海防艦・犬島
――白桃ソフトが食べられなかった日――
犬島には、事故報告書へ残らない不幸もある。
河口へ突っ込んだわけではない。
艦尾も折れていない。
海底地滑りにも巻き込まれていない。
軍令部の防衛設備から撃たれてもいない。
民間企業の違法工事も、巨大戦艦の引き波も、海中軽石も関係ない。
船体損傷、なし。
負傷者、なし。
航行への支障、なし。
軍令部への報告、不要。
それでも犬島本人にとっては、その日一日を少しだけ悲しくする程度には不幸だった。
原因は、白桃ソフトクリームである。
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一 珍しい休み
その日、海防艦「犬島」は所属鎮守府の第一岸壁へ停泊していた。
艦内に乗員はいない。
二基のディーゼル機関は完全停止。
二本の推進軸も動いていない。
舵は中央。
錨は両舷とも収容。
八本の係留索が、実艦を岸壁へ確実につなぎ止めていた。
艦橋前部には、艤装を身に着けていない艦娘・犬島が立っている。
濃紺色の短い髪。
琥珀色の瞳。
白い水兵服。
紺色のスカート。
深緑色のスカーフ。
右側の髪には、淡い桃色の髪留め。
全長七十八・九メートルの実艦全体が、犬島の大きな身体だった。
けれど今日は任務がない。
整備もない。
訓練もない。
港湾工事もない。
天候は快晴。
係留索も新品。
位置監視装置も正常。
犬島には、珍しく完全な休暇が与えられていた。
「何をしたらええんじゃろう……」
犬島は艦橋の窓から、静かな鎮守府を見下ろした。
普段なら、甲板を磨く。
工具を整理する。
係留索を確認する。
機関室の記録を読む。
破損した備品があれば修理する。
だが今日は、提督から明確に言われている。
休暇中の自主整備は禁止。
以前、犬島は休暇中にもかかわらず、工廠で壊れた手押し車を修理し始め、そのまま工具棚と作業台まで直してしまった。
それ以降、犬島の休暇日には「修理作業禁止」の札が渡されるようになった。
犬島は胸元から、その小さな札を取り出した。
本日の犬島は休むこと。
裏面には提督の署名がある。
「休むんも、難しいなあ……」
犬島は首を傾げた。
そのとき、岸壁から明るい声が聞こえた。
「犬島ー!」
犬島が艦首側を見る。
鎮守府の給糧担当者が、大きな看板を立てていた。
岡山白桃フェア 本日限定
犬島の琥珀色の瞳が、わずかに大きくなる。
看板の下には、さらに魅力的な文字があった。
白桃ソフトクリーム 限定二十個
犬島は艦橋から艦首へ走った。
第一砲塔の前まで出る。
岸壁の看板をもう一度確認する。
見間違いではない。
「白桃……」
故郷である岡山県の白桃。
しかも限定品。
犬島の深緑色のスカーフが、風もないのに少しだけ揺れた。
「二十個あるんじゃな」
岸壁には、まだ誰も並んでいない。
販売開始まで十五分。
犬島は腕時計を見る。
「今から行けば、一番じゃ」
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二 一番乗り
犬島は実艦の係留状態を確認した。
八本の係留索、正常。
位置監視装置、正常。
非常通信、正常。
機関停止状態、正常。
岸壁へ上がっても、実艦の各装置は犬島の意識とつながっている。
異常が起きればすぐに分かる。
犬島は舷梯を下りた。
販売所へ向かう。
歩く速度は、普段より少し速い。
小走りと呼ぶほどではない。
だが犬島自身は、あくまで普通に歩いているつもりだった。
販売所へ到着する。
誰もいない。
犬島は一番前に立った。
「一番じゃ」
少し得意そうに言う。
その後ろへ、駆逐艦や海防艦たちが並び始める。
五人。
十人。
十五人。
犬島は何度も前方の機械を見る。
透明な容器の中に、薄い桃色のソフトクリーム原料が入っている。
横には白桃の果肉。
小さく切られた桃が、最後に一切れ乗せられるらしい。
犬島は財布を確認した。
硬貨、十分。
引換券、不要。
休暇札も持っている。
「今日は大丈夫じゃな」
前に白桃を一箱当てた日も幸運だった。
今回も、故郷の味を楽しめる。
販売開始時刻。
給糧担当者が窓を開けた。
「お待たせしました。岡山白桃ソフト、一番目は犬島です」
犬島は代金を差し出す。
「一つお願いします」
