しかし今回はかなり重大な事だったため軍令部の調査が行われるがやはり犬島に過失はないため、軍令部からも運がなさすぎて逆に犬島は愛されるようになった
海防艦・犬島
――軍令部に愛された、世界一ついていない艦――
海防艦「犬島」は、軍令部直轄の試験港へ向かっていた。
艦内に乗員はいない。
艦橋にも機関室にも、砲側にも通信室にも、犬島以外の姿はなかった。
濃紺色の短い髪。
琥珀色の瞳。
白い水兵服と紺色のスカート。
胸元には深緑色のスカーフ。
右側の髪には、故郷の岡山を思わせる淡い桃色の髪留めが付いている。
犬島は艤装を身に着けていなかった。
全長七十八・九メートル。
三基の十二糎単装砲。
二基のディーゼル機関。
二本の推進軸。
一枚の舵。
その実艦そのものが、犬島の身体だった。
「軍令部の港って、何か緊張するなあ……」
犬島は艦橋前部に立ち、遠くに見える防波堤を眺めた。
その日は、所属鎮守府へ配備予定の新型通信装置を受け取るため、軍令部試験港へ呼ばれていた。
犬島自身が試験へ参加するわけではない。
港内に停泊し、装置を積み込み、動作確認を終えたら帰るだけの予定だった。
海は穏やか。
風速二メートル。
波高二十センチ。
周囲に河口はない。
海底火山も、漂流網も、係留索も関係ない。
犬島は事前に何度も海図を確認していた。
「川もない」
艦橋の机へ広げた海図を指でなぞる。
「河口もない。海底工事もなし。送電線もなし」
少し安心したように頷いた。
「今日は、ほんまに普通の用事じゃな」
試験港には、多数の軍艦と軍令部所属艦が停泊していた。
沖合には標的艦。
東側には弾薬埠頭。
西側には軍用輸送船用の岸壁。
港の外には民間航路があり、旅客船や貨物船が定期的に通過する。
そして港周辺には、新たに開発された無人沿岸防衛網が設置されていた。
自動砲台。
無人迎撃艇。
対艦誘導弾発射機。
水中監視装置。
深海棲艦の大規模襲撃を想定し、人間や艦娘の指示を待たずに迎撃を開始する防衛システムだった。
ただし、その日は実弾試験の日ではない。
犬島が入港する時間帯には、すべての攻撃機能が停止される予定だった。
軍令部からも、正式な安全確認書が届いている。
『海防艦・犬島へ。試験港外側航路への進入を許可します』
「犬島、了解しました」
『新型防衛網は訓練状態に固定されています。実弾発射機能は停止済みです』
「確認しました」
犬島は速力を六ノットまで落とした。
正規航路の中央を進む。
進路、速力、通信、すべて規則通りだった。
---
事故の原因となったのは、小さな識別番号だった。
軍令部の新型防衛網は、艦艇から送信される識別信号を使って敵味方を判断する。
所属。
艦種。
艦名。
個体番号。
任務コード。
暗号鍵。
複数の情報を照合し、一つでも不一致があれば、人間の管制官へ確認を求める仕組みだった。
犬島の識別信号にも異常はなかった。
海防艦「犬島」。
所属鎮守府。
友軍艦。
入港許可済み。
暗号鍵も有効。
だが、防衛網の試験用データベースには、古い標的番号が残っていた。
数か月前、深海棲艦の行動を再現するために使われた無人標的艦。
その標的艦に仮設定されていた識別番号の一部が、犬島の実艦登録番号と偶然一致していた。
本来なら艦名や暗号鍵が異なるため、誤認することはない。
ところが前夜、防衛網の情報処理速度を上げるため、識別手順の一部が変更されていた。
最初に個体番号だけを高速照合し、「敵の可能性あり」と判定した後、詳細情報を確認する方式。
その変更作業中、詳細照合へ進む処理命令が一行だけ欠落していた。
結果として防衛網は、犬島の識別番号を見た瞬間、過去の無人標的艦と同一であると判断した。
