さらに犬っぽい性格を5%ほどいれて
海防艦・犬島
――帰ってくる場所――
鎮守府の朝は、波止場に響く小さな金属音から始まる。
かん、かん、かん。
まだ起床ラッパも鳴っていない薄暗い時間。工廠の片隅で、海防艦・犬島は壊れた手押し車の車輪を直していた。
紺色の短い髪を耳に掛け、錆びた留め具へ油を差す。白い水兵服の袖は肘までまくられ、その頬には薄く黒い油汚れが付いていた。
「これで……よし」
車輪を一度回す。
先ほどまで引っ掛かっていた車輪は、静かに一周した。
犬島は満足そうに小さく頷いた。
その直後、工廠の外から靴音が聞こえた。
一定の歩幅。少しだけ右足が強い。朝の見回りの際、波止場へ向かうときの歩き方。
犬島は工具を置き、入口の方へ顔を向けた。
「提督」
まだ姿が見える前に呼びかけると、工廠の扉から現れた提督が驚いた顔をした。
「よく分かったな」
「足音で分かります。提督の歩き方、覚えとるけぇ」
言ってから、犬島は少しだけ首を傾げた。
「……変でしたか?」
「いや。すごいと思っただけだ」
「そうですか」
褒められた犬島の表情は、ほとんど変わらなかった。
けれど、工具を片付ける動きがわずかに軽くなった。深緑色のスカーフも、朝風の中でいつもより元気に揺れているように見えた。
「それより、こんな朝早くに何をしている?」
「昨日、輸送隊の子が使っとった手押し車です。車輪が引っ掛かっとったから、荷物を運ぶときに危ないと思って」
「整備班に任せてもよかっただろう」
「でも、うちで直せることでしたから」
犬島は修理した手押し車を押してみせた。
今度は音もなく、真っすぐに進んだ。
「直して使えるんなら、それが一番ええんよ」
それが犬島の日常だった。
壊れた道具を直し、余った資材を整理し、遠征から戻った艦娘の荷物を受け取る。
戦闘では目立たない。
演習でも華々しい成績を残すわけではない。
だが、鎮守府の誰かが困っている場所には、気が付けば犬島がいた。
そして犬島自身は、それを特別なことだとは思っていなかった。
---
その日の午後、緊急出撃命令が下された。
南方海域を航行していた輸送船団が、深海棲艦の潜水艦隊に追跡されているという。
編成は駆逐艦二隻、海防艦三隻。
その旗艦に犬島が指名された。
「うちが、旗艦ですか?」
作戦室で命令を受けた犬島は、何度か瞬きをした。
「嫌か?」
「嫌ではないです。でも……もっと速い子や、強い子がおると思います」
提督は海図の上に指を置いた。
「今回の任務は敵を倒すことが第一ではない。輸送船を全隻、港まで連れて帰ることだ」
犬島は海図を見つめた。
狭い海峡。
複雑な潮流。
潜水艦の潜伏に適した海底地形。
かつての自分が、何度も通った海に似ている。
「全隻を……」
「犬島に任せたい」
しばらく黙った後、犬島は背筋を伸ばした。
「分かりました」
琥珀色の瞳に、小さく強い光が宿った。
「必ず連れて帰ります。誰も置いていかんけぇ」
---
日没直前、犬島たちは鎮守府を出撃した。
犬島は艦隊の先頭ではなく、輸送船団の中央寄りを航行していた。
速力に優れた駆逐艦を前方警戒に出し、他の海防艦を左右へ展開する。
自分自身は、もっとも多くの輸送船を見渡せる位置を選んだ。
「犬島さん、前に出なくていいんですか?」
同行する海防艦が通信で尋ねた。
「ええんよ。敵を探す子だけじゃなくて、みんなを見る子も必要じゃから」
「でも、旗艦なら先頭を……」
「旗艦じゃから、ここにおるんよ」
犬島は左右を確認した。
貨物を満載した輸送船は動きが鈍い。
急な回避運動もできない。
敵を先に発見しても、輸送船を置いて進めば意味がなかった。
「前ばっかり見とったら、後ろの子が遅れたときに気づけん。横ばっかり見とったら、前から来る魚雷を見落とす」
犬島は静かに続けた。
「前を見て、横を見て、後ろも見る。それが護衛じゃけぇ」
夜が深くなるにつれ、海は不気味なほど静かになった。
月は雲に隠れ、海面には船団の航跡だけが白く残っている。
犬島は耳を澄ませた。
水中探信儀の反応。
艤装を通じて伝わる波の音。
輸送船の機関音。
かつて自分を悩ませた、右舷推進軸の振動にも似た細かな震え。
犬島は床が震える感覚を苦手としていた。
機雷に触れ、艦尾を引き裂かれた日の記憶が戻ってくるからだ。
けれど今は、その震えの中から、必要な音だけを拾わなければならない。
犬島は目を閉じた。
ざざっ。
一定の間隔で響く輸送船の推進音。
小さな海防艦の軽い音。
その下に、別の音が混じった。