「犬島には少し多めにしておくね」
「規定量でええです」
「遠慮しなくてもいいのに」
「後ろの人の分が減ったらいけんけぇ」
給糧担当者は笑いながら、規定量のソフトクリームを巻いた。
白い部分に、薄い桃色が混ざっている。
最後に白桃の果肉を一切れ。
小さな透明のスプーンを添える。
犬島は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「溶けないうちに食べてね」
「はい」
犬島はソフトクリームを見つめた。
きれいな渦。
上に乗った白桃。
甘い香り。
「どこで食べようかな」
艦橋へ戻って食べる。
艦首で海を見ながら食べる。
岸壁のベンチでもいい。
犬島は少し考え、実艦の艦首を選んだ。
自分の一番落ち着く場所だった。
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三 最初の不幸
犬島はソフトクリームを両手で持ち、舷梯へ向かった。
転ばないよう、ゆっくり歩く。
足元確認。
周囲確認。
後方確認。
「前を見て、横を見て、後ろも見る」
いつもの護衛の心得を、ソフトクリームを運ぶときにも使っていた。
舷梯の前まで来る。
そのとき、岸壁上空を一羽のカモメが飛んだ。
犬島は気付いていた。
だが、普通のカモメだった。
爆弾も、危険物も持っていない。
犬島の航路を妨害する様子もない。
警戒対象ではなかった。
カモメは犬島の頭上を通過した。
そして。
白いものを落とした。
犬島の右肩へ。
べちゃっ。
犬島が止まる。
白い水兵服の肩。
深緑色のスカーフの端。
そこに、カモメの落とし物が付いていた。
周囲が静かになる。
後ろに並んでいた艦娘たちも、何も言えない。
犬島はゆっくり右肩を見る。
次に、手元のソフトクリームを見る。
ソフトクリームには付いていない。
そこだけは無事だった。
犬島は小さく息を吐いた。
「服は洗えばええ」
落ち着いた声だった。
「ソフトは無事じゃけぇ」
給糧担当者が慌てて布巾を持ってくる。
「犬島、大丈夫?」
「大丈夫です」
犬島は右手でソフトクリームを持ち、左手で肩を拭いてもらう。
そのときだった。
近くの岸壁へ、小型曳船が接岸した。
曳船長に過失はない。
規定速度以下。
正規の接岸。
港湾管制の許可済み。
発生した波も、ほんの十センチ程度だった。
だが波が実艦「犬島」の船体へ届いた。
係留された実艦が、ごくわずかに揺れる。
犬島は岸壁に立っていても、実艦の揺れを自分の身体として感じる。
無意識に姿勢を整えようとして、右足へ力を入れた。
靴底の下には、先ほど肩から拭き取られた汚れの一部が落ちていた。
犬島の右足が、ほんの少し滑った。
「わっ」
転倒するほどではない。
犬島はすぐに体勢を戻した。
ソフトクリームも落とさなかった。
だが、手首が小さく揺れた。
ソフトクリームの一番上。
白桃の果肉だけが、ふわりと宙へ浮いた。
犬島の目が、それを追う。
桃は一度、透明なスプーンの上へ落ちた。
跳ねる。
次に犬島の手の甲へ。
もう一度跳ねる。
そして、岸壁と実艦の間の海へ落ちた。
ぽちゃん。
白桃の果肉が、海面へ浮かんだ。
犬島は動かなかった。
ほんの数秒前まで、ソフトクリームの頂上にあった白桃。
今は海面で、小さく揺れている。
一羽の魚が近づく。
果肉を一口で食べた。
犬島は静かに言った。
「桃が……」
給糧担当者が慰める。
「ソフトクリーム自体は残ってるよ」
犬島は手元を見る。
確かにソフトクリームは無事だった。
少し斜めになっているが、まだ食べられる。
「そうじゃな」
犬島は自分へ言い聞かせた。
「桃はなくなったけど、白桃味のソフトは残っとる」
気を取り直す。
艦首へ運ぶのはやめた。
これ以上の移動は危険だと判断し、岸壁のベンチで食べることにした。
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四 二度目の不幸
犬島はベンチへ座った。
右肩の汚れは、ほとんど拭き取られている。
手元には白桃ソフト。
上の果肉はない。
だがソフトクリーム部分はきれいなまま。
犬島は透明なスプーンを持った。
「いただきます」
最初の一口。
薄い桃色の部分をすくう。
口へ運ぼうとする。
