海防艦・犬島
――巨艦の波と、三隻の無過失――
海防艦「犬島」は、軍令部試験港から所属鎮守府へ帰投する途中だった。
艦内に乗員はいない。
艦橋にも、機関室にも、砲側にも、犬島以外の姿はなかった。
濃紺色の短い髪。
琥珀色の瞳。
白い水兵服と紺色のスカート。
胸元には深緑色のスカーフ。
右側の髪には、故郷の岡山を思わせる淡い桃色の髪留めが付いている。
犬島は艤装を身に着けていない。
全長七十八・九メートルの実艦そのものが、彼女の身体だった。
二基のディーゼル機関。
二本の推進軸。
一枚の舵。
三基の十二糎単装砲。
犬島が艦橋や艦首に立ち、意思を向ければ、それらすべてが彼女の手足のように動いた。
「針路、二二六度」
犬島は艦橋前部から海面を見つめていた。
「速力、八ノット。両舷機関、正常。舵、中央」
前方には、左右を低い岬に挟まれた青葉瀬戸がある。
外海と軍令部泊地を結ぶ、幅約一千二百メートルの水道。
十分な広さがあるように見えるが、中央部には大型艦用の深水航路があり、小型艦は東側通航帯を使用することになっていた。
犬島は東側通航帯の中央を、規定速力以下で進んでいる。
西側の深水航路からは、軍令部所属の艦隊が反対方向へ向かってきていた。
先頭は戦艦「長門」。
その後方、約八百メートルに戦艦「山城」。
さらに巡洋艦と駆逐艦が続いている。
どの艦も、艦内に乗員はいない。
実艦の艦橋には、それぞれの艦娘が一人で立っていた。
先頭の長門は、軍令部艦隊の旗艦だった。
全長二百二十四メートルを超える巨大な船体。
八門の四十一糎砲。
満載状態で四万トン近い排水量。
艦橋上部に立つ長門の姿は、犬島からは小さくしか見えない。
だが、足元の実艦が作る波は、遠くからでもよく分かった。
その後ろを航行する山城も、犬島とは比較にならないほど大きい。
全長二百メートルを超える船体。
六基十二門の三十六糎砲。
高く積み上がった艦橋。
満載排水量は三万五千トンを超えている。
対する犬島は、満載でも一千トン余り。
戦艦一隻は、犬島三十隻分以上の重さを持っていた。
港湾交通管制から通信が入る。
『青葉瀬戸交通管制より海防艦・犬島。西側深水航路を軍令部第一艦隊が反航します』
「犬島、確認しました」
『東側通航帯の中央を維持してください。速力は現状の八ノットで問題ありません』
「了解です」
続いて、長門から直接通信が入った。
『軍令部旗艦・長門より犬島。こちらは深水航路中央、速力九ノットを維持する』
「犬島、了解しました。東側通航帯を八ノットで通過します」
『すれ違い距離は十分にある。だが我が艦の引き波には注意してくれ』
「はい。長門さんの波、大きそうじゃけぇ」
長門の声が少し柔らかくなる。
『可能な限り減速している』
大型戦艦が狭い水道で必要以上に減速すると、舵効が低下する。
後続艦との艦隊間隔も崩れる。
長門の九ノットは、航路保持能力を確保できる最低限に近い速力だった。
犬島もそのことを理解していた。
「うちも、少しだけ右へ寄った方がええですか」
『交通管制より犬島。現在位置を維持してください。右舷側は浅水域です』
「了解しました」
すべて規則通りだった。
犬島。
長門。
山城。
交通管制。
誰も間違った判断をしていない。
---
二つの艦隊が近づく。
犬島は艦橋から艦首へ移動した。
第一砲塔の前に立ち、長門の巨大な船体を見上げる。
長門の艦首が海面を押し分ける。
左右へ広がる船首波。
重い船体によって押し下げられた海水が、大きく盛り上がっている。
「やっぱり、大きいなあ……」
犬島がつぶやく。
