海防艦 犬島   作:重装甲空母信濃

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犬島に過失は無いが相手の方に大きな過失がある事故・事件の小説を作って
ただし、過失があるのは艦娘・軍関係者ではない。
過失のある側のその後を少しだけ描写


犬島大型鋼製ケーソン

海防艦・犬島

 

――切れた曳索の向こう側――

 

海防艦「犬島」は、夕凪海峡の東側航路を北上していた。

 

艦内に乗員はいない。

 

操舵室にも、機関室にも、三基の十二糎単装砲の砲側にも、人の姿はなかった。

 

艦橋前部に立つ艦娘・犬島ただ一人が、全長七十八・九メートルの実艦全体を動かしている。

 

濃紺色の短い髪。

 

琥珀色の瞳。

 

白い水兵服と紺色のスカート。

 

胸元には深緑色のスカーフ。

 

右側の髪には、故郷である岡山の桃を思わせる淡い桃色の髪留めが付いていた。

 

背中に艤装はない。

 

二基のディーゼル機関。

 

二本の推進軸。

 

一枚の舵。

 

主砲、電探、通信機、錨、燃料タンク。

 

足元にある鋼鉄の船体そのものが、犬島の身体だった。

 

「針路、〇一八度」

 

犬島は艦橋の前面窓から海峡を見渡した。

 

「速力、八ノット。両舷機関、正常。舵、中央」

 

所属鎮守府での定期整備を終え、沿岸警備任務へ戻る途中だった。

 

天候は晴れ。

 

風は南西から四メートル。

 

波高は約六十センチ。

 

視界も良好だった。

 

夕凪海峡は大型船の通航が多い。

 

中央には大型船用の主航路。

 

東西には小型艦艇用の補助航路。

 

犬島は港湾交通管制の指示を受け、東側補助航路の中央を規定速力で進んでいた。

 

『夕凪交通管制より海防艦・犬島。現在の針路および速力を維持してください』

 

「犬島、了解しました」

 

『西側主航路を大型構造物の曳航船団が南下しています。最接近距離は約八百メートルとなる予定です』

 

「曳航船団、確認しました」

 

犬島は左前方を見る。

 

海峡の向こうから、奇妙な形の巨大構造物が近づいていた。

 

洋上風力発電設備の基礎として使われる、大型鋼製ケーソン。

 

高さ約五十五メートル。

 

直径約六十メートル。

 

重量は一万八千トンを超える。

 

巨大な円筒形の構造物が、海面へ半分沈んだ状態で曳航されている。

 

先頭に主曳船「海成丸」。

 

後方に補助曳船「第二海成丸」。

 

二隻が長い曳索を使い、巨大ケーソンを運んでいた。

 

曳航を担当しているのは、民間の海洋工事会社――東洋海洋建設株式会社。

 

大型海洋構造物の輸送や設置を請け負う、国内でも有数の事業者だった。

 

犬島が受け取った航行情報では、曳航計画は港湾当局の審査を通過している。

 

天候条件も問題なし。

 

曳船とケーソンの間隔も規定通り。

 

犬島とのすれ違い距離も十分に確保される予定だった。

 

「大きいなあ……」

 

犬島は艦橋からケーソンを見上げた。

 

戦艦とは形が違う。

 

武装も機関も持たない。

 

それでも重さだけなら、大型巡洋艦に匹敵していた。

 

「波、気をつけんとな」

 

以前、大型戦艦の引き波に押され、衝突事故へ巻き込まれた経験がある。

 

犬島は速力を勝手に変えず、管制指示を守ったまま、船首を波へ対応しやすい角度へわずかに調整した。

 

西側へ寄りすぎれば主航路へ入る。

 

東側へ寄れば浅水域へ近づく。

 

現在の位置が最も安全だった。

 

『犬島、曳航船団とのすれ違いまで約六分』

 

「了解です」

 

犬島は周囲を確認する。

 

右後方には小型旅客船。

 

左後方の主航路には石油製品運搬船。

 

前方には海峡大橋。

 

犬島が航路を外れれば、別の船へ近づくことになる。

 

「今のままが一番ええな」

 

犬島は甲板へ手を置いた。

 

「普通にすれ違えば、大丈夫じゃけぇ」

 

だが、その曳航船団は、提出された書類通りの状態ではなかった。

 

---

 

東洋海洋建設が提出した正式な曳航計画では、ケーソンを四隻の曳船で運ぶことになっていた。

 

前方に主曳船二隻。

 

