その中には呉の大和、佐世保の武蔵もいた。
ただし、今回は事前に事故が起こる可能性があるとした上で集められているので修理は軍令部のドックを使用する。
大和、武蔵、犬島を登場させた過失の無い引き波に関する事故。犬島は一部艦上構造物(艦橋を除く)の喪失。艦娘自体は無事(傷みはある)
海防艦・犬島
――大和と武蔵の間で――
軍令部試験海域には、各地から集められた実艦が並んでいた。
駆逐艦。
軽巡洋艦。
重巡洋艦。
海防艦。
潜水艦。
航空母艦。
そして戦艦。
どの艦にも、通常の乗員は乗っていない。
それぞれの実艦の艦橋や艦首には、艤装を身に着けていない艦娘が一人ずつ立っていた。
艦娘一人が、機関、推進軸、舵、砲塔、通信設備を含む実艦全体を、自分の身体のように動かしている。
今回行われるのは、艦艇の排水量差によって生じる引き波の影響を詳しく調べるための大規模試験だった。
発端は、青葉瀬戸で起きた事故である。
戦艦・長門の引き波と護岸からの反射波が重なり、小型の海防艦・犬島が航路から押し出された。
そこへ後続していた戦艦・山城が接近し、両艦は回避しきれず接触した。
長門。
山城。
犬島。
関係した全艦に過失はなかった。
軍令部の調査は、事故を「著しい排水量差によって発生した偶発的現象」と結論付けた。
だが、同じ事故を二度と起こさないためには、排水量差と引き波の関係を、実際の艦艇で確かめなければならない。
そのため、各鎮守府から大小さまざまな艦娘が集められた。
そして、試験参加艦の中でもひときわ大きな二隻が、沖合に浮かんでいた。
呉鎮守府所属、戦艦・大和。
佐世保鎮守府所属、戦艦・武蔵。
全長二百六十三メートル。
満載状態では七万トンを超える鋼鉄の巨体。
九門の四十六糎主砲。
巨大な艦橋。
厚い装甲。
大和と武蔵は、同じ基本設計を持つ姉妹艦だった。
二隻が海面に浮かぶだけで、周囲の小型艦が小舟のように見える。
それに対し、今回の小型艦代表として選ばれた犬島は、全長七十八・九メートル。
満載排水量は一千トン余り。
大和または武蔵一隻だけでも、犬島の六十隻分以上の重さがある。
犬島は軍令部試験港の岸壁に係留され、沖の二隻を見上げていた。
濃紺色の短い髪。
琥珀色の瞳。
白い水兵服。
紺色のスカート。
深緑色のスカーフ。
右側の髪には、岡山の白桃を思わせる淡い桃色の髪留めが付いている。
背中に艤装はない。
足元の実艦そのものが、犬島の身体だった。
「大きいなあ……」
犬島は艦首から大和を見た。
次に武蔵を見る。
「長門さんより、さらに大きいんじゃな」
隣の試験岸壁から、大和の落ち着いた声が通信機越しに届いた。
『犬島。怖いですか?』
「ちょっとだけです」
犬島は正直に答えた。
『今回は危険があることを前提にした試験です。無理だと思ったら、いつでも中止を申し出てください』
今度は武蔵の力強い声が続く。
『そうだぞ。試験だからといって、犬島を壊すことが目的ではない』
「分かっとります」
犬島は艦首甲板へ手を置いた。
「でも、うちが参加せんと、小さい艦にどれくらい影響が出るか分からんのでしょう」
『模型試験や計算でも調べられる』
武蔵が言う。
「実際の船とは違うこともあります」
犬島は、青葉瀬戸で長門の波に押し出されたときの感覚を覚えていた。
左舷側から持ち上げられた船体。
海面を横へ滑った船底。
舵も機関も正常なのに、船体全体が思うように戻らなかった感覚。
「うちが分かることなら、伝えたいんです」
大和は少し黙った。
やがて、柔らかな声で答える。
『では、絶対に無理はしないと約束してください』
「はい」
『異常を感じた時点で試験を中止すること』
「はい」
『軍令部の指示より、自分の安全を優先してください』
犬島は少し首を傾げた。
「軍令部の人が聞いたら困るんじゃないですか」
『その軍令部が、今回の安全規則として定めたことです』
「なら、守ります」
武蔵が笑う。
『犬島は本当に真面目だな』
「決められたことは守らんといけんでしょう」
『それで何度も事故に巻き込まれているのだから、世の中は理不尽だ』
犬島は頬を膨らませた。
「今日は事故が起きるかもしれんって、最初から分かっとるんです」
今回の試験では、予想外の船体動揺や軽微な損傷が生じる可能性が、事前に全参加艦へ説明されていた。
そのため、軍令部試験港の大型ドックが修理用に確保されている。
工作艦。
曳船。
消防艇。
医療艦。
潜水作業班。
全てが待機していた。
試験艦の実艦船体に損傷が発生した場合、所属鎮守府へ無理に帰投させず、そのまま軍令部のドックへ収容する計画だった。
犬島もその説明を受けている。
「壊れたら、軍令部で直してもらえます」
『壊れない方がよいに決まっている』
大和が静かに答えた。
「それは、そうですけど……」
犬島は沖合試験区域へ視線を移した。
白と橙色の観測浮標。
波高計。
流速計。
無人観測艇。
空中には観測機。
海中には圧力センサー。
あらゆる装置が、大和と武蔵の作る引き波を測定するために配置されている。
これだけ準備されている。
危険性も認識されている。
全艦が規則を守る。
だから大丈夫だと、犬島は思った。