長門の艦橋に立つ艦娘の姿が見えた。
長門も犬島へ気付き、片手を上げる。
犬島は両手を振り返した。
「お気をつけて!」
互いの声は直接届かない。
だが長門も軽く頷いたように見えた。
両艦の最接近距離は、約三百八十メートル。
軍令部と港湾管制が定めた安全距離を十分に上回っていた。
長門の艦首が犬島の左前方を通過する。
最初に、長門の船首波が犬島へ届いた。
海面がゆっくりと持ち上がる。
犬島の船体が右へ少し傾いた。
「船首波、受けます」
犬島は速力を八ノットに保ち、船首を波へわずかに向けた。
舵、左二度。
すぐ中央。
実艦「犬島」は大きな波を斜めに受け流した。
問題はない。
次に、長門の船体中央部が犬島の横を通過する。
巨大な船体が海水を押しのけたことで、その周囲では水面が一時的に低くなっていた。
犬島の船体が、長門側へわずかに引かれる。
「吸い寄せられる……」
犬島は右へ舵を切った。
右舷機関の出力を少し上げる。
左舷機関をわずかに落とす。
船首は通航帯の中央へ戻った。
これも予測されていた範囲だった。
長門の艦尾が通過する。
犬島は少し安心した。
「長門さん、通過しました」
『長門より犬島。こちらもすれ違い完了を確認した』
「はい。問題ありません」
長門の後方には、戦艦「山城」が近づいている。
山城も深水航路の中央を、規定通り九ノットで進んでいた。
山城から通信が入る。
『山城より犬島。長門の引き波が残っている。注意して』
「了解です」
犬島は左前方の海面を見た。
長門の艦尾から広がった航跡。
通常の白い波だけではない。
巨大な船体が通過した後、海水が元の位置へ戻ろうとして、長周期のうねりを作っていた。
ただし波高は、管制基準を超えていない。
風も弱い。
海面は穏やかだった。
犬島が注意して操艦すれば、十分に通過できるはずだった。
ところが、青葉瀬戸の東岸には、古い石積み護岸があった。
長門の船首波の一部が護岸へ当たり、反射して水道中央へ戻ってくる。
西から届く長門の艦尾波。
東から戻る護岸反射波。
二つの波は、犬島の現在位置で偶然重なった。
さらに水道の浅水域と深水航路の境界では、海底地形の違いによって波の進行方向がわずかに曲げられていた。
波高自体は危険な数値ではない。
だが、三つの波が最も悪い位相で重なった瞬間、犬島の船体へ横向きの大きな力が掛かった。
長門の艦尾が通過してから、約四十秒後だった。
「えっ……?」
犬島の左舷側の海面が、突然盛り上がった。
犬島の船体が右へ大きく傾く。
傾斜十二度。
十五度。
船底が横へ押し出される。
「波が重なった!?」
犬島は左へ舵を切った。
左舷機関を前進。
右舷機関を後進。
船首を通航帯へ戻そうとする。
だが、実艦「犬島」の重量は約一千トン。
長門が動かした海水の量と比べれば、あまりにも軽い。
船体は波の斜面を滑るように、西側へ押し出された。
東側通航帯から、深水航路との境界へ。
山城が近づいている方向へ。
『犬島、針路が左へ偏位している!』
山城の声が通信へ飛び込む。
「戻しています! でも、横から押されとります!」
犬島は両機関を最大出力に近づけた。
二本の推進軸が激しく海水をかく。
舵も正常に動いている。
船体に故障はない。
操艦も間違っていない。
それでも横波によって得た運動量を、すぐには打ち消せなかった。
犬島の船首は右を向こうとしている。
しかし船体全体は左へ横滑りしている。
山城との距離、六百メートル。
五百メートル。
山城も直ちに回避を始めた。
『山城、取舵一杯! 両舷機関、全速後進!』
山城の艦娘が叫ぶ。
実艦「山城」の巨大な舵が左へ切られる。
