は』
「ありません」
『船体は』
「推進器と舵に網。錨鎖にも絡んどります。船首は砂州へ乗り上げました。浸水なしです」
『了解しました』
犬島は少し迷った後、尋ねた。
「管制さん」
『はい』
「今回も……うちが悪いんでしょうか」
『現時点で犬島の過失を示す情報はありません』
「でも、十回目です」
通信の向こうが静まった。
『回数と本件の責任は分けて考える必要があります』
「はい……」
正しい言葉だった。
だが、犬島の不安は消えなかった。
---
所属鎮守府へ事故報告が届いたとき、提督は最初に犬島の無事を確認した。
次に他船と沿岸施設の被害。
最後に原因。
無灯火、無標識の違法流し網。
両推進器と舵への同時絡網。
錨鎖にも絡み、投錨による停止も困難。
提督は報告書を机へ置いた。
「十回目か……」
明石が隣で航跡図を見る。
「犬島ちゃんは指定航路の中央ですね」
「ああ」
「速力も規定以下です」
「ああ」
「網は水中に沈められていて、浮標も灯火もありません」
「回避不可能だな」
「今回も、犬島ちゃんは悪くありません」
提督は頷いた。
しかし、事故が十回目となったことで、軍令部はそれだけでは済ませなかった。
翌日、軍令部から正式な通達が届いた。
«海防艦「犬島」に関する特別総合調査を実施する。»
調査対象は今回の事故だけではない。
犬島が過去に経験した、河口に関係する全事故。
操艦能力。
判断力。
船体設計。
精神状態。
航法装置。
実艦と艦娘の接続機構。
さらには、犬島が河口を意図的に選んでいる可能性まで調査すると記されていた。
---
救難隊が到着すると、犬島は網から解放された。
潜水員が推進器へ絡んだ金属ワイヤーを切断する。
錨鎖を包んでいた網も少しずつ取り除かれた。
舵板には擦り傷が入っていたが、舵取機そのものに損傷はない。
推進軸も曲がっていなかった。
満潮時に曳船が艦尾を引き、犬島は砂州から離礁した。
河口を出るとき、両岸の漁師たちが手を振った。
「犬島は悪くないぞ!」
「網を張った奴が悪い!」
「よく船へ当てずに止めた!」
犬島は艦首から頭を下げた。
「ありがとうございます」
声は少し震えていた。
励ましてもらえることは嬉しい。
けれど心の奥には、「本当に?」という不安が残っていた。
所属鎮守府の指揮艇が海側で待っていた。
提督が実艦「犬島」へ移る。
甲板へ響く足音。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島は第一砲塔の前で、その音を待っていた。
提督が姿を見せる。
犬島はいつものように駆け寄った。
だが今回は、袖をつかむ前に少しためらった。
「提督」
「ああ」
「十回目です」
「聞いている」
「また、河口へ行きました」
「ああ」
「うち……おかしいんでしょうか」
提督はすぐに否定しなかった。
犬島を安心させるためだけに、根拠のない言葉を言うべきではないと思ったからだ。
「軍令部が調査する」
犬島の肩が下がった。
「やっぱり、疑われとるんですね」
「事故原因を全て確認するためだ」
「うちが無意識に河口へ行っとるかもしれんって?」
「その可能性も含めて、否定するための調査だ」
犬島はうつむいた。
「怖いです」
正直な声だった。
「もし、うちの中に何か変なところが見つかったら……」
「そのときは修理か治療を行う」
「所属鎮守府におれますか」
「ああ」
「船を取り上げられませんか」
「調査結果が出るまでは、何も決まっていない」
犬島は不安そうに提督を見る。
提督は犬島の頭へ手を置いた。
「ただし、私が確認した今回の航海記録では、犬島に過失はない」
「今回だけですか」
「過去の事故も、これまでの調査では全て責任なしだ」
「でも、軍令部がもう一回調べるんでしょう」
「ああ」
犬島は提督の袖をつかんだ。
今度は強く。
「調査が終わるまで、一緒におってください」
「分かった」
「軍令部に行くときも?」
「ああ」
「帰るときも?」
「ああ」
一度約束を聞くと、犬島は少しだけ落ち着いた。
「……はい」
---
軍令部の特別調査は、通常の事故調査よりもはるかに厳格だった。
海防艦「犬島」は軍令部直轄の検査施設へ回航された。
