海防艦・犬島
――白い海に閉じ込められて――
海防艦「犬島」は、所属鎮守府から南へ百二十海里離れた海域を航行していた。
艦内に乗員はいない。
艦橋にも、機関室にも、砲側にも、犬島以外の姿はなかった。
白い水兵服を着た小柄な艦娘が一人、実艦の艦首に立っている。
濃紺色の髪。
琥珀色の瞳。
深緑色のスカーフ。
右側の髪には、淡い桃色の髪留め。
背中に艤装はない。
三基の十二糎単装砲、二基のディーゼル機関、二本の推進軸、舵、錨、通信装置。
全長七十八・九メートルの実艦そのものが、犬島の大きな身体だった。
「針路、三一二度」
犬島は水平線を見ながら、小さく確認する。
「速力、十二ノット。両舷機関、異常なし」
任務は、離島への医薬品輸送だった。
犬島の船倉には、医療施設で使う薬品、発電機用の交換部品、保存食が積まれている。
深海棲艦の反応はない。
天候も良好。
海面は穏やかだった。
犬島は輸送任務を終え、所属鎮守府へ帰る途中だった。
「今日は、普通に帰れそうじゃな」
前方にも、左右にも、川はない。
河口もない。
港湾工事も、係留索も、貨物船もない。
十回にわたる河口関連事故を経験した犬島にとって、見渡す限り外洋という状況は、むしろ安心できるものだった。
「ここまで海の真ん中なら、さすがに河口は来んよな」
犬島は少し笑った。
軍令部の特別調査によって、犬島に操艦上の問題がないことは正式に認められている。
結論は、河口に関する運が極端に悪いというものだった。
その報告書は、今も艦橋の机へ大切に保管されている。
「今日は河口と関係ないけぇ、大丈夫」
犬島は艦首甲板へ手を置いた。
「このまま、まっすぐ帰ろうな」
二本の推進軸が、滑らかに海水をかいた。
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異変を最初に伝えたのは、所属鎮守府からの広域通信だった。
『周辺海域を航行中の全艦艇へ。南東約八十海里で海底火山活動を確認。噴出した軽石群が海流に乗り北西方向へ移動中』
犬島は艦橋へ戻った。
気象海象情報を表示する。
海底火山の噴火自体は小規模だった。
津波の危険はない。
噴煙も海面付近に限られている。
問題は、大量に噴出した軽石だった。
内部に無数の気泡を含む軽石は水へ浮く。
海面を漂い、風と潮流に運ばれる。
大規模な軽石群は、船舶の冷却取水口を塞ぎ、推進器へ巻き込まれ、機関故障を起こすことがある。
犬島は海図へ軽石群の予測位置を重ねた。
現在の航路とは、三十海里以上離れている。
「うちの方には来ん予報じゃな」
それでも犬島は速力を十ノットへ落とした。
海面監視装置の感度を上げる。
機関冷却水の圧力を細かく確認する。
『海防艦・犬島、軽石群は貴艦の航路から東側を通過する見込みです』
「了解しました。念のため見張りを強化します」
犬島は通信を終えた。
規則通り。
注意情報に従い、速度も下げた。
まだ海面には異常がない。
ところが、海底火山から噴出した軽石の一部は、予測されていない深さを漂っていた。
大きな塊は海面へ浮いた。
しかし海水を含んで浮力の小さくなった細かな軽石は、海面下数メートルに層を作っていた。
人工衛星からは見えない。
航空機からも、海面下の層までは確認できない。
その層は、海流の境界に沿って細長く伸びていた。
犬島が進んでいる航路を、横断する形で。
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午後二時十三分。
犬島の右舷取水口に、小さな圧力変化が生じた。
「ん?」
右舷機関の冷却水量が、わずかに低下する。
警報が鳴るほどではない。
犬島は右舷機関の出力を下げ、予備取水口へ切り替えた。
「海藻でも吸ったんかな」
直後、左舷側の冷却水量も下がった。
さらに、船底から細かな衝撃が連続して伝わる。
ぱらぱら。
ざらざら。
小石が船底へ当たっているような音。
犬島は艦橋から海面を見た。
海は青い。
目立った漂流物はない。
しかし水中探信儀には、船体周囲を埋める無数の反応が出ていた。
「何、これ……」
犬島は海面下の映像を表示した。
灰色や白色の小さな石が、海水中を漂っている。
数十個ではない。
数千。
数万。