少なくとも、これまでの予測不能な事故とは違う。
「今日は、事故が起きても誰も驚かんのじゃな」
犬島がつぶやく。
大和がすぐに答えた。
『事故を起こす予定ではありません』
「分かっとります」
『無事に終わるよう、計算されています』
「はい」
犬島は少し安心するように頷いた。
「なら、大丈夫です」
---
試験は、小型艦から順番に始められた。
駆逐艦の後方を海防艦が通過する。
軽巡洋艦と駆逐艦が反航する。
重巡洋艦の引き波へ軽巡洋艦が斜めに進入する。
空母の艦尾波を海防艦が受ける。
波高。
周期。
横揺れ角。
縦揺れ角。
船体加速度。
舵の反応。
推進軸負荷。
集められた記録は、軍令部の管制艦へ送られた。
犬島も何度か試験区域を走った。
最初は駆逐艦の引き波。
次に軽巡洋艦。
その次は空母。
犬島は艦橋と艦首を行き来し、波が船体へ当たる感覚を細かく報告した。
「右舷船首から波を受けます」
船体が傾く。
「傾斜八度。舵の反応、正常」
次の波。
「艦尾が左へ押されました。機関出力差で戻せます」
どの試験も、計算された範囲内だった。
小型の犬島はよく揺れたが、危険な状態にはならない。
軍令部の調査官も、犬島の感覚報告を高く評価した。
計器では「船体が何度傾いたか」は分かる。
だが艦娘の犬島には、波が外板のどこへ当たり、船底のどの部分へ圧力が集中したかまで分かった。
「犬島、右舷推進軸への負荷は?」
『一度だけ少し軽くなりました。推進器が波の谷へ入ったときじゃと思います』
「舵効は」
『弱くなりましたけど、操艦には支障ありません』
「船体中央部のねじれは」
犬島は目を閉じる。
実艦全体へ意識を広げる。
『異常なしです』
試験は順調に進んだ。
そして午後。
大和と武蔵を使った最終試験が始まった。
---
試験計画では、大和と武蔵が犬島の両側を、時間差を設けて航過することになっていた。
中央評価航路を犬島が五ノットで進む。
西側航路を大和が十二ノットで同航。
大和が犬島を追い越してから四十五秒後。
東側航路を武蔵が反対方向から十二ノットで通過する。
犬島とそれぞれの戦艦との横距離は、五百メートル。
模型試験と数値計算では、犬島が受ける最大横揺れは二十二度。
一時的に大きく傾く可能性はあるが、復原可能な範囲と判断されていた。
念のため、犬島の甲板上にある移動物は全て固定された。
爆雷。
短艇。
弾薬箱。
予備錨。
係留索。
砲塔は正中線へ向け、砲身を固定。
燃料タンクも左右の重量が均等になるよう調整された。
犬島自身は艦橋前部に立っている。
艦橋は船体中央部に近く、手すりと安全索がある。
『犬島。準備はいいですか?』
大和から通信が入る。
「はい。全部固定しました」
『武蔵も準備完了だ』
「こちらも大丈夫です」
軍令部管制艦から最終確認。
『全参加艦へ。本試験では最大二十五度前後の横揺れが予想される。異常を認めた場合、各艦の判断で直ちに試験を中止せよ』
大和。
武蔵。
犬島。
三隻が順番に了解を返す。
『修理ドック、救難艦、医療班は待機済み』
犬島は小さく息を吸った。
前方には何もない。
左右には十分な距離。
海底地形も均一。
護岸からの反射波もない。
今回は外洋に近い開けた試験海域だった。
青葉瀬戸事故のような反射波の重なりは起こらない。
そのはずだった。
「犬島、試験を開始します」
両機関の出力を調整。
速力五ノット。
針路、〇〇〇度。
舵中央。
『大和、試験航路へ進入します』
西側後方から、大和が近づいてくる。
巨大な船首。
四十六糎主砲。
高い艦橋。
七万トンを超える鋼鉄の船体が、十二ノットで海面を押し分ける。
犬島は左舷側を見た。
大和との距離、五百メートル。
規定通り。
『大和、犬島の左舷側を航過します』
大和の船首波が届く。
犬島の左舷側が持ち上げられる。
傾斜、右へ十度。
十三度。
犬島は舵を左へ二度だけ切り、船首を波へ向ける。
「第一波、問題ありません」
大和の船体中央部が横を通る。
周囲の水位が下がり、犬島がわずかに大和側へ引かれる。
犬島は右へ舵を切り、通航線へ戻す。
「吸引あり。計算範囲内です」
大和の艦尾が前方へ抜ける。
巨大な推進器が作る航跡。
白く盛り上がった艦尾波。
犬島は体を支えた。
「大和さんの艦尾波、来ます」
第一の山。
船体が持ち上がる。
次に深い谷。
艦首が沈む。
犬島の実艦が大きく縦へ揺れる。
それでも危険なほどではない。
『大和、航過完了』
「犬島、大和さんの波を通過中です」
大和が速力を維持しながら前方へ離れていく。
計画では、ここから四十五秒後に武蔵の船首波が到達する。
大和の波が完全に収まる前に、別方向の波を受けた場合の船体挙動を測定するためだ。
十秒。
二十秒。
犬島は波高を確認する。
大和の艦尾波は計算通り減衰している。
三十秒。
東側前方に、武蔵の巨大な艦首が見える。
『武蔵、試験航路へ進入』
犬島は右舷方向を見る。
「武蔵さん、確認しました」
『犬島、無理だと思ったらすぐ言え』
「まだ大丈夫です」
四十秒。
大和の第二波が犬島の左舷艦尾へ届く。
右舷前方からは、武蔵の船首波。
二つの波が、犬島の船体を異なる方向から持ち上げる。