三万五千トンを超える船体が、ゆっくりと左へ向きを変え始めた。
両舷の推進器が後進へ入る。
だが戦艦は重い。
犬島の三十倍以上の排水量がある。
一度進み始めた巨大な船体は、すぐには止まれない。
山城がもっと早く回避を始めることは不可能だった。
犬島が横流れを始めるまで、危険な接近は存在していなかったからだ。
艦隊間隔も規定通り。
速度も規定通り。
見張りにも問題はない。
『長門より山城、犬島。状況を報告せよ!』
『山城、回避中! だが停止距離が足りない!』
「犬島も通航帯へ戻しています!」
犬島は必死に機関を動かした。
右舷機関前進。
左舷機関後進。
船首を右へ振る。
山城へ船腹を向けたままでは、衝突時の損傷が大きくなる。
少なくとも船体を斜めにし、衝撃を逃がさなければならない。
「あと少し……!」
犬島の船首が右へ向く。
だが艦尾はまだ山城の航路上に残っている。
山城との距離、二百メートル。
百五十メートル。
山城の高い艦首が迫る。
実艦の艦橋に立つ山城の姿が、はっきりと見えた。
長い黒髪。
軍令部戦艦としての重い制服。
普段は少し悲観的な表情を浮かべる彼女が、今は必死に操艦している。
「犬島、逃げて!」
山城の声が、通信ではなく海を越えて届いた。
「やっとります!」
犬島も叫び返す。
山城は左へ回頭している。
犬島は右へ回頭している。
二隻が同時に正しい方向へ動くことで、正面衝突だけは避けられた。
しかし、完全な回避には数十メートル足りなかった。
山城の左舷艦首が、犬島の右舷艦尾へ迫る。
犬島は後部区画の防水扉を閉鎖した。
燃料移送弁を閉じる。
爆雷を安全固定。
第三十二糎砲を正中線へ戻す。
「当たる……!」
山城の艦首外板が、犬島の右舷艦尾へ接触した。
どんっ――。
最初の衝撃は、思ったより小さかった。
互いに回避していたため、ほぼ同じ方向へ船体が流れていたからだ。
だが山城の重量は、犬島とは比較にならない。
山城の艦首は犬島の右舷外板を押し込みながら、艦尾側へ滑った。
ぎぎぎぎぎっ――。
鋼板がこすれる。
犬島の右舷艦尾外板が大きくへこむ。
爆雷投下軌条が曲がる。
右舷推進軸支柱へ強い横荷重。
第三砲塔の旋回基部が歪む。
犬島の背中から右脚へ、鈍い痛みが走った。
「うっ……!」
犬島は艦首甲板へ膝をついた。
実艦「犬島」の船体が、山城の艦首によって右へ押し戻される。
山城は機関を全速後進のまま維持している。
犬島も両機関を停止した。
接触時間、約七秒。
山城の艦首が犬島の艦尾から離れる。
両艦の間に海面が戻った。
犬島の船体は大きく揺れたが、横転しなかった。
浸水警報。
右舷艦尾、一か所。
犬島はすぐに排水ポンプを起動した。
「右舷後部に浸水。隔壁、閉鎖済みです」
山城から震える声が届く。
『犬島、応答して!』
「犬島、応答します」
『沈みそう?』
「沈みません。右舷艦尾に浸水。右舷推進軸は停止しました」
『ごめんなさい……私が――』
「山城さんは悪くありません!」
犬島は強い声で遮った。
「山城さんも避けてくれました。機関も後進にしとったでしょう」
『でも、私の艦首が犬島に……』
「うちが波で押し出されたんです」
『長門の波が原因なら、長門にも――』
今度は長門が通信へ割り込んだ。
『私の責任だ。旗艦として、より大きく間隔を取るべきだった』
犬島は首を横に振った。
「長門さんも悪くありません」
『しかし、私の引き波が犬島を押した』
「長門さんは決められた航路を、決められた速力で通っただけです」
『引き波の注意も伝えた』
「はい。うちも分かっとりました」
