やはり犬島に過失はない。
他の艦娘が登場するのであればそちらも過失は無い。他の艦娘を登場させるかはどちらでも良い
海防艦・犬島
――鋼の身体を失った日――
後に軍令部の記録で、ただ一つだけ固有の呼び名を与えられた事故がある。
河口事故十件。
海中軽石群遭遇事故。
軍令部無人防衛網誤射事件。
戦艦との接触事故。
大和と武蔵の複合引き波試験事故。
どれも犬島にとって大きな出来事だった。
艦尾を破断したこともある。
実弾の対艦誘導弾を受けたこともある。
マストや煙突を失ったこともある。
それでも犬島は、実艦の上に立っていた。
傷ついても、足元には自分の鋼鉄の身体があった。
機関の鼓動を感じられた。
推進軸を回せた。
舵を動かせた。
甲板へ手を触れれば、自分がまだ海防艦であることを確かめられた。
しかし、その事故だけは違った。
事故発生から十七分後。
海防艦「犬島」は海面から完全に姿を消した。
艦首、中央部、艦尾の三つに分断され、水深百八十六メートルの海底へ沈んだ。
海面に残されたのは、艦娘の犬島一人だけだった。
軍令部はこの事故を、正式名称とは別にこう呼んだ。
犬島船体完全喪失事故。
艦娘たちは、もっと短く呼んだ。
犬島最大の不幸。
---
事故当日。
海防艦「犬島」は、所属鎮守府から南東へ約百四十海里離れた鷺ノ瀬海域を航行していた。
艦内に乗員はいない。
実艦の艦橋前部には、艤装を持たない小柄な艦娘が一人で立っている。
濃紺色の短い髪。
琥珀色の瞳。
白い水兵服と紺色のスカート。
胸元の深緑色のスカーフ。
右側の髪には、岡山の桃の花を思わせる淡い桃色の髪留めが付いていた。
全長七十八・九メートル。
全幅九・二メートル。
満載排水量一千トン余り。
二基のディーゼル機関。
二本の推進軸。
一枚の舵。
三基の十二糎単装砲。
犬島は、その全てを自分の意思で動かしていた。
「右舷機関、正常」
犬島は艦橋の手すりへ片手を置いた。
「左舷も正常。推進軸、異常なし。舵、中央」
速力は十一ノット。
針路は三一八度。
天候は晴れ。
風速三メートル。
波高五十センチ。
視界は良好。
深海棲艦の反応もなかった。
鷺ノ瀬海域は、軍令部と海洋観測部が共同管理する深水航路だった。
水深は百五十メートルから二百メートル。
大型艦も安全に航行できる。
海底には古い海底谷があったが、過去数十年間、大きな地形変化は記録されていない。
地震活動も低い。
海底火山の存在も確認されていなかった。
事故の十一日前には、海洋観測艦による精密測量が実施されている。
水深。
海底斜面。
海中ガス。
磁気異常。
全て正常だった。
犬島自身も、出航前に最新の航路情報を受け取っていた。
「今日は、河口もない」
犬島は海図を見て、少し安心するように言った。
「港も遠い。係留索も使わん。流し網もなし。軽石もなし」
周囲には、本当に何もなかった。
広い海。
青い空。
静かな水平線。
軍令部の危険情報にも、異常は記載されていない。
今回の任務は、遠方の観測基地へ交換部品を届けた後の帰投だった。
船倉はほぼ空。
爆雷も最小限。
燃料は帰投に十分な量だけが残されている。
犬島は艦橋から艦首へ移動した。
第一砲塔の前へ立つ。
海風が濃紺色の髪を揺らした。
「帰ったら、工廠の工具を片づけんとな」
誰に聞かせるでもなく、帰投後の予定を口にする。
「提督にも、ただいまって言わんと」
所属鎮守府まで、あと六時間。
何も起こらなければ、夕方には帰れる。
犬島は少しだけ笑った。
「今日は普通に帰れそうじゃな」
その言葉から十三分後。
鷺ノ瀬海域の海底が崩れた。
---
事故の始まりは、犬島から東へ約十七キロ離れた海底だった。
前日の夜。
鷺ノ瀬海域から四百キロ以上離れた場所で、中規模の海底地震が発生していた。
震源は深く、津波も起きていない。
犬島の航路周辺では、体に感じる揺れすら観測されなかった。
海洋観測部は、航行への影響なしと判断した。
その判断は、当時得られた情報に基づけば正しかった。