後方に制御用曳船二隻。

 

主曳索は二重。

 

さらに一本が切断された場合に備えた非常用索を設置する。

 

ケーソン内部のバラスト水は、左右差二パーセント以内。

 

曳索張力監視装置は常時作動。

 

風速八メートル以上、または波高一メートル以上が予想される場合は出航を延期する。

 

それが安全審査を通過した計画だった。

 

しかし実際に夕凪海峡へ現れた曳船は、二隻しかいなかった。

 

残る二隻は、別工事の遅延を取り戻すため、他の現場へ回されていた。

 

主曳索も二本ではなく一本。

 

非常用曳索は、外見だけ取り付けられていたが、ケーソン側の固定金具へ完全には接続されていなかった。

 

理由は作業時間の短縮。

 

ケーソン内部のバラスト調整にも問題があった。

 

右舷側のバラスト弁が固着していた。

 

現場の整備員は異常を報告していた。

 

だが工事責任者は、修理すれば出航が一日遅れるとして、報告書からその記載を削除した。

 

ケーソンは右側が約一・八度低い状態だった。

 

通常の静かな海では、目視で分かるほどではない。

 

しかし波を横から受ければ、傾斜が増幅される可能性があった。

 

さらに主曳船「海成丸」の曳索張力警報は、前の航海で何度も警報を発していた。

 

調査すれば、曳索内部の金属線が疲労していることが分かったはずだった。

 

ところが現場では、警報を「感度が高すぎる誤作動」と判断した。

 

運航管理者の指示によって、警報装置の電源が切られた。

 

曳索そのものも交換されなかった。

 

そして出航当日の朝。

 

海峡管理者は、夕方から南西風が強まる可能性を通知していた。

 

正式な計画なら、出航を延期するべき条件だった。

 

だが東洋海洋建設は、契約上の完成期限に遅れれば多額の違約金が発生する状態にあった。

 

会社の運航部長は、気象通知の時刻を変更した資料を作り、出航判断時には警報が出ていなかったように見せかけた。

 

現場の曳船長は、追加曳船を待つよう求めた。

 

ケーソン担当技師も、バラスト弁の修理を進言した。

 

どちらも却下された。

 

「予定通り運べ」

 

会社からの指示は、それだけだった。

 

---

 

犬島と曳航船団の距離が千五百メートルまで縮まった。

 

海面はまだ穏やかに見えた。

 

だが南西から来た長い波が、ケーソンの左側面へ当たった。

 

一度目の波。

 

巨大構造物がゆっくりと右へ傾く。

 

二度目。

 

右舷側へ偏っていたバラスト水が、さらに低い側へ移動する。

 

ケーソンの傾斜が増えた。

 

曳索の接続位置が右へずれる。

 

主曳船「海成丸」の船尾が、突然左へ引かれた。

 

曳索張力が規定値を大きく超えた。

 

本来なら警報が鳴る。

 

しかし張力警報装置は、会社の指示で切られていた。

 

曳船長が異常に気付いたときには、すでに遅かった。

 

『海成丸より夕凪管制! 曳航物が右へ傾斜! 曳索張力上昇!』

 

犬島の通信機にも声が入る。

 

港湾管制がすぐに応答した。

 

『海成丸、速力を落としてください。補助曳船は後方から制御を――』

 

曳索が切れた。

 

ばあんっ――!

 

海峡全体へ響くほどの破断音。

 

切断された主曳索が、海面を鞭のように叩いた。

 

主曳船が急に自由になり、船首を左へ振る。

 

制御を失ったケーソンは、慣性のまま南へ進み続けた。

 

しかも右側へ傾いている。

 

巨大な円筒形構造物が、ゆっくりと回転を始めた。

 

後方の補助曳船「第二海成丸」が、残された一本の索でケーソンを止めようとする。

 

だが一隻で一万八千トンを制御することはできない。

 

補助曳船が横へ引かれた。

 

『第二海成丸、曳索を切れ! 転覆するぞ!』

 

曳船長が緊急切断装置を作動させる。

 

後方索も切り離された。

 

ケーソンは完全に自由となった。

 

その進行方向。

 

東側補助航路。

 

海防艦「犬島」がいた。

 

---

 

『夕凪管制より犬島! 大型ケーソンが曳航不能! 貴艦方向へ流入しています!』

 

「確認しました!」

 

犬島は即座に左舷側を見た。

 

巨大なケーソン。

 

高さ五十五メートル。

 

直径六十メートル。

 

