海防艦 犬島   作:重装甲空母信濃

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本当に犬島が関わっていない(直接でも間接でもなく近づいたことも話に出したことも無い)のに何故か犬島が原因と言われている事故の小説


犬島無関係事故

海防艦・犬島

 

――いなかった艦の事故責任――

 

海防艦「犬島」が原因とされた事故の中で、最も不可解なもの。

 

それは、犬島が事故現場にいなかった事故だった。

 

少し離れていたという程度ではない。

 

別の航路を通っていたわけでもない。

 

過去にその港へ寄ったこともない。

 

関係する船を護衛したこともない。

 

事故を起こした設備の部品を運んだことも、整備会社と接触したこともない。

 

事故当日、犬島は海にすら浮かんでいなかった。

 

実艦「犬島」は岡山県玉野市にある軍令部指定修理ドックの中で、海水を抜かれた状態だった。

 

船底は支持台の上。

 

左右の推進軸は取り外し済み。

 

二枚の推進器も工廠の作業台。

 

舵取機は分解点検中。

 

燃料配管は閉鎖され、主機械には始動禁止札が取り付けられていた。

 

仮に犬島がどれほど強く願っても、一メートルも動かせない。

 

一方、事故現場は北海道北部の民間港――北霧港。

 

玉野から直線距離で千キロメートル以上。

 

事故が起きた時刻、犬島は自分の船底に塗られる防汚塗料を眺めながら、工廠の隅で壊れた工具箱の留め金を直していた。

 

事故のことを知らない。

 

北霧港という名前すら、その日に初めて聞いた。

 

事故現場の者たちも、事故が起こるまで犬島の名前を口にしていない。

 

それにもかかわらず。

 

事故発生から二時間後。

 

全国へ配信された速報には、こう書かれていた。

 

«北霧港で発生した大型岸壁クレーン倒壊事故について、海防艦「犬島」の航行が設備へ影響を与えた可能性がある。»

 

その記事を最初に読んだ軍令部職員は、しばらく画面を見つめた後、隣の者へ尋ねた。

 

「犬島は今、どこにいる」

 

「玉野の乾ドックです」

 

「北霧港へ行った記録は」

 

「一度もありません」

 

「では、なぜ犬島が原因なのだ」

 

誰にも分からなかった。

 

当の犬島本人も、分からなかった。

 

---

 

一 北霧港七号クレーン倒壊事故

 

北霧港は、穀物、石炭、木材、肥料などを扱う大規模な民間港だった。

 

事故が発生したのは、港の西側にある第七埠頭。

 

岸壁には、高さ八十メートルを超える大型荷役クレーンが設置されていた。

 

正式名称は、七号連続式荷役機。

 

海上の貨物船から貨物を吸い上げ、長いベルトコンベアを使って陸上倉庫へ送る設備である。

 

総重量、約二千六百トン。

 

長さ九十メートルの可動アーム。

 

四本の大型走行脚。

 

岸壁上のレールを移動し、貨物船の積み込み口に合わせて位置を調整する。

 

事故当日、七号機は肥料原料を積んだ民間貨物船「北辰豊穣丸」の荷揚げを行っていた。

 

犬島とは何の関係もない船だった。

 

犬島が護衛したこともない。

 

犬島の所属鎮守府と契約したこともない。

 

積荷も軍需品ではない。

 

荷役作業員も全員、民間会社の従業員だった。

 

天候は晴れ。

 

風速六メートル。

 

クレーンの運用限界である風速十五メートルを大きく下回る。

 

貨物船は正しく係留されていた。

 

港内を大型艦が通過した記録もない。

 

異常な引き波も観測されていない。

 

午後一時四十二分。

 

七号機の可動アームが、貨物船側へ約五十五メートル張り出した。

 

貨物吸引装置が船倉へ入る。

 

作業開始から二十分後。

 

クレーン南側走行脚の内部で、固定ボルトの一本が破断した。

 

続いて二本目。

 

三本目。

 

四本目。

 

走行脚と上部構造物を接続していた高強度ボルトが、連続して切れた。

 

七号機全体が、海側へわずかに傾く。

 

傾斜計が警報を出した。

 

本来なら、自動的に荷役を停止し、可動アームを岸壁側へ戻す。

 

しかし安全装置は動かなかった。

 

保守会社が、前月の点検で傾斜警報を無効化していたからである。

 

傾斜計は数値が不安定だった。

 

交換部品の到着には二週間掛かる。

 

港湾会社は荷役を止めることを嫌い、警報を一時的に切るよう指示した。

 

「目視で確認すれば運用可能」

 

点検記録には、そう書かれていた。

 

だが実際には、固定ボルトにも問題があった。

 

本来使われるべき高強度鋼製ボルトではなく、強度の低い模造品が混入していた。

 

保守会社の購買担当者が、正規品より四割安い海外製品を購入。

 

品質証明書を複写し、正規品として納入していた。

 

外見は同じ。

 

寸法も同じ。

 

通常の荷重には耐える。

 