船体は乾ドックへ入れられ、艦首から艦尾まで検査された。
外板。
骨材。
推進軸。
舵。
機関。
配電系統。
航法装置。
通信設備。
艦娘との接続機構。
設計図と実物が、一つずつ照合された。
犬島自身も検査を受けた。
距離感覚。
方向感覚。
状況判断。
航路保持能力。
緊急時の反応。
睡眠中の意識状態。
川や河口という言葉に対する心理反応。
軍令部の調査官は、犬島へ何度も質問した。
「河口を見ると、そこへ入りたいと感じるか」
「感じません」
「川に安心感を覚えることは」
「海の方が安心します」
「事故時、意図的に河口を選んだ事例があるな」
「ほかの船や施設へ当たらんためです」
「河口以外に安全な選択肢はなかったのか」
「そのときの記録に、全部残っとります」
犬島は質問へ真面目に答えた。
怒りもせず、ごまかしもしなかった。
ただ、「河口へ行きたいと思ったことはない」という部分だけは、少し強い声になった。
「うちは海防艦です」
犬島は調査官をまっすぐ見た。
「川へ行くための艦じゃありません」
調査官は何も言わず、記録表へ書き込んだ。
別室では、過去十件の航海記録が再解析された。
第一事故。
台風による係留索破断。
犬島は増し係留を行っていた。
規則違反なし。
第二事故。
対策強化後、漂流台船が岸壁の係留設備そのものを破壊。
犬島に過失なし。
第三事故。
貨物船が指定航路を誤り、犬島の進路を塞いだ。
河口以外へ避ければ、貨物船との衝突と大規模油流出の危険があった。
犬島に過失なし。
第四事故。
港湾工事区域の予測不能な海底異常。
犬島は指定航路を航行していた。
過失なし。
第五事故。
港湾施設の制御・設備上の重大な故障。
犬島の操艦では回避不能。
過失なし。
第六事故。
送電設備の倒壊により正規航路が閉塞。
犬島は管制許可を受けて通航中だった。
過失なし。
第七事故。
海底工事の圧縮空気噴出による推進力と舵効の喪失。
犬島は安全距離を確保していた。
過失なし。
第八事故。
深海棲艦との戦闘で生じた、通常検査では発見不能な推進軸・舵軸損傷。
突然の脱落後、投錨によって河口直前で停止。
犬島に過失なし。
第九事故。
係留索の内部腐食と、港湾位置監視設備の切り替え不備。
投錨禁止区域であり、犬島は規則に従っていた。
過失なし。
第十事故。
違法流し網の無灯火・無標識設置。
両推進器、舵、錨鎖の機能を同時に奪われた。
犬島に過失なし。
軍令部は、それぞれの事故について別の操艦を行った場合の模擬計算も実施した。
犬島がもっと早く機関を使っていたら。
逆方向へ舵を切っていたら。
錨を先に下ろしていたら。
河口を避けて岸壁側へ向かっていたら。
ほとんどの結果で、実際より大きな被害が発生した。
他船との衝突。
油流出。
橋脚損傷。
港湾火災。
船体横転。
人命被害。
犬島が河口を選んだ事例では、それが最も被害の少ない選択だった。
流されて河口へ入った事例では、犬島が事故を予測する方法が存在しなかった。
調査開始から三週間後。
軍令部は最終審査会を開いた。
---
犬島は審査室の外にある長椅子へ座っていた。
隣には提督がいる。
犬島は両手を膝の上へ置き、閉ざされた扉を見つめていた。
調査官たちの足音が廊下を行き来する。
犬島は提督の足音ならすぐに聞き分けられる。
だが軍令部の人々は、全員同じような硬い靴音に聞こえた。
「提督」
「何だ」
「うち、帰れますか」
「調査結果が出れば分かる」
「悪くないって、言うてもらえますか」
「記録上はそうなるはずだ」
「はず、ですか」
犬島は不安そうに提督の袖をつかんだ。
「断言できる立場ではない」
「……はい」
「だが、私は犬島に過失がないと考えている」
犬島は少しだけ提督へ近づいた。
扉の向こうで椅子が動く音がする。
やがて審査室の扉が開いた。
「海防艦・犬島。入室してください」
犬島は立ち上がった。
一歩進む。
それから振り返る。
提督がついてきていることを確認し、ようやく部屋へ入った。
審査室には、軍令部の将官、技術士官、航海専門官、艦娘研究官が並んでいた。
中央に、厚い調査報告書が置かれている。
犬島は正面へ立った。
小柄な身体をまっすぐ伸ばす。
「海防艦・犬島です」
審査委員長が報告書を開いた。