だが地震の振動は、古い海底谷の斜面へわずかな亀裂を作っていた。
斜面はすぐには崩れなかった。
十数時間をかけ、海底の堆積物内部へ海水が入り込んだ。
砂。
泥。
細かな火山灰。
それらの間に水が広がり、斜面を支える摩擦力が少しずつ失われていく。
犬島が航路上へ到達した時刻。
海底谷の斜面、幅約二・八キロの範囲が、一斉に崩壊した。
海底地滑り。
数億トンに及ぶ土砂が、谷底へ向かって流れ落ちた。
その速度は、海底付近で時速数十キロに達した。
地滑りそのものは、犬島の船底から百八十メートル下で起きている。
直接船体へ衝突することはない。
だが土砂の下には、長い時間をかけて形成された天然ガスの層があった。
海底の圧力によって安定していたメタンハイドレート。
地滑りが、その層を広い範囲で切り裂いた。
圧力を失ったガスが、一気に気化する。
無数の気泡が海底から噴き出した。
最初は細い柱。
やがて複数の柱がつながり、直径数百メートルの巨大なガス噴出域となった。
犬島の航路の真下で。
---
最初の異変は、船底から伝わった。
ごごごごご――。
実艦「犬島」の全体が、低く震える。
犬島は艦首で顔を上げた。
「何……?」
機関の振動ではない。
推進軸でもない。
波でもない。
海そのものが、下から震えていた。
犬島は艦橋へ意識をつなぐ。
水中探信儀に、海底から上昇する無数の反応が映った。
魚群ではない。
潜水艦でもない。
海底から海面へ向かって、白い柱が伸びている。
「気泡……?」
警報が鳴った。
水深計の値が、百八十メートルから急激に変動する。
百四十。
二百。
九十。
計測不能。
大量の気泡が音波を乱し、海底を正しく測れなくなった。
犬島はすぐに所属鎮守府と海上交通管制へ通信した。
「海防艦・犬島、鷺ノ瀬航路上で大規模な海中気泡を確認!」
『犬島、現在位置を確認した。周辺に火山活動の記録はない』
「船底全体に振動があります!」
『直ちに現在海域を離脱せよ。針路を西へ変更』
「了解!」
犬島は艦橋へ戻らず、艦首に立ったまま操艦した。
右舷機関、全速前進。
左舷機関、全速前進。
舵を左へ。
船首を西へ向ける。
二本の推進軸が回転数を上げた。
だが、犬島の船体は思うように加速しなかった。
気泡を大量に含んだ海水は密度が低い。
推進器が水をかいても、十分な推力を得られない。
さらに船体を支える浮力も低下していた。
犬島は、自分の足元が突然なくなるような感覚に襲われた。
「沈む……?」
艦尾が大きく下がった。
右舷後部。
左舷後部。
両方の船底が、海面下へ引き込まれる。
艦首が持ち上がる。
縦傾斜、十二度。
十八度。
二十五度。
犬島は艦首の手すりへしがみついた。
「両機関、止まって!」
気泡の中で推進器を回せば、回転数だけが異常に上がる。
軸と機関を守るため、犬島は両機関を緊急停止した。
推進軸の回転が止まる。
しかし沈下は止まらない。
船体中央部の下でも、ガス噴出が始まった。
今度は艦尾だけではない。
実艦全体の浮力が、場所ごとに不規則に失われていく。
艦首が下がる。
中央部だけが持ち上がる。
船体が、海面上で巨大な山形に曲げられた。
犬島の背中に強い圧力が掛かる。
「曲がる……!」
船体主要構造がきしむ。
ぎぎぎぎぎっ――。
縦通材。
外板。
上甲板。
機関室上部。
全長七十八・九メートルの船体が、中央を持ち上げられ、艦首と艦尾を下へ引かれている。
犬島は海水タンクを調整した。
中央部から排水。
艦首と艦尾へ注水。
少しでも船体へ掛かる力を均等にしようとする。
だが海中のガス噴出は、数秒ごとに位置を変えていた。
犬島の操作より速く、浮力の分布が変化する。
艦首が沈む。
艦尾が浮く。
次の瞬間には逆になる。
「管制、船体の浮力が安定しません!」
『救難艦を派遣した! 現在位置を維持できるか!』
「できません!」
犬島は周囲を見る。
海面が白く沸騰している。
直径数百メートル。
逃げるべき方向すら分からない。
機関を動かしても推力が出ない。