しかし繰り返し荷重によって内部へ亀裂が広がり、事故当日、限界へ達した。

 

午後一時四十四分。

 

南側走行脚が完全に外れた。

 

七号機の可動アームが、海側へ倒れる。

 

作業員が退避警報を叫ぶ。

 

貨物船側でも船員が甲板から船内へ逃げる。

 

九十メートルの鋼製アームが、北辰豊穣丸の船首甲板へ落下した。

 

轟音。

 

貨物船の前部甲板が押し潰される。

 

係留索二本が切断。

 

倒れたクレーン本体が岸壁側へねじれ、隣接するベルトコンベアを破壊する。

 

肥料原料が岸壁と海面へ流出。

 

七号機の電力ケーブルが切れ、小規模な火災が発生した。

 

幸い、作業員と船員は直前に退避していた。

 

重傷者一名。

 

軽傷者七名。

 

死者はなかった。

 

事故直後、北霧港の管制所が海上交通を停止。

 

消防隊と救急隊が出動。

 

北辰豊穣丸は船首を損傷したものの、浸水は隔壁で止められた。

 

この時点まで。

 

誰も犬島の名前を出していない。

 

クレーン操作記録にもない。

 

貨物船の通信記録にもない。

 

港湾管制の記録にもない。

 

目撃者の証言にもない。

 

犬島は事故発生時刻、北霧港から千キロメートル以上離れた玉野の乾ドックにいた。

 

完全に無関係だった。

 

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二 玉野の犬島

 

同じ時刻。

 

実艦「犬島」は玉野の修理ドックに収容されていた。

 

定期的な推進軸軸受交換。

 

船底外板の検査。

 

防汚塗装の塗り直し。

 

事故修理ではない。

 

純粋な定期整備だった。

 

ドック内の海水は抜かれている。

 

犬島の実艦は、巨大な支持台の上へ静かに載せられていた。

 

艦内に乗員はいない。

 

艦娘の犬島は船底近くの作業通路に座り、取り外された右舷推進器を眺めていた。

 

濃紺色の短い髪。

 

琥珀色の瞳。

 

白い水兵服。

 

紺色のスカート。

 

深緑色のスカーフ。

 

右側の髪には淡い桃色の髪留め。

 

背中に艤装はない。

 

足元の実艦は自分の身体だったが、現在は大きな手術を受けているような状態だった。

 

「右の軸受、思ったより傷んどらんかったんですね」

 

犬島が技術員へ尋ねる。

 

「規定交換時期だから取り替えるが、異常摩耗はない」

 

「よかった」

 

「左舷側も正常だ」

 

犬島は安心したように頷く。

 

その隣には、工廠で使われている古い工具箱が置かれていた。

 

留め金が壊れ、蓋が閉まらない。

 

犬島はしばらくそれを見ていた。

 

胸元から休暇札ではなく、整備期間中の注意札を取り出す。

 

実艦主要整備中。犬島による無断修理作業は禁止。

 

犬島は工具箱を見る。

 

札を見る。

 

もう一度、工具箱を見る。

 

「これは、うちの船体じゃないです」

 

技術員が言う。

 

「何を考えている」

 

「留め金だけです」

 

「禁止だ」

 

「でも、蓋が開いたままじゃ危ないです」

 

「私が後で直す」

 

「今、直せます」

 

結局、犬島は技術員の監督下で、工具箱の留め金だけを直す許可を得た。

 

小さな金具。

 

短いねじ。

 

ばね。

 

犬島は作業台へ向かい、真剣な表情で部品を組み直した。

 

その間。

 

北霧港では、倒れた七号クレーンの救助活動が続いていた。

 

犬島はそれを知らない。

 

北霧港について話してもいない。

 

港の気象情報を見てもいない。

 

事故発生時刻に通信を送ってもいない。

 

実艦の主通信装置は整備のため電源を切られていた。

 

軍令部通信網への接続も、仮設の整備用回線だけ。

 

犬島が発した言葉は、工具箱についてのものだけだった。

 

「これで閉まります」

 

犬島は修理した工具箱の蓋を閉めた。

 

留め金が、ぱちんと気持ちよく噛み合う。

 

「直りました」

 

「だから勝手に別の物まで直すなと言っている」

 

技術員は困った顔をしながらも、工具箱を何度か開閉した。

 

異常なし。

 

「上手いな」

 

犬島の表情が明るくなる。

 

「えへへ……」

 

犬島がその日、事故発生時刻にしたことは、それだけだった。

 

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三 数字の「八一二」

 

北霧港の事故には、発生直後に仮の管理番号が付けられた。

 

北霧港湾事故、八月十二番。

 

内部での略称。

 

北港事故八―一二。

 

ところが、事故資料を全国の報道機関へ配信する民間情報会社の文書処理システムに、不具合があった。

 

資料名に含まれる記号が自動削除される。

 

「八―一二」は「八一二」へ変換された。

 

さらに情報会社の自動要約装置は、過去の海難事故資料から関連情報を探した。

 

数字、八一二。

 

海上事故。

 

船体損傷。

 