右へ傾きながら、回転するように犬島の航路へ入ってくる。

 

犬島との距離、約九百メートル。

 

犬島は周囲を一瞬で確認した。

 

左へ避ければ、主航路を南下中の石油製品運搬船へ近づく。

 

右へ避ければ浅水域。

 

後進すれば、後方の旅客船と進路が重なる。

 

前方には海峡大橋の橋脚。

 

犬島は管制へ報告した。

 

「左に大型タンカー! 右は浅水域! 後方に旅客船がおります!」

 

『旅客船へ緊急停止を指示します!』

 

「タンカーは?」

 

『大型船のため、直ちには停止できません!』

 

犬島は右舷機関を増速。

 

左舷機関を後進。

 

船首を右へ向けようとする。

 

浅水域へ突っ込まない範囲で、ケーソンとの接触角を浅くするためだった。

 

「正面からは受けん……」

 

ケーソンの進行方向を読み取る。

 

完全な回避は難しい。

 

だが、犬島が航路中央で停止すれば、ケーソンの鋼製支持脚が船体中央へ直角に当たる可能性がある。

 

機関室や艦橋を破壊されれば、実艦は致命的な損傷を受ける。

 

犬島は前進を選んだ。

 

ケーソンの前を横切るのではない。

 

同じ方向へ動き、相対速度を下げる。

 

右舷機関全速前進。

 

左舷機関も前進へ戻す。

 

速力八ノット。

 

十ノット。

 

十二ノット。

 

犬島は船首を北東へ向けた。

 

『犬島、浅水域へ接近しています!』

 

「分かっとります!」

 

『右舷側の水深、十八メートル!』

 

犬島の喫水なら座礁する深さではない。

 

だが海底には岩礁がある。

 

さらに右へ行けば危険だった。

 

ケーソンとの距離、四百メートル。

 

巨大な構造物の下部には、海底へ固定するための鋼製ガイド部材が突き出している。

 

長さ十二メートル。

 

厚い鋼材。

 

一本が水面近くまで持ち上がっていた。

 

「下の突起が来る……!」

 

犬島はさらに船首を右へ振った。

 

ケーソンも回転している。

 

互いの動きによって、最初に当たる場所が船体中央から艦尾側へ変わる。

 

犬島は後部区画の防水扉を閉めた。

 

燃料弁を遮断。

 

爆雷を安全固定。

 

右舷推進軸の非常停止準備。

 

第三十二糎砲を正中線へ固定する。

 

「旅客船を、うちの後ろへ来させんでください!」

 

『旅客船、全速後進中!』

 

「お願いします!」

 

ケーソンとの距離、百メートル。

 

五十メートル。

 

犬島は艦橋から艦首へ走った。

 

実艦全体は意識で動かせる。

 

それでも、衝突する瞬間は自分の目で見届けたかった。

 

第一砲塔の横へ出る。

 

巨大な鋼鉄の壁が、左後方から迫る。

 

「当たるよ……!」

 

犬島は甲板へ片膝をついた。

 

次の瞬間。

 

ケーソン下部の鋼製ガイド部材が、犬島の左舷艦尾へ衝突した。

 

があんっ――!

 

全長七十八・九メートルの実艦が、横へ弾かれた。

 

犬島の背中と左腰へ、激しい痛みが走る。

 

「うあっ……!」

 

左舷艦尾外板が押し潰される。

 

後部十二糎砲の基部が歪む。

 

爆雷投下軌条が折れる。

 

左舷推進軸支柱へ強い横荷重。

 

しかし接触は一度で終わらなかった。

 

ケーソンは回転している。

 

突き出した鋼製部材が、犬島の外板へ食い込んだまま、船体を後方へ引きずった。

 

ぎぎぎぎぎっ――。

 

鋼板が裂ける音。

 

犬島の船体が左へ傾く。

 

十度。

 

十五度。

 

左舷後部へ浸水。

 

「隔壁、保持!」

 

犬島は排水ポンプを起動した。

 

だが鋼製部材が外板の破口を広げている。

 

浸水量が増える。

 

左舷推進軸が変形。

 

推進器が船底へ接触。

 

犬島は左舷機関を緊急停止した。

 

右舷機関だけを前進。

 

ケーソンから船体を引き離そうとする。

 

「離れて……!」

 

右舷推進軸が海水をかく。

 

犬島の船首が右へ向く。

 

ケーソンのガイド部材が、左舷外板をさらに二メートルほど裂いた。

 

そしてようやく抜けた。

 

海防艦「犬島」は右へ押し出される。

 