敵性標的。
港湾防衛区域へ侵入中。
しかも、実弾発射機能は停止されているはずだった。
だが防衛網の中央制御装置は、訓練状態と実戦状態の切り替え表示だけを「訓練」に変更し、発射装置側の回路を実戦状態のまま残していた。
表示上は安全。
実際には実弾発射可能。
軍令部が最も起こしてはならない事故だった。
---
犬島が最初に異常を感じたのは、艦橋の警報装置だった。
短い電子音。
敵の射撃管制電波を受けた際の警報。
「え……?」
犬島は周囲を見回した。
深海棲艦の反応はない。
味方艦しかいない。
だが、警報は続いている。
港の東側に設置された無人砲台の砲身が、ゆっくりと動き始めた。
犬島の方へ。
「何で、こっち向いとるん……?」
港湾管制へ通信する。
「犬島より管制。東側砲台が、うちを追尾しとるように見えます」
『こちらでは訓練状態です。少々お待ちください』
「でも、射撃管制電波を受けとります」
『確認します』
無人砲台の砲身が止まる。
犬島の船体中央へ正確に向いていた。
続いて沖合の無人迎撃艇が、一斉に動き始めた。
三隻。
四隻。
五隻。
すべて犬島へ船首を向けている。
犬島は速力を落とした。
「管制、無人艇も接近してきます」
『防衛網へ停止命令を送信中です』
「入港を中止します。航路上で待機してもええですか」
『許可します。現在位置を維持してください』
犬島は両機関を後進へ入れ、船体を減速させた。
その判断に過失はない。
管制の指示を守り、勝手に航路を外れなかった。
だが、防衛網は犬島の減速を「攻撃準備」と判定した。
敵艦が港口で停止。
誘導兵器発射の可能性。
脅威度、上昇。
自動迎撃、開始。
東側無人砲台が火を噴いた。
どんっ――!
犬島の左舷前方へ、大きな水柱が上がった。
「実弾!?」
犬島は反射的に機関を全速前進へ入れた。
二本の推進軸が海水を強くかく。
二発目。
犬島の右舷後方へ着弾。
破片が艦尾外板を叩く。
「管制! 撃たれとります!」
『防衛網が実弾攻撃を開始! 全設備へ緊急停止命令!』
「止まりません!」
三発目が船体のすぐそばへ落ちる。
爆圧が犬島を揺らした。
濃紺色の髪が乱れ、艦橋の窓が震える。
沖合の無人艇も機関砲射撃を始めた。
小口径弾が海面を走り、犬島の左舷外板へ当たる。
金属音。
火花。
犬島の腕へ、細かな痛みが伝わる。
「どうしたらええん……!」
港の中へ逃げれば、弾薬埠頭や停泊艦を巻き込む。
外へ逃げれば民間航路がある。
停止すれば、砲台と無人艇の集中射撃を受ける。
犬島は周囲の状況を確認した。
左前方。
軍用輸送船。
右前方。
弾薬埠頭。
後方。
港外へ向かう民間旅客船。
旅客船には数百人が乗っている。
防衛網は犬島だけを敵と判断している。
犬島が旅客船の近くへ行けば、射線に巻き込む可能性がある。
犬島は港湾管制へ叫んだ。
「旅客船を南へ退避させてください!」
『犬島はどうする!』
「沖の標的海域へ行きます!」
『そこは無人砲台の射界内だ!』
「ここにおったら、埠頭や旅客船に当たります!」
犬島は船首を北東へ向けた。
港外の軍用標的海域。
人も船もいない。
攻撃を受けるなら、そこが最も被害の少ない場所だった。
「防衛網は、うちだけを狙っとるんでしょう」
『現在の追尾対象は犬島一隻だ』
「なら、うちが外へ連れていきます」
『危険すぎる!』
「ここで弾薬埠頭に当たる方が危ないです!」
犬島は両機関の出力を上げた。
十二ノット。
十四ノット。
艦首が波を切る。
無人砲台の射撃が犬島を追う。
着弾。
水柱。
爆圧。
犬島は左右へ小刻みに進路を変えた。