「過去十件にわたる河口関連事故について、総合調査を実施した」
犬島は黙って聞く。
「船体構造、機関、操舵装置、航法装置および艦娘との接続機構に、事故を誘発する共通の欠陥は発見されなかった」
犬島の指先が少し動く。
「艦娘・犬島の方向感覚、距離判断、操艦能力、緊急時判断にも異常は認められない」
「はい……」
「河口または河川へ意図的、無意識的に向かう心理的傾向も確認されなかった」
犬島は大きく息を吸った。
委員長は続ける。
「十件の事故は、原因がすべて異なる」
台風。
設備破壊。
他船の航路誤り。
海底異常。
港湾施設の故障。
送電設備の倒壊。
工事事故。
戦闘損傷。
係留索の内部腐食。
違法流し網。
「各事故において、犬島が事前に原因を予測し、回避することは不可能または著しく困難だった」
「……はい」
「事故発生後の判断についても、全件で妥当、または最善と認められる」
犬島は提督の方を一度だけ見た。
提督は静かに頷いた。
委員長は最終頁へ進んだ。
「したがって、軍令部特別調査委員会は、海防艦・犬島について次のように結論する」
室内が静まり返る。
«海防艦「犬島」ならびに艦娘・犬島に、河口関連事故を誘発する技術的、操艦的または心理的欠陥は存在しない。»
«過去十件の事故について、犬島の過失は一切認められない。»
犬島の琥珀色の瞳が、少し潤んだ。
だが委員長は、まだ報告書を閉じなかった。
「なお、十件の事故すべてで異なる外的要因が発生し、結果として同一艦が河口付近へ到達した事実について、統計的に説明可能な共通原因は確認できなかった」
委員長は一度、言葉を選ぶように間を置いた。
「軍令部としては、極めて異例ではあるが――」
犬島は緊張した。
「海防艦・犬島は、河口に関する運が著しく悪いと判断する」
審査室が静まり返った。
犬島は何度か瞬きをした。
「……運?」
「そうだ」
「うちの船体や操艦が悪いんじゃなくて?」
「違う」
「無意識に河口へ向かっとるわけでもなくて?」
「違う」
「ただ、河口に関する運が悪い?」
「軍令部の調査結果としては、そう結論せざるを得ない」
犬島はしばらく動かなかった。
軍令部が三週間掛けて調査した結論。
技術的欠陥なし。
操艦能力に問題なし。
心理的異常なし。
過失なし。
ただし、河口に関する運が悪い。
犬島は両手で顔を覆った。
「そんな結論、あるん……?」
審査委員の一人が答える。
「我々も、可能な限り別の表現を検討した」
「でも、運になったんですか」
「ほかに共通点がない」
「十回全部?」
「全部だ」
犬島はゆっくりと手を下ろした。
泣きそうな顔だった。
だが次第に、その表情へ安堵が混じる。
「じゃあ……うち、本当に悪くなかったんですね」
委員長は明確に頷いた。
「一度も悪くない」
犬島の肩から力が抜けた。
「よかったぁ……」
小さな声が、審査室に響いた。
軍令部の硬い空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
委員長は厚い報告書を犬島へ渡した。
表紙には、こう記されている。
海防艦「犬島」河口関連事故特別総合調査報告書
犬島は両手で受け取った。
「これ、持って帰ってもええですか」
「写しを用意している」
「今までの十枚と一緒にします」
「十枚すべて持ち歩いているのか」
「うちが悪くない証拠じゃけぇ」
委員長は少し困ったように咳払いした。
「今回の総合報告書一冊で、十件すべてを証明できる」
犬島は報告書を胸へ抱いた。
「じゃあ、これがいちばん大事です」
---
審査室を出ると、犬島は廊下で立ち止まった。
提督が隣へ来る。
犬島は制服の袖を両手でつかんだ。
「提督」
「何だ」
「うち、帰ってええんですよね」
「ああ」
「船も取り上げられませんよね」
「ああ」
「操艦してもええんですよね」
「ああ」
犬島は何度も頷いた。
「本当に、ただ運が悪かっただけなんじゃ……」
「河口に関してはな」
犬島の頬が少し膨らむ。
「そんな限定された運の悪さ、いらんです」
「誰も欲しがらないだろうな」
「十回ですよ」
「ああ」
「毎回、理由も違うんですよ」
「ああ」
「軍令部が調べても、全部ほんまに悪くなかったんです」
「ああ」