ケーソンはそのまま東側へ流れ、浅水域へ乗り上げた。

 

犬島は大きく傾いた状態で航路へ残った。

 

左舷後部浸水。

 

左舷推進軸使用不能。

 

後部砲損傷。

 

艦尾外板破口。

 

それでも沈んでいない。

 

艦橋も機関室も守られていた。

 

犬島が衝突直前に同方向へ動いたことで、相対速度が下がっていた。

 

直角衝突も避けた。

 

もし犬島が管制指示を待って停止していれば、ケーソンの突起は船体中央を貫通していた可能性が高い。

 

「旅客船は……?」

 

犬島は痛みに耐えながら通信した。

 

『旅客船、停止済み! 乗客に負傷者なし!』

 

「タンカーは?」

 

『主航路を通過。接触なし!』

 

犬島は大きく息を吐いた。

 

「よかったぁ……」

 

その直後。

 

ケーソンに近い位置にいた補助曳船「第二海成丸」から、緊急通信が入った。

 

『浸水! 右舷機関室へ浸水! 船体傾斜が増加!』

 

犬島が顔を上げる。

 

曳索を切り離す直前、補助曳船はケーソンへ引かれ、船体側面を鋼製部材へ接触させていた。

 

小型の曳船が右へ傾いている。

 

乗員がいる民間船。

 

この海域で、人間が乗っている唯一の事故関係船だった。

 

犬島は自分の損傷を確認した。

 

右舷機関は使える。

 

舵も動く。

 

左舷後部の浸水は、隔壁と排水ポンプで一時的に抑えられている。

 

自力航行は危険。

 

それでも補助曳船が沈むまで、時間がない。

 

「犬島、第二海成丸へ向かいます」

 

『犬島、貴艦も大破している! 救難艇を待て!』

 

「間に合いません!」

 

『左舷側に大きな破口がある!』

 

「右舷機関は動きます!」

 

犬島は船首を補助曳船へ向けた。

 

右舷機関を低速前進。

 

舵を使い、ゆっくりと接近する。

 

左舷艦尾へ海水が入るたび、犬島の腰へ鈍い痛みが走った。

 

それでも進む。

 

「助けに行かんと……」

 

事故原因を作った会社の船だった。

 

安全基準を守らなかった会社。

 

犬島を傷つけたケーソンを運んでいた船。

 

それでも、船上にいる人間まで沈めてよい理由にはならない。

 

犬島は第二海成丸の風上側へ近づいた。

 

「全員、甲板へ出てください!」

 

曳船員たちが救命胴衣を着け、甲板へ集まる。

 

犬島は右舷側を曳船へ向けた。

 

自分の左舷側は損傷している。

 

接舷に使えない。

 

係留索を射出。

 

曳船の船首へ渡す。

 

「一人ずつ来てください!」

 

犬島の実艦には人間の乗員はいない。

 

救助を手伝う甲板員もいない。

 

犬島は艦娘の身体で右舷甲板を走った。

 

曳船から渡された索を固定する。

 

救命網を展開。

 

曳船員を一人ずつ犬島の甲板へ移す。

 

一人。

 

二人。

 

三人。

 

最後に曳船長。

 

全員が移乗した直後、第二海成丸の傾斜が急激に増した。

 

右舷側から海水が入り、船体が横倒しになる。

 

犬島は係留索を切り離した。

 

補助曳船はゆっくりと転覆し、海面へ船底を見せた。

 

乗員は全員、犬島の右舷甲板にいた。

 

負傷者は軽傷二名。

 

死者なし。

 

犬島はそれを確認すると、艦橋前部の壁へ背中を預けた。

 

「全員、おりますか」

 

曳船長が答える。

 

「全員いる」

 

「よかった……」

 

曳船長は、損傷した犬島の艦尾を見た。

 

外板が大きく裂けている。

 

後部砲も傾いている。

 

「どうして、助けに来た」

 

犬島は少し首を傾げた。

 

「沈みそうじゃったからです」

 

「我々の会社のせいで、君は……」

 

「会社のことは、後で調べてもらいます」

 

犬島は静かに答えた。

 

「今は、人を置いていったらいけんでしょう」

 

---

 

軍令部と海上救難部隊が到着した。

 

犬島は自力航行を停止し、曳船による救援を受けた。

 

左舷艦尾の破口へ応急防水板を取り付ける。

 

浸水した区画から排水。

 

変形した左舷推進軸を固定。

 