水中全体が軽石で埋まっていた。
「軽石群……海の下におったん!?」
犬島は両機関を低速にした。
推進器へ巻き込まないため、できる限り回転を落とす。
だが、すでに船体は軽石層の中央へ入っていた。
細かな軽石が右舷推進器へ吸い込まれる。
推進器の羽根と船尾外板の間へ挟まる。
ごりごりごりっ――。
犬島の右脚に、硬いものを押し込まれるような感覚が走った。
「右舷、停止!」
右舷機関を緊急停止する。
左舷推進器だけで船首を軽石層の外へ向けようとした。
しかし左舷側にも軽石が集まる。
大きな塊が推進器へ当たり、砕ける。
破片が舵取機周辺へ入り込む。
「左も止まって!」
両機関停止。
推進軸が止まる。
惰性で進む犬島の船体へ、海面下の軽石が次々と当たった。
左右の冷却取水口。
補助発電機用取水口。
消火ポンプ取水口。
細かな軽石が網目へ詰まり、海水の流入を妨げる。
右舷機関の冷却水圧が低下。
左舷側も低下。
補助発電機の温度が上昇する。
犬島はすぐに主機械を完全停止した。
無理に動かせば、冷却不足によって機関を焼き付かせる。
発電機も一基を停止し、残る一基を最低出力へ落とす。
「機関、全部止めます」
所属鎮守府へ緊急通信を送る。
「海防艦・犬島、予測外の海中軽石群へ進入! 両推進器と取水口に軽石が詰まりました!」
『犬島、現在位置を確認。軽石群は衛星観測範囲外です』
「両機関を停止しました。冷却水が入りません」
『自力航行は』
「できません。舵も軽石で動きが重いです」
犬島は周囲を確認した。
陸地まで二十海里。
河口も港もない。
その点だけは安心できた。
だが別の危険が近づいていた。
犬島の南西約三海里に、大型液化ガス運搬船が航行していた。
全長二百メートルを超える船。
犬島の前方を横切る予定だったが、犬島が停止したことで最接近距離が急速に縮まっている。
大型船から通信が入る。
『海防艦・犬島、こちら東海ガス輸送船・青洋丸。貴艦の停止を確認した。操艦可能か』
「操艦できません。両機関停止、舵も十分に動きません」
『こちらは右転して回避する』
大型船は進路を変え始めた。
しかし青洋丸の周囲にも、海面下の軽石群が広がっていた。
犬島より大型の船は、取水口も推進器も深い。
軽石層の影響を受ける可能性が高い。
青洋丸の機関出力が低下した。
『右舷機関の冷却水圧低下!』
通信から緊迫した声が聞こえる。
『左舷機関も温度上昇!』
大型船の回頭速度が落ちる。
犬島との距離、二千メートル。
千五百メートル。
青洋丸は完全停止できない。
犬島は自分の船体を動かせない。
風は北東から弱く吹いている。
潮流は犬島を青洋丸の進路側へ運んでいた。
「このままじゃ、当たる……」
犬島は艦橋の海図を見た。
錨を下ろすには水深が深すぎる。
現在地の水深は二百メートル以上。
犬島の錨鎖では海底へ届かない。
推進器は使えない。
舵も効かない。
曳船到着まで一時間以上。
犬島は残された装備を確認した。
三基の十二糎砲。
爆雷投射機。
燃料。
注排水装置。
錨。
係留索。
救命艇。
通常の推進手段はない。
だが、船体へ力を加える方法が一つだけ残っていた。
主砲の反動。
犬島は海図と大型船の進路を計算した。
犬島の船首を少し東へ向ければ、青洋丸との最接近距離を広げられる。
必要な回頭角は、わずか数度。
通常航行なら簡単な修正。
今の犬島には、主砲を使うしかない。
「砲の反動で、向きを変えます」
『所属鎮守府より犬島。実施可能か』
「船体は止まっとります。砲を右舷へ向けて撃てば、船首を少し左へ振れるはずです」
『周囲に他船は』
「砲弾は使用しません。空砲用装薬だけです」
『船体への負荷は』
「通常射撃より小さいです」
犬島は第三十二糎砲を右舷方向へ向けた。
砲身仰角を上げる。
砲弾は装填しない。
発射薬だけを使用する。
第一、第二砲塔は船体中央へ固定。
第三砲塔のみで反動を得る。
「青洋丸、これから空砲射撃で船首を変えます!」
『了解。こちらも可能な限り左へ回頭する』
犬島は艦首甲板へ移動した。
背中に艤装はない。
実艦全体を意識で動かしながら、第一砲塔の前へ立つ。
大型船の船首が近づいている。
距離、千メートル。
「一発目、撃ちます!」
第三砲塔が火を噴いた。
どんっ――!
