海防艦 犬島   作:重装甲空母信濃

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不幸続きの犬島が珍しく幸運なことがおきた小説


犬島幸運

海防艦・犬島

 

――幸運ばかりが重なった日――

 

海防艦「犬島」が、何の事故にも遭わずに任務を終えた。

 

それだけなら、珍しくはあっても、軍令部の記録へ残すほどの出来事ではない。

 

本来、艦艇が無事に出航し、任務を果たし、損傷なく帰投することは当然である。

 

けれど犬島の場合、その「当然」がなかなか続かなかった。

 

河口への進入。

 

係留索の破断。

 

違法漁網。

 

海中軽石。

 

戦艦の引き波。

 

無人防衛網からの誤射。

 

民間企業の安全違反。

 

そして、実艦を三つに分断され、海底へ沈めた最大の不幸。

 

犬島自身には一度も過失がない。

 

それでも、なぜか異常事態の方から彼女を見つけてきた。

 

そのため軍令部では、犬島が出航するたび、非公式ながら複数の部署が航路を確認するようになっていた。

 

海象。

 

海底地形。

 

河口。

 

港湾工事。

 

大型船。

 

漁具。

 

海中浮遊物。

 

係留索。

 

無人防衛設備。

 

誰かが冗談交じりに言った。

 

「犬島に何も起きなければ、航路全体が安全だと証明されたようなものだ」

 

その日も、軍令部の者たちは、犬島の航海記録を密かに見守っていた。

 

だがその日に限っては、異常が起きなかった。

 

それどころか。

 

犬島には、珍しいほど幸運な出来事が、次々と訪れた。

 

---

 

一 何もない海

 

海防艦「犬島」は、所属鎮守府から西へ向かう沿岸警備任務に就いていた。

 

艦内に乗員はいない。

 

全長七十八・九メートルの実艦を動かしているのは、艦橋前部に立つ艦娘・犬島ただ一人だった。

 

濃紺色の短い髪。

 

琥珀色の瞳。

 

白い水兵服。

 

紺色のスカート。

 

胸元には深緑色のスカーフ。

 

右側の髪には、岡山の桃の花を思わせる淡い桃色の髪留めが付いている。

 

背中に艤装はない。

 

二基のディーゼル機関。

 

二本の推進軸。

 

一枚の舵。

 

三基の十二糎単装砲。

 

全ては足元の実艦へ備えられており、犬島が自分の身体として動かしていた。

 

「針路、二七一度」

 

犬島は艦橋の窓から海を見渡した。

 

「速力、十ノット。両舷機関、正常。舵、中央」

 

波高、三十センチ。

 

風速、二メートル。

 

視界、良好。

 

深海棲艦の反応なし。

 

漂流物なし。

 

海底異常なし。

 

犬島は少し疑うように、もう一度周囲を調べた。

 

水中探信儀。

 

電探。

 

目視。

 

どこにも異常はない。

 

「ほんまに、何もないなあ……」

 

普段なら安心するところだった。

 

しかし犬島は、異常がない状態が長く続くと、逆に不安になってしまう。

 

「見落としとるんかな」

 

所属鎮守府の提督から通信が入った。

 

『犬島、航路上の状況は』

 

「何もありません」

 

『そうか』

 

「ほんまに何もありません」

 

『良いことだ』

 

「ちょっと不安です」

 

通信の向こうで、提督がわずかに間を置いた。

 

『何もないことを不安がるな』

 

「でも、うちですよ」

 

『自覚はあるのか』

 

「軍令部に、運が悪いって正式に言われとりますから」

 

犬島は艦首方向を見る。

 

水平線まで、穏やかな海が続いている。

 

「急に海底が崩れたりせんですか」

 

『地質観測済みだ』

 

「流し網は」

 

『漁業情報にも異常なし』

 

「近くに河口は」

 

『最短でも十八海里離れている』

 

犬島は少し安心した。

 

「なら、大丈夫そうじゃな」

 

『そのまま任務を続けろ』

 

「はい」

 

犬島は艦橋から艦首へ移動した。

 

第一砲塔の前に立つ。

 

海風が深緑色のスカーフを揺らす。

 

犬島は鋼鉄の甲板へ手を置いた。

 

「今日は、普通に帰れそうじゃな」

 