転覆した第二海成丸の乗員は、医療船へ移された。

 

所属鎮守府の提督は、軍令部の高速艇で事故現場へ駆けつけた。

 

犬島は艦橋前部に座っていた。

 

濃紺色の髪は海水で濡れ、深緑色のスカーフも甲板へ張り付いている。

 

艦娘の身体に大きな外傷はない。

 

だが左腰と背中に、実艦の損傷による強い痛みが残っていた。

 

甲板へ足音が響く。

 

一定の歩幅。

 

少しだけ右足が強い。

 

犬島は顔を上げた。

 

「提督」

 

提督が犬島の前へ来る。

 

「動くな」

 

犬島は立ち上がらず、制服の袖へ手を伸ばした。

 

提督がその手を握る。

 

「迎えに来てくれた」

 

「ああ」

 

「今回は……」

 

犬島は少し言葉を止めた。

 

これまでの事故では、誰にも過失がないことが多かった。

 

自然現象。

 

未知の波。

 

予測不能な故障。

 

複数の偶然。

 

だが今回は違う。

 

犬島も、提出された曳航計画を見ていた。

 

四隻の曳船と書かれていた。

 

実際には二隻。

 

二重の曳索と書かれていた。

 

実際には一本。

 

犬島は曳船員から、警報装置が切られていたことも聞いている。

 

「今回は、誰かが悪かったんですか」

 

提督はすぐには答えなかった。

 

「調査が必要だ」

 

「はい」

 

「だが、少なくとも犬島に過失はない」

 

「ほんまに?」

 

「ああ。指定航路を規定速力で航行し、管制の指示にも従った」

 

「避ける方向、間違えてませんか」

 

「旅客船、タンカー、浅水域を全て確認して、最も被害の少ない方向へ動いた」

 

「止まらんかったことは?」

 

「停止すれば、船体中央へ直角に衝突していた可能性が高い」

 

「救助に行ったことは?」

 

「危険ではあった」

 

犬島の表情が曇る。

 

「でも、結果として曳船員全員を救った」

 

提督は犬島の頭へ手を置いた。

 

「犬島の判断は正しかった」

 

犬島は目を閉じ、少しだけその手へ頭を寄せた。

 

「よかったぁ……」

 

けれど完全には安心できなかった。

 

今回は、誰かの明確な判断が事故を起こしている。

 

犬島はそれに慣れていなかった。

 

「悪い人がおったら、怒らんといけんですか」

 

「怒ってもいい」

 

「でも、曳船の人は止めようとしたそうです」

 

「ああ」

 

「会社の中にも、危ないって言うた人がおったって」

 

「ああ」

 

「みんなが悪いわけじゃないんですよね」

 

「責任の所在は調査で分けられる」

 

犬島は提督の袖をつかんだ。

 

「ちゃんと分けてください」

 

「何をだ」

 

「止めようとした人と、無理に行かせた人です」

 

「分かった」

 

「助けた曳船の人まで、全部悪いって言われたら嫌です」

 

提督は頷いた。

 

「記録を確認する」

 

犬島はようやく少し安心した。

 

---

 

事故調査は、軍令部、海上交通管理局、民間事故調査委員会の合同で行われた。

 

犬島の航海記録。

 

夕凪交通管制の通信記録。

 

曳船二隻の運航記録。

 

ケーソンのバラスト記録。

 

東洋海洋建設の提出書類。

 

全てが集められた。

 

犬島の航行には問題がなかった。

 

東側補助航路の中央。

 

速力八ノット。

 

管制指示を遵守。

 

曳航船団との予定最接近距離も安全基準以上。

 

異常発生後、犬島は十八秒以内に回避動作を開始している。

 

後方旅客船と主航路のタンカーを確認し、右側浅水域へ限界まで寄りながら、ケーソンと同方向へ加速。

 

相対衝突速度を低下。

 

衝突直前には防水扉、燃料弁、爆雷固定装置を作動。

 

その全てが適切だった。

 

一方、東洋海洋建設には重大な違反が次々と見つかった。

 

第一。

 

安全審査では四隻とされていた曳船を、会社判断で二隻へ削減。

 

第二。

 

二重とされていた主曳索を一本だけ使用。

 

第三。

 

非常用曳索は、接続されたように見せかけただけで、固定金具へ完全に取り付けられていなかった。

 

第四。

 

バラスト弁の固着を認識しながら修理を行わず、整備記録から削除。

 

第五。

 

主曳索の張力警報装置を、運航管理者の指示で停止。

 

第六。

 