遅く、低く、こちらへ近づいている。
犬島は目を開いた。
「全艦、警戒。右舷後方、水中音あり」
船団に緊張が走る。
「方位一三〇。距離、およそ二千五百。潜水艦と思われます」
前方の駆逐艦から通信が入った。
『反転して攻撃します!』
「待ってください」
犬島は即座に止めた。
『ですが、今なら先制できます!』
「敵は一隻とは限りません。前衛はそのまま。船団から離れないでください」
『しかし――』
「敵がうちらを船団から引き離そうとしとる可能性があります」
犬島は海面を見つめた。
一度信頼した相手のそばを離れようとしない彼女の性格は、護衛戦では頑固さとなって表れる。
敵がどれほど近くにいても、輸送船を置いて追いかけるつもりはなかった。
「来るなら、ここで受けます」
直後、水中探信儀に新たな反応が現れた。
左舷前方。
そして右舷側面。
一隻ではない。
三方向から船団を包囲しようとしていた。
犬島は小さく息を吸った。
「やっぱり……」
もし前衛を最初の敵へ向かわせていれば、船団の正面が空いていた。
「全艦、輸送船に接近。護衛円を縮めます。駆逐艦は前方二隻を牽制。海防艦は右舷後方の一隻を押さえて」
『犬島さんは?』
「うちは側面の敵と船団の間に入ります」
それは最も魚雷を受けやすい位置だった。
『危険です!』
「大丈夫」
犬島の声は穏やかだった。
「こういうときのために、うちはおるんじゃから」
---
暗い海面に、白い筋が浮かんだ。
魚雷。
一本。
二本。
輸送船へ向かって真っすぐに伸びている。
「船団、面舵!」
犬島は自ら魚雷の航路へ飛び込んだ。
一発目が艤装のすぐ脇を通過する。
二発目は犬島の進路変更を追うように迫ってきた。
「まだ……!」
強く舵を切る。
艦尾付近で爆発音。
海面が持ち上がり、犬島の小さな体が波の上へ投げ出された。
「犬島さん!」
右脚の艤装が大きく損傷した。
背中の爆雷投下軌条も歪んでいる。
かつての機雷接触と同じ場所に、焼けるような痛みが走った。
犬島の呼吸が一瞬止まる。
冷たい海水。
転がる爆雷。
浸水した艦尾。
戻ってこなかった四人。
古い記憶が、夜の海に重なった。
「……っ」
足が震える。
怖い。
本当は、今すぐ鎮守府へ帰りたかった。
明るい工廠へ戻りたかった。
金属を叩く音を聞きながら、壊れた道具を直していたかった。
けれど、背後には輸送船がいる。
犬島は振り返った。
損傷した輸送船が、不安そうに速力を落としている。
その姿を見た途端、犬島の震えが止まった。
自分よりも先に、護るべきものを確認する。
それが彼女の性格だった。
「大丈夫」
犬島は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「壊れたら、また直しゃあええ」
そして、潜水艦の反応へ顔を向けた。
「でも、あの子らを傷つけるんは……許さんけぇ」
普段の静かな声とは違う、低く強い声だった。
「爆雷、投下準備!」
『艦尾投射機が損傷しています!』
「左側だけでええ。投下軌条は手動解除!」
『危険です!』
「できる。うちは、まだ動ける!」
犬島は片方の爆雷投射機を作動させた。
海面に爆雷が放り出される。
一個。
二個。
三個。
続けて、歪んだ投下軌条を手動で開放する。
重い爆雷が海中へ転がり落ちた。
数秒後、海中から連続した爆発が響いた。
巨大な水柱が立ち上がる。
水中探信儀にあった敵の音が乱れ、急速に遠ざかっていった。
撃沈したかどうかは分からない。
だが、敵は船団への接近を諦めた。
前方と後方でも、駆逐艦と海防艦が敵を追い払っている。
「敵反応、離れていきます!」
「追わんでええ!」
犬島はすぐに命じた。
「全艦、船団へ戻ってください。今は帰ることが一番です」
『犬島さん、あなたの損傷は――』
「うちは後でええ」
声は弱っていたが、判断は変わらない。
「まず、みんながおるか確認して」
一隻ずつ応答が返る。
駆逐艦二隻。
海防艦二隻。
輸送船一番船。
二番船。
三番船。
最後の一隻から返答が来た瞬間、犬島は大きく息を吐いた。
「全員、おるな……」
それから、ようやく痛みに耐えかねたように、その場へ膝をついた。
「よかったぁ……」
---
夜明け前、船団は鎮守府へ帰投した。
犬島は損傷した右脚を引きずりながら、最後尾を進んでいた。
本来なら曳航されるべき状態だったが、犬島は船団の最後の一隻が港内へ入るまで、自分も入渠しようとしなかった。
「犬島さん、先に工廠へ行ってください」