舵を切るたび、実艦の大きな船体が応える。
艤装を持たない小さな艦娘が、艦橋で一人、すべてを操っていた。
「前を見て、横を見て、後ろも見る」
犬島は自分へ言い聞かせる。
「それが護衛じゃけぇ」
今、守るべき対象は船団ではない。
港全体だった。
---
標的海域まで、あと一海里。
無人迎撃艇が左右から犬島へ迫る。
犬島は第一、第二十二糎砲を右舷側の無人艇へ向けた。
撃てば破壊できる。
だが無人艇は軍令部の装備であり、背後には港湾施設もある。
砲弾が外れれば、大きな被害になる。
犬島は主砲を撃たなかった。
代わりに、船体を大きく左へ傾けるよう急旋回する。
無人艇一隻が犬島の進路を読み違え、前方を通過した。
犬島はその後方へ回り込む。
もう一隻が右から接近。
機関砲を連射する。
砲弾が艦橋上部へ命中した。
電探の一部が砕ける。
破片が犬島の頬をかすめた。
細い赤い線ができる。
「痛っ……!」
それでも犬島は操艦を止めない。
損傷した電探を切り離し、予備装置へ切り替える。
右舷機関の冷却水温。
正常。
左舷推進軸。
正常。
舵。
正常。
船体中央部に小さな浸水。
排水可能。
犬島は戦える。
だが反撃すれば、軍令部の装備を破壊する。
その迷いを、防衛網は逃走と判断した。
沿岸発射機の一基が開く。
対艦誘導弾。
実弾。
犬島の警報装置が最大音量で鳴った。
「誘導弾……!」
一発が発射された。
白煙を引き、犬島へ向かう。
港湾管制が叫ぶ。
『犬島、誘導弾発射を確認!』
「見えとります!」
犬島は艦首を右へ振った。
そのまま速度を上げる。
誘導弾は犬島の熱源と電波反射を追っている。
犬島は煙幕発生装置を作動させた。
艦尾から白い煙が広がる。
同時に電波欺瞞装置を海へ投下。
誘導弾の進路が一瞬揺れる。
だが完全には外れない。
犬島は第三十二糎砲を後方へ向けた。
「撃ち落とします!」
近接信管付きの対空砲弾。
第三砲塔が火を噴く。
一発目は外れた。
二発目。
誘導弾の近くで爆発。
破片が弾体へ当たる。
誘導弾が姿勢を崩し、犬島の右舷約百メートルへ落下した。
大きな爆発。
水柱が艦橋の高さまで上がる。
犬島の船体が横へ押された。
「まだ来る……?」
沿岸発射機には、さらに三発の誘導弾が残っている。
防衛網は犬島を撃沈するまで攻撃を続ける。
軍令部の停止命令は受け付けられていない。
通信回線の一部が、防衛網自身によって「敵の電子攻撃」と判断され、遮断されていた。
犬島は標的海域へ入った。
周囲に船はいない。
陸上施設からも十分に離れた。
「ここなら、反撃しても大丈夫……」
犬島は無人艇を見た。
まだ五隻が追ってくる。
壊したくない。
軍令部の装備でもある。
けれど、このままでは自分が沈む。
そして犬島が沈めば、積んでいる燃料や弾薬が海へ流出する。
犬島は主砲を無人艇へ向けた。
「ごめんなさい」
第一砲塔、発射。
砲弾は無人艇の機関部前方へ命中した。
爆発。
艇は停止する。
沈まないよう、水線上を狙っていた。
第二砲塔。
別の無人艇の操舵装置を破壊。
第三砲塔。
通信アンテナを撃ち抜く。
犬島は一隻ずつ、完全撃沈ではなく行動不能にしていった。
「壊れたら、また直しゃあええ」
それは自分へ向けて何度も言ってきた言葉だった。
今は、攻撃してくる無人艇へ向けて言う。
「今だけ、止まってて」
---
二発目の対艦誘導弾が発射された。
犬島は回避運動を取る。
だが先ほどの砲撃で、左舷外板に受けた損傷が広がっていた。
急旋回すると、船体中央部へ強い負荷が掛かる。
それでも避けなければならない。
誘導弾が接近する。
犬島は対空射撃を行う。
第一弾、外れ。