犬島は船体の傾きを確認した。
右舷艦尾が少し沈んでいる。
それでも隔壁は保持している。
油の流出もない。
「事故です」
犬島は静かに言った。
「みんな、ちゃんと避けようとしました。それでも当たったんです」
---
交通管制は直ちに青葉瀬戸を閉鎖した。
後続の巡洋艦と駆逐艦は停止。
救難艇と曳船が派遣される。
長門は艦隊の先頭を離れ、犬島の海側へ回った。
山城も損傷確認のため停止した。
山城の左舷艦首には、犬島の外板塗料が長く付着していた。
外板にはへこみ。
錨鎖口付近に擦過傷。
しかし浸水はなかった。
犬島の損傷は、山城より大きかった。
右舷艦尾外板の破口。
右舷推進軸支柱の変形。
爆雷投下軌条の破損。
第三砲塔旋回装置の異常。
舵そのものは動く。
左舷推進軸も正常。
自力航行は可能だったが、軸系への二次損傷を避けるため右舷機関は停止された。
犬島は艦首に立ち、近づいてきた山城を見ていた。
山城は実艦の艦首を犬島へ向けないよう、慎重に左舷側へ並んだ。
そして艦娘の姿で小型艇へ移り、犬島へ渡ってきた。
鋼鉄の甲板へ山城の足音が響く。
犬島は第一砲塔の前で待っていた。
山城が姿を見せる。
普段より青ざめた顔。
犬島の前まで来ると、深く頭を下げた。
「犬島……本当に、ごめんなさい」
「山城さん」
「私が、あなたにぶつかった」
「山城さんに過失はありません」
「でも、あなたの艦尾は壊れたわ」
山城の声が震えている。
「私の船体が重かったから。私が戦艦だったから……」
犬島は少し考えた。
そして山城の袖を軽くつかんだ。
提督以外の袖をつかむことは、犬島には珍しかった。
「山城さんが戦艦なんは、悪いことじゃないです」
山城が顔を上げる。
「大きくて、重くて、強いから、みんなを護れるんでしょう」
「でも今回は、その重さであなたを傷つけた」
「うちも海防艦じゃから、小さくて軽いんです」
犬島は右舷艦尾の違和感に少し顔をしかめた。
「どっちかが悪いんじゃなくて、違いが大きすぎたんです」
「犬島……」
「山城さん、ちゃんと避けてくれたでしょう」
「間に合わなかった」
「正面から当たらんかったんは、山城さんが避けてくれたからです」
犬島は少し笑った。
「七秒で離れられたんも、すぐ後進に入れてくれたからです」
山城は何も言えなかった。
犬島は山城の袖をつかんだまま続ける。
「うちは沈んどりません」
「……ええ」
「燃料も漏れとらんです」
「ええ」
「壊れたら、また直しゃあええ」
犬島のいつもの言葉だった。
山城は目を伏せる。
「あなたは、誰のことも責めないのね」
「悪くない人を責めたらいけんでしょう」
「自分を責めることはあるのに?」
犬島は少し詰まった。
「それは……」
山城が犬島の頭へそっと手を置いた。
犬島は驚いたように目を見開いた。
それでも避けず、少しだけその手へ頭を寄せた。
「今回、犬島も悪くないわ」
山城が言う。
「私も、長門も、犬島を責めない」
「はい」
「だから犬島も、自分を責めないで」
犬島は小さく頷いた。
「分かりました」
少し間を置く。
「たぶん」
「たぶんなのね」
山城の表情に、ようやく小さな笑みが戻った。
---
長門も後から犬島へ移乗した。
長門は山城ほど取り乱してはいなかった。
だが、その表情は硬かった。
「犬島」
「長門さん」
「旗艦として謝罪する」
長門が頭を下げようとする。
犬島は慌てて止めた。
「長門さんも悪くありません」
「私の艦が作った波だ」
「でも、波を作らんで進むことはできんでしょう」
「さらに減速する選択もあった」
「それをしたら、舵が効きにくくなります」
