海防艦・犬島
――誰も置いていかせない――
犬島が本気で怒った姿を見た者は、それまでほとんどいなかった。
河口へ流されても。
艦尾を失っても。
実艦を三つに分断され、海底へ沈められても。
軍令部の無人防衛網から実弾攻撃を受けても。
犬島は、誰かを一方的に責めようとはしなかった。
事故には事情がある。
知らなかったことがある。
その場では、ほかに選べなかったこともある。
犬島はいつも記録を読み、相手の話を聞き、それから静かに言った。
「悪くない人を責めたらいけんでしょう」
だが、その日の事故だけは違った。
危険を知っていた。
止める機会もあった。
それでも工事を続けた。
そして事故が起きた後、人命よりも会社の責任逃れを優先した。
犬島が怒ったのは、自分の船体を傷つけられたからではない。
自分を危険へ巻き込んだことでもない。
人が残っていると知りながら、その人たちを海の底へ沈めようとしたからだった。
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一 灰浜湾の解体工事
海防艦「犬島」は、灰浜湾外側の沿岸警備航路を進んでいた。
全長七十八・九メートル。
全幅九・二メートル。
二基のディーゼル機関と二本の推進軸。
一枚の舵。
三基の十二糎単装砲。
艦内に乗員はいない。
白い水兵服を着た艦娘・犬島ただ一人が、実艦の艦橋前部に立っている。
背中に艤装はない。
犬島が意思を向ければ機関が動き、舵が切られ、通信機が電波を送る。
足元の鋼鉄の船体そのものが、犬島の大きな身体だった。
「針路、二七四度」
犬島は艦橋の窓から海面を見た。
「速力、八ノット。両舷機関、正常」
左手には灰浜市の工業地帯がある。
製鉄所。
石油備蓄施設。
貨物埠頭。
そして湾奥には、民間の船舶解体会社――灰浜船舶資源株式会社の解体ヤードがあった。
その日、解体ヤードでは旧式の大型化学物質運搬船「第八東洋丸」の解体が行われていた。
全長百九十メートルを超える大型船。
長年、工業薬品や溶剤を運んでいたが、老朽化によって退役し、船体を分割して再資源化することになった。
正式な作業計画では、船内に残ったガスと薬品を完全に除去した後、機械式の切断装置を使って少しずつ解体することになっていた。
爆薬の使用は禁止。
火花を発生させる作業も、ガス濃度を何度も確認した上で実施する。
周囲五百メートルを作業制限区域とし、危険作業中は港湾管制へ通報する。
それが許可条件だった。
しかし灰浜船舶資源は、工期に大幅な遅れを出していた。
解体作業を請け負った時点で、会社の経営状態は悪化していた。
工期がさらに延びれば、違約金を支払えない。
そこで会社の専務と現場統括責任者は、禁止されていた小型爆薬を使うことを決めた。
船体内部の骨材を一度に切断し、大きな船体区画をクレーンで持ち上げる。
正規の手順より、数日早く作業が終わる計画だった。
ガス濃度を確認した技師は、危険を報告していた。
「第四貨物槽周辺に、まだ可燃性ガスが残っています」
「爆破は延期すべきです」
報告書にも、その記録が残された。
だが現場統括責任者は、測定値を書き換えさせた。
基準値の三倍だった数値を、基準以下へ修正。
作業員へは、「再測定で問題なし」とだけ伝えた。
さらに、事故時に使用する消火配管は、前日の工事で一部を取り外されていた。
非常曳船も経費削減のため待機させていない。
灰浜港湾管制にも、爆薬を使うことは通知されなかった。
午後三時十二分。
犬島は、解体ヤードから約二千メートル沖の正規航路を通過していた。
「左舷、灰浜解体ヤード」
犬島は目視で周囲を確認した。
大型クレーン。
浮きドック。
係留された第八東洋丸。
外見上、異常はない。
港湾管制からも危険作業の通知は届いていなかった。
「普通の解体作業じゃな」
犬島は警戒を解かなかったものの、航路や速力を変更する理由はなかった。
その三十秒後。
第八東洋丸の船体内部で、最初の爆薬が起爆された。