舵にも十分な水流が当たらない。
錨は水深百八十メートルの海底へ届かない。
実艦「犬島」は、海の上ではなく、巨大な泡の中へ浮かんでいた。
いや。
浮いてすらいなかった。
落ちていた。
---
最初の破断は、艦尾側で起きた。
中央部が気泡の外へ一瞬出て、浮力を取り戻す。
一方、艦尾は濃い気泡域の中へ残り、下へ沈む。
機関室後部と艦尾区画の間に、設計値を超える曲げ荷重が掛かった。
そこは以前、河口事故で艦尾を破断し、再建された場所でもあった。
修理は正しく行われている。
補強も十分だった。
強度不足ではない。
それでも、船体全体を逆方向へ折り曲げるほどの力には耐えられなかった。
甲板に亀裂が走る。
左舷から右舷へ。
犬島はその感覚を知っていた。
以前、艦尾が切れたときと同じ。
だが今回は、もっと深く、もっと広い。
「また……切れる……!」
犬島は機関室後部の防水扉を閉めた。
燃料配管を遮断。
電気系統を分離。
爆雷の安全装置を確認。
艦尾側の弾薬を海中へ安全投棄する。
「艦尾、持って……!」
犬島は実艦へ呼びかける。
「もう少しだけ……!」
破断音。
ばきん――。
再建されていた艦尾区画が、機関室後部から完全に分離した。
犬島の腰から下へ、鋭い痛みが走る。
「――っ!」
声が出ない。
艦尾区画は大きく傾き、海中へ沈み始める。
舵。
両推進器。
爆雷投下軌条。
後部十二糎砲。
かつて失い、時間をかけて取り戻したものが、再び犬島から離れていく。
だが犬島は、痛みに耐えながら艦尾へ意識を伸ばした。
分離した区画にも、まだ犬島の感覚が残っている。
浸水。
傾斜。
沈下速度。
「待って……」
犬島は艦尾へ向かおうとした。
しかし、艦首にいる艦娘の身体と、分離した艦尾との距離が広がるにつれ、感覚が薄くなる。
十メートル。
二十メートル。
三十メートル。
最後に、後部区画の非常灯が水中で一度だけ光った。
そして消えた。
犬島の腰から下にあった感覚も、完全に途切れた。
「艦尾……?」
返事はない。
海底へ沈んでいく艦尾を、犬島は感じ取れなくなった。
「置いていかんで……」
犬島の声が震える。
だが事故は終わっていなかった。
---
艦尾を失ったことで、残存船体の重量配分が変化した。
艦首と中央部が急激に前へ傾く。
ガス噴出域の外側では海水密度が戻り、船首だけが強い浮力を受ける。
一方、船体中央部の真下には新たな気泡柱が上昇していた。
犬島の実艦は、今度は中央部を下へ、艦首を上へ曲げられる。
艦橋直前。
第二十二糎砲と艦橋の間。
船体構造へ再び大きな力が集中する。
犬島は気付いた。
「前も……切れる」
艦橋は中央部側へある。
犬島は艦首甲板にいる。
もし艦橋前方で船体が破断すれば、犬島の艦娘としての身体は艦首区画へ取り残される。
操艦に必要な主要設備は中央部側だ。
通信機。
発電機。
主機械。
犬島の意識は船体全体へつながっている。
だが分離すれば、どの区画との接続が残るか分からない。
犬島は艦橋へ戻ろうとした。
甲板を走る。
第一砲塔を越える。
第二砲塔へ近づく。
そのとき、船体が大きく折れ曲がった。
犬島の足元の甲板が斜めに持ち上がる。
「きゃっ……!」
犬島は甲板へ倒れた。
第二砲塔後方の上甲板に、細い亀裂が現れる。
亀裂が左右へ走る。
配線が切れる。
通風管が裂ける。
手すりが歪む。
犬島は甲板へ両手をついた。
「嫌じゃ……」
以前なら、壊れたら直せばいいと言えた。
今回は違う。
艦尾はもう海底へ沈んでいる。
前部まで切れれば、実艦は三つになる。
「これ以上、離れんで……!」
犬島は亀裂を押さえようとした。
小さな両手で、全長七十九メートルの鋼鉄船体をつなぎ止めようとする。
もちろん、物理的な意味はない。
それでも手を離せなかった。
「うちじゃろう……」
甲板へ話しかける。
「全部、うちの身体じゃろう……!」
次のガス噴出が船底へ当たった。
中央部だけが急激に沈む。
艦首区画が上へ持ち上がる。
亀裂が船底まで貫通した。
ばあんっ――!