「艦隊間隔を広げることもできた」
「間隔は規定以上ありました」
「水道へ入る前に犬島を待機させることも――」
犬島は少し困ったように首を傾げた。
「長門さん」
「何だ」
「軍令部の調査官みたいになっとります」
長門が言葉を止める。
隣にいた山城が、小さく息を漏らした。
犬島は続ける。
「事故は、ちゃんと調べてもらいます」
「ああ」
「長門さんの速力も、航路も、波も調べます」
「ああ」
「それで悪くなかったら、謝らんでください」
長門はしばらく犬島を見つめた。
「調査で私に過失が認められた場合は?」
「そのとき考えます」
「厳しいな」
「軍令部に、何回も調べられとりますから」
犬島は少しだけ胸を張った。
「調査には慣れました」
「慣れるものではないと思うが」
山城が静かに言った。
犬島の頬が膨らむ。
「うちも慣れたくて慣れたんじゃありません」
長門の硬かった表情にも、わずかな笑みが浮かんだ。
---
軍令部は、三隻すべての航海記録を回収した。
犬島。
長門。
山城。
さらに青葉瀬戸交通管制の通信記録、潮流観測、波高計、海底地形、護岸反射波の測定値が調査された。
最初に確認されたのは、三隻の航路だった。
犬島は東側通航帯の中央。
長門と山城は西側深水航路の中央。
いずれも逸脱なし。
次に速力。
犬島、八ノット。
長門、九ノット。
山城、九ノット。
すべて規定以下。
長門は大型戦艦として航路保持に必要な最低限の速度を維持していた。
これ以上の減速は、かえって操艦能力を低下させる可能性があった。
山城との間隔は八百メートル。
軍令部基準の最低間隔を上回っていた。
犬島との最接近距離も、安全基準以上だった。
見張りと通信。
長門は事前に引き波への注意を伝えていた。
犬島は受信し、波を受ける準備を行っていた。
山城も残留波を警告している。
交通管制も各艦の位置を正確に把握していた。
誰にも見張り上の落ち度はない。
事故の鍵となったのは、長門が作った波そのものではなく、複数の波が重なった位置と時間だった。
長門の艦尾波。
東岸護岸から戻った反射波。
浅水域と深水域の境界で屈折した波。
三つが犬島の位置で、ほぼ同時に重なった。
単独の波高は基準値以内。
重なった状態も、わずか数秒しか続いていない。
大型艦であれば、多少の横揺れで済んだ。
長門や山城と同程度の排水量なら、航路から押し出されることはなかった。
しかし犬島は、満載排水量一千トン余り。
長門との排水量差は三十倍以上。
波から受ける力に対して船体が軽く、しかも船体長が波の周期と偶然近かったため、横揺れと横滑りが同時に増幅された。
犬島の操艦記録も検証された。
横流れ発生から二秒以内に反対舵。
機関出力差による回頭。
山城との衝突が避けられないと判断した後、船腹への直角衝突を防ぐため船首方向を変更。
防水扉、燃料弁、爆雷固定装置を衝突前に作動。
どの判断にも誤りはない。
山城も、犬島の横流れを確認した直後に取舵一杯と全速後進を実施している。
反応時間は基準より速かった。
しかし三万五千トンを超える戦艦の停止距離は長い。
山城が犬島を発見していなかったのではない。
見ていても、動き始めてから衝突までの時間が短すぎた。
長門についても、規定以上の安全距離と最低限の速力を守っている。
長門の引き波は、同型艦として想定された範囲内だった。
調査委員会は、大規模な水槽試験も行った。
犬島、長門、山城の模型。
青葉瀬戸の海底地形。
当日の潮流と護岸反射。
同じ条件を何度も再現する。
百回。
二百回。
ほとんどの試験では、犬島は波を受けても通航帯内へ戻れた。