第二弾、近接爆発。
弾体が損傷する。
しかし誘導弾は完全には落ちなかった。
犬島の艦尾方向へ突っ込んでくる。
「避けきれん……!」
犬島は機関を全速前進。
舵を左一杯。
船首が左へ向く。
誘導弾は艦尾右舷へ命中した。
爆発。
海防艦「犬島」の後部が炎と煙に包まれた。
爆雷投下軌条が吹き飛ぶ。
外板が裂ける。
右舷推進軸トンネルへ浸水。
第三十二糎砲の旋回装置が停止。
犬島の背中に、焼けるような痛みが走った。
「うあっ……!」
艦橋の床へ倒れる。
右舷機関が緊急停止。
右舷推進軸の回転が止まる。
左舷機関は動いている。
舵も、辛うじて動く。
犬島は手すりをつかんで立ち上がった。
艦尾火災。
自動消火装置、作動。
燃料弁、閉鎖。
後部弾薬庫、注水準備。
隔壁、閉鎖。
犬島は自分一人で、全ての処置を行った。
「燃えたらいけん……」
苦しそうに息をしながら、火災区画へ消火剤を送り込む。
「弾薬庫まで行かせんけぇ……」
艦尾の炎が少しずつ弱くなる。
だが防衛網は攻撃を止めない。
三発目の誘導弾が発射準備へ入っている。
犬島は左舷機関だけで船体を動かした。
標的海域の中心。
陸から遠い場所。
自分だけが攻撃を受け続ける。
「誰も置いていかんけぇ」
犬島は港の方を見た。
旅客船は安全海域へ退避した。
弾薬埠頭にも被害はない。
停泊艦も無事。
犬島が攻撃を引きつけたことで、港は守られていた。
そのとき、軍令部の中央指揮所が最後の手段を実行した。
防衛網全体への電力供給遮断。
沿岸砲台。
誘導弾発射機。
通信中継所。
無人艇管制装置。
港の一部を停電させる覚悟で、主電源を落とした。
三発目の誘導弾は、発射筒の中で停止した。
無人砲台の砲身も動きを止める。
残った無人艇は、自動制御を失って海上で停止した。
犬島への攻撃が、ようやく終わった。
---
海が静かになった。
犬島は艦橋の床へ座り込んだ。
艦尾から煙が上がっている。
右舷機関停止。
右舷推進軸損傷。
後部外板破口。
第三砲塔使用不能。
電探一基喪失。
左舷機関と舵は使用可能。
浸水は隔壁で止まっている。
犬島は沈んでいなかった。
通信機から、軍令部管制官の声が聞こえた。
『犬島……応答してください』
「犬島、応答します」
声は震えていた。
『防衛網は停止した。もう攻撃は来ない』
「はい……」
『負傷状況を報告してください』
「艦娘の体は、背中が痛いです。船体は艦尾に大きな損傷。右舷機関停止。浸水は止めとります」
『救難隊を派遣した』
「港は?」
『被害なし』
「旅客船は?」
『全員無事だ』
「弾薬埠頭も?」
『異常なし』
犬島は目を閉じた。
「よかったぁ……」
背中が痛い。
船体は傷ついた。
それでも、自分が守ろうとしたものはすべて無事だった。
『犬島』
「はい」
『本当に、申し訳ない』
軍令部の管制官が、声を詰まらせていた。
犬島は少し黙った。
自分を攻撃したのは軍令部の装備だった。
けれど管制官が撃ったわけではない。
停止命令を送り続けたことも、犬島には記録から分かっていた。
「謝るんは、後でええです」
犬島はいつか貨物船の船長へ言ったのと同じ言葉を返した。
「今は、止まった無人艇が沈まんように見てください」
『犬島を攻撃した艇だぞ』
「でも、直せるなら直した方がええです」
犬島は煙の残る艦尾を振り返った。
「壊れたら、また直しゃあええけぇ」
---
救難艦が到着した。
工作艦。
消防艇。
曳船。
医療艦。
その中には所属鎮守府から急行した提督の指揮艇もあった。
犬島は艦橋から艦首へ移動しようとした。
だが背中の痛みで、足が思うように動かない。