犬島は報告書を抱え直した。
「なら、ちょっとだけ自慢してもええですか」
「何をだ」
「十回とも、悪くなかったことです」
提督は犬島の頭へ手を置いた。
「そこではなく、十回とも大きな被害を防いで帰ってきたことを誇れ」
犬島は目を細めた。
「……はい」
深緑色のスカーフが、小さく何度も揺れた。
「えへへ」
褒められた嬉しさが隠しきれない。
だが少し経つと、犬島は心配そうに尋ねた。
「十一回目は、ないですよね」
「断言はできない」
犬島の表情が固まる。
「軍令部が運が悪いって認めたんですよ」
「だからこそ断言できない」
「嫌じゃ……」
犬島は提督の袖をさらに強くつかんだ。
「次から、河口の近くを通らん航路にしてください」
「可能な限り考慮する」
「河口が見えたら、遠回りしてもええです」
「任務と安全に支障がなければな」
「停泊地も川のない場所にしてください」
「日本の港では難しい場合もある」
犬島はますます不安そうになる。
提督は続けた。
「ただし今後、犬島の航海計画では河口周辺を特別注意区域として扱う」
「ほんまですか」
「ああ。港湾設備、潮流、係留索、他船、海底工事、漁具まで事前に確認する」
犬島の顔が少し明るくなる。
「軍令部も協力するそうだ」
「軍令部も?」
「十一回目を防ぐことが、今回の調査後の課題になった」
犬島は報告書を抱え、少し胸を張った。
「なら、大丈夫かもしれません」
「油断はするな」
「はい」
---
修理と網の除去を終えた実艦「犬島」は、所属鎮守府へ戻る日を迎えた。
艦内に乗員はいない。
艦橋には犬島一人。
背中に艤装はなく、足元の鋼鉄の船体すべてを自分の意思で動かしている。
右舷機関、始動。
左舷機関、始動。
推進軸、異常なし。
舵、左右作動よし。
錨と錨鎖、網の残留なし。
犬島は一つずつ、念入りに確認した。
艦橋の机には、軍令部の総合調査報告書が置かれている。
表紙の下には、犬島自身が小さな紙を挟んでいた。
そこには手書きで、
「犬島は悪くない。ただし河口運が悪い」
と書かれている。
犬島はそれを見るたび、少し複雑そうな顔をした。
「河口運って、何なんじゃろう……」
係留索が外される。
実艦「犬島」が岸壁を離れた。
白波川河口は、帰投航路とは反対側にある。
犬島は河口が見えない方角へ船首を向けた。
速力五ノット。
港口を通過。
外海へ出る。
犬島は艦橋から艦首へ移動した。
第一砲塔の前へ立つ。
海風が濃紺色の髪と深緑色のスカーフを揺らす。
広い海。
前方に川はない。
導流堤もない。
砂州もない。
犬島は少し安心したように息を吐いた。
通信機から所属鎮守府の提督の声が届く。
『犬島、航路上の異常は』
「ありません。漁網もありません」
『河口は』
「見えません」
『なら、そのまま帰投せよ』
「はい」
犬島は明るく返事をした。
「犬島、帰ります」
所属鎮守府では、仲間たちが待っている。
軍令部の調査で拘束されていた間、犬島は何度も港の夢を見た。
提督の足音。
工廠の金属音。
帰投する艦娘たち。
自分へ向けられる「おかえり」の声。
犬島は実艦の速力を少しだけ上げた。
早く帰りたい気持ちが、推進軸の回転へ表れる。
「急ぎすぎるな」
通信越しに提督が注意する。
犬島は首を傾げた。
「ちょっとしか上げとらんですよ」
『航海記録に残っている』
「見とったんですか」
『犬島が河口以外へ進んでいることも確認している』
犬島は少し笑った。
「なら、安心してください」
実艦「犬島」は青い海を進む。
河口事故、十回。
犬島の過失、零回。
それはもはや、疑いようのない事実となった。
犬島は不注意でも、操艦が下手でもなかった。
むしろ事故のたび、他船、港、橋、住民、海を守るために、最も被害の少ない方法を選び続けた。
ただ、河口に関する運だけが、どうしようもなく悪かった。
犬島は水平線を見つめる。
「十一回目は、絶対に嫌じゃからな」
誰に言うでもなく宣言する。
足元の実艦は、二本の推進軸を規則正しく回した。
犬島は甲板へ手を置いた。
「今度こそ、普通に帰ろうな」
そして少しだけ付け加える。
「川のない方へ」
実艦「犬島」は、十番目の河口を遠く後ろへ残し、帰るべき鎮守府へ向かってまっすぐ進んでいった。