だが、波の位相が事故当時と同じになった数回だけ、犬島模型が深水航路側へ大きく横滑りした。
数秒のずれで結果が変わる。
偶然が生んだ事故だった。
最終報告書には、明確に記された。
«海防艦「犬島」、戦艦「長門」および戦艦「山城」は、いずれも指定された航路、速力および艦隊間隔を遵守していた。»
«各艦の見張り、通信、機関操作および衝突回避動作に、過失は認められない。»
続いて、事故原因。
«本事故は、戦艦「長門」の航過によって生じた艦尾波、東岸護岸からの反射波および航路境界における屈折波が偶然同位相で重なり、軽排水量の海防艦「犬島」へ大きな横方向運動を与えたことに起因する。»
«犬島と長門の排水量差は三十倍以上であり、大型戦艦では問題とならない範囲の波であっても、犬島の船体運動へ大きな影響を及ぼした。»
«戦艦「山城」は犬島の横流れを確認後、直ちに最大限の回避動作を実施したものの、同艦の大排水量に伴う慣性および停止距離のため、接触を完全には回避できなかった。»
そして結論。
«本件は、著しい排水量差を有する艦艇が狭水道ですれ違った際に、複数の波が偶然重なったことで発生した偶発的事故である。»
«海防艦「犬島」、戦艦「長門」および戦艦「山城」のいずれにも、過失は一切認められない。»
---
軍令部の会議室。
犬島は長門と山城の間に座っていた。
三隻とも、艦娘の姿だけで出席している。
実艦は修理岸壁と検査泊地に置かれていた。
犬島の前には、分厚い事故調査報告書。
長門の前にも同じもの。
山城は報告書を閉じたまま、少しうつむいていた。
調査委員長が結論を読み上げる。
「本事故について、関係三艦に処分対象となる行為は存在しない」
長門が尋ねる。
「旗艦としての監督責任もないと?」
「ない。長門は事前警告を行い、規定より広いすれ違い距離を確保している」
山城も尋ねた。
「私がもっと早く減速していれば、衝突は避けられたのではありませんか」
「犬島が横流れを始める前に減速する理由がない。事故前の状況では、安全なすれ違いが成立していた」
「でも……」
「山城が必要以上に減速していれば、後続艦隊の隊形を乱し、別の危険を生じさせた可能性がある」
山城は黙った。
委員長は犬島を見る。
「犬島も、自身の操艦に疑問があるか」
犬島は少し考えた。
「波を受けたとき、もっと早く機関を使えたんでしょうか」
「犬島は船体が横へ動き始めてから二秒以内に回避操作を開始している。艦娘の反応としても最速に近い」
「もっと右へ寄っとけば……」
「右舷側は浅水域だ。事前に移動すれば、座礁の危険があった」
「速力を落としとったら?」
「舵効が低下し、波を受けた後の回頭が遅くなった可能性が高い」
犬島は報告書へ目を落とした。
「じゃあ、ほんまに誰も悪くないんですね」
「その通りだ」
「長門さんも」
「ああ」
「山城さんも」
「ああ」
「うちも?」
「犬島もだ」
犬島は大きく息を吐いた。
「よかったぁ……」
長門が隣から犬島を見る。
「私たちの心配より、自分の無過失を先に確認してもいいのだぞ」
「長門さんも山城さんも、ずっと自分を責めとったでしょう」
犬島は山城の袖を少しだけ引いた。
「山城さん。聞きましたか」
「聞いたわ」
「山城さん、悪くないです」
「……ええ」
「長門さんも」
「承知した」
「うちも悪くないです」
「それが一番大事ね」
山城が、ようやく柔らかく笑った。
軍令部総長は三隻を見ながら言った。
「今後、青葉瀬戸では大型戦艦と小型艦の同時反航を制限する」