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二 最初の爆発
低い爆発音が、灰浜湾に響いた。
どん――。
犬島はすぐに左を向いた。
「爆破……?」
解体ヤードから、黒い煙が上がる。
正式な港湾情報に、爆破作業の予定はない。
犬島は交通管制へ通信した。
「海防艦・犬島より灰浜管制。解体ヤードで爆発を確認しました」
『こちらでも確認中です。爆破解体の届け出はありません』
「火災のように見えます」
『消防艇を向かわせます』
犬島は速力を落とした。
安全が確認されるまで、ヤード付近を通過しないためだった。
直後。
第八東洋丸の第四貨物槽へ残っていた可燃性ガスへ、爆発の火炎が到達した。
二度目の爆発は、最初とは比較にならなかった。
轟音。
巨大な火球。
第八東洋丸の船体中央部が、内側から膨らんだ。
外板が裂ける。
切断途中だった骨材が一斉に破断。
大型クレーンの吊り索が切れ、吊り上げられていた船体区画が浮きドックへ落下した。
浮きドックが右へ大きく傾く。
係留索が二本、三本と切れた。
犬島の艦橋の窓が、爆圧で震える。
「大きい……!」
爆発した第八東洋丸の船体中央部から、炎を上げた巨大な区画が海へ崩れ落ちた。
長さ約六十メートル。
重量四千トン以上。
その区画には、複数の貨物槽と鋼製配管が残っている。
海面へ落ちた衝撃で、係留設備が破壊された。
船体区画は炎を上げたまま、湾外方向へ漂流を始めた。
犬島の方向だった。
『灰浜管制より犬島! 解体船の一部が漂流!』
「確認しました!」
犬島は周囲を確認する。
右後方に通勤用旅客船。
左後方に石油製品運搬船。
犬島の前方には、灰浜市の上水道取水施設へつながる海水淡水化設備がある。
燃えている船体区画が取水設備へ衝突すれば、火災と薬品流出によって、市内の水供給に重大な影響が出る。
犬島は港湾管制へ叫んだ。
「漂流区画の中身は分かりますか!」
『解体会社から情報が来ていません!』
「元は化学物質運搬船です!」
犬島は実艦の船首を漂流物へ向けた。
「犬島、漂流区画を取水施設から外します!」
『危険だ! 内部に何が残っているか分からない!』
「このままでは施設に当たります!」
犬島は両機関を増速した。
八ノット。
十ノット。
漂流区画へ近づく。
炎は区画上部から上がっている。
海面には、油と正体不明の液体が広がり始めていた。
犬島は消火用放水装置を作動させた。
右舷側から海水を噴射し、炎を少しでも抑える。
だが実艦の小さな消火設備で、大型船区画全体の火災を消すことはできない。
「押すしかない……」
犬島は船首を漂流区画の側面へ向けた。
衝突の直前、速度を三ノットまで落とす。
艦首防水扉を閉める。
第一十二糎砲を後方へ固定。
錨鎖を安全固定。
燃料管を遮断。
「当たります!」
実艦「犬島」の艦首が、燃える船体区画へ接触した。
ごおんっ――。
鋼鉄同士がぶつかる。
犬島の額と胸へ、重い痛みが走った。
「っ……!」
艦首外板がへこむ。
右舷錨が架台から外れかける。
第一砲塔基部へ衝撃。
それでも犬島は機関を止めなかった。
両舷機関、低速前進。
二本の推進軸が海水をかく。
一千トン余りの犬島が、四千トンを超える船体区画を少しずつ押す。
正面からは動かせない。
犬島は船首を区画側面へ滑らせ、回転させるように力を加えた。
漂流区画の向きが変わる。
取水施設から、湾中央側へ。
「もう少し……!」
右舷機関の出力を上げる。
左舷側を落とす。
漂流物を回転させる。
熱が艦首甲板へ伝わる。
白い水兵服姿の犬島も、額に汗を浮かべていた。
ついに燃える船体区画は、取水施設へ向かう進路から外れた。
消防艇が到着し、大量の放水を開始する。
犬島は船首を離した。
艦首外板は大きくへこみ、右舷錨は失われていた。
それでも取水施設は無事だった。
「管制、漂流区画を湾中央へ移しました!」
『確認した! 犬島、直ちに離れて損傷を確認せよ!』
犬島は後進しようとした。
だがそのとき、解体ヤードから新たな通信が入った。
『作業員が浮きドック上に取り残されています!』