艦首区画が、中央部から分離した。
犬島の身体が甲板上を転がる。
切断された鋼板の向こうに、白く泡立つ海が見えた。
艦橋を含む中央部が、ゆっくりと離れていく。
犬島は立ち上がり、破断面まで走った。
「待って!」
中央部には、艦橋がある。
煙突。
二基の機関。
発電機。
通信設備。
犬島が実艦を動かすための中心。
犬島はそこへ跳び移ろうとした。
だが二つの船体の間隔は急速に広がっていた。
五メートル。
十メートル。
海面は白い気泡で埋まっている。
落ちれば、浮力を得られるかも分からない。
犬島は艦首区画の端で立ち尽くした。
「艦橋……」
中央部が大きく右へ傾く。
海水が甲板へ流れ込む。
煙突が海面へ触れる。
犬島の意識には、まだ中央部の全てが伝わっていた。
機関室へ浸水。
右舷発電機停止。
左舷側も電圧低下。
艦橋の窓が水面下へ入る。
犬島は意識だけで防水扉を閉め続けた。
排水ポンプを動かす。
燃料を安全区画へ移す。
通信機で遭難信号を送る。
「沈まんで……!」
中央部の傾斜、六十度。
七十五度。
艦橋が完全に海中へ入る。
通信が切れる。
発電機が止まる。
最後に残っていた非常灯も消えた。
そして。
犬島の胸の奥から、実艦の鼓動が消えた。
---
無音だった。
波の音は聞こえる。
風の音もある。
だが、犬島が生まれてから常に感じていた音がない。
機関。
推進軸。
発電機。
ポンプ。
配管。
船底を流れる水。
鋼板のきしみ。
実艦のどこにもつながらない。
犬島は艦首区画に立っていた。
だがその艦首区画からも、感覚が薄れ始めていた。
艦首は第一砲塔と第二砲塔を載せたまま、一時的に浮いている。
しかし破断面から大量の海水が流れ込んでいた。
沈むのは時間の問題だった。
犬島は破断面へ走った。
艦首区画の防水扉を閉める。
弾薬庫の注水を止める。
排水ポンプを動かそうとする。
だが中央部の発電機から切り離され、電力がない。
手動装置を動かす乗員もいない。
艦娘の犬島一人だけでは、物理的な手回しポンプを複数同時に操作できない。
実艦との接続も弱くなっている。
「動いて……」
犬島が命じる。
何も応えない。
「お願いじゃから……」
これまでなら、犬島が思うだけで船体は動いた。
砲塔も、機関も、舵も。
今は、返事がない。
艦首が沈み始める。
第一砲塔の砲身が海面へ近づく。
犬島は第二砲塔の基部へ手を置いた。
冷たい鋼鉄。
それだけは感じる。
だが自分の身体としての感覚ではない。
ただの、濡れた鉄だった。
「うちじゃなくなったん……?」
犬島の琥珀色の瞳から涙がこぼれた。
「まだ、ここにおるのに……」
艦首区画の傾斜が増す。
犬島は艦首旗竿の近くまで移動した。
最後まで船体の上にいたかった。
助けが来るまで残りたかった。
だが海面が甲板を覆い始める。
第一砲塔が沈む。
第二砲塔も半分まで海へ入る。
犬島の膝まで水が来た。
腰。
胸。
犬島は旗竿へしがみついた。
「置いていかんで……」
船体へ向けた言葉だった。
これまで犬島は、誰も置いていかないと何度も言ってきた。
漂流した船。
傷ついた艦娘。
壊れた部品。
切り離された艦尾。
どれも置いていかなかった。
しかし今、自分の実艦が犬島を海面へ残し、海底へ沈もうとしている。
「うちも連れていって……」
小さな声が漏れる。
けれど艦首は答えない。
海水が犬島の肩まで上がる。
次の瞬間、艦首区画が急角度で沈み始めた。
犬島は旗竿から引き離され、海中へ投げ出された。
白い気泡。
暗い海。
沈んでいく鋼鉄の船首。
犬島は水中で手を伸ばした。
第一砲塔。
艦首旗竿。
桃色の髪留めと同じ色の小さな塗装標識。
それらが遠ざかる。
やがて暗闇の中へ消えた。
犬島の意識から、艦首区画の感覚も完全に失われた。
実艦「犬島」は、三つの区画全てが海中へ沈んだ。
犬島だけが、海面へ浮かび上がった。
---
遭難信号を最後に受信してから、十二分後。
救難飛行艇が現場上空へ到着した。
海面には、白い気泡と少量の浮遊物が広がっている。
短艇の破片。
木製の甲板備品。
救命浮標。
しかし実艦「犬島」の姿はない。
飛行艇から捜索員が海面を探す。
犬島の通信装置は、実艦とともに沈んでいる。
艦娘の身体には、長距離通信機能がない。
発見の手掛かりは、目視だけだった。
犬島は波の間に浮いていた。
艦娘の身体は、普通の人間より海中で強い。
沈まない。
冷たい海でも、すぐには体温を失わない。
それでも意識は朦朧としていた。
実艦との接続が一度に切れたことで、全身に強い喪失感と幻肢痛が生じていた。
背中。
腰。
胸。
頭。
存在しない艦尾が痛む。
もうない推進軸が震える。
海底へ沈んだ艦橋の警報音が、耳の奥で鳴り続ける。