新しい規則では、三万トンを超える大型艦が水道を通過する際、五千トン未満の艦艇は水道外で待機する。
護岸反射波の観測設備も増設される。
艦隊間隔ではなく、排水量差を考慮した通航管制が導入されることになった。
「これは三艦の過失を補う規則ではない」
総長は明確に言った。
「これまで想定されていなかった危険を、今回の事故から学んだものだ」
犬島は頷いた。
「次に小さい艦が通るとき、同じ目に遭わんようになるんですね」
「ああ」
「なら、うちがぶつかったことも無駄じゃないです」
山城が少し悲しそうに犬島を見る。
「無駄でなくても、あなたが傷ついてよかったわけではないわ」
「それは、そうです」
犬島は素直に答えた。
「痛いんは嫌です」
会議室に小さな笑いが起きる。
犬島は少し頬を膨らませたが、すぐに自分も笑った。
---
犬島の修理には十二日を要した。
右舷艦尾外板を交換。
変形した推進軸支柱を修復。
爆雷投下軌条を再設置。
第三砲塔の旋回基部を調整。
山城の左舷艦首も、へこんだ外板と錨鎖口を修理された。
長門は損傷していなかった。
それでも修理期間中、三隻は何度も同じ工廠へ集まった。
犬島が外板の修理を見ていると、長門が部品の確認に来る。
山城は犬島の船尾へ新しい防舷材が取り付けられる様子を、少し離れた場所から見守っていた。
「山城さん」
犬島が呼ぶ。
「もっと近くで見てもええですよ」
「また近づいたら、ぶつかりそうで……」
「今は機関も動いとらんです」
犬島は少し困ったように笑った。
山城は慎重に近づき、再建された右舷艦尾外板へ手を触れた。
「痛くない?」
犬島は目を閉じ、船体の感覚を確かめる。
新しい鋼板。
補強された骨材。
調整済みの推進軸支柱。
「もう大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
犬島は少し胸を張る。
「壊れたら、また直しゃあええんです」
長門が後ろから言った。
「犬島は簡単に言うが、修理担当者は十二日間ほとんど休んでいないぞ」
犬島の表情が固まる。
「明石さんたち、そんなに……?」
「冗談だ」
「長門さん!」
珍しく長門が冗談を言ったため、山城が声を上げて笑った。
犬島は頬を膨らませた。
だが二人が笑っていることが嬉しくて、自分もすぐに笑い始めた。
---
修理後の合同試運転の日。
海防艦「犬島」。
戦艦「長門」。
戦艦「山城」。
三隻は軍令部泊地の広い外洋側へ出た。
今回は狭水道ではない。
十分に開けた海域。
三隻の間隔は二千メートル以上。
犬島は中央。
長門と山城は左右後方。
まるで二隻の戦艦が、小さな海防艦を護衛しているような隊形だった。
犬島は艦橋から周囲を確認する。
「長門さん、距離二千二百メートル」
『長門、確認している』
「山城さん、二千四百メートル」
『もっと離れた方がよくない?』
「十分です!」
『でも引き波が――』
「外洋ですし、間隔もあります!」
山城はそれでも心配そうだった。
犬島は艦橋から艦首へ移動した。
第一砲塔の前に立つ。
左を見れば長門。
右を見れば山城。
二隻とも、犬島へ近づきすぎないよう慎重に速力を合わせている。
「軍令部の戦艦に護衛される海防艦って、変じゃないですか」
長門から返事が来る。
『今回だけだ』
山城も続く。
『犬島を所属鎮守府まで送り届けるまでよ』
「うち、一人でも帰れます」
『分かっている』
「操艦にも問題ありません」
『軍令部の調査で確認済みだ』
「じゃあ、なんで」
長門が答える。
『私たちが安心したいからだ』
犬島は少し黙った。
山城も通信越しに言う。