過去、同じ言葉を口にした直後に異常事態へ巻き込まれたことが何度もある。

 

犬島は言ってから少し固まった。

 

周囲を確認する。

 

何も起きない。

 

「……今のは取り消さんでも大丈夫かな」

 

海は穏やかなままだった。

 

---

 

二 予定変更

 

任務終了まで、残り一時間となったころ。

 

軍令部の航路管理部から連絡が入った。

 

『海防艦・犬島へ。所属鎮守府へ戻る前に、玉野港へ寄港できるか』

 

犬島は一瞬、聞き返した。

 

「玉野ですか」

 

『そうだ』

 

玉野。

 

岡山県。

 

犬島の実艦中央部が建造された玉野造船のある場所。

 

艦首や艦尾も大切な自分の一部だったが、船体で最も大きな中央部を造ったのは玉野だった。

 

そのため犬島は、岡山県を自分の一番の故郷だと感じている。

 

「何か任務ですか」

 

『急ぎの任務ではない。寄港できなければ、別の艦を手配する』

 

「行きます」

 

犬島は即答した。

 

『理由をまだ説明していない』

 

「玉野へ行けるんでしょう」

 

『そうだが』

 

「なら行きます」

 

犬島の声が、普段より少し明るくなっていた。

 

犬島に尻尾があれば、きっと左右へ大きく振られていた。

 

『玉野港の旧造船資料倉庫で、犬島に関係する可能性のある部品が発見された』

 

犬島の表情が変わる。

 

「うちの部品?」

 

『まだ確認は取れていない。建造時の記録と照合する必要がある』

 

「すぐ行きます」

 

『現在地からなら、針路を北西へ変更せよ』

 

「了解しました!」

 

犬島は艦橋へ戻った。

 

針路を計算する。

 

燃料、十分。

 

天候、良好。

 

入港許可、取得済み。

 

機関状態、正常。

 

「針路、三二八度」

 

舵を右へ。

 

実艦「犬島」の船首が、ゆっくりと岡山の方角へ向いた。

 

「玉野へ行くよ」

 

犬島は足元の船体へ呼びかける。

 

「故郷じゃけぇ」

 

二本の推進軸が、少し嬉しそうに回転を上げた。

 

『犬島、速力が一ノット上がっている』

 

提督からすぐに指摘される。

 

「気のせいです」

 

『航海記録に残っている』

 

犬島は少し頬を膨らませながら、速力を規定値へ戻した。

 

「早う帰りたかっただけです」

 

『玉野は寄港地であって、所属鎮守府ではないぞ』

 

「でも、故郷です」

 

犬島は小さく笑った。

 

---

 

三 追い風

 

玉野へ向かう航路には、本来なら向かい潮が予想されていた。

 

犬島の速力では、到着まで約四時間。

 

ところが潮流観測では、昼前から海流の方向が緩やかに変わっていた。

 

海域の離れた場所を通過した低気圧の影響で、潮の流れが犬島の進行方向と一致している。

 

強すぎる流れではない。

 

操艦を乱すこともない。

 

ただ、犬島の船体を優しく玉野方向へ押していた。

 

予定より約三十分早く到着できる流れだった。

 

風も、犬島の艦尾側から穏やかに吹いている。

 

波は小さい。

 

空には雲もほとんどない。

 

「追い風じゃな」

 

犬島は艦首で空を見上げた。

 

これまで犬島を押した風や波は、たいてい望まない方向へ彼女を運んだ。

 

河口。

 

浅瀬。

 

岸壁。

 

漂流物。

 

だが今日は違う。

 

風も潮も、犬島が行きたい場所へ運んでいる。

 

「こんなこともあるんじゃなあ……」

 

犬島は少し不思議そうだった。

 

途中、一度だけ水面に漂流物が見えた。

 

犬島はすぐに警戒した。

 

流木か。

 

漁網か。

 

危険物か。

 

慎重に近づいて確認すると、小さな白い浮標だった。

 

航路標識でも、漁具でもない。

 

表面には文字が書かれている。

 

玉野港開港記念祭・海上展示位置標識

 

祭りで使われた後、係留索が外れて漂流したらしい。

 

犬島は通信で玉野港へ報告した。

 

『その浮標を探していました。危険がなければ回収をお願いできますか』

 