その瞬間、鎮守府全体に放送が流れた。
『全艦娘へ。第二岸壁で係留索張力の一時的な変化を確認。関係艦は状態を確認してください』
犬島の実艦がいるのは第一岸壁。
関係はない。
だが犬島は反射的に自分の八本の係留索も確認した。
船首索、正常。
船尾索、正常。
スプリングライン、正常。
位置変化なし。
張力異常なし。
確認に要した時間は、わずか二秒。
犬島は手元へ視線を戻した。
スプーンの上にあった一口分のソフトクリームが、消えていた。
犬島は首を傾げる。
「……?」
ベンチの下を見る。
ない。
服にも付いていない。
地面にも落ちていない。
隣を見る。
小さな茶色い猫が座っていた。
猫の鼻先に、薄い桃色のクリームが付いている。
犬島と猫の目が合う。
猫は一度だけ鳴いた。
「にゃあ」
そして走って逃げた。
犬島はしばらく、その後ろ姿を見ていた。
「食べられた……」
今度はスプーンの一口分だけ。
まだ本体は残っている。
犬島はソフトクリームを自分の胸元へ少し近づけた。
「今度こそ、ちゃんと食べる」
周囲を確認。
カモメ、なし。
猫、なし。
曳船、接岸完了。
放送、終了。
犬島はもう一度スプーンを入れた。
今度は少し大きめ。
口へ運ぶ。
その途中。
透明なスプーンが、中央から折れた。
ぱきっ。
柄だけが犬島の手に残る。
先端はソフトクリームの容器へ落ちた。
犬島は瞬きをした。
給糧担当者が遠くから叫ぶ。
「ごめん、今のスプーン、たまに折れるの!」
「先に言うてください……」
犬島は折れたスプーンを取り出そうとした。
だが透明な先端は、白桃色のソフトクリームの中へ沈んでいる。
見えにくい。
指で探すわけにもいかない。
犬島は容器を傾け、慎重に確認する。
見つからない。
スプーンの先端が入っている以上、そのまま食べるのは危険だった。
給糧担当者が新しいスプーンを持ってきた。
「上の方だけなら食べても大丈夫だと思うけど……」
「どこにあるか分からんです」
「新しいものと交換するよ」
犬島の顔が少し明るくなる。
「ええんですか」
「もちろん。まだ残ってるから」
給糧担当者が容器を受け取った。
犬島は再び列の横で待つ。
機械へ新しい容器が置かれる。
レバーが引かれる。
白桃ソフトが巻かれ始めた。
今度は果肉も二切れ乗せてくれるらしい。
犬島は期待するように見つめた。
半分まで巻かれたところで、機械が止まった。
ぶうん――。
沈黙。
給糧担当者がレバーを動かす。
何も出ない。
機械の表示。
原料切れ
後ろの容器を見る。
空。
予備原料を確認する。
ない。
給糧担当者が犬島を見る。
犬島も給糧担当者を見る。
「……終わりですか」
「犬島の交換分で、ちょうど最後だったみたい」
容器には、半分だけ巻かれたソフトクリームが残っている。
通常の半分以下。
形も崩れている。
それでも果肉は二切れ乗せられた。
「これでもいい?」
犬島は少し考えた。
「はい」
半分でも、食べられるだけよい。
犬島は今度こそ両手で受け取った。
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五 三度目の不幸
犬島は場所を変えた。
岸壁のベンチも危険。
艦首まで運ぶのも危険。
そこで、実艦「犬島」の舷梯を上がった直後にある、左舷甲板の安全な場所で食べることにした。
風は弱い。
甲板も乾いている。
手すりもある。
カモメの姿もない。
猫は船へ上がれない。
ソフトクリームは半分。
白桃の果肉は二切れ。
新しいスプーンは、折れない種類。
犬島は甲板へ腰を下ろした。
「今度こそ」
一切れ目の白桃をスプーンですくう。
口へ運ぶ。
食べる。
甘い。
柔らかい。
白桃の香りが広がる。
犬島の表情が、ようやく明るくなった。
「おいしい……」
深緑色のスカーフが、嬉しそうに揺れる。
不幸は続いた。
けれど最後には食べられた。
犬島は二口目のソフトクリームをすくう。
今度は何も起こらない。
三口目。
大丈夫。
「もう平気そうじゃな」
犬島が安心した、そのとき。
艦橋の位置警報装置が短く鳴った。
犬島はすぐに実艦の状態を確認する。
位置変化、なし。
係留索、正常。
機関、停止。
船体傾斜、正常。
原因は、測位衛星信号の瞬間的な誤差だった。
異常ではない。
犬島に過失もない。