傾斜、左へ十二度。
右へ十五度。
「横揺れ、増えました」
『計算範囲内。継続可能か』
「はい」
武蔵が犬島の右舷側を通過する。
距離、五百メートル。
速力、十二ノット。
全て試験計画通り。
犬島は艦橋の手すりを握った。
武蔵の船体中央部が横を通り、海面が低くなる。
犬島の実艦が右へ引かれる。
同時に、大和の艦尾波が左舷側から押す。
右側から引かれ、左側から押される。
船体が右へ大きく傾いた。
十八度。
二十二度。
「傾斜二十二度!」
軍令部管制艦から指示が飛ぶ。
『計算上限へ到達。犬島、試験中止を許可する!』
犬島はすぐに答えた。
「中止します!」
両機関を低速へ。
船首を波と直角にしないよう、左へ回頭を始める。
大和と武蔵も直ちに減速した。
ここまでは、全て安全手順通りだった。
試験は中止された。
犬島は危険を感じた時点で申告した。
軍令部も即座に許可した。
大和と武蔵も速力を落とした。
誰も判断を誤っていない。
しかし、既に生まれていた波までは止められなかった。
---
大和と武蔵が作った引き波は、単純に重なっていたのではなかった。
大和は犬島と同じ方向へ航行した。
武蔵は反対方向へ航行した。
そのため、二隻が作った波は互いに逆方向へ進みながら、犬島の周囲で交差した。
海面上の波高計では、いずれも想定値以内だった。
だが海面下では、二隻の巨大な船体によって押しのけられた海水が、異なる方向の戻り流れを作っていた。
大和の後方へ戻ろうとする水。
武蔵の船側から外へ流れる水。
犬島の船底下で二つが衝突し、一時的な上向きの流れを生んだ。
それだけなら、犬島が一度大きく持ち上げられるだけで終わる。
問題は、波の周期だった。
大和の艦尾波。
武蔵の船首波。
犬島自身が持つ固有の横揺れ周期。
偶然、その三つが極めて近い値になっていた。
一度目の波で、犬島が右へ傾く。
船体が中央へ戻ろうとする瞬間、反対側から次の波が来る。
左へ傾く。
再び戻る瞬間、次の波。
振り子を正しいタイミングで押し続けるように、犬島の横揺れは波を受けるたび大きくなった。
試験前の計算では、大和と武蔵の波の周期は少しずれるはずだった。
しかし当日の海水温度差により、海面下に薄い密度境界が形成されていた。
表層水と深層水の境目。
そこを伝わった内部波が、武蔵の波をわずかに遅らせた。
遅れは、わずか数秒。
それによって二つの波が、犬島の横揺れを最も増幅させるタイミングで到達してしまった。
当時の観測技術では、試験前に予測できない現象だった。
犬島は試験中止後、船首を波へ向けようとしていた。
だが一度大きく揺れ始めた船体は、簡単には止まらない。
右へ二十二度。
中央へ戻る。
左へ二十六度。
「まだ大きくなる……!」
犬島は左右の海水タンクを調整した。
右へ傾く前に右舷側を排水。
左舷側へ注水。
復原力を補助する。
それでも次の波が来る。
右へ三十一度。
艦橋の窓から、海面が斜めに見える。
固定されていた甲板上の索が強く張る。
短艇が吊り索をきしませる。
犬島の身体も右へ投げ出されそうになる。
安全索が腰を支えた。
「大和さん、武蔵さん、離れてください!」
犬島が通信へ叫ぶ。
『犬島を救援する!』
大和が答える。
「今近づいたら、もっと波が来ます!」
『しかし――』
「うちはまだ浮いとります!」
武蔵も犬島へ向かおうとしていた。
犬島は強い声で止める。
「二人とも、そのまま減速してください!」
『犬島!』
「近づかんで!」
大和と武蔵は停止に近い速力まで落とした。
七万トンを超える船体は、急には止まれない。
それでも二隻は新たな波を作らないよう、可能な限り穏やかに減速した。
犬島は船体を立て直そうとする。
左へ三十四度。
中央へ。
右へ三十八度。
船体の一部が波の中へ沈む。
右舷甲板へ大量の海水が流れ込んだ。
どおっ――!
第一砲塔周辺を波が洗う。
通風筒が折れる。
右舷短艇が吊り索ごと持ち上げられ、外側へ振られる。
「短艇、固定が……!」
次の揺れ。
左へ四十一度。
今度は左舷甲板が海へ近づく。
流れ込んだ海水が、反対側へ一気に走る。
犬島の重心がさらに乱れる。
左舷側の短艇架台が耐えきれず、基部から引き剥がされた。
短艇と架台が海へ落ちる。
鋼材が甲板を叩く。
犬島の左肩へ強い痛みが走った。
「っ……!」
艦娘の身体に外傷はない。
だが実艦の構造物が引き剥がされる感覚は、犬島へ鈍い痛みとして伝わった。
右へ四十三度。
波が艦橋下の上部構造物へ衝突する。
艦橋そのものは、事故歴を受けて補強されていた。
船体中央部の強固な隔壁と一体化し、持ちこたえる。
しかし艦橋後方に立つ前部マストは違った。
電探。
信号桁。
見張り台。
各種空中線。
大きく揺れるたび、マスト基部へ左右交互の力が加わっていた。
ぎぎぎぎっ――。
犬島が音に気付く。
「マストが……」
基部の鋼材に亀裂が走った。
犬島は電力と通信線を切り離す。
だが物理的に支えることはできない。
次の揺れ。
左へ四十五度。
前部マストが右舷側へ大きくしなる。
中央へ戻る力。
反対方向からの波。
マスト基部が破断した。
ばきんっ――!