「分かりました」

 

犬島は速力を落とした。

 

実艦を慎重に近づける。

 

艦娘の身体で甲板から回収索を伸ばし、浮標を引き寄せる。

 

本来なら、それだけで終わる出来事だった。

 

しかし玉野港から、続いて連絡が入った。

 

『回収していただいた浮標には、記念祭の抽選番号が付いています』

 

「抽選?」

 

『回収協力者へ、祭りの記念品を贈る企画です』

 

「うちがもらってええんですか」

 

『もちろんです』

 

犬島は浮標の番号を確認した。

 

一番。

 

港の担当者が驚いた声を出した。

 

『一番は特別賞です』

 

「何がもらえるんですか」

 

『岡山県産の白桃一箱と、玉野造船記念館の年間特別入館証です』

 

犬島はしばらく黙った。

 

『犬島?』

 

「白桃……一箱?」

 

『はい』

 

深緑色のスカーフが、風もないのに少し揺れたように見えた。

 

「大切に運びます」

 

犬島は浮標を甲板へ丁寧に固定した。

 

海防艦の甲板上で、艦娘・犬島が何度も固定索を確認する。

 

戦闘用装備や救助物資を扱うときより、慎重に見えるほどだった。

 

---

 

四 玉野への帰郷

 

午後三時十一分。

 

実艦「犬島」は玉野港の入口へ到達した。

 

犬島は艦首に立っていた。

 

遠くに造船施設のクレーンが見える。

 

岸壁。

 

工場。

 

山。

 

瀬戸内の穏やかな海。

 

犬島の表情が、自然に柔らかくなる。

 

「帰ってきた……」

 

所属鎮守府ではない。

 

それでも犬島にとって、ここは確かに帰る場所だった。

 

玉野港管制から通信が入る。

 

『海防艦・犬島、入港を許可します』

 

「犬島、了解しました」

 

『本日は第二記念岸壁へ接岸してください』

 

「第二記念岸壁……?」

 

そこは通常、保存船や記念行事に使われる場所だった。

 

犬島は言われた通りに進んだ。

 

速力三ノット。

 

二ノット。

 

一ノット。

 

岸壁が近づく。

 

そこには多くの人が並んでいた。

 

造船所の技術者。

 

資料館職員。

 

港湾職員。

 

近隣の住民。

 

子どもたち。

 

そして軍令部から派遣された調査官。

 

犬島は驚いて目を見開いた。

 

岸壁から声が上がる。

 

「おかえり、犬島!」

 

一人の声。

 

続いて全員。

 

「おかえり!」

 

犬島は艦首に立ったまま、動けなくなった。

 

「うちが来るって……知っとったんですか」

 

『発見された部品が犬島のものだと、昼過ぎに確認された』

 

玉野港管制が答える。

 

『それで、皆が集まった』

 

犬島は大きく手を振った。

 

「ただいま!」

 

実艦が岸壁へ近づく。

 

係留索が取られる。

 

今回は全て新品。

 

内部検査済み。

 

設置状態、正常。

 

岸壁設備にも異常なし。

 

犬島は一本ずつ確認した。

 

船首索。

 

船尾索。

 

スプリングライン。

 

全て問題ない。

 

機関停止。

 

推進軸停止。

 

舵中央。

 

実艦「犬島」が、故郷の岸壁へ静かに身体を預けた。

 

---

 

五 失われていた銘板

 

発見された部品は、玉野造船の旧資料倉庫に保管されていた。

 

倉庫は老朽化のため解体される予定で、内部資料の整理が行われていた。

 

その最奥。

 

木箱の下。

 

防湿布に包まれた真鍮製の銘板が見つかった。

 

表面には、古い字体で文字が刻まれている。

 

第八一二号艦 中央船体建造記念

 

その下。

 

玉野造船所 工員一同

 

犬島が実艦となる以前。

 

まだ艦首も艦尾も接続されていなかったころ。

 

玉野で中央部が完成したことを記念し、現場の工員たちが個人的に作った銘板だった。

 

正式な軍艦用の造船銘板ではない。

 

工員たちが少しずつ材料費を出し合い、休憩時間に文字を刻んだもの。

 

犬島の中央部内側へ、一時的に取り付けられていた。

 