設備故障ですらない。
一秒未満の通常誤差。
犬島は安心して、ソフトクリームへ視線を戻した。
その一秒の間に。
甲板上を吹いた、ほんの小さな風。
風速二メートル。
危険でも何でもない風。
その風が、白桃ソフトの容器へ立てていた小さな紙ナプキンを持ち上げた。
紙ナプキンは一度宙へ浮く。
犬島の顔の前を通過。
犬島は反射的に左手でつかもうとした。
右手にはソフトクリーム。
左手が動いたことで、身体が少しひねられる。
胸元の深緑色のスカーフの端が、ソフトクリームへ触れた。
ぺたっ。
犬島が止まる。
白桃ソフトの表面に、緑色のスカーフが少し沈んでいる。
「……」
犬島はゆっくりスカーフを持ち上げた。
薄い桃色のクリームが、深緑色の布にべったり付いていた。
ソフトクリーム本体は大きく削られている。
残りは、容器の底に少し。
白桃の果肉は、あと一切れ。
犬島は悲しそうにスカーフを見る。
「洗わんと……」
今度はソフトクリームより、スカーフの方を心配した。
深緑色のスカーフは犬島の大切な制服の一部だった。
犬島は容器を甲板へ置き、布でスカーフを拭こうとした。
だが紙ナプキンは、風に飛ばされて海へ落ちている。
代わりの布を取りに艦橋へ戻らなければならない。
犬島はソフトクリームの容器を、甲板上の平らな場所へ置いた。
周囲に倒れるものなし。
風の影響を受けにくい場所。
船体も動いていない。
「ここなら大丈夫」
犬島は艦橋へ走った。
布巾を取る。
戻る。
所要時間、十六秒。
犬島が左舷甲板へ戻ると、容器はまだ同じ場所にあった。
倒れていない。
安心する。
だが容器の中は空だった。
犬島は近づく。
白桃の果肉もない。
ソフトクリームもない。
容器だけ。
近くに、白いカモメが一羽立っている。
最初に肩へ落とし物をした個体と同じかは分からない。
カモメはくちばしに、白桃の果肉をくわえていた。
犬島と目が合う。
カモメは果肉を飲み込んだ。
そして飛び去った。
犬島は空の容器を見た。
「全部……」
海面を見る。
カモメは遠ざかっていく。
「全部、食べられた……」
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六 犬島、不幸を報告する
午後。
提督が実艦「犬島」へ上がった。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い足音。
犬島は艦橋後方の居住室にいた。
普段なら足音を聞いた時点で迎えに行く。
今日は来ない。
提督は少し不審に思い、犬島の部屋を訪ねた。
扉が開く。
犬島は寝台へ座っていた。
洗った深緑色のスカーフを、膝の上へ置いている。
まだ少し濡れている。
右肩の水兵服も洗ったため、代わりの上着を着ていた。
机の上には、空になったソフトクリームの容器。
折れた透明スプーン。
給糧担当者から渡された返金用の硬貨。
提督は犬島を見る。
「何があった」
犬島は静かに答えた。
「白桃ソフトが食べられませんでした」
提督は少し黙った。
「事故か」
「事故ではないです」
「船体損傷は」
「ありません」
「負傷は」
「ありません」
「係留設備は」
「正常です」
「では、何が起きた」
犬島は今日の出来事を一つずつ説明した。
カモメ。
小型曳船の小さな波。
海へ落ちた白桃。
猫に食べられた一口。
折れたスプーン。
原料切れ。
半分だけの交換品。
スカーフへの付着。
最後に、カモメが残りを全て食べたこと。
提督は最後まで黙って聞いた。
「以上です」
犬島は少しうつむいた。
「しょうもないでしょう」
提督は否定しなかった。
「そうだな」
犬島の頬が膨らむ。
「でも、悲しかったんです」
「一口は食べただろう」
「白桃一切れと、ソフトを三口です」
「味は分かったな」
「そういう問題じゃありません」
犬島は膝の上のスカーフを握った。
「一番に並んだんです」
「ああ」
「ちゃんとお金も払いました」
「ああ」
「転ばんようにゆっくり歩きました」
「ああ」
「周囲も確認しました」
「ああ」
「それなのに、ほとんど食べられんかったんです」
犬島の声には、本気の悔しさがあった。
命に関わる事故では、犬島は耐える。
痛くても周囲を守る。
自分の損傷より、他人の無事を優先する。