犬島は海面で小さくつぶやいていた。
「機関、止めんと……」
実際には、機関はもう海底にある。
「右舷、浸水……」
返事をする者はいない。
「艦尾を……迎えに……」
犬島の右側の髪には、桃色の髪留めが残っていた。
救難飛行艇の観測員が、その小さな色を見つけた。
「海面に艦娘を確認!」
飛行艇が旋回する。
救命艇が投下される。
犬島は近づく機関音を聞いた。
だが、それが誰のものか分からなかった。
いつものように船底を通して感じることができない。
水面を伝わる音だけ。
犬島は怖くなった。
「誰……?」
救命艇から救難員が叫ぶ。
「犬島! 助けに来た!」
犬島は声の方向を見る。
「うちの船は……?」
「今は犬島の救助が先だ!」
「下におります」
犬島は海面の下を指した。
「三つに分かれて……下に……」
「位置は記録されている。必ず捜索する」
「置いていかんでください」
「置いていかない」
救難員が犬島の腕を取る。
犬島は救命艇へ引き上げられた。
艦娘の身体には、目立った外傷はなかった。
手のひらに、甲板へしがみついた際の擦り傷。
腕と脚に、鋼材へぶつけた青あざ。
それだけだった。
だが犬島は震えていた。
寒さではない。
「何も聞こえんのです」
犬島は自分の胸へ手を当てる。
「機関も、ポンプも、舵も……」
救難員は答えられなかった。
「うち、海防艦じゃなくなったんですか」
誰も、その場では否定できなかった。
---
所属鎮守府の提督が救難艦で現場へ到着したのは、事故から約三時間後だった。
犬島は医療艦の個室にいた。
毛布を掛けられ、寝台へ座っている。
濡れた水兵服は着替えさせられていた。
桃色の髪留めだけは、乾かされて枕元へ置かれている。
犬島は窓の外を見ていた。
海。
自分の実艦が沈んだ場所。
捜索船が海面を行き来している。
海底探査装置が降ろされている。
部屋の外から足音が近づいた。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島の肩が動いた。
実艦を失っても、その足音だけは分かった。
扉が開く。
提督が入ってくる。
犬島は立ち上がろうとした。
足に力が入らず、寝台から落ちそうになる。
提督が支えた。
犬島は制服の袖を両手でつかんだ。
「迎えに来てくれた……」
「ああ」
「遅いです」
初めて、犬島が提督へそう言った。
責める声ではない。
泣くのを我慢している声だった。
「ごめんなさい」
提督は犬島の肩を抱いた。
犬島は制服へ額を押し付けた。
「うちの船、沈みました」
「ああ」
「艦尾も、艦首も、艦橋も」
「ああ」
「三つとも、何も聞こえんです」
提督は犬島の頭へ手を置いた。
「海底で位置を確認している」
犬島が顔を上げる。
「見つかったんですか」
「中央部の反応を確認した。艦首と艦尾も捜索中だ」
「引き上げてくれますか」
「ああ」
「全部?」
「ああ」
「壊れとっても?」
「ああ」
「一つも置いていかん?」
「一つも置いていかない」
犬島は提督の袖を強く握った。
「ほんまに?」
「約束する」
犬島は何度も頷いた。
「うち、待ちます」
「ああ」
「何日でも待ちます」
「分かった」
「でも……」
犬島は少しだけ言葉を止めた。
「うち、船がない間、何なんでしょう」
提督はすぐに答えた。
「犬島だ」
「海防艦じゃなくても?」
「実艦が海底にあっても、犬島は犬島だ」
「機関を動かせんでも?」
「ああ」
「艦橋に立てんでも?」
「ああ」
「……所属鎮守府に帰ってもええですか」
「帰る場所は変わらない」
犬島の目から涙が流れた。
「よかったぁ……」
声を上げず、静かに泣いた。
提督の袖をつかんだまま。
---
海底探査は、事故翌日までに三つの船体区画を全て発見した。
艦首区画。
水深百七十二メートル。
左舷側を下にして海底へ横たわっている。
中央部。
水深百八十六メートル。
艦橋を上にした状態で、ほぼ正立。
煙突上部とマストは着底時に損傷。
艦尾区画。
水深百九十三メートル。
上下を逆にして、海底谷の斜面へ引っ掛かっている。
三つの区画は、最大で九百メートル離れていた。
軍令部は、直ちに大規模な引き上げ計画を立案した。
通常であれば、一千トン級艦艇を三分された状態から引き上げ、再接合することは合理的ではない。
新造した方が早い。
費用も少ない。
技術的な危険も小さい。
会議では、その案も出された。
「同型船体を新造し、犬島の中枢装置だけを移設するべきではないか」
ある技術士官が述べた。
「海底にある船体は損傷が大きい。全区画を回収して再使用するのは非効率だ」
軍令部総長は答えなかった。
代わりに、会議室の後方に座っていた犬島が立ち上がった。
実艦のない艦娘の姿。
白い水兵服。
深緑色のスカーフ。