だが輸送準備の際、重量削減と機密保持のため取り外された。

 

その後、戦争と造船所再編の混乱で所在不明となっていた。

 

正式記録では、廃棄された可能性が高いとされている。

 

それが、何十年も経って発見された。

 

しかも倉庫の解体予定は、当初は前月だった。

 

許可手続きが一枚不足していたため、一か月延期された。

 

整理担当者も、通常の職員ではなく、偶然その日に応援へ来ていた造船史研究員だった。

 

普通の職員なら、古い金属板として処分していた可能性がある。

 

研究員は「第八一二号艦」という文字に気付き、軍令部へ照会した。

 

照会への回答が届いたのは、犬島が玉野沖を通過する予定の日だった。

 

幾つもの偶然が重なっていた。

 

ただし今回は、犬島を傷つけるためではない。

 

犬島へ、失われたものを返すための偶然だった。

 

資料館の一室。

 

犬島は、布を掛けられた展示台の前に立っていた。

 

提督も軍令部から到着している。

 

犬島は足音を聞き、振り返った。

 

一定の歩幅。

 

少しだけ右足が強い。

 

「提督も来てくれた」

 

「ああ」

 

「知っとったんですか」

 

「犬島より先に連絡を受けた」

 

「黙っとったんですね」

 

「確定前に期待させるわけにはいかなかった」

 

犬島は少し頬を膨らませたが、すぐに銘板へ視線を戻した。

 

資料館長が布を外す。

 

古い真鍮板。

 

表面には傷。

 

変色。

 

角の一部には、溶接跡のようなものが残っている。

 

犬島はゆっくり近づいた。

 

手を伸ばす。

 

指先が銘板へ触れる。

 

その瞬間。

 

犬島の胸の奥に、ごく小さな感覚が戻った。

 

実艦の機関ほどはっきりしていない。

 

推進軸や舵のように動かすこともできない。

 

それでも、確かに自分の一部だった記憶。

 

まだ海へ出る前。

 

玉野の造船台。

 

鋼材を叩く音。

 

溶接の光。

 

工員たちの話し声。

 

中央部だけだった自分。

 

艦首も艦尾もなく、機関も完成していなかったころ。

 

犬島の瞳に涙が浮かんだ。

 

「覚えとる……」

 

提督が隣に立つ。

 

「本物か」

 

「はい」

 

犬島は銘板へ両手を添えた。

 

「ここに、おった気がします」

 

資料館長が尋ねる。

 

「銘板を、犬島の船体へ戻しますか」

 

犬島は驚いて顔を上げた。

 

「ええんですか」

 

「本来、犬島のために作られたものです」

 

軍令部調査官も頷く。

 

「歴史資料として登録した上で、実艦内部への再設置が許可された」

 

犬島は何度も銘板を見る。

 

「展示館に置いといた方が、みんな見られるんじゃないですか」

 

「複製品を展示します」

 

「本物は?」

 

「犬島へ返す」

 

犬島は胸元の深緑色のスカーフを握った。

 

「帰ってきたんじゃな……」

 

銘板へ向かって、小さく言う。

 

「おかえり」

 

そして少し考え、言い直した。

 

「違うな」

 

犬島は涙を拭き、笑った。

 

「うちが帰ってきたんじゃ」

 

---

 

六 幸運の重なった日

 

銘板の再設置は、玉野港の修理岸壁で行われた。

 

実艦「犬島」の中央部。

 

艦橋直下の内部通路。

 

かつて銘板が取り付けられていたと推定される場所へ、新しい保護枠を設置する。

 

古い真鍮板は、直接船体へ溶接しない。

 

いつでも検査できるよう、耐振動固定金具で留められた。

 

犬島は実艦の甲板に立ち、作業の一つ一つを感じていた。

 

銘板が船体へ触れる。

 

固定金具が締められる。

 

最後の確認。

 

その瞬間、犬島の中央部へ、小さな温かさが広がった。

 

「戻った……」

 

犬島は艦橋の手すりへ手を置いた。

 

「ほんまに戻ってきた」

 

造船所の技術者が、作業完了を報告する。

 

「第八一二号艦中央船体建造記念銘板、再設置完了です」

 

犬島は深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「こちらこそ、帰ってきてくれてありがとう」

 