けれど今日は、誰かを守る必要がない。
だからこそ、白桃ソフトを失った悲しさを、そのまま悲しんでいた。
「提督」
「何だ」
「うち、今日は運が悪かったんでしょうか」
「おそらくな」
「河口運じゃないですよね」
「ああ」
「海底地滑りでもない」
「ああ」
「ただ、白桃ソフト運が悪かった?」
「そういうことになる」
犬島は肩を落とした。
「そんな細かい運の悪さまでいらんです」
提督は机の上へ、小さな紙袋を置いた。
犬島が顔を上げる。
「何ですか」
「給糧担当者から事情を聞いた」
紙袋の中には、白桃味のアイスクリームが二個入っていた。
ソフトクリームではない。
市販の小さなカップ。
だが岡山県産白桃果汁使用と書かれている。
犬島の表情が少し明るくなる。
「二個?」
「一つは犬島の分」
「もう一つは?」
「私の分だ」
犬島は二つのカップを見る。
少し考え、片方を提督へ渡した。
「一緒に食べるんですか」
「ああ」
「カモメが来んところで?」
「艦橋内で食べる」
「猫も来ませんか」
「来ない」
「スプーンは折れませんか」
「金属製を用意した」
犬島はようやく笑った。
「準備がええですね」
「犬島の不幸には対策が必要だ」
「白桃ソフトくらい、普通に食べさせてください」
二人は艦橋へ移動した。
犬島は実艦の窓を全て閉じた。
カモメ対策。
扉も閉める。
猫対策。
機関停止確認。
係留索確認。
位置警報を一時的に消音。
衛星測位の瞬間誤差対策。
机の上にアイスを置く。
金属製のスプーンを確認。
「これで大丈夫です」
「大げさだな」
「今日のことを見とらんから言えるんです」
二人は同時に蓋を開けた。
薄い桃色のアイスクリーム。
犬島は慎重に一口すくう。
周囲を見る。
何も起きない。
口へ運ぶ。
食べる。
「おいしい……」
犬島は嬉しそうに目を細めた。
二口目。
問題なし。
三口目。
問題なし。
半分。
まだ何も起きない。
犬島は少しずつ警戒を解いた。
最後の一口まで食べる。
カップが空になる。
「全部食べられた」
「ああ」
犬島は空のカップを見つめた。
「普通に食べられました」
「ああ」
「何も落ちませんでした」
「ああ」
「取られませんでした」
「ああ」
犬島は満足そうに頷いた。
「今日は、最後だけちょっと幸運じゃな」
提督は自分のカップを見る。
まだ半分ほど残っている。
犬島はそれに気付いた。
「提督、遅いですね」
「普通の速さだ」
犬島は少しだけ首を傾げた。
「溶けますよ」
「分かっている」
犬島は自分の空のカップを見る。
次に提督のアイスを見る。
何も言わない。
ただ視線だけが、提督のカップへ向いている。
提督はため息をついた。
「少し食べるか」
犬島の表情が明るくなる。
「ええんですか」
「一口だけだ」
提督が新しいスプーンで一口分を渡す。
犬島は嬉しそうに食べた。
「おいしいです」
「同じ味だろう」
「人から分けてもらった分は、ちょっと違います」
「そういうものか」
「はい」
犬島は深緑色のスカーフを干している場所を見る。
白い水兵服の肩も乾き始めている。
実艦は岸壁へ正しく停泊している。
機関も船体も無傷。
誰も怪我をしていない。
失ったものは、限定白桃ソフト一個だけ。
正式な事故報告書は作られなかった。
軍令部にも報告されなかった。
ただし所属鎮守府の当直日誌には、提督が小さく記録を残した。
«海防艦「犬島」、休暇日。
船体および係留状態に異常なし。
白桃ソフトクリームを複数の偶発事象により喪失。
犬島に過失なし。
代替の白桃アイスを支給し、事態収束。»
後日、その記録を読んだ軍令部の職員は、しばらく考えた末に余白へ一言だけ書き加えた。
«相変わらず運がないが、今回は極めて平和である。»
犬島はその日の夜、実艦の居住室で眠った。
枕元には、乾いた桃色の髪留め。
椅子には、洗い終えた深緑色のスカーフ。
船体のどこにも損傷はない。
警報も鳴らない。
係留索も切れない。
河口へ流されることもない。
ただ一つ。
翌朝、犬島が冷凍庫を開けると、提督が予備として残していた白桃アイスが入っていた。
蓋の上には紙が貼られている。
犬島用。カモメに見せないこと。
犬島は少し笑った。
「今日は、ちゃんと食べられそうじゃな」
そして念のため、艦橋の窓と扉を全て閉めてから蓋を開けた。