前部マストが倒れる。
電探と信号桁を載せたまま、右舷甲板へ落下。
手すりと通風筒を押し潰し、そのまま海中へ滑り落ちた。
犬島の頭の奥で、何かが引き抜かれるような痛みが走った。
「うぅっ……!」
視界が一瞬暗くなる。
主電探の反応が消失。
複数の通信空中線も失われる。
それでも艦橋は残っている。
予備通信装置も使える。
犬島は手すりへしがみつき、意識を保った。
「まだ……大丈夫」
右舷機関。
正常。
左舷機関。
正常。
推進軸。
正常。
舵。
正常。
浸水警報なし。
船体本体は折れていない。
次の波が来る。
犬島はもう揺れの周期を理解していた。
同じように耐えるだけでは、さらに大きくなる。
機関と舵だけでなく、船体の向きを波に対して変えなければならない。
「波の谷に合わせて……」
犬島は左舷機関を全速前進。
右舷機関を後進。
横揺れが中央へ戻る瞬間だけ、船首を右へ回す。
右へ傾いている間は操作しない。
中央へ戻る。
機関を使う。
左へ傾く。
停止。
もう一度中央へ。
回頭。
少しずつ、犬島の船首が波の進行方向へ向いていく。
だが回頭途中、次の大波が艦尾側から来た。
波頭が後部上部構造物へ覆いかぶさる。
煙突上部。
後部見張り台。
後部マスト。
爆雷装填作業用の小型クレーン。
それらが大量の海水を受けた。
煙突上部の薄い外板がへこむ。
排煙口周辺の支持材が曲がる。
後部マストが左へ倒れかける。
犬島は機関排気を確認した。
「煙突、塞がる……!」
内部の排煙路を切り替える。
煙突上部が完全に潰れれば、機関を停止しなければならない。
右舷排気を予備排出口へ。
左舷側も切り替え。
犬島が処置を終えた直後、次の横揺れが来た。
曲がっていた煙突上部が、基部から引き裂かれた。
金属音。
鋼板が空中へ飛ぶ。
煙突の上半分が右舷海面へ落下した。
後部マストも支索を切られ、艦尾側へ倒れる。
後部見張り台と信号灯が海へ消えた。
犬島の胸と背中へ、同時に強い痛みが走った。
「痛っ……!」
膝をつく。
白い水兵服は濡れている。
髪も顔も海水に濡れていた。
それでも艦娘の身体そのものに、骨折や出血はない。
実艦の痛みを受けているだけだった。
犬島は顔を上げる。
艦橋は残っている。
第一、第二、第三砲塔も残っている。
船体中央部と機関は正常。
操艦できる。
「前を見て……横を見て……後ろも見る」
息を切らしながら、いつもの言葉を口にする。
「それが護衛じゃけぇ……」
今回は誰かを護衛しているわけではない。
だが、自分自身の船体を守る必要がある。
このまま揺れ続ければ、残った構造物も失う。
犬島は船首をさらに回した。
大和と武蔵が作った波へ、真正面に近い角度を取る。
右へ三十度。
左へ二十六度。
右へ二十二度。
揺れが少しずつ小さくなる。
犬島は海水タンクを調整し続けた。
右へ十八度。
左へ十五度。
やがて船体は、通常の波浪で見られる程度の揺れへ戻った。
犬島は機関を最低速にした。
「犬島……横揺れ、収まりました」
軍令部管制艦から返事が届く。
『犬島、応答を確認! 救難隊を向かわせる!』
大和の声。
『犬島、怪我はありませんか!』
「艦娘の体は大丈夫です」
武蔵も通信へ入る。
『船体は!?』
犬島は、自分の実艦を一つずつ確認した。
前部マスト、喪失。
主電探、喪失。
左右短艇と一部架台、喪失。
煙突上部、喪失。
後部マスト、喪失。
後部見張り台、喪失。
複数の通風筒と信号設備、破損。
小型クレーン、一基喪失。
艦橋、健在。
主砲、全基健在。
機関、両舷正常。
推進軸、正常。
舵、正常。
浸水なし。
「艦橋は残っとります」
犬島は報告した。
「前と後ろのマストがなくなりました。煙突も上がありません。短艇も落ちました」
大和の声が震える。
『それを大丈夫とは言いません』
「船体は浮いとります」
『犬島』
「自力でも動けます」
武蔵が強く言う。
『動くな。救難艦が来るまで機関を止めろ』
「でも、波へ船首を向けとかんと……」
『最低限の出力だけでいい。帰投しようとするな』
「軍令部のドックを使うんでしょう」
『最初からそのために空けてある』
犬島は少し安心した。
「なら、帰らんでもええんですね」
大和が答える。
『無理に所属鎮守府まで戻る必要はありません』
「よかった……」
犬島は艦橋前部へ背中を預けた。
痛みはある。
頭の奥が重い。
マストと電探を失ったため、視界の一部が消えたように感じる。
煙突を失った胸の奥には、冷たい穴が開いたような違和感がある。
だが船体本体は生きている。
沈んでいない。
「壊れたら……また直しゃあええ」
自分へ言い聞かせる。
声は少し弱かった。
---
最初に近づいてきたのは、軍令部の救難曳船だった。
続いて工作艦。
医療艦。
大型消防艇。
試験区域には既に救難体制が用意されていたため、事故発生から短時間で犬島へ到着した。
潜水作業員が船底を確認する。
「船底外板、異常なし!」
「推進軸支柱、両舷とも正常!」