使用限度を超えた曳索を交換せず、そのまま使用。

 

第七。

 

気象警報の通知時刻を改ざんし、出航判断時には警報が存在しなかったように報告。

 

第八。

 

現場の曳船長と技術者が出航延期を求めた記録を、会社の正式議事録から削除。

 

事故後には、さらに悪質な行為が発覚した。

 

会社の運航部長は、事故発生直後、曳船の記録装置から張力データを消去するよう指示していた。

 

主曳船「海成丸」の乗員は指示に従わず、記録媒体を保全した。

 

また、本社は報道機関へ「突発的な異常波による不可抗力」と説明していた。

 

しかし当日の波高は、正式な安全基準内。

 

曳索が破断した直接原因は、金属線の疲労と過大張力だった。

 

事故調査報告書には、明確に記された。

 

«海防艦「犬島」および艦娘・犬島の航行、見張り、通信、機関操作ならびに緊急回避行動に、過失は一切認められない。»

 

«夕凪交通管制および周辺通航船舶についても、所定の航行および回避措置を実施しており、事故原因となる過失は認められない。»

 

そして、東洋海洋建設について。

 

«東洋海洋建設株式会社は、提出済み曳航計画を故意に変更し、必要曳船数、曳索構成、バラスト状態および気象条件に関する複数の安全基準へ違反した。»

 

«同社運航部門は、現場から報告された設備異常および出航延期要請を無視し、さらに関連記録の削除および気象資料の改変を行った。»

 

«本事故は、同社経営・運航管理部門による重大かつ継続的な安全軽視によって発生したものである。»

 

犬島の救助行動についても記された。

 

«犬島は自艦が大破した状況下において、転覆寸前の補助曳船「第二海成丸」へ接近し、乗員全員を救助した。»

 

«当該行動により、死者の発生が防止された。»

 

«犬島の行動は、自艦の安全を確保しつつ人命救助を実施したものとして、極めて適切であった。»

 

最終結論。

 

«犬島の過失は皆無である。»

 

«事故の主たる責任は、東洋海洋建設株式会社の運航管理部門および経営判断にある。»

 

---

 

犬島は、軍令部の会議室で報告書を読んだ。

 

提督が隣にいる。

 

事故調査官。

 

港湾管理者。

 

救助された曳船長。

 

東洋海洋建設で出航延期を求めた若い技術者も出席していた。

 

犬島は報告書の最後を、何度も読み返した。

 

「今回は、ほんまに会社が悪かったんですね」

 

調査委員長が答える。

 

「そうだ」

 

「知らんかったんじゃなくて?」

 

「危険を認識していた」

 

「間違えて二隻にしたんじゃなくて?」

 

「経費と工期を優先し、意図的に減らした」

 

「曳索が弱っとることも?」

 

「警報と整備報告で把握していた」

 

犬島はうつむいた。

 

誰かを責めたいわけではない。

 

だが今回は、避けられた事故だった。

 

犬島の左舷艦尾は大きく裂けた。

 

第二海成丸は転覆した。

 

旅客船やタンカーも、一歩間違えば巻き込まれていた。

 

書類通りに四隻の曳船を使っていれば。

 

曳索を交換していれば。

 

警報を切らなければ。

 

出航を延期していれば。

 

事故は起きなかった。

 

犬島は若い技術者を見る。

 

「危ないって、言うたんですか」

 

「はい」

 

技術者は緊張した様子で答えた。

 

「バラスト弁を修理するまで出航すべきではないと報告しました」

 

「でも、止められんかった」

 

「力が足りませんでした」

 

技術者は頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

犬島は首を横に振った。

 

「あなたが謝ることじゃないです」

 

「しかし――」

 

「報告を消した人が悪いんでしょう」

 

「……はい」

 

犬島は曳船長にも尋ねる。

 

「曳船を増やしてほしいって言うたんですか」

 

「言った」

 

「会社から断られた?」

 

「ああ」

 

「なら、曳船長さんも全部悪いわけじゃないです」

 

曳船長は苦しそうに答えた。

 

「だが、最後は出航した」

 

「命令に逆らってでも止めるべきだったと、調査報告には書かれている」

 

調査委員長が説明した。

 

「曳船長には限定的な判断責任が認められた。ただし事故の主因ではなく、会社からの強い業務命令と情報改ざんを考慮する」

 

犬島は黙って聞いた。

 

全員が無過失ではない。

 

けれど責任の大きさは同じではない。

 

犬島はそれを理解しようとした。

 