同行した海防艦が心配そうに言う。
「まだ一隻、港の外じゃから」
「あの輸送船なら大丈夫です」
「でも、まだ帰っとらん」
犬島は波止場に立ち、沖を見つめ続けた。
その姿は、帰りの遅い誰かを玄関先で待つ小さな犬のようにも見えた。
けれど誰も、それを口にはしなかった。
やがて最後の輸送船が防波堤を越える。
汽笛が低く響いた。
犬島の表情が、ぱっと明るくなった。
「帰ってきた」
傷の痛みも忘れたように、輸送船へ向かって片手を振る。
「おかえり! よう帰ってきたなあ!」
輸送船からも汽笛が返された。
それを聞いてから、犬島はようやく工廠へ向かおうとした。
だが、一歩踏み出したところで力が抜け、前へ倒れかける。
誰かがその小さな体を受け止めた。
「提督……?」
「遅くなった」
「足音、聞こえんかったです」
「それだけ疲れているということだ」
犬島は提督の制服をつかんだ。
ほんの少しだけ。
自分から甘えることの少ない犬島が、相手がそこにいることを確かめるように、指先へ力を入れていた。
「全員、帰りました」
「ああ。犬島のおかげだ」
「うちだけじゃないです。みんなが頑張ったから……」
「それでも、旗艦として全員を連れ帰ったのは犬島だ」
犬島は黙った。
褒められると、どう答えてよいのか分からなくなる。
琥珀色の瞳がわずかに泳ぎ、桃の花の髪留めが小さく揺れた。
「……えへへ」
やがて、隠しきれないように小さく笑う。
もし犬の尻尾があったなら、きっと控えめに何度か揺れていただろう。
もちろん、犬島に尻尾はない。
けれど、提督の袖をつかむ指と、少し弾んだ声が、彼女の喜びを十分に表していた。
「提督」
「どうした?」
「修理が終わったら、また護衛に出してくれますか?」
「怖くないのか」
犬島は少し考えた。
「怖いです」
正直に答える。
「機雷も、魚雷も、艦尾が震えるんも……今でも、ぼっけぇ怖い」
それでも、と犬島は港を見た。
朝日を受けた輸送船が、波止場へ横付けされている。
乗員たちが手を振っている。
「怖いけど、帰りを待っとる人がおるけぇ」
犬島は提督を見上げた。
「誰かが迎えに行かんといけんでしょう?」
提督は犬島の頭へ静かに手を置いた。
犬島は少し驚いた顔をしたが、逃げようとはしなかった。
むしろ、ほんのわずかに頭を寄せた。
「分かった。ただし、今は修理と休養が先だ」
「はい」
「勝手に工廠を抜け出して、仕事を手伝うなよ」
「……善処します」
「今、目を逸らしたな」
「気のせいです」
「犬島」
「だって、何もせんで寝とるんは落ち着かんのじゃもん……」
岡山弁が強くなっている。
犬島は気づいていない。
提督はため息をつきながらも、その頭をもう一度優しく撫でた。
---
犬島の入渠は、予定より長引いた。
右脚艤装の損傷は深く、爆雷投下軌条も交換が必要だった。
それでも犬島は、寝台の上で工具を磨いたり、破れた制服を縫ったり、見舞いに来た艦娘の装備を点検したりしていた。
そして夕方になると、必ず窓から港を見た。
遠征艦隊の帰還時刻になるからだ。
遠くから汽笛が聞こえるたび、犬島は身を起こす。
艦隊の姿が見えると、安心したように微笑む。
ある日、提督が尋ねた。
「毎日、そこから待っているのか?」
「待っとるわけじゃないですよ」
犬島は否定した。
「ただ、みんながちゃんと帰ってきたか、確認しとるだけです」
「それを待っていると言うんじゃないか?」
「違います」
「何が違う?」
犬島は少し考えた。
窓の外では、夕日に染まった海を駆逐艦たちが戻ってくるところだった。
その姿を見つけると、犬島は窓を開けた。
「おかえりー!」
大きな声で呼ぶ。
遠征艦隊の艦娘たちが犬島を見つけ、笑顔で手を振り返す。
犬島も両手を振った。
普段の控えめな姿からは想像できないほど、嬉しそうに。
しばらくして、犬島は提督へ振り返った。
「待っとるんじゃなくて、迎えとるんです」
その表情には、一点の迷いもなかった。
「帰ってくる場所には、『おかえり』って言う人が必要じゃけぇ」
犬島は今日も港を見る。
自分が先頭で戦うためではない。
誰かを倒して名を上げるためでもない。
出ていった者が帰ってくる、その瞬間を見届けるために。
そして無事な姿を見つけるたび、彼女は少しだけ嬉しさを隠しきれない声で言うのだ。
「おかえり。よう帰ってきたなあ」
その声が響く限り、鎮守府は誰かにとっての帰る場所であり続ける。
玉野の造船所で生まれた小さな海防艦は、今日も港で、仲間たちの帰りを待っていた。