「舵、損傷なし!」
上部構造物の一部は大きく失われている。
だが、航行に必要な基本機能は残っていた。
犬島は艦橋前部に座っていた。
大和と武蔵は、これ以上波を起こさないよう十分に離れた海域で停止している。
二隻とも犬島へ近づけなかった。
大和または武蔵が不用意に動けば、新たな引き波を作る可能性があるからだ。
犬島は遠くの二隻を見た。
『犬島』
大和から通信が入る。
「はい」
『今から小型艇でそちらへ向かいます』
武蔵も続く。
『私も行く』
「二人とも来るんですか」
『当然です』
「うちは大丈夫です」
『大丈夫かどうかは、私たちが直接確認します』
大和の言い方は穏やかだったが、断る余地はなかった。
二隻の戦艦から、それぞれ小型艇が降ろされた。
大和と武蔵は艦娘の身体だけで艇へ乗り、犬島へ向かう。
実艦の大和と武蔵は、無人のまま遠隔的に最低限の状態を維持していた。
小型艇が犬島の左舷へ接近する。
仮設梯子が掛けられる。
最初に大和が甲板へ上がった。
続いて武蔵。
犬島は立ち上がろうとした。
「動かないでください」
大和がすぐに止める。
「でも、お迎えに……」
「迎えられる側でしょう」
犬島は素直に座ったまま、大和と武蔵が近づくのを待った。
二人の足音が甲板へ響く。
大和の静かな足音。
武蔵の力強い足音。
いつも聞き分けている提督の足音とは違う。
それでも、自分を心配して近づいてくる音だと分かった。
大和が犬島の前へ膝をつく。
「痛む場所は?」
「頭と、背中と、胸が少し」
「少し、ではないでしょう」
「艦娘の体に怪我はありません」
武蔵が破損した上部構造物を見る。
前部マストがない。
煙突は上半分を失っている。
後部マストもない。
左右の短艇も消えている。
通風筒や手すりは各所で押し潰されていた。
「艦橋だけが、妙にしっかり残っているな」
「前の事故の後、補強してもらいました」
犬島が答える。
「今回も、艦橋が守ってくれました」
大和は犬島の濡れた髪へ手を伸ばした。
桃色の髪留めは、まだ右側に付いている。
「これも残りましたね」
「はい」
「よかった」
大和が髪を優しく整える。
犬島は少し驚いたが、避けなかった。
武蔵は犬島の反対側へ座った。
「私たちの波で、こうなった」
犬島は首を横に振る。
「大和さんと武蔵さんは、決められた通りに走っただけです」
「だが波を作ったのは私たちだ」
「船が進んだら、波は出ます」
「時間差も計画通りだった」
「はい」
「速力も航路も守った」
「はい」
武蔵は拳を握る。
「それでも犬島が壊れた」
犬島は少し考えた。
そして武蔵の袖を軽くつかんだ。
「今回は、壊れるかもしれんって最初から説明されとりました」
「ここまで壊れるとは説明されていない」
「それは軍令部の計算でも分からんかったんでしょう」
「だからといって――」
「武蔵さん」
犬島は武蔵を見上げた。
「うち、武蔵さんを怖いとは思っとりません」
武蔵の言葉が止まる。
犬島は大和にも視線を向ける。
「大和さんもです」
大和は静かに聞いていた。
「二人の波は、ぼっけぇ大きかったです」
犬島は少しだけ困ったように笑う。
「でも、大きい艦が進んだら、大きい波が出るんは当たり前です」
「犬島の船体が小さいことも、犬島の責任ではありません」
大和が答える。
「はい」
「大和と武蔵が大きいことも、私たちの過失ではない」
「はい」
「なら、誰も悪くない事故ということになりますね」
犬島は頷いた。
「たぶん、軍令部もそう言うと思います」
武蔵が少し苦い顔をする。
「犬島は調査慣れしすぎている」
「うちも慣れたくて慣れたんじゃありません」
犬島の頬が膨らむ。
その表情を見て、大和がほんの少し笑った。
武蔵も肩の力を抜く。
犬島は二人の袖を左右それぞれつかんだ。
「ドックまで、一緒におってくれますか」
「もちろんです」
大和が答える。
「犬島が離すまでいる」
武蔵も言った。
犬島は安心したように目を細めた。
「なら、大丈夫です」
---
犬島は曳船に導かれ、軍令部試験港へ戻った。
自力航行能力は残っていた。
だが上部構造物の破片が船体周囲へ残っている可能性があり、推進器への巻き込みを避けるため、機関は停止された。
大和と武蔵は十分な距離を取り、低速で後方から付いてきた。
試験港の岸壁には、各鎮守府から集まった艦娘たちが並んでいた。
小型の駆逐艦。
軽巡洋艦。
重巡洋艦。
航空母艦。
戦艦。
誰も声を上げなかった。
前部マストと後部マストを失い、煙突上部のない犬島の姿が、想像以上に痛々しかったからだ。
それでも艦橋前部には、犬島が立っていた。
白い水兵服。
濃紺色の髪。
深緑色のスカーフ。
桃色の髪留め。
艦娘の身体は無事だった。
犬島は岸壁の艦娘たちへ手を振った。
「ただいま、でええんかな……」
軍令部の試験港は、犬島の所属鎮守府ではない。
だが以前、軍令部総長は犬島へ言っていた。
ここへ来たときも、必ず「おかえり」と言う、と。
岸壁から声が届く。