「難しいなあ……」

 

「何がだ」

 

提督が尋ねる。

 

「悪い人と悪くない人が、同じ会社におることです」

 

「組織全体を一つの人格として扱うことはできない」

 

「はい」

 

「だから調査を行い、個別に責任を判断する」

 

犬島は報告書を胸へ抱いた。

 

「うち、会社の人みんなを嫌いにならんでもええんですね」

 

「ああ」

 

「でも、無理に出航させた人には、ちゃんと責任を取ってもらう」

 

「ああ」

 

犬島は少し考えた。

 

「許すことと、何もなかったことにするんは違うんですね」

 

「その通りだ」

 

犬島はゆっくり頷いた。

 

「分かりました」

 

---

 

東洋海洋建設株式会社は、事故後に海洋輸送事業の許可を停止された。

 

国と港湾当局が全事業所へ立入検査を行う。

 

複数の工事で、整備記録の改ざんや安全要員の削減が見つかった。

 

会社の社長と運航部長は辞任。

 

運航部長と安全記録の改ざんを指示した管理者は、業務上の重大な安全義務違反と証拠隠滅に関する容疑で起訴された。

 

会社には多額の損害賠償と罰金が命じられた。

 

犬島の修理費。

 

第二海成丸の引き上げ費。

 

海峡閉鎖による損害。

 

救難活動費。

 

全てが請求された。

 

会社は主力事業を失い、事実上解体された。

 

ただし、現場で出航延期を求めていた技術者や、記録を保全した曳船員まで処罰されることはなかった。

 

彼らの証言と保存記録が、事故原因の解明に大きく役立ったからだ。

 

若い技術者は事故後、別の海洋安全機関へ移った。

 

そこで大型構造物曳航の新しい安全規則作りへ参加した。

 

必要曳船数を現場判断で減らせない制度。

 

曳索張力記録の外部自動保存。

 

バラスト状態の第三者確認。

 

現場技術者が危険を申告した場合、会社命令だけでは出航できない停止制度。

 

新しい規則は、犬島の事故記録を基に作られた。

 

一方、救助された曳船長は免許停止期間を終えた後、海へ戻った。

 

ただし今度は、会社の命令より安全基準を優先すると公に誓約した。

 

「二度と、危険だと分かっている船を出さない」

 

その言葉は、事故調査報告書の追補へ記録された。

 

---

 

犬島の修理は、軍令部の大型ドックで行われた。

 

左舷艦尾外板。

 

左舷推進軸。

 

軸支柱。

 

後部十二糎砲基部。

 

爆雷投下軌条。

 

破損範囲は広かった。

 

しかし船体中央部と艦橋は無事だった。

 

以前の事故で強化された隔壁も、浸水を機関室手前で食い止めていた。

 

犬島は毎日、修理中の実艦を見に来た。

 

切り取られた外板。

 

曲がった軸。

 

折れた投下軌条。

 

それらを一つずつ見て回る。

 

「今回は、直せるんですよね」

 

軍令部の技術士官が答える。

 

「完全に直せる」

 

「艦尾も切れとらんです」

 

「主要構造は残っている」

 

「なら、大丈夫です」

 

犬島は少し安心した。

 

それでも、裂けた外板へ触れると痛みが戻る。

 

巨大なケーソンが迫ってきた光景。

 

鋼製部材が外板へ食い込む音。

 

船体を引きずられた感覚。

 

犬島は甲板へ手を置いた。

 

「怖かったなあ」

 

自分の実艦へ話しかける。

 

「でも、よう耐えてくれたな」

 

提督が後ろから来る。

 

足音を聞いた犬島は、振り返る前に少し表情を明るくした。

 

「提督」

 

「修理は順調だそうだ」

 

「はい」

 

「事故の責任者に対する処分も決まった」

 

犬島は少し黙った。

 

「うち、喜んだ方がええんでしょうか」

 

「処罰そのものを喜ぶ必要はない」

 

「でも、責任は取ってもらわんといけん」

 

「ああ」

 

「次の事故を止めるためですか」

 

「それもある」

 

犬島は新しい外板を見た。

 

「うちが怒っとるからじゃなくて?」

 

「怒っていてもいい」

 

「怒ってもええけど、それだけで罰を決めたらいけんのですね」

 

「ああ」

 

犬島はゆっくり頷いた。

 

「軍令部の調査って、難しいことを考えとるんじゃな」

 

「今さらか」

 

犬島の頬が少し膨らむ。

 