犬島は顔を上げる。

 

その言葉は、銘板ではなく犬島自身へ向けられていた。

 

犬島は少し照れたように笑った。

 

その後、港湾記念祭の抽選景品が届けられた。

 

岡山県産の白桃。

 

大きな箱が一つ。

 

犬島は両手で抱えた。

 

「ほんまに全部、うちがもらってええんですか」

 

「一番の浮標を回収した方への特別賞です」

 

「一人では食べきれんです」

 

提督が言う。

 

「所属鎮守府へ持ち帰ればいい」

 

犬島は頷いた。

 

「みんなで食べます」

 

「犬島の分がなくなるぞ」

 

犬島は少し考える。

 

「二個だけ、先に取っときます」

 

「そこは一個ではないのか」

 

「珍しく運が良かった日じゃから、二個でもええでしょう」

 

提督は何も言わなかった。

 

犬島は白桃の箱を大切そうに実艦へ運んだ。

 

---

 

七 軍令部の混乱

 

その日の夕方。

 

軍令部では、犬島の航海記録を確認していた職員たちが困惑していた。

 

航路異常なし。

 

天候異常なし。

 

機関故障なし。

 

漂流物との衝突なし。

 

係留索異常なし。

 

港湾設備異常なし。

 

深海棲艦との遭遇なし。

 

犬島の損傷、なし。

 

人身事故、なし。

 

それどころか。

 

予定より三十分早く到着。

 

失われた建造時銘板を回収。

 

白桃一箱を獲得。

 

故郷で歓迎。

 

記念入館証を取得。

 

ある軍令部職員が、報告書を見ながら言った。

 

「本当に犬島の記録なのか」

 

別の者が識別番号を確認する。

 

「間違いない」

 

「何か見落としていないか」

 

「犬島本人も同じことを言っていた」

 

「事故が後から判明する可能性は」

 

「現時点でなし」

 

軍令部総長は、しばらく報告書を見つめた。

 

そして新しい一枚を作成させた。

 

«海防艦「犬島」は沿岸警備任務を異常なく完了した。»

 

«帰投途中、軍令部指示により玉野港へ寄港し、建造当時の記念銘板を回収した。»

 

«航海、機関、港湾設備および乗員に異常なし。»

 

最後の一文。

 

«特記事項――犬島にとって、珍しく幸運な一日であった。»

 

その報告書は、犬島の無過失事故報告書とは別の保管棚へ置かれた。

 

棚の名前は、後から職員が小さく書き加えた。

 

犬島幸運記録・第一号

 

第二号がいつ追加されるかは、誰にも分からなかった。

 

---

 

八 何も壊れなかった帰路

 

翌朝。

 

実艦「犬島」は玉野港を出航した。

 

中央部内部には、建造時の銘板が戻っている。

 

艦内に乗員はいない。

 

艦橋前部に犬島一人。

 

背中に艤装はない。

 

白桃の箱は、揺れないよう艦橋後方の保管室へ固定されていた。

 

右舷機関、正常。

 

左舷機関、正常。

 

推進軸、正常。

 

舵、正常。

 

錨、両舷とも収納。

 

係留索、全て回収済み。

 

犬島は何度も確認した。

 

「忘れ物なし」

 

玉野港の岸壁には、昨日の人々が再び集まっていた。

 

「犬島、また帰っておいで!」

 

「今度はゆっくりしていけ!」

 

「白桃を落とすなよ!」

 

犬島は艦首から両手を振った。

 

「大切に持って帰ります!」

 

岸壁が遠ざかる。

 

犬島は一度だけ、実艦中央部へ意識を向けた。

 

銘板。

 

確かにそこにある。

 

「一緒に帰ろうな」

 

穏やかな風。

 

穏やかな潮。

 

何の異常もない海。

 

途中、犬島は何度も周囲を警戒した。

 

だが結局、何も起きなかった。

 

所属鎮守府の防波堤が見えてくる。

 

波止場には、提督より先に戻っていた艦娘たちが集まっていた。

 

犬島の無事な船体を見る。

 

マストがある。

 

煙突がある。

 

艦首も艦尾もある。

 

へこみも火災跡もない。

 

誰かが驚いた声を出す。

 

「犬島が完全無傷で帰ってきた!」

 

別の艦娘が言う。

 