犬島は艦橋の画面を見た。
傾いた浮きドック。
炎。
倒れたクレーン。
ドックの先端に、作業員たちが集まっている。
人数は十人以上。
ドックと岸壁をつないでいた通路は、爆発で崩落していた。
消防艇は燃える船体区画の消火中。
救助艇の到着には時間が掛かる。
「犬島、作業員救助へ向かいます!」
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三 残された作業員
犬島は損傷した艦首のまま、解体ヤードへ向かった。
速度は五ノット。
右舷錨を失っている。
艦首外板はへこんでいる。
だが機関、推進軸、舵は正常。
自力航行に支障はない。
浮きドックは右へ約十八度傾いていた。
船体中央部には炎。
大型クレーンは横倒し。
ドック上には十四人の作業員が取り残されている。
うち三人は負傷。
一人は脚を鋼材へ挟まれて動けない。
犬島は左舷側をドックへ近づけた。
「動ける人から、こちらへ来てください!」
作業員が叫ぶ。
「一人、下敷きになっている!」
「置いていきません!」
犬島は実艦を左舷側からドックへ寄せた。
防舷材が接触。
小さな衝撃。
艦娘の犬島は艦橋から左舷甲板へ走った。
艦内に乗員はいない。
救助を手伝う甲板員もいない。
犬島自身が、実艦を動かしながら人間を救わなければならない。
係留索を投げる。
作業員がドック側へ固定。
犬島の船体とドックの間に仮設渡り板を掛ける。
動ける作業員を一人ずつ実艦へ移す。
一人。
二人。
三人。
負傷者は担架で運ぶ。
犬島は甲板を走り、担架の片側を自分で持った。
小柄な身体でも、艦娘としての力は強い。
「ゆっくりでええです」
怯える作業員へ声を掛ける。
「うちの甲板まで来たら大丈夫じゃけぇ」
十人が犬島へ移った。
残る四人。
脚を挟まれた作業員。
それを助けようとしている二人。
そして現場の安全技師。
そのとき、犬島の通信装置が、解体会社の社内無線を傍受した。
『本社より現場統括。残置爆薬の処理を行え』
現場統括責任者が答える。
『まだ作業員がドック上に残っています』
『残った区画が崩壊すれば、爆薬と記録機器が回収される』
『人がいるんです!』
短い沈黙。
その後、本社専務の声が流れた。
『爆発事故が拡大している。船体全体の緊急沈下措置として処理しろ』
『それでは人が――』
『会社としては全員退避済みと報告する』
犬島の動きが止まった。
聞き間違いかと思った。
社内無線の記録を再生する。
全員退避済みと報告する。
実際には、目の前のドックに四人が残っている。
本社はそれを知っている。
それでも残った爆薬を再起爆し、浮きドックと第八東洋丸を沈めようとしている。
事故原因となった違法爆薬。
改ざんされた測定記録。
切断された消火配管。
それらを海中へ沈め、証拠を失わせるために。
犬島は通信回線を開いた。
「灰浜船舶資源、本社」
返答はない。
「聞こえとるんでしょう」
低い声だった。
普段の犬島とは違う。
怒鳴ってはいない。
だが艦橋内にいた救助作業員たちは、全員が息を止めた。
「今、何て言うた?」
会社側から、ようやく返答が届く。
『こちらは民間作業用回線だ。軍艦の介入は――』
「人が残っとる」
犬島は相手の言葉を遮った。
「四人。うちの目の前におります」
『現場の情報が錯綜している。緊急沈下は二次爆発を防ぐための――』
「嘘を言うな」
犬島の琥珀色の瞳が、まっすぐ浮きドックを見ていた。
深緑色のスカーフが、熱風に揺れる。
「残った爆薬と記録を沈めるためじゃろう」
『根拠のない発言は――』
「通信は全部記録しとる」
犬島は、残っている爆薬の起爆周波数を探知した。
遠隔起爆装置。
会社本社から中継局を通し、現場の受信機へ信号を送る方式。
犬島は電子妨害装置を起動した。
起爆用周波数を封鎖。
現場周辺の受信機へ信号が届かない状態にする。
『電波妨害を停止しろ! 民間設備への不法な――』
「停止せん」
犬島は答えた。
「絶対に止めん」
その声には、一切の迷いがなかった。
「事故を起こしたことだけなら、調査で決めてもらえばええ」