「うちは調べられる方が多かったけぇ」

 

提督は犬島の頭へ手を置いた。

 

「今回は、犬島を疑う調査ではなかった」

 

「はい」

 

「最初から犬島の航海記録に問題はなかった」

 

犬島は目を細めた。

 

「それ、ちょっと嬉しかったです」

 

「何がだ」

 

「軍令部の人が、最初から『犬島は何をした』じゃなくて、『犬島に何が起きた』って調べてくれたことです」

 

これまで数多くの事故を経験した結果、軍令部内部では犬島に対する信頼が確立していた。

 

事故が起きても、まず犬島の過失を疑う者はいない。

 

犬島が規則を守り、可能な限り周囲を守ることを、皆が知っていた。

 

「信じてもらえたんじゃな」

 

「ああ」

 

犬島は深緑色のスカーフを少し嬉しそうに揺らした。

 

「なら、ちゃんと帰らんといけんです」

 

---

 

修理完了の日。

 

実艦「犬島」は、軍令部ドックの水面へ戻された。

 

新しい左舷艦尾外板。

 

新造された左舷推進軸。

 

調整された後部十二糎砲。

 

再建された爆雷投下軌条。

 

艦内に乗員はいない。

 

艦橋前部には、艤装を持たない犬島一人。

 

犬島は実艦全体へ意識を広げる。

 

右舷機関、始動。

 

左舷機関、始動。

 

二本の推進軸、低速回転。

 

異常振動なし。

 

舵、右。

 

左。

 

中央。

 

「全部、正常です」

 

提督が艦橋後方にいた。

 

初航海へ同乗するためだった。

 

「出港できるか」

 

「はい」

 

係留索が外される。

 

実艦「犬島」が岸壁を離れた。

 

軍令部の職員。

 

修理担当者。

 

事故調査官。

 

救助された曳船員たち。

 

多くの者が岸壁から見送っている。

 

その中に、東洋海洋建設を退職した若い技術者もいた。

 

犬島は艦首へ出た。

 

技術者の姿を見つける。

 

両手を振る。

 

技術者は深く頭を下げた。

 

犬島は通信機を使い、岸壁へ声を送った。

 

「頭を上げてください!」

 

技術者が顔を上げる。

 

「次は、危ないって言うたら止めてください!」

 

岸壁から返事が届く。

 

「必ず止めます!」

 

犬島は頷いた。

 

「なら、また海で会っても大丈夫です!」

 

実艦は港口へ向かう。

 

犬島は少しだけ後ろを振り返った。

 

事故を起こした会社はなくなった。

 

責任者は処分を受けた。

 

だが、事故を止めようとした人々は、新しい場所で海の安全を守ろうとしている。

 

犬島は誰も憎まなかった。

 

けれど事故を忘れたわけでも、責任をなかったことにしたわけでもない。

 

「提督」

 

「何だ」

 

「許すって、忘れることじゃないんですね」

 

「ああ」

 

「直すことも、元通りに見せるだけじゃない」

 

犬島は新しい左舷外板へ意識を向けた。

 

「同じ事故が起きんように変えることなんじゃな」

 

「そうだ」

 

犬島は艦首甲板へ手を置いた。

 

「なら、今回もちゃんと直ったんですね」

 

船体だけではない。

 

規則も。

 

制度も。

 

責任の取り方も。

 

事故によって壊れたものが、一つずつ作り直されていた。

 

犬島は所属鎮守府の方角を見る。

 

「帰ります」

 

二基の機関が力強く回る。

 

「みんなが待っとるけぇ」

 

海防艦「犬島」は、重大な安全軽視によって傷つけられた。

 

犬島に過失はなかった。

 

軍にも、艦娘にも、交通管制にも過失はなかった。

 

事故を生んだのは、危険を知りながら工期と利益を優先した民間会社の判断だった。

 

それでも犬島は、同じ会社の船に乗っていた人々を救った。

 

悪い側の人間だからと、海へ置いていかなかった。

 

誰も置いていかない。

 

それが犬島の護衛だった。

 

ただし、助けることと、責任を曖昧にすることは違う。

 

犬島はその事故で、初めてそれを知った。

 

「壊れたら、また直しゃあええ」

 

犬島は静かに言った。

 

「でも、壊した理由まで直さんと、ほんまに直ったことにはならんのじゃな」

 

実艦「犬島」は、新しい航跡を海面へ残した。

 

その後ろには、事故の記録と、二度と同じ過ちを繰り返さないための新しい規則が残っていた。

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