「おかえり、犬島!」
一隻の艦娘が叫ぶ。
続いて、別の声。
「よく戻った!」
「艦橋が残っていてよかった!」
「すぐ直してもらえるからね!」
犬島の表情が少し明るくなる。
「ただいま!」
曳船に引かれ、犬島は軍令部の大型ドックへ入った。
このドックは、最初から試験参加艦の修理用に確保されていた。
事故が起きる可能性を認識した上で、準備されていた場所。
犬島が入渠すると、海水が排出された。
船底が支持台へ載る。
失われた構造物の位置が、はっきりと見える。
折れたマスト基部。
煙突の破断面。
短艇架台の引き剥がされた跡。
潰れた通風筒。
曲がった手すり。
だが艦橋は、大きな変形もなく残っていた。
犬島はドック側の通路へ移った。
実艦から離れても、船体の痛みは続いている。
大和と武蔵が左右から付き添った。
軍令部の技術士官が状況を説明する。
「前部マスト、後部マスト、煙突上部、左右短艇と架台、後部見張り台、小型クレーン一基を新造します」
犬島が尋ねる。
「落ちた部品は?」
「海底捜索を開始しています」
「使えんものも、持って帰ってください」
「可能な限り回収します」
「うちの部品じゃけぇ」
大和が犬島の頭へ手を置く。
「捨てさせません」
「はい」
「修理中も、毎日確認に来ます」
犬島は大和を見上げる。
「呉へ帰らんでええんですか」
「試験終了まで軍令部に滞在する予定です」
武蔵も続ける。
「私も佐世保への帰投を延期した」
「そこまでせんでも……」
「私たちが安心できない」
青葉瀬戸事故後、長門と山城も同じようなことを言っていた。
犬島は少し困った顔をする。
だが深緑色のスカーフは、わずかに嬉しそうに揺れていた。
「じゃあ、修理が終わるまでお願いします」
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事故調査は、試験当日から始められた。
今回は、事故発生の可能性を事前に認識した正式試験だった。
そのため調査の焦点は、誰かの規則違反ではなく、安全基準と予測計算が十分だったかという点に置かれた。
大和の航跡。
武蔵の航跡。
犬島の航跡。
三隻の速度。
距離。
通過時刻。
機関出力。
舵角。
全てが記録されている。
大和は指定航路の中央を十二ノット。
誤差、ほぼなし。
武蔵も指定航路の中央を十二ノット。
通過時間差は、計画値四十五秒に対して四十四・八秒。
犬島は中央評価航路を五ノット。
速度、針路とも正常。
犬島と大和、犬島と武蔵の横距離も、規定値を下回っていない。
犬島は横揺れ二十二度に到達した時点で、即座に試験中止を申告した。
軍令部管制艦も同時に中止を許可。
大和と武蔵は指示を受ける前から減速を開始している。
全艦の対応は、試験要領通りだった。
調査委員会は、事故時の海水を採取した観測記録へ注目した。
海面近くの水温。
水深十メートルの水温。
二十メートル。
三十メートル。
当日は、表層と深層の間に、通常より明確な温度差が存在していた。
密度の異なる海水の境界。
そこへ大和と武蔵の巨大な船体が作る流れが作用し、海面からは見えにくい内部波が発生した。
内部波は武蔵の波の進行速度をわずかに変えた。
その結果、大和の艦尾波と武蔵の船首波が、犬島の固有横揺れ周期に一致する時間差で到達した。
犬島が一度傾く。
戻ろうとする瞬間に、反対側から次の波。
それが数回繰り返された。
予想最大横揺れ、二十二度。
実測最大横揺れ、四十五度。
試験前の模型試験では、海面波のみが再現されていた。
海中の密度境界と内部波までは考慮されていない。
当時の試験計画として、重大な手続き違反があったわけではない。
内部波の影響が、これほど小型艦の横揺れを増幅させること自体が知られていなかった。
犬島の操艦も詳しく調べられた。
試験中止後、波の周期を自ら把握。
横揺れが中央へ戻る瞬間だけ機関出力差を使って回頭。
海水タンクを調整。
主機排気を予備経路へ切り替え。
マスト倒壊前に電路を切断。
構造物の喪失後も浸水と機関状態を確認。
最終的に船首を波へ向け、横揺れを収束させた。
調査報告書には、次のように記載された。
«戦艦「大和」、戦艦「武蔵」および海防艦「犬島」は、軍令部が定めた試験航路、速力、通過時刻ならびに安全手順を全て遵守していた。»
«犬島が試験中止基準へ到達した後、関係三艦および管制担当者は直ちに適切な中止措置を実施した。»
«本事故は、大和および武蔵の航過による海面波、海水密度境界に発生した内部波、ならびに犬島固有の横揺れ周期が偶然一致したことによる複合共振現象である。»
«当該現象は、試験計画時点の模型試験および数値計算では予測不能であった。»
犬島の損傷について。
«犬島は最大約四十五度の横揺れを受け、前部マスト、後部マスト、煙突上部、左右短艇および一部の軽量艦上構造物を喪失した。»
«艦橋、船体主要構造、主機械、推進軸、舵および主砲には重大な損傷を認めない。»
そして結論。