桃色の髪留め。
「新しい船体は、うちじゃありません」
会議室が静まる。
技術士官は慎重に答えた。
「中枢装置と艦娘の接続機構を移せば、同じ感覚を得られる可能性がある」
「可能性ですよね」
「そうだ」
「海底におる船は、確実にうちです」
犬島はまっすぐ前を見る。
「艦首も、艦橋も、艦尾も、全部うちです」
「しかし、全てを再使用することは難しい」
「使えん部品があるんは分かっとります」
犬島の声は静かだった。
「でも、最初から捨てるって決めんでください」
「犬島」
「壊れたら、また直しゃあええ」
いつもの言葉。
だが今回は、言うだけで犬島の声が震えた。
「今まで、そうして帰ってきました」
犬島は胸元へ手を置いた。
「今回も、帰ってきたいです」
軍令部総長が尋ねる。
「三つの区画を全て引き上げることを望むか」
「はい」
「修復には長い時間が掛かる」
「待ちます」
「元の部材を全て使用できるわけではない」
「使えるものは戻してください」
「元の形と完全に同一にはならない可能性もある」
犬島は少し考えた。
「それでも、海底に置いていくよりええです」
軍令部総長は提督を見る。
提督は一度だけ頷いた。
総長は決定を下した。
「犬島船体全区画を回収する」
犬島の目が見開かれる。
「軍令部、各鎮守府、海上救難部隊の共同作業とする」
犬島は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その日から、軍令部史上最大規模の小型艦救難作戦が始まった。
---
最初に引き上げられたのは、艦首区画だった。
事故から二十三日後。
大型起重機船のワイヤーが、海底の艦首へ接続された。
船体周囲の泥を除去。
弾薬庫の安全を確認。
内部の海水を少しずつ排出。
浮力袋を取り付ける。
犬島は起重機船の甲板から作業を見ていた。
艦首が海底を離れる。
百七十メートル。
百メートル。
五十メートル。
海面が盛り上がる。
最初に第一砲塔の砲身が見えた。
続いて艦首旗竿。
傷だらけの外板。
海水を流しながら、犬島の艦首が二十三日ぶりに海面へ戻ってきた。
犬島は手すりへ駆け寄った。
「おかえり!」
艦首区画は答えない。
まだ感覚も戻らない。
それでも犬島は両手を振った。
「待っとったよ!」
二番目は艦尾。
事故から四十一日後。
海底斜面へ食い込んでいたため、最も危険な作業だった。
一度、土砂が再崩落しかけて作業が中止された。
犬島は不安で眠れなかった。
提督の袖をつかみながら、救難本部で夜を明かした。
翌日、作業再開。
艦尾は上下を戻され、慎重に引き上げられた。
曲がった推進軸。
破損した舵。
潰れた後部砲。
それでも原形は残っていた。
海面へ現れた瞬間、犬島は泣いた。
「帰ってきた……」
以前、艦尾を失った事故でも同じ言葉を言った。
だが今回は、四十一日間、感覚すらなかった。
犬島は引き上げられた艦尾の外板へ手を触れた。
最初は何も感じない。
ただの冷たい鋼鉄。
犬島は目を閉じた。
「うちじゃよ」
何度も呼びかける。
「帰ってきたんじゃから、返事して」
しばらくして、犬島の腰の奥へ、ごく弱い感覚が戻った。
壊れた舵。
曲がった軸。
浸水した艦尾。
痛みとも呼べない、小さな重さ。
犬島は目を開けた。
「聞こえた……」
提督が隣に立つ。
「戻ったのか」
「少しだけ」
犬島は艦尾へ額を寄せた。
「おかえり」
最後は中央部だった。
事故から六十八日後。
最も重く、艦橋と機関を含む区画。
着底時に海底へ深く沈み込んでいた。
複数の起重機船。
浮力タンク。
水中切断を避けるための補強枠。
三日間にわたる連続作業。
六十八日目の夕方。
海面から、前部マストの先端が現れた。
続いて艦橋。
割れた窓。
曲がった煙突。
海水を流す上甲板。
犬島は声を出せなかった。
艦橋は、彼女にとって最も大切な場所だった。
実艦を動かすときに立つ場所。
所属鎮守府へ帰ったとき、「ただいま」と手を振る場所。
提督の足音を待つ場所。
その艦橋が、海の中から帰ってきた。
犬島は震える足で、係留された中央部へ渡った。
艦橋への階段を上がる。
泥。
海藻。
壊れた計器。
割れた窓。
いつもの艦橋ではない。
それでも犬島は前部へ立った。
手すりへ両手を置く。
目を閉じる。
最初は何もない。
犬島は待った。
一分。
二分。
五分。
やがて胸の奥へ、かすかな機械音が戻った。
止まっている右舷機関。
浸水した左舷機関。
動かない発電機。
沈黙しているポンプ。
全て壊れている。
それでも、そこにある。
「聞こえる……」
犬島の目から涙がこぼれた。
「うちの機関じゃ……」
艦橋の床へ膝をつく。
「帰ってきた……」
提督が後ろから艦橋へ上がってくる。