『また波で見えないところへ押し出されたら、今度こそ嫌だもの』
犬島は海面へ視線を落とした。
深緑色のスカーフが、嬉しそうに小さく揺れる。
「なら、お願いします」
三隻はゆっくりと進んだ。
長門が作る波は、二千メートルの距離を進む間に穏やかになっている。
山城の引き波も、犬島を押し流すほどではない。
犬島は小さな波を受けながら、まっすぐ所属鎮守府へ向かった。
途中、長門が少しだけ速力を上げる。
犬島がすぐに通信する。
「長門さん、速力差一ノットです」
『この距離でも分かるのか』
「引き波が少し大きくなりました」
長門はすぐに速力を戻した。
山城が言う。
『犬島は波に敏感になったのね』
「前から分かります」
犬島は少しだけ得意そうだった。
「今回は、ぼっけぇ大きい戦艦二隻がおるから、特に分かりやすいです」
『大きくて悪かったわね』
「悪いとは言うとりません」
犬島は笑った。
「大きいから護れるものもあります」
そして自分の鋼鉄の甲板へ手を置く。
「うちは小さいから、近くで護れるものがあります」
長門が答える。
『艦の大きさに上下はない』
山城も頷く。
『役目が違うだけね』
「はい」
三隻の艦娘は、それぞれ異なる大きさの実艦を一人で動かし、同じ海を進んでいた。
排水量の差が生んだ事故。
長門の波。
犬島の軽さ。
山城の止まりきれないほどの重さ。
それらは、誰かの過失ではなかった。
大型戦艦が大きいことも。
海防艦が小さいことも。
その艦として生まれた以上、変えることのできない特徴だった。
偶然、波が重なった。
偶然、犬島が押し出された。
偶然、山城の停止距離内へ入った。
ただ、それだけだった。
所属鎮守府の防波堤が見えてくる。
犬島は艦首で両手を振った。
波止場の仲間たちも手を振り返す。
長門と山城は港外で停止した。
大型戦艦は、所属鎮守府の小さな泊地へ入れない。
犬島が通信する。
「長門さん、山城さん」
『何だ』
『どうしたの?』
「送ってくれて、ありがとうございました」
長門が答える。
『こちらこそ、無事を確認できた』
山城も続く。
『今度会うときは、十分に距離を取るわ』
犬島は少し首を傾げた。
「近づいたらいけんわけじゃありません」
『でも――』
「停泊中なら、隣に来てもええです」
犬島は微笑んだ。
「うち、山城さんを怖いとは思っとりませんから」
山城は少し黙った。
やがて、穏やかな声が返る。
『ありがとう、犬島』
犬島は長門にも言う。
「長門さんの引き波も、嫌いになっとらんです」
『引き波を好きになる必要はない』
「でも、長門さんが進んだ証でしょう」
『事故を起こした証でもある』
「違います」
犬島ははっきり答えた。
「長門さんが海を進んどる証です」
長門からの返事は、少し遅れて届いた。
『そうか』
犬島は所属鎮守府へ船首を向け直した。
「犬島、入港します」
二本の推進軸が滑らかに回る。
舵も正常。
修復された右舷艦尾に異常はない。
波止場から声が届く。
「おかえり、犬島!」
犬島は艦首に立ち、明るく答えた。
「ただいま!」
港外では、二隻の巨大な戦艦が犬島の入港を見守っている。
小さな海防艦と、大きな戦艦。
三隻の間に過失はなかった。
違いが大きすぎたことで起きた、避けようのない一度の事故。
それでも事故の後、三隻の距離は以前より少しだけ近くなっていた。
今度は船体ではなく、心の距離が。
犬島は帰る場所へ入りながら、後ろを一度だけ振り返った。
長門と山城は、まだそこにいた。
犬島はもう一度、大きく手を振った。
二隻の戦艦も応える。
青い海の上に、それぞれ大きさの違う三つの航跡が、ゆっくりと残っていた。