第一砲塔の横まで進み、そこで手すりへつかまる。
遠くに提督の姿が見えた。
犬島は片手を上げた。
「提督……」
指揮艇が接近する。
提督が実艦「犬島」へ乗り移る。
甲板へ足音が響く。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島はその音を聞くと、安心したように目を閉じた。
提督が第一砲塔の横から現れる。
「犬島!」
「ここです」
犬島は立ち上がろうとした。
「動くな」
犬島は素直に止まった。
提督が近づき、犬島の前へ膝をつく。
犬島は制服の袖へ手を伸ばした。
指先が布へ触れる。
「迎えに来てくれた」
「ああ」
「港、護れました」
「全部無事だ」
「旅客船も」
「ああ」
「弾薬埠頭も」
「ああ」
犬島は少し笑った。
「よかった」
提督は犬島の頬に入った浅い傷を見る。
「犬島に過失はない」
犬島は瞬きをした。
「まだ、何も聞いとらんのに」
「航海記録は見た。入港許可も受けていた。防衛網停止の確認も取っていた」
「はい」
「指定航路を規定速度で航行していた」
「はい」
「異常を確認した後も、管制の指示に従った」
「はい」
「攻撃が始まってからは、民間船と港を守るために標的海域へ移動した」
「……はい」
「犬島は悪くない」
犬島の目に涙が浮かんだ。
「今回は、ぼっけぇ大きい事故じゃったから……」
「ああ」
「うちが何か間違えたんかと思いました」
「何も間違えていない」
提督は犬島の頭へ手を置いた。
犬島はその手へ少しだけ頭を寄せる。
「ほんまに?」
「ああ」
「軍令部も、そう言うてくれますか」
「言わせる」
犬島は小さく笑った。
「提督、ちょっと怒っとる」
「当然だ」
「うちの代わりに?」
「ああ」
犬島は提督の袖をつかんだ。
「なら、うちは怒らんでええです」
「犬島は怒ってもいい」
「でも、みんな止めようとしてくれました」
犬島は停止した無人艇を見る。
「悪いんは、誰か一人じゃないです。ちゃんと調べて、二度と起きんようにしてくれたら、それでええです」
提督は答えなかった。
ただ犬島の頭を、もう一度静かに撫でた。
---
軍令部は、事故直後に特別調査委員会を設置した。
今回の事故は、過去の犬島の異常事態とは規模が違った。
軍令部直轄の防衛設備が、友軍艦を敵と誤認。
実弾砲撃。
対艦誘導弾発射。
港湾内の民間船と弾薬施設を危険にさらした。
一歩間違えば、犬島の沈没だけでは済まない。
弾薬埠頭で誘爆が発生すれば、試験港全体が壊滅していた可能性もある。
調査は厳格に行われた。
犬島の識別信号。
入港許可。
通信履歴。
針路。
速力。
機関操作。
回避行動。
砲撃記録。
すべてが調べられた。
犬島の識別装置は正常だった。
暗号鍵も正しい。
入港時刻も航路も、軍令部の指示通りだった。
犬島が送信した情報には、一つの誤りもない。
原因は、防衛網側の識別番号重複と、照合処理の欠落。
さらに訓練状態と実戦状態が、表示上だけ切り替わっていた設計上の問題。
複数の不具合が重なった結果だった。
軍令部の調査官は、犬島の戦闘行動も検証した。
犬島が港内で停止していた場合。
無人砲台の砲撃が弾薬埠頭へ逸れ、誘爆する危険があった。
民間旅客船の近くへ移動していた場合。
誘導弾が旅客船を巻き込む可能性があった。
早期に無人艇を撃沈していた場合。
爆発した艇の燃料や弾薬によって、港湾火災が発生する可能性があった。
犬島は、すべての判断で被害の少ない方法を選んでいた。
攻撃を沖合へ引きつける。
無人艇は水線上を狙い、沈めず停止させる。
誘導弾を砲撃で迎撃する。
艦尾に被弾した後も、火災と浸水を抑える。