砲弾はない。
だが発射薬の爆発と砲身から噴き出すガスが、船体へ反動を与える。
犬島の艦尾が左へ押される。
船首がわずかに右へ向いた。
「逆じゃ……!」
犬島はすぐに計算を修正した。
自分が砲塔の向きと回頭方向を一瞬取り違えたのではない。
海流と軽石群による抵抗が、予想以上に艦尾側へ偏っていた。
砲撃反動だけでは、意図した方向へ回らない。
犬島は第一砲塔を左舷側へ向けた。
第三砲塔は右舷。
船体の前後へ異なる方向の反動を加え、回転力を作る。
「今度は、二基同時」
青洋丸との距離、七百メートル。
「撃ちます!」
二基の砲が、逆方向へ空砲を放った。
船首側は右へ。
艦尾側は左へ。
犬島の船体がゆっくりと回る。
一度。
二度。
三度。
必要な方向へ船首が動いた。
「あと二度……!」
もう一度、空砲射撃。
海防艦「犬島」の船首が、青洋丸の進路から外れる。
大型船も残った推力で進路を変えていた。
最接近距離、四百メートル。
三百メートル。
二百二十メートル。
犬島は艦首から巨大な船体を見上げた。
青洋丸の船首が、犬島の前方をゆっくりと通過する。
波が犬島の船体を大きく揺らした。
それでも接触はしなかった。
『青洋丸より犬島。回避成功。感謝する』
犬島は大きく息を吐いた。
「そちらも無事ですか」
『機関温度は高いが、非常冷却系へ切り替えた。完全停止して救援を待つ』
「よかった……」
犬島は甲板へ座り込んだ。
大型船との衝突は避けられた。
だが異常事態はまだ終わっていなかった。
---
海面下の軽石群は、犬島の周囲へ集まり続けていた。
船体が動かないことで、潮流に運ばれた軽石が船首や船尾へ堆積する。
灰色の石が、海面近くにも浮かび始めた。
青かった海が、白と灰色へ変わっていく。
犬島の船体は、まるで固まりかけた地面の中へ閉じ込められているようだった。
軽石同士がこすれ合う。
ざらざら。
ごりごり。
船体外板へ無数の細かな傷が入る。
犬島は甲板へ手を置いた。
「痛い……」
一つ一つは小さな傷だった。
だが船体全体を包まれ、長時間こすられる感覚はつらい。
犬島は燃料タンクと海水タンクを調整し、船体を少しだけ船首上がりにした。
取水口周辺の圧力を変え、軽石が自然に外れる可能性を探る。
消火用の海水は使えない。
取水口が塞がれている。
船内に残っている清水を大量に使えば、一時的に軽石を洗い流せるかもしれない。
だが清水は限られている。
犬島は必要最低限だけを船尾周辺へ放出した。
推進器の一部が見える。
しかし羽根の間には、砕けた軽石がぎっしりと詰まっていた。
機関を始動すれば、羽根や軸受を傷つける。
「動かしたらいけんな……」
犬島は救援を待つことにした。
所属鎮守府から工作艦と大型曳船が向かっている。
到着まで約五十分。
犬島は艦首に座り、周囲を見張った。
灰色の海。
停止した大型ガス運搬船。
遠くから近づく救援艦。
犬島は少し不安になった。
「提督も来るんかな」
通信機からすぐに声が返った。
『聞こえているぞ』
犬島が顔を上げる。
提督は所属鎮守府の指揮所から通信していた。
「提督」
『怪我は』
「艦娘の体にはありません。船体は、軽石でいっぱい擦られとります」
『救援隊が到着するまで機関を動かすな』
「はい」
『主砲の状態は』
「空砲を四回。異常ありません」
『大型船との距離を確保した判断は適切だった』
犬島は少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「えへへ……」
『ただし、最初の一発は計算と違う方向へ回ったな』
犬島の表情が固まる。
「見とったんですか」
『航海記録を受信している』
「最終的には避けられたでしょう」
『ああ。よく修正した』
犬島は頬を少し膨らませながらも、深緑色のスカーフを嬉しそうに揺らした。
「今回は、河口じゃないです」
『そうだな』
「川もありません」
『周囲は外洋だ』
「河口運とは関係ないです」
『そうだな』
犬島は少し考える。
「でも、海全体が石になっとるんですけど……」
『河口以外の運も良いとは限らないらしい』
犬島は甲板へ突っ伏した。
「そんなぁ……」
---
救援隊が到着したとき、海防艦「犬島」の周囲は数十メートルにわたり軽石で覆われていた。
工作艦は直接接近せず、最初に小型無人艇を送った。