«本件において、戦艦「大和」、戦艦「武蔵」、海防艦「犬島」、軍令部管制担当者ならびに試験計画担当者に、処分対象となる過失は認められない。»
«本事故は、未知の複合引き波共振現象によって発生した、試験上の偶発事故である。»
ただし、事故が無意味だったわけではない。
今後、大型艦二隻以上の引き波試験を行う場合、海面波だけではなく、海水温度と密度境界を観測する。
小型艦の固有横揺れ周期と波周期が近づく条件では、試験を実施しない。
超大型艦の複合試験では、実艦を最初から使用せず、無人模型艦による段階試験を追加する。
大和型二隻の間に五千トン未満の艦を配置する試験は、原則禁止。
新しい安全基準が定められた。
犬島の事故によって、これまで知られていなかった危険が明らかになった。
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軍令部の報告会。
犬島は大和と武蔵の間に座っていた。
三人の前に、同じ事故調査報告書が置かれている。
軍令部総長が結論を読み上げた。
「関係三艦に過失なし」
大和が尋ねる。
「試験参加を受け入れた犬島の判断にも、問題はないのですね」
「ない。危険性は事前に説明され、犬島は正式な手順で参加を承諾している」
武蔵が続く。
「我々が十二ノットで航過した判断は」
「試験計画通りだ。独断による増速も減速もない」
犬島も手を挙げた。
「うちが中止を言うのが遅かったんでしょうか」
「犬島は二十二度到達とほぼ同時に中止を申告している」
「もっと早う言っとけば……」
「二十二度未満では、全て計算範囲内の挙動だった。中止を判断する根拠はなかった」
「じゃあ、ほんまに誰も悪くないんですね」
「その通りだ」
犬島は大きく息を吐いた。
「よかったぁ……」
大和と武蔵も、わずかに表情を緩めた。
だが軍令部総長は、少し困ったように犬島を見る。
「それにしても犬島」
「はい」
「河口事故十件」
犬島の顔が固まる。
「海中軽石事故」
「はい……」
「無人防衛網からの実弾攻撃」
「はい」
「戦艦・山城との接触」
「はい……」
「そして今度は、大和と武蔵の複合引き波による艦上構造物喪失」
犬島は机へ顔を伏せそうになった。
「まとめて言わんでください……」
会議室に小さな笑いが起きる。
軍令部総長は続けた。
「今回も、犬島は一切悪くなかった」
「はい」
「大和と武蔵も悪くない」
「はい」
「試験担当者にも、当時の知見で予測できる範囲の過失はない」
「はい」
「つまり、犬島はまた、極めて珍しい偶発現象の中心にいたことになる」
犬島の肩が下がる。
「うち、試験でも運が悪いんですね」
「そうらしい」
大和が静かに口を挟む。
「ですが、犬島が参加したからこそ、今後ほかの小型艦が同じ事故に遭わずに済みます」
武蔵も頷く。
「犬島は壊れるために参加したわけではない。だが、結果として多くの艦を守った」
犬島は二人を見る。
「護れましたか」
「ええ」
大和が微笑む。
「十分に」
犬島の表情が少し明るくなる。
「なら、よかったです」
軍令部総長は犬島へ一枚の書類を渡した。
軍令部試験功労証。
未知の複合波現象を発見し、新たな安全基準の策定へ貢献したことが記されている。
犬島は両手で受け取った。
「事故の報告書じゃないんですか」
「功労証だ」
「うち、また報告書が増えると思っとりました」
「報告書も別にある」
犬島は少し複雑な顔をした。
会議室の空気が和らぐ。
大和が犬島の頭を優しく撫でた。
武蔵も反対側から肩へ手を置く。
犬島は二人に挟まれ、少し恥ずかしそうにする。
「大和さんも武蔵さんも、近いです」
「船体同士では十分に距離を取っています」
「艦娘同士なら、この程度はよいだろう」
犬島は頬を少し赤くした。
それでも二人から離れようとはしなかった。
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犬島の修理は、軍令部の大型ドックで行われた。
新しい前部マスト。
新しい主電探。
新しい後部マスト。
再建された煙突上部。
新しい短艇と架台。
後部見張り台。
通風筒。
手すり。
小型クレーン。
回収された旧部材のうち、使用可能なものは修復して戻された。
桃色の髪留めと同じように、犬島は古い部品を大切にした。
再使用できないマスト基部の一部は、軍令部の保管庫へ残されることになった。
「捨てんでくれるんですね」
「犬島が希望したからな」
技術士官が答える。
「大和と武蔵も、残すべきだと強く主張した」
犬島は二人を見る。
「そんなに強く言うたんですか」
大和は穏やかに答える。
「犬島の一部ですから」
武蔵も頷く。
「それに事故の重要な記録でもある」
犬島は新しいマストを見上げた。
以前と同じ形。
だが内部には補強材が追加され、基部は緊急分離構造へ改良されている。
極端な横揺れを受けた場合、甲板や艦橋を巻き込む前に、上部だけが安全に外れる構造だった。