調査委員会の結論は明確だった。
«海防艦「犬島」ならびに艦娘・犬島の識別信号、通信、航行、見張りおよび入港手順に、過失は一切認められない。»
«犬島は軍令部試験港の正式な入港許可を受け、指定航路を規定速度以下で航行していた。»
«本事故は、軍令部直轄無人沿岸防衛網の識別処理異常ならびに安全停止回路の設計不備によって発生した。»
さらに、犬島の行動については、通常の事故報告書では珍しい表現が使われた。
«犬島は自艦が友軍設備から攻撃を受けるという極度の混乱下においても、民間旅客船、弾薬埠頭、停泊艦および港湾職員への被害を最小化することを優先した。»
«犬島が自ら標的海域へ移動し、防衛網の攻撃を引きつけた判断により、大規模な二次災害が防止された。»
«犬島の行動は、海防艦および艦娘として極めて模範的であった。»
最終結論。
«本件において犬島の責任は皆無であり、むしろ軍令部は犬島に対して正式に謝意を表明する。»
---
犬島は軍令部の大きな会議室へ呼ばれた。
前回、河口事故十件について調査を受けた部屋よりも、さらに広かった。
将官。
技術士官。
港湾防衛担当官。
艦娘運用部門。
多くの軍令部職員が並んでいる。
犬島は提督と一緒に入室した。
白い水兵服。
深緑色のスカーフ。
修理中の実艦から離れているため、今は艦娘の身体だけだった。
背中の痛みはまだ少し残っている。
犬島は会議室の中央へ立った。
「海防艦・犬島です」
軍令部総長が立ち上がった。
犬島は緊張した。
何を言われるのか分からない。
だが次の瞬間、総長は犬島へ深く頭を下げた。
続いて、会議室にいた軍令部職員全員が頭を下げた。
犬島は驚き、目を大きくした。
「え……?」
総長が顔を上げる。
「海防艦・犬島。今回の事故について、軍令部を代表して謝罪する」
犬島は慌てて両手を振った。
「そんな、頭を上げてください」
「軍令部の設備が、正式な許可を受けて入港した友軍艦を攻撃した。あってはならない事態だ」
「でも、止めようとしてくれました」
「止められなかったことが問題だ」
犬島は困ったように提督を見る。
提督は何も言わず、犬島自身の言葉を待っている。
犬島は軍令部総長へ向き直った。
「うちは、生きて帰れました」
「それは犬島自身の判断と能力によるものだ」
「港の人も無事でした」
「ああ」
「なら、同じ事故が起きんように直してください」
「約束する」
犬島は小さく頷いた。
「それで、ええです」
総長は犬島へ正式な感謝状を渡した。
そして少しだけ表情を緩めた。
「軍令部では、以前から犬島の事故記録が知られている」
犬島の頬が引きつる。
「河口のことですか」
「河口事故十件。過失零件」
「そこだけ有名にせんでください……」
会議室の一部から、かすかな笑い声が漏れた。
総長は続ける。
「その後、海中軽石群に巻き込まれた」
「はい」
「今回は軍令部の防衛網から実弾攻撃を受けた」
「はい……」
「これほど異なる重大事故に繰り返し巻き込まれながら、毎回過失がなく、しかも周囲への被害を抑えて帰還する艦を、我々はほかに知らない」
犬島はうつむいた。
「やっぱり、運がないんですね」
「ない」
総長は断言した。
犬島の肩が落ちる。
だが総長は、少し笑って続けた。
「ないにもほどがある」
会議室の空気が柔らかくなる。
「今回の調査に参加した全員が、最初は疑った。これほど事故が続けば、何か本人側に原因があるのではないかと」
犬島は静かに聞いていた。
「だが調べれば調べるほど、犬島は正しいことしかしていなかった」
総長は感謝状を持つ犬島を見る。
「事故に遭うたび、誰かを守っている。自分が傷ついても、最後には周囲の無事を確認する」