「知らんかったことや、間違えたことなら、話を聞きます」
「でも――」
犬島の声が震えた。
恐怖ではない。
怒りだった。
「人がおるって分かっとるのに、沈めるんか」
会社側は答えなかった。
「自分たちの記録を隠すために」
「自分たちが助かるために」
「ここで働いとる人を、最初からおらんかったことにするんか!」
最後の言葉は、灰浜湾全体へ響いた。
犬島は本気で怒っていた。
自分の艦首が壊れたことには触れなかった。
失った錨のことも。
火災へ押し付けた外板の痛みも。
ただ、取り残された四人のことだけを見ていた。
「うちは、誰も置いていかん」
犬島は浮きドックへ近づく。
「誰もおらんことになんか、させんけぇ」
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四 再起爆
会社本社は、犬島の警告を無視した。
複数の周波数を切り替え、残置爆薬の起爆信号を送った。
犬島の電子妨害装置が、一つ目を遮断。
二つ目も遮断。
三つ目。
起爆装置は反応しない。
だが浮きドック上には、予備の有線起爆装置が残されていた。
現場統括責任者が、本社からの命令を受ける。
『手動で起爆しろ』
責任者は起爆器を見た。
ドック上に残る作業員。
救助に向かう犬島。
炎。
「できません」
責任者は答えた。
『命令だ』
「人が残っています」
『契約違反として処分する』
「それでも、できません」
責任者は起爆器から鍵を抜いた。
だが別の管理職が起爆器を奪おうとした。
二人がもみ合う。
起爆ケーブルが引かれる。
犬島の水中探信装置が、電流の変化を感知した。
「起爆回路が生きとる……!」
犬島は第一十二糎砲を、浮きドックから離れた海面へ向けた。
砲撃するためではない。
砲塔基部に備わる強力な電力回路を使い、短時間の広帯域電磁妨害を発生させるためだった。
主電探。
通信装置。
電子妨害装置。
使用可能な電力を全て起爆周波数と制御回路へ集中。
艦内照明が消える。
第二、第三砲塔への電力も一時遮断。
「止まれ……!」
起爆器の表示が消えた。
遠隔回路も、有線回路の電子安全装置も停止。
しかし犬島自身の電探と通信装置にも大きな負荷が掛かった。
主配電盤が過熱する。
一部回路が焼損。
犬島の頭へ鋭い痛みが走る。
「っ……!」
それでも妨害を解除しない。
「人が出るまで、絶対に動かさん……!」
港湾管制が通信する。
『犬島、起爆回路の無力化を確認! 警察と消防の突入班が会社施設へ向かっている!』
「現場の四人を先に助けます!」
犬島は左舷甲板から浮きドックへ渡った。
実艦は自分の意識で位置を維持している。
犬島自身は倒れた鋼材の下へ走る。
脚を挟まれた作業員。
顔は青ざめている。
「犬島……」
「今、出します」
犬島は曲がった骨材へ両手を掛けた。
艦娘の力で持ち上げる。
鋼材が少しずつ動く。
ほかの作業員が負傷者を引き出す。
「もう少し……!」
火災が近づいている。
爆発で切れた配管から、燃料が滴っている。
犬島は鋼材を押し上げたまま叫んだ。
「早う!」
負傷者の脚が抜ける。
犬島は鋼材を横へ投げた。
担架へ乗せる。
残る三人とともに、実艦へ戻る。
最後に安全技師が渡り板を渡った。
犬島は人数を確認した。
十四人。
全員いる。
「全員、おりますか」
「いる!」
作業員の一人が答える。
犬島は何度も数える。
一人。
二人。
三人。
十四人。
誰も置いていない。
「よかった……」
しかし浮きドックの火災は拡大していた。
残された爆薬が、熱によって自然起爆する危険がある。
犬島は係留索を切り離した。
左舷機関、後進。
右舷機関も後進。
実艦をドックから離す。
その直後。
浮きドック内部で小規模な爆発が起きた。
爆風。
鋼材の破片。
犬島は実艦を作業員側へ傾け、艦橋と上部構造物を盾にした。
破片が右舷外板へ突き刺さる。
前部マストの一部が折れる。
第二砲塔の砲身に破片が当たる。
犬島の右肩と頭へ痛みが走る。
それでも艦娘の身体には、大きな外傷はなかった。