無人艇の推進器にも軽石が入りかけたため、放水装置で進路を作りながら進む。
高圧水流が軽石を左右へ押し分ける。
犬島の船体まで細い水路が開かれた。
次に潜水作業員が、特殊な防護網を装着して海へ入った。
両推進器。
舵。
取水口。
付着した軽石を一つずつ取り除く。
犬島は艦首から作業を見守っていた。
「右舷推進器、羽根に大きな損傷なし!」
水中から報告が届く。
「左舷側も異常なし!」
「舵取機周辺、軽石の噛み込みあり。除去します!」
犬島は安心したように息を吐いた。
「壊れとらんのじゃな……」
工作艦から提督が移乗してきた。
実艦の甲板へ足音が響く。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島はすぐに振り返った。
「提督!」
第一砲塔の横から現れた提督へ駆け寄る。
制服の袖を両手でつかんだ。
「迎えに来てくれた」
「ああ」
「河口じゃないところでも」
「事故現場がどこでも迎えに行く」
犬島は少しだけ提督へ体を寄せた。
「海の真ん中なら大丈夫じゃと思ったんです」
「軽石は海にあるものだからな」
「予報では、うちの航路に来んはずじゃったんです」
「海面下を漂う層は観測できていなかった」
「速度も落としました」
「ああ」
「見張りも強化しました」
「ああ」
「取水圧が下がったら、すぐ予備へ切り替えました」
「ああ」
犬島は提督を見上げる。
「うち、悪くないですよね」
「一切悪くない」
即答だった。
犬島の肩から力が抜ける。
「よかったぁ……」
「むしろ早期に機関を停止したことで、機関と推進軸の大損傷を防いだ」
「はい」
「大型船との衝突も、砲の反動を利用して回避した」
「最初、一回だけ逆へ動きましたけど」
「すぐ修正した」
犬島は少し胸を張った。
「うち一人でも、考えたら何とかできるんです」
「ただし、砲の反動による操艦は非常手段だ」
「分かっとります」
犬島は提督の袖を離さず、灰色の海を見た。
「これ、全部なくなるんですか」
「自然に拡散するまで時間が掛かる」
「魚は大丈夫ですか」
「軽石自体の毒性は低いが、漁業や船舶への影響は調査が必要だ」
犬島は少し心配そうにうつむいた。
「海が苦しそうです」
軽石で埋まった水面。
呼吸できないように見える海。
提督は答える。
「犬島が壊さずに停止したから、油や燃料は流れていない」
「はい」
「少なくとも、これ以上海を汚さずに済んだ」
犬島は船体へ手を触れた。
「この子も、よう我慢してくれました」
「犬島自身だろう」
「そうなんですけど……」
犬島は船体を傷ついた仲間のように撫でた。
「頑張ったんは、褒めてあげたいんです」
---
軽石の除去には、丸一日を要した。
冷却取水口の格子は取り外され、内部まで洗浄された。
推進器の羽根へ挟まった軽石は、木製の工具で慎重に除去された。
舵軸周辺も清掃された。
船底外板には無数の擦り傷が入っていたが、浸水や亀裂はない。
機関そのものも、過熱前に停止したため損傷していなかった。
翌朝。
犬島は艦橋に立ち、機関再始動の準備を進めた。
艦内に乗員はいない。
小柄な艦娘一人が、全ての装置を動かす。
冷却取水弁、開。
海水ポンプ、始動。
右舷冷却水圧、正常。
左舷も正常。
潤滑油ポンプ。
始動空気。
燃料供給。
右舷機関が低い音を立てて動き始める。
続いて左舷。
二本の推進軸を最低回転数で回す。
振動なし。
異音なし。
舵を右へ。
正常。
左へ。
正常。
「全部、動きます」
犬島の表情が明るくなる。
工作艦から通信が入る。
『海防艦・犬島、所属鎮守府まで護衛します』
「ありがとうございます」
犬島は艦橋から艦首へ移動した。
海面にはまだ軽石が点々と残っている。
それでも昨日ほどではない。
青い海が戻り始めていた。
提督は帰投航海の間、犬島へ同乗することになった。
犬島は艦首に立ちながら、何度も後ろを振り返る。
提督が艦橋にいることを確認する。
一回。
二回。
三回。
『何度も確認しなくても、いるぞ』
艦内通信から提督の声が届く。
犬島は少し恥ずかしそうに正面へ戻った。
「海の真ん中で動けんようになったから、ちょっと不安なんです」
『機関は正常だ』
「はい」
『工作艦も同行している』
「はい」
『それでも不安か』