犬島の琥珀色の瞳が、少し潤む。
「軍令部内部では、もはや犬島を疑う者はいない」
総長は微笑んだ。
「むしろ、犬島が次に何へ巻き込まれるか心配で仕方がない者ばかりになった」
会議室の将官たちが、揃って頷いた。
犬島は瞬きをする。
「心配……してくれとるんですか」
「ああ」
「軍令部の人が、うちを?」
「今回の事故後、救難艦の派遣命令を待たずに準備を始めた部署が七つある」
技術士官が手を挙げた。
「犬島の船体修理用部材は、すでに予備品を確保しています」
港湾担当官も続く。
「犬島が寄港する際は、係留索を通常の二倍検査します」
航路担当官。
「河口、海底工事、送電設備、漁網、軽石、無人防衛網を含む専用危険情報を作成します」
別の将官が、小さな包みを机へ置いた。
「これは長い調査への協力に対する差し入れだ」
中には岡山産の白桃を使った菓子が入っていた。
犬島の表情が明るくなる。
「桃……」
その反応を見て、会議室の空気がさらに和らいだ。
別の職員が言う。
「犬島用の休憩室も用意した」
「休憩室?」
「軍令部へ来るたび、廊下の長椅子で待たせるわけにはいかない」
「うち専用ですか」
「犬島専用だ」
「なんで……?」
「運が悪すぎる艦を、廊下へ一人で置いておくのは不安だからだ」
会議室に笑いが広がった。
犬島は頬を膨らませた。
「何も起きんときもあります」
提督が隣から言う。
「今回は何も起きない予定だった」
「提督まで……」
犬島は恥ずかしそうに顔を赤くした。
それでも、怒ってはいなかった。
軍令部の人々が自分を笑いものにしているのではないことが、分かっていたからだ。
皆、犬島が無事だったことに安心している。
次も無事でいてほしいと思っている。
犬島は感謝状と桃の菓子を胸へ抱えた。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
「うち、運はないですけど……」
少し考える。
「帰る場所は、いっぱい増えた気がします」
軍令部総長が答えた。
「ここへ来たときも、必ず『おかえり』と言おう」
犬島は目を細めた。
「はい」
深緑色のスカーフが、嬉しそうに小さく揺れた。
---
事故後、軍令部内では奇妙な変化が起きた。
犬島が軍令部施設へ来ると、入口の衛兵が以前より丁寧に敬礼するようになった。
技術部門は、犬島の実艦用部品を勝手に予備在庫へ加えた。
港湾担当者は、犬島の寄港予定を聞くと、係留設備を三回確認した。
通信担当者は、犬島の識別信号を最優先で照合する設定へ変更した。
食堂では、犬島が来る日に白桃のデザートが置かれるようになった。
犬島は最初、理由が分からなかった。
「なんで、みんなうちに食べ物をくれるんじゃろう」
提督は答えた。
「心配されているからだ」
「食べ物で事故は減らんですよ」
「元気にはなる」
「それは、そうですけど……」
犬島は白桃のゼリーを大切そうに持った。
軍令部の廊下を歩く。
犬島の姿を見つけた職員たちが声を掛ける。
「犬島、今日は何も起きていないか?」
「まだ起きとりません」
「帰りの航路は確認したか?」
「軍令部が確認したでしょう」
「念のためだ」
「河口は通らないな?」
「今日は外洋です!」
「軽石情報は?」
「ありません!」
「無人防衛網は?」
「全部電源が切られとります!」
犬島は少し頬を膨らませながら答えた。
だが廊下の角を曲がると、小さく笑った。
「みんな、心配性になったなあ」
提督が隣を歩く。
「犬島がそうさせた」
「うちが好きで事故に遭っとるみたいに言わんでください」
「そういう意味ではない」
犬島は提督の袖を軽くつかんだ。