煙突上部にも、軽量化と補強が施された。
修理最終日。
犬島は実艦の艦首に立ち、船体全体へ意識を広げた。
前部マスト。
電探。
煙突。
後部マスト。
短艇。
全ての感覚が戻っている。
少しだけ、以前と違う。
だが確かに自分の一部だった。
「おかえり」
犬島は前部マストを見上げて言った。
次に煙突。
後部マスト。
「みんな、帰ってきたなあ」
大和と武蔵が艦橋後方に立っていた。
修理完了確認のため、二人とも犬島へ同乗している。
「犬島、痛みは?」
大和が尋ねる。
犬島は目を閉じた。
頭。
胸。
背中。
実艦の損傷時に感じていた鈍い痛みは、ほとんど消えている。
「もう大丈夫です」
武蔵が前部マストを見る。
「今度は簡単には折れないそうだ」
犬島は少し困った顔をした。
「もう、折れるような波は受けたくないです」
「当然だ」
「大和さんと武蔵さんの間にも、もう入りません」
大和が答える。
「軍令部規則で禁止されました」
「なら安心です」
武蔵が少し笑う。
「我々の間に入るのは、艦娘の姿のときだけにしろ」
「今みたいにですか」
犬島の右側に大和。
左側に武蔵。
二人の間に、小柄な犬島。
実艦の大きさでは比較にならない三隻だが、艦娘の姿では犬島が少し小さい程度だった。
「この距離なら、引き波は出ませんね」
犬島が言う。
大和が微笑む。
「ええ」
武蔵が犬島の頭へ手を置く。
「安心しろ」
犬島は少しだけ頭を寄せた。
「はい」
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修理後の試運転では、犬島だけが先に海へ出た。
大和と武蔵は、試験港内で待機している。
軍令部が新たに定めた安全距離を守るためだった。
犬島は艦橋から艦首へ移動する。
新しい前部マストの電探が、周囲の海面を捉えている。
煙突からは正常な排煙。
後部マストの信号灯も点灯。
短艇も左右の架台に収まっている。
速力十ノット。
両機関正常。
舵正常。
横揺れも通常範囲。
犬島は試験海域を一周し、軍令部港へ戻った。
防波堤の内側に、大和と武蔵が待っている。
二隻は機関を停止し、犬島が入港するまで波を立てないようにしていた。
犬島は通信を送る。
「犬島、試運転を終わりました」
『大和、確認しました。異常は?』
「ありません」
『武蔵も確認した。マストも煙突も付いているな』
犬島は少し頬を膨らませた。
「出港したときから付いとりました」
『無事に戻ったことを確認したかっただけだ』
犬島は二隻の間を通らず、外側を大きく回って岸壁へ向かった。
新しい軍令部規則通りの航路だった。
大和が少し寂しそうに言う。
『ずいぶん遠くを通りますね』
「近づいたらいけんって決めたんは軍令部です」
『分かっています』
武蔵が続く。
『艦娘の姿になったら、こちらへ来い』
犬島は笑った。
「はい」
実艦「犬島」が岸壁へ接近する。
係留索が取られる。
機関停止。
推進軸停止。
舵中央。
犬島は艦橋から岸壁へ降りた。
大和と武蔵も、それぞれの実艦から艦娘の姿で降りてくる。
犬島は二人のところへ小走りで向かった。
大和と武蔵の間へ入る。
今度は海面へ波は生まれない。
犬島の小さな肩が、二人の腕へ触れる。
大和が言う。
「おかえりなさい、犬島」
武蔵も続く。
「無事でよかった」
犬島は二人を見上げた。
「ただいま」
海の上では、三隻の排水量差はあまりにも大きい。
大和と武蔵の波は、犬島の船体を傾け、マストや煙突を奪うほどの力を持っていた。
だが誰にも過失はなかった。
大和は指示された速度を守った。
武蔵も指定航路を守った。
犬島も中止基準へ到達した時点で、正しく試験を止めた。
事故を起こしたのは、まだ知られていなかった海の現象だった。
海面の波。
海中の波。
巨大戦艦の排水量。
小さな海防艦の横揺れ。
それらが偶然、最も悪い形で重なった。
犬島は傷んだ。
艦上構造物の一部を失った。
それでも艦娘としての身体は無事だった。
艦橋も残った。
そして、失ったものは軍令部のドックで全て修復された。
今回の事故によって、大型艦と小型艦が安全に同じ海を進むための新しい基準が生まれた。
犬島は大和と武蔵の間で、二人の袖を片方ずつ軽くつかんだ。
「次は、波のないところで会いましょう」
大和が答える。
「岸の上ですね」
武蔵も笑う。
「それなら、どれだけ近づいても事故は起きない」
犬島は少し考えた。
「うちの場合、絶対とは言わん方がええ気がします」
大和と武蔵は一瞬黙った。
そして二人同時に、犬島の頭へ手を置いた。
「不吉なことを言わないでください」
「何か起きる前提で考えるな」
犬島は二人に挟まれながら、困ったように笑った。
深緑色のスカーフが、嬉しそうに小さく揺れる。
軍令部試験港のドックには、修理を終えた犬島の実艦が静かに浮かんでいた。
新しいマスト。
新しい煙突。
変わらず残った艦橋。
そして艦首には、また海へ出られる日を待つ犬島の居場所があった。