犬島は作業員たちの前に立った。
「伏せとってください!」
二度目の小爆発。
破片が海面へ落ちる。
消防艇の放水が、浮きドック全体を覆う。
火災は少しずつ弱くなった。
犬島は最後まで、十四人と爆発の間に実艦を置いていた。
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五 怒ったままの犬島
事故から四十分後。
浮きドック上に残っていた作業員十四人は、全員が医療艇へ移された。
死者は出なかった。
重傷者二人。
軽傷者六人。
残る六人は無傷。
犬島の損傷は大きかった。
艦首外板の圧壊。
右舷錨喪失。
第一砲塔基部の歪み。
右舷外板への複数の破片貫通。
前部マスト上部破損。
主配電盤焼損。
第二砲塔砲身損傷。
それでも機関と推進軸、舵、艦橋は無事だった。
所属鎮守府の提督が、軍令部の高速艇で事故現場へ到着した。
犬島は艦首甲板に立っていた。
普段なら提督の足音を聞いた瞬間、小走りで迎えに行く。
だが今回は動かなかった。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い足音が、後ろから近づく。
「犬島」
提督が呼ぶ。
犬島は振り返った。
琥珀色の瞳には、まだ強い怒りが残っていた。
「提督」
「負傷は」
「艦娘の身体は無事です。船体は、ぼっけぇ痛いです」
「作業員は全員救助された」
「はい」
「よくやった」
犬島は嬉しそうにはしなかった。
いつもなら褒められれば、少し照れたように目を細める。
今回は拳を握ったままだった。
「提督」
「何だ」
「うち、怒ってもええですよね」
「ああ」
「大きな声を出しました」
「ああ」
「会社の通信を妨害しました」
「人命を守るための緊急措置だ」
「起爆装置も壊しました」
「適切だった」
犬島はうつむいた。
「うち、今まで、誰かを嫌いにならんようにしとりました」
事故には事情がある。
誰にも過失がないことも多い。
相手に過失があっても、組織の中には止めようとした人がいる。
だから犬島は、一人ずつ話を聞こうとした。
「でも今回は……」
犬島の声が震える。
「人がおるって、知っとったんです」
「ああ」
「助けられる時間もあった」
「ああ」
「それなのに、いなかったことにしようとした」
犬島は顔を上げた。
「うち、それだけは許せん」
提督は犬島の頭へ手を伸ばした。
犬島は少しだけ迷い、それからその手へ頭を寄せた。
「許さなくていい」
提督が言う。
犬島の目が揺れた。
「ええんですか」
「ああ」
「いつか許さんと、悪い子になりませんか」
「許すかどうかを決めるのは犬島だ」
犬島は黙って聞いた。
「責任を明らかにすることは、復讐ではない」
「はい」
「二度と同じことを起こさせないために、怒る必要があることもある」
犬島はしばらく考えた。
そして、小さく頷いた。
「なら、うちは怒ります」
「分かった」
「調査が終わるまでじゃなくて」
犬島は炎の消えた解体ヤードを見る。
「ちゃんと責任を取るまで、忘れません」
犬島の怒りは、相手を傷つけるためのものではなかった。
作業員十四人を、最初から存在しなかったことにさせないための怒りだった。
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六 事故調査
軍令部、警察、海上交通管理局、労働安全機関による合同調査が始まった。
犬島の航海記録には、問題が一つもなかった。
正規航路。
規定速力。
適切な見張り。
爆発後の即時通報。
漂流船体区画の進路変更。
作業員救助。
遠隔起爆の妨害。
全てが、人命と周辺施設を守るための適切な行動と認定された。
報告書には明記された。
«海防艦「犬島」および艦娘・犬島の航行、通信、機関操作、漂流物対応ならびに人命救助行動に、過失は一切認められない。»
«犬島が漂流船体区画へ自艦を接触させ、海水淡水化設備から進路を外した判断により、灰浜市の取水施設への衝突および化学物質流入が防止された。»