「でも……」
「何だ」
「ちょっと、嬉しいです」
犬島は前を向いたまま言った。
「軍令部って、怖いところじゃと思っとりました」
「今は?」
「桃をくれるところです」
「それでいいのか」
「おかえりって言うてくれる人も増えました」
犬島は少しだけ胸を張った。
「なら、怖くないです」
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修理を終えた実艦「犬島」は、軍令部試験港の岸壁へ戻った。
右舷推進軸。
後部外板。
第三砲塔。
電探。
すべて修復されている。
艦内に乗員はいない。
艦橋には犬島一人。
背中に艤装はない。
犬島は、自分の実艦すべてを一人で動かしていた。
出港準備。
右舷機関始動。
左舷機関始動。
舵、左右作動確認。
識別信号、正常。
軍令部防衛網、全停止。
沿岸砲台、砲身固定。
誘導弾発射機、物理安全装置挿入。
無人艇、燃料抜き取り済み。
犬島は艦橋から外を見た。
軍令部の職員が岸壁へ並んでいる。
総長。
技術士官。
港湾職員。
防衛網の開発者。
事故調査官。
皆、犬島を見送るために来ていた。
係留索が外される。
犬島は両機関を低速前進へ入れた。
実艦が岸壁を離れる。
岸壁から声が飛ぶ。
「犬島、気をつけて帰れ!」
「何かあったらすぐ呼べ!」
「何もなくても到着報告を送れ!」
犬島は艦首へ走った。
第一砲塔の前へ立ち、両手を大きく振る。
「行ってきます!」
少し考え、言い直す。
「違う、帰ります!」
岸壁から笑い声が返ってくる。
犬島も笑った。
「また来ます!」
軍令部総長が叫ぶ。
「次は事故なしで来い!」
犬島は大きく頷いた。
「善処します!」
「約束しろ!」
「それは難しいです!」
岸壁の全員が笑った。
犬島は少し恥ずかしそうにしながら、いつまでも手を振っていた。
試験港が遠ざかる。
防波堤を抜ける。
広い海へ出る。
犬島は艦首甲板へ手を置いた。
「うち、軍令部に愛されとるんかな」
艦内通信から、同乗していた提督の声が届く。
『そうだろうな』
「運がなさすぎるから?」
『それだけではない』
「じゃあ、何でですか」
『運がなくても、誰かを守って帰ってくるからだ』
犬島は少し黙った。
海風が濃紺色の髪を揺らす。
深緑色のスカーフが後ろへ流れる。
やがて犬島は、小さく笑った。
「なら、次も帰らんといけんな」
『ああ』
「何が起きても」
『できれば何も起きない方がいい』
「うちも、そう思います」
実艦「犬島」は、二本の推進軸を滑らかに回した。
軍令部の無人防衛網から実弾攻撃を受けるという、極めて重大な異常事態。
犬島に過失はなかった。
それどころか、犬島が自ら攻撃を沖合へ引きつけたことで、多くの人命と港湾施設が守られた。
軍令部は犬島を徹底的に調べた。
そしてまた、犬島が何一つ悪くないことを確認した。
事故ばかりに巻き込まれる。
けれど誰かを責めるより、先に周囲の無事を確かめる。
傷ついた装備すら捨てず、「直せばいい」と言う。
そんな犬島を、軍令部の者たちは心配せずにはいられなかった。
守られるはずの小さな海防艦は、いつの間にか多くの人から守りたいと思われる艦になっていた。
犬島は所属鎮守府の方角を見つめた。
「帰ったら、『ただいま』って言わんとな」
そして、軍令部の港を一度だけ振り返る。
「あっちにも、また『おかえり』って言うてもらいたいけぇ」
海防艦「犬島」は、世界一ついていないかもしれない。
けれど同時に、誰よりも多くの人から帰還を願われ、愛される艦になっていた。
犬島は青い海を進む。
今度こそ何事もなく、帰るべき場所へ向かうために。