「本当に犬島?」

 

犬島の頬が膨らむ。

 

「うちです!」

 

波止場から笑い声が上がる。

 

「おかえり、犬島!」

 

犬島は艦首で胸を張った。

 

「ただいま!」

 

機関を低速へ。

 

岸壁へ接近。

 

係留。

 

機関停止。

 

全て問題なし。

 

提督が実艦へ上がる。

 

一定の歩幅。

 

少しだけ右足が強い足音。

 

犬島は艦橋から小走りで迎えに行った。

 

「提督」

 

「無事に帰ったな」

 

「はい」

 

「船体の損傷は」

 

「ありません」

 

「銘板は」

 

「ちゃんとおります」

 

「白桃は」

 

犬島は少し誇らしそうに答える。

 

「一個も落としてません」

 

提督は犬島の頭へ手を置いた。

 

犬島は嬉しそうに目を細める。

 

「珍しいな」

 

「何がですか」

 

「ここまで全てが順調だったことだ」

 

犬島は少し頬を膨らませた。

 

だがすぐに、同じように笑った。

 

「うちもそう思います」

 

犬島は提督の袖を軽くつかむ。

 

「今日は、幸運じゃったんですよね」

 

「ああ」

 

「事故が起きんかっただけじゃなくて」

 

「ああ」

 

「故郷へ行けて、銘板も帰ってきて、白桃も当たった」

 

「ああ」

 

犬島は何度も頷いた。

 

「なら、覚えときます」

 

「何をだ」

 

「悪いことばっかりじゃないって」

 

犬島は艦橋後方の保管室を見る。

 

その奥には白桃の箱。

 

実艦中央部には、建造時の真鍮銘板。

 

岸壁には「おかえり」と言う仲間たち。

 

犬島は静かに笑った。

 

「不幸なことは、報告書を見んでも覚えとります」

 

実艦の甲板へ手を置く。

 

「でも幸運なことは、ちゃんと覚えようと思います」

 

提督は頷いた。

 

「そうするといい」

 

犬島は艦首方向を見る。

 

夕日が所属鎮守府の海を照らしていた。

 

何も燃えていない。

 

何も沈んでいない。

 

何も壊れていない。

 

ただ穏やかな海と、帰る場所がある。

 

犬島は小さく息を吸った。

 

「帰ってこられて、よかった」

 

そして、自分の鋼鉄の身体へ話しかける。

 

「今日は、よう頑張ったな」

 

機関は停止している。

 

推進軸も動いていない。

 

それでも実艦全体が、少し誇らしそうに感じられた。

 

犬島は中央部に戻った銘板へ、心の中で言う。

 

「おかえり」

 

同時に、岸壁からもう一度声が届いた。

 

「おかえり、犬島!」

 

犬島は両手を振った。

 

「ただいま!」

 

その日は、最後まで何も悪いことが起きなかった。

 

白桃も一つも傷まなかった。

 

係留索も切れなかった。

 

夜になっても警報は鳴らなかった。

 

犬島は実艦の居住室で、安心して眠った。

 

枕元には桃色の髪留め。

 

保管室には白桃。

 

中央部には、長い年月を越えて帰ってきた真鍮の銘板。

 

そして岸壁には、犬島の実艦を確かにつなぎ止める八本の係留索。

 

翌朝、犬島が目を覚ましても、実艦は同じ場所にいた。

 

河口ではない。

 

沖合でもない。

 

海底でもない。

 

帰るべき港の中だった。

 

犬島は寝台から起きると、最初に船体位置を確認した。

 

異常なし。

 

機関、異常なし。

 

係留索、異常なし。

 

銘板、そこにある。

 

白桃、そこにある。

 

犬島は小さく笑った。

 

「幸運って、朝まで続くんじゃな」

 

犬島にとって珍しい幸運な日は、こうして何事もなく終わった。

 

だが犬島は、その一日を決して忘れなかった。

 

不幸が続いても。

 

事故報告書が何冊増えても。

 

海が時に理不尽でも。

 

帰ってくるものがある。

 

迎えてくれる人がいる。

 

そして、ごくまれに。

 

風も潮も偶然も、全て犬島の味方になる日がある。

 

その記憶は、どの補強材よりも強く、犬島の心を支えるものになった。

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