«また、犬島が残置爆薬の起爆信号を妨害し、浮きドック上の作業員十四名を救助した行動は、生命保護の観点から必要かつ適切な緊急措置であった。»
灰浜船舶資源株式会社については、多数の重大違反が確認された。
可燃性ガス測定値の改ざん。
禁止された爆薬の使用。
爆薬量の上限超過。
港湾管制への無通報。
消火設備の取り外し。
非常曳船の未配置。
安全技師の中止要請の隠蔽。
事故後の遠隔再起爆命令。
作業員が残っている事実を知りながら、「全員退避済み」と虚偽報告する計画。
通信記録と作業日誌の廃棄指示。
調査報告書の文章は、極めて厳しいものとなった。
«本事故は、灰浜船舶資源株式会社の経営・管理部門が工期短縮および違法作業の隠蔽を優先し、安全基準を故意に無視したことで発生した。»
«特に、作業員が浮きドック上に残留していることを認識しながら残置爆薬の再起爆を命じた行為は、事故収束措置ではなく、証拠隠滅を目的とした極めて悪質な行為である。»
«犬島による妨害および救助がなければ、作業員十四名が爆発または沈没に巻き込まれ、重大な人命被害が発生した可能性が極めて高い。»
最終結論。
«犬島の過失は皆無である。»
«本事故およびその後の生命危険行為に関する主たる責任は、灰浜船舶資源株式会社の専務取締役、現場統括責任者ならびに証拠隠滅命令へ関与した管理職にある。»
ただし、現場統括責任者については、最後に手動起爆を拒否し、起爆器の鍵を抜いた事実も記載された。
事故発生までの安全軽視には責任がある。
だが、最後の命令には従わなかった。
責任は一人ずつ、別々に判断された。
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七 会社側のその後
灰浜船舶資源株式会社は、事故直後に全ての船舶解体許可を停止された。
専務取締役と証拠隠滅を指示した本社幹部は逮捕。
可燃性ガス記録の改ざん、労働安全義務違反、危険物管理違反、証拠隠滅未遂、作業員への生命危険行為について起訴された。
会社は被害補償と環境回復費用を支払えず、破産した。
所有していた解体ヤードは公的管理下へ移され、事故現場は一年間閉鎖された。
一方で、爆破延期を求めていた安全技師。
起爆を拒否した現場統括責任者。
取り残された仲間を最後まで助けようとした作業員たちは、一律に「会社側」として処分されることはなかった。
安全技師は、事故後に設立された船舶解体安全監督機関へ移った。
現場統括責任者は、事故前の安全違反に対する責任を認め、一定期間の資格停止処分を受けた。
その後は、現場管理者ではなく安全教育担当として働くようになった。
彼は講習のたびに、同じ言葉を伝えた。
「危険だと分かっているなら、会社命令より先に作業を止めろ」
「止められなかった責任は、命令した側だけにあるとは限らない」
そして最後に、必ず犬島の名を出した。
「私たちが置いていこうとした人たちを、海防艦・犬島が全員連れ帰った」
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八 犬島の証言
軍令部の事故審査会で、犬島は証言台に立った。
白い水兵服。
深緑色のスカーフ。
桃色の髪留め。
艦娘の身体に外傷はない。
実艦は軍令部のドックで修理中だった。
軍令部総長が尋ねる。
「犬島。会社幹部に対し、伝えたいことはあるか」
犬島はしばらく黙った。
普段の犬島なら、相手の反省を願う言葉を選んだかもしれない。
誰かだけを強く責めることを避けたかもしれない。
だが今回は、違った。
「あります」
犬島は前を見た。
被告席に座る会社幹部たち。
「うちの船体を壊したことだけなら、直せます」
「錨も、外板も、マストも、また作れます」
「痛かったですけど、帰ってこられました」
犬島は胸元へ手を置く。
「でも、人をいなかったことにしたら、その人は帰ってこられん」
会議室が静まる。
「十四人おったんです」
「怖がっとる人も、怪我しとる人も、仲間を助けようとしとる人も」
「ちゃんと、そこにおった」
犬島の声は大きくなかった。