犬島は足音を聞き分けた。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島は振り返った。
「提督」
「ああ」
「全部、帰ってきました」
「ああ」
「艦首も、艦尾も、艦橋も」
「ああ」
犬島は笑った。
泣きながら。
「ただいまって、言うてもええですか」
提督は答えた。
「おかえり、犬島」
犬島は艦橋の手すりを握った。
「ただいま」
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再建には、一年二か月を要した。
艦首、中央部、艦尾の破断面を切りそろえる。
新しい強化区画を挟み、三つの船体を再接合。
機関を分解。
推進軸を新造。
舵を再建。
艦橋を修復。
電探と通信機を交換。
浸水した配線を全て引き直す。
外板の大部分を交換。
それでも、再使用可能な元の部材は可能な限り戻された。
第一砲塔。
第二砲塔。
艦橋内部の一部。
機関架台。
艦首旗竿。
艦尾銘板。
玉野造船で作られた中央部の主要骨材。
犬島が「岡山の故郷」と感じる部分も、修復して残された。
再建された船体には、新しい補強区画が二か所追加された。
艦首と中央部。
中央部と艦尾。
破断した場所を隠すのではなく、事故の記憶として構造上明確に残した。
犬島は、その補強区画を嫌わなかった。
「ここで、またつながったんじゃな」
修復中、犬島は毎日工廠へ通った。
工具を並べる。
部品を磨く。
作業員へ飲み物を運ぶ。
夜になると、修理中の実艦の艦橋へ上がり、一人で座った。
機関はまだ動かない。
推進軸もない。
それでも少しずつ、船体との感覚が戻っていた。
艦首。
中央部。
艦尾。
三つに分かれていた感覚が、一本につながっていく。
再建開始から四百二十七日目。
二基の機関が初めて始動した。
右舷機関。
低い音。
左舷機関。
少し遅れて応える。
犬島は艦橋前部に立っていた。
機関の振動が船体を通り、足元へ届く。
一年以上、聞きたかった音。
犬島は手すりへ額を寄せた。
「おかえり……」
二本の推進軸が低速で回る。
舵が右へ動く。
左へ戻る。
発電機が艦内へ電力を送る。
ポンプが動く。
通信機が起動する。
実艦「犬島」の全てが、再び艦娘の犬島へつながった。
犬島は声を上げて泣いた。
今度は静かに耐えなかった。
工廠中へ聞こえるほど、大きく。
「帰ってきた……!」
提督。
軍令部の技術士官。
各鎮守府から来た作業員。
誰も止めなかった。
犬島が泣き終わるまで、ただそばにいた。
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事故調査は、再建工事と並行して行われた。
海底測量。
地震記録。
堆積物調査。
ガス成分。
船体記録。
犬島の操艦。
海洋観測部の判断。
全てが検証された。
海底地震は、通常の航行警報を出す基準以下。
地滑りは、地震発生から十数時間後に起きている。
事故十一日前の海底測量では、斜面は安定していた。
メタンハイドレート層は厚い堆積物の下にあり、通常の音響探査では確認できなかった。
犬島が気泡を確認してから、最初の船体破断まで二分四十八秒。
海域から離脱する時間はなかった。
犬島は直ちに離脱を開始。
推進器の空転を防ぐため機関停止。
海水タンクによる姿勢制御。
防水扉閉鎖。
燃料遮断。
弾薬安全化。
遭難通信。
可能な処置を全て行っていた。
報告書の結論は明確だった。
«海防艦「犬島」および艦娘・犬島の航路、速力、見張り、通信、機関操作ならびに緊急処置に、過失は一切認められない。»
«海洋観測部および航路管理部門についても、事故発生前に地滑りおよび大規模ガス噴出を予測し得る観測情報は存在しなかった。»
«本事故は、遠隔地で発生した海底地震、時間差を伴う海底斜面崩壊、未発見の天然ガス層破壊および大規模ガス噴出が連鎖した、予測不能な海洋地質災害である。»
«犬島の船体分断および沈没は、局所的かつ急激な海水密度低下によって不均等な浮力が発生し、船体へ設計上限を大幅に超える曲げ荷重が加わったことに起因する。»
最終頁には、通常の報告書にはない文章が加えられた。
«本事故は、犬島が経験した全事件・事故の中で、船体損傷、沈没深度、復旧期間および艦娘への精神的影響の全てにおいて最大である。»
«よって本件を、通称「犬島最大の不幸」とする。»
ただし、その直後には別の一文が続いていた。
«なお、犬島は船体完全喪失に至るまで、燃料遮断、弾薬安全化および遭難通信を継続し、海洋汚染および二次災害を防止した。»
«犬島の行動は、極限状況下における艦娘の模範として記録されるべきものである。»
軍令部総長は、完成した報告書を犬島へ渡した。