犬島は少し考えた。
「一人でも船は動かせます」
艦橋の方を見る。
「でも、誰かがおる方が安心します」
提督は答えた。
『なら、所属鎮守府までいる』
犬島は嬉しそうに頷いた。
「はい」
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事故後、軍令部と海上交通部門は軽石対策を見直した。
海面観測だけではなく、海中を漂う軽石層を探知する装置の研究が始まった。
軽石群が予測海域から外れて移動する可能性も、航行警報へ加えられた。
海防艦「犬島」の記録は、機関停止判断と非常操艦の事例として教材になった。
事故調査報告書には、次のように記載された。
«海防艦「犬島」は、事前に提供された軽石漂流予測から十分な距離を確保した正規航路を航行していた。»
«犬島は航行警報受信後、速力低下、見張り強化および冷却水圧監視を実施しており、必要な予防措置をすべて行っていた。»
«本件軽石群は海面下を漂流していたため、既存の衛星、航空および目視観測では事前発見が困難だった。»
«犬島が冷却水圧低下と推進器異常を認識した後、直ちに両機関を停止した処置は適切であり、主機械の過熱損傷を防止した。»
«また、航行不能となった大型液化ガス運搬船との衝突を避けるため、主砲空砲射撃の反動を利用した船体回頭は、極めて異例ながら有効な緊急処置であった。»
結論。
«本件において、海防艦「犬島」および艦娘・犬島に過失は一切認められない。»
犬島は所属鎮守府の執務室で報告書を読んだ。
軍令部による河口事故総合報告書とは別の、新しい一冊。
犬島は表紙を見つめる。
海中軽石群遭遇・機関冷却系閉塞事故報告書
「河口って書いとらん」
犬島は少し嬉しそうだった。
「今度は本当に河口と関係ないな」
提督が答える。
「はい」
犬島は報告書を胸へ抱いた。
「河口じゃなくても事故は起きるんですね」
「海を航行している以上、異常事態はある」
犬島は少し顔を曇らせる。
「うち、今度は海全体に関する運も悪いって言われませんか」
「一件だけでは判断できない」
「二件目はいりません」
「誰も求めていないだろう」
犬島は真剣に頷いた。
「軽石も、流し網も、送電線も、台船も、もう十分です」
「深海棲艦は」
「そっちは任務じゃから戦います」
犬島は少し胸を張った。
「でも、戦う相手じゃないものに壊されるんは嫌です」
「今回は壊れていない」
「擦り傷はいっぱいです」
犬島は実艦の船底を思うように、自分の脇腹を少し撫でた。
「明石さんに、全部きれいに塗り直してもらいます」
「そうするといい」
犬島は報告書を机へ置き、提督の袖を軽くつかんだ。
「工廠へ行きますか」
「ああ」
「一緒に行きます」
「自分の船体だから当然だろう」
「そうじゃなくて」
犬島は少しだけ提督へ近づいた。
「同じ足音で、一緒に行きたいんです」
提督は歩き始めた。
犬島も隣へ並ぶ。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い、よく知っている足音。
その音を聞きながら、犬島は工廠へ向かった。
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修理を終えた実艦「犬島」は、夕暮れの鎮守府前を航行していた。
乗員はいない。
艦橋には犬島一人。
艤装はなく、足元の実艦すべてを自分の意思で動かしている。
船底には新しい塗装。
冷却取水口には、軽石を除去しやすい改良型格子。
機関は正常。
推進器も舵も滑らかに動く。
犬島は艦首へ立った。
夕日が海面を橙色に染めている。
河口はない。
軽石もない。
大型船との接近もない。
犬島は少しだけ警戒しながら、それでも穏やかな海を見つめた。
「海って、何にもないように見えても、いろんなものがおるんじゃな」
魚。
海藻。
流木。
流し網。
軽石。
深海棲艦。
見えるものも、見えないものもある。
犬島は鋼鉄の甲板へ手を触れた。
「でも、何が来ても一緒に帰ろうな」
実艦は二本の推進軸を回し、静かな航跡を作る。
犬島は少し笑った。
「今度は、白い海じゃなくて、青い海を進みたいけぇ」
海防艦「犬島」は、河口とは何の関係もない異常事態を乗り越え、夕暮れの青い海を所属鎮守府へ向かって進んでいった。