だが、誰も目を逸らせなかった。
「あんたたちは、それを知っとった」
「知っとって、全員逃げたことにしようとした」
犬島は拳を握った。
「うちは、それを許しません」
はっきりと言った。
「謝ったら全部終わりとも思いません」
「会社がなくなったら終わりとも思いません」
「助かった人が、また安心して働けるようになるまで」
「同じことをする会社がなくなるまで」
「ちゃんと責任を取ってください」
犬島は深く息を吸った。
「それが、うちが怒っとる理由です」
軍令部総長は静かに頷いた。
「記録する」
犬島の証言は、事故報告書の最終章へ全文掲載された。
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九 修理完了
犬島の修理には二か月を要した。
艦首外板を交換。
第一砲塔基部を修正。
右舷錨を新造。
主配電盤を全交換。
前部マスト上部を再建。
右舷外板の破口を補修。
第二砲塔の砲身を交換。
使用可能な旧部品は、可能な限り戻された。
失われた右舷錨の一部は、事故海域から回収された。
錨爪は曲がり、再使用できなかった。
犬島の希望によって、軍令部の保管庫へ残された。
「取水施設を護ったとき、一緒に頑張ってくれたんじゃけぇ」
犬島は曲がった錨爪へ手を触れた。
「お疲れさま」
修理を終えた実艦「犬島」がドックへ浮かぶ。
艦内に乗員はいない。
艦橋前部には、犬島一人。
二基の機関を始動。
二本の推進軸を回す。
舵を左右へ。
主配電盤。
電探。
通信機。
全て正常。
犬島は艦首へ移動した。
新しい右舷錨。
修復された第一砲塔。
きれいになった外板。
甲板へ手を置く。
「痛くない」
提督が艦橋から歩いてくる。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島は振り返り、今度は小走りで近づいた。
制服の袖を軽くつかむ。
「提督」
「怒りは収まったか」
犬島は少し考えた。
「前みたいに、ずっと胸が熱い感じはせんです」
「そうか」
「でも、忘れてません」
「ああ」
「まだ許してもいません」
「ああ」
犬島は不安そうに提督を見る。
「それでもええですか」
「いい」
犬島は少し安心した。
「怒るんって、疲れるんじゃな」
「犬島は普段、怒らなさすぎる」
「怒っても船は直りませんから」
犬島は実艦の艦首を見る。
「でも、人を護るためなら、怒った方がええこともあるんですね」
「そうだな」
犬島は深緑色のスカーフを整えた。
「なら、次も誰かを置いていこうとする人がおったら、止めます」
「今回のようにか」
「はい」
犬島の琥珀色の瞳には、静かな強さがあった。
「誰も置いていかんけぇ」
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実艦「犬島」は、軍令部ドックを出た。
岸壁には、事故で救助された作業員たちが並んでいた。
脚を挟まれていた作業員も、杖を使いながら立っている。
犬島は艦首から両手を振った。
「行ってきます!」
作業員たちが返す。
「犬島、ありがとう!」
「今度は俺たちが安全を守る!」
「もう誰も置いていかせない!」
犬島は大きく頷いた。
「お願いします!」
機関出力を上げる。
実艦が港口へ進む。
あの日、犬島は本気で怒った。
船体を壊されたからではない。
命令に逆らわれたからでもない。
人を人として数えず、会社の都合で消そうとしたことに怒った。
犬島の怒りは、誰かを沈めるためのものではなかった。
沈められようとしていた者を、全員連れ帰るためのものだった。
穏やかな海防艦が見せた、最も強い怒り。
その後、軍令部では犬島について、こう言われるようになった。
犬島は滅多に怒らない。
だが、誰かを置いていこうとしたときだけは、絶対に引かない。
犬島は艦首甲板へ手を置いた。
「帰ろうな」
二本の推進軸が、静かに海水をかいた。
「今度も、みんな一緒に」
実艦「犬島」は、誰一人欠けていないことを確かめながら、所属鎮守府へ向かって進んでいった。