犬島は表紙を見た。
海防艦「犬島」鷺ノ瀬海底地滑り・船体完全喪失事故調査報告書
「最大の不幸って、ほんまに書いとる……」
「軍令部内で既に定着してしまった」
「もっと違う名前はなかったんですか」
「犬島最大沈没事故という案もあった」
「そっちも嫌です」
会議室に小さな笑いが起きる。
だが犬島は、すぐに報告書を胸へ抱いた。
「でも、うちが悪くないって書いとります」
「ああ」
「観測した人も悪くない」
「ああ」
「海が急に変わっただけ」
「その通りだ」
犬島は少し考えた。
「なら、誰も謝らんでええんですね」
「自然現象に謝罪を求めることはできない」
「それは困ります」
犬島は頬を膨らませた。
「誰にも怒れん事故って、気持ちの置き場所がないです」
軍令部総長は静かに答えた。
「だからこそ、事故を記録し、次の観測技術へつなげる」
犬島は報告書を見る。
「次の艦は、逃げられるようになりますか」
「海底斜面の微小変化と、海中ガスを常時監視する装置が開発される」
「なら……」
犬島は少しだけ笑った。
「うちが沈んだことも、無駄じゃなかったんですね」
「無駄ではない」
「でも、もう一回は嫌です」
「当然だ」
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再建完了後の初航海。
実艦「犬島」は、軍令部の修理ドックから静かに離れた。
艦内に乗員はいない。
艦橋前部には、犬島一人。
背中に艤装はない。
足元の実艦全体が、再び彼女の身体となっている。
右舷機関。
正常。
左舷機関。
正常。
二本の推進軸。
振動なし。
舵。
左右作動よし。
艦首。
中央部。
艦尾。
全てつながっている。
係留索が外される。
犬島は両機関を低速前進へ入れた。
船体が岸壁から離れる。
軍令部の職員。
救難隊。
引き上げ作業員。
工廠の技術者。
所属鎮守府の艦娘たち。
多くの人が岸壁へ並んでいた。
犬島は艦橋から艦首へ走った。
第一砲塔の前へ立つ。
両手を大きく振る。
「行ってきます!」
岸壁から声が返る。
「犬島、無事に帰れ!」
「何かあったらすぐ戻れ!」
「今度は沈むなよ!」
犬島は頬を膨らませる。
「うちも沈みたくて沈んだんじゃないです!」
笑い声が広がる。
犬島も、少し遅れて笑った。
軍令部港を出る。
防波堤を通過する。
広い海へ出る。
犬島は船首甲板へ手を置いた。
冷たい鋼鉄。
だが今度は、その奥に感覚がある。
第一砲塔の重さ。
船底を流れる海水。
二本の推進軸。
機関の鼓動。
舵へ掛かる水圧。
全て聞こえる。
「おるな」
犬島は実艦へ話しかけた。
「全部、ちゃんとおるな」
所属鎮守府の提督は、初航海だけ犬島へ同乗していた。
艦橋後方から犬島のところへ歩いてくる。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島は振り返らずに言った。
「提督」
「何だ」
「足音が聞こえます」
「ああ」
「機関の音も聞こえます」
「ああ」
「艦尾も、艦首もおります」
「ああ」
犬島は少し笑った。
「うち、また海防艦になれたんじゃな」
提督は犬島の隣へ立つ。
「最初から海防艦だった」
「船がない間も?」
「ああ」
犬島は海面を見つめた。
あの日、自分の実艦が沈んだ海。
鋼鉄の身体を失い、何も聞こえなくなった時間。
一年以上にわたる修復。
全てを思い出す。
「怖かったです」
犬島は静かに言った。
「何も聞こえんのが、一番怖かったです」
提督は答えず、犬島の頭へ手を置いた。
犬島は少しだけ頭を寄せる。
「もう、置いていかんでくださいね」
「誰に言っている」
犬島は甲板へ手を置いた。
「この子にも、提督にもです」
「分かった」
犬島は深緑色のスカーフを海風になびかせた。
実艦「犬島」は、青い海を進んでいる。
一度は三つに分断され、海底へ沈んだ船。
艦娘とのつながりを完全に失った船。
それでも全ての区画を引き上げられ、再び一つにつながった。
犬島最大の不幸。
それは確かに、犬島が経験した中で最も大きく、最も苦しく、最も長い事故だった。
だが同時に。
軍令部。
所属鎮守府。
各地の救難隊。
工廠。
観測艦。
多くの者が、犬島のために一つの船体を海底から取り戻した出来事でもあった。
犬島は水平線を見る。
「帰ったら、みんなにただいまって言わんとな」
「一年以上待っている」
「遅うなりました」
「それでも帰るんだろう」
「はい」
犬島は明るく答えた。
「帰ってくる場所には、『おかえり』って言う人が必要じゃけぇ」
二本の推進軸が海水をかく。
三つに分かれた過去を越え、一つになった船体が航跡を残す。
海防艦「犬島」は、最大の不幸を背負いながらも、再び自分の海を進んでいった。