軍令部。

 

検索結果の上位に表示されたのは、犬島に関する記録だった。

 

犬島は、建造時に「第八一二号艦」と呼ばれていた。

 

過去の軍令部資料には、何度もその番号が記されている。

 

第八一二号艦・犬島。

 

文書処理システムは、北港事故八―一二の「八一二」と、犬島の建造番号「八一二」を同一の識別情報だと誤認した。

 

本来なら、人間の編集者が確認すればすぐに分かる。

 

北霧港の事故資料には、犬島の名前が一度もない。

 

軍艦の関与も記録されていない。

 

しかし速報担当者は、大型クレーン倒壊という大事故を早く配信することを優先した。

 

自動要約された文章を、十分に確認せず公開した。

 

午後三時五十八分。

 

最初の記事。

 

«北霧港で七号大型クレーンが倒壊し、貨物船一隻が損傷した。事故管理番号「八一二」は、海防艦「犬島」に関連する記録として登録されており、同艦の航行または港湾活動との関連が調査されている。»

 

事実ではない。

 

事故管理番号を、艦の建造番号と取り違えただけだった。

 

だが犬島は事故が多いことで知られていた。

 

記事を読んだ別の報道機関は、内容を確認せず転載した。

 

見出しはさらに短くなった。

 

«また犬島か 北霧港で大型クレーン倒壊»

 

次の媒体。

 

«“不幸艦”犬島、今度は北海道の港湾事故に関与か»

 

さらに短い投稿。

 

«北海道のクレーン事故、犬島が原因らしい。»

 

誰も、犬島がどこにいるか調べなかった。

 

犬島の実艦が乾ドックにあることも。

 

推進軸が取り外されていることも。

 

事故現場から千キロメートル以上離れていることも。

 

犬島が北霧港へ一度も行ったことがないことも。

 

「犬島ならあり得る」

 

その雰囲気だけで、誤情報が広がった。

 

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四 責任逃れ

 

北霧港湾運営株式会社の広報部は、事故直後から厳しい問い合わせを受けていた。

 

クレーンの保守記録。

 

安全装置の状態。

 

固定ボルトの品質。

 

会社側は、まだ詳細を把握していなかった。

 

だが七号機の傾斜警報を停止していたことは知っていた。

 

正規品ではないボルトが使われていた可能性も、購買部門から報告されていた。

 

会社の責任が問われる。

 

そのとき、広報部長が犬島の記事を見つけた。

 

「軍艦が関係しているという記事が出ている」

 

部下が答える。

 

「港湾管制の記録に軍艦はありません」

 

「記事では犬島と書かれている」

 

「誤報では」

 

「事故原因はまだ確定していない」

 

広報部長は、記者会見で次のように述べた。

 

「事故当時、港湾周辺の海面状況に通常と異なる変動があった可能性があります」

 

そのような記録はない。

 

「一部報道にある海防艦との関連も含め、外部からの振動や波浪の影響を調査しています」

 

犬島は近づいていない。

 

波も送っていない。

 

通信すらしていない。

 

だが会社側は、明確に否定しなかった。

 

自社の保守不良から世間の目を逸らせるなら、犬島原因説は都合がよかった。

 

会見を見た報道機関は、さらに記事を出した。

 

«港湾会社「外部波浪の影響を調査」

犬島の航行がクレーンへ振動を与えた可能性»

 

こうして、単なる文書番号の誤結合は、会社側の発言によって「正式に検討されている事故原因」のように見えるようになった。

 

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五 犬島、知らされる

 

午後四時二十分。

 

犬島は修理ドックの作業通路で、工具箱の次に壊れた椅子を見つけていた。

 

椅子の脚が一本、少し緩んでいる。

 

犬島は注意札を見る。

 

椅子を見る。

 

提督の足音が近づいてきた。

 

一定の歩幅。

 

少しだけ右足が強い。

 

犬島は振り返る。

 

「提督」

 

「何をしている」

 

「まだ何もしてません」

 

犬島は緩んだ椅子から手を離した。

 

提督は犬島の前まで来た。

 

普段より表情が硬い。

 

犬島が少し首を傾げる。

 

「何かありましたか」

 

「北霧港で民間クレーンの倒壊事故が起きた」

 

「北霧港?」

 

犬島は本当に初めて聞いた名前だった。

 

「どこですか」

 

「北海道だ」

 

「遠いですね」

 

「ああ」

 

「怪我した人は」

 

「重傷者一名、軽傷者七名。死者はいない」

 

犬島は安心した。

 

「よかった」

 

だが提督の表情は変わらない。

 

「その事故について、犬島が原因だという報道が出ている」

 

犬島は瞬きをした。

 

「……うち?」

 

「ああ」

 

犬島は自分の実艦を見る。

 

乾ドック。

 

船底を支える支持台。

 

取り外された左右の推進軸。

 

作業台の上の推進器。

 

分解された舵取機。

 

「うち、ここにおりますよ」

 

「分かっている」

 

「船も動けません」

 

「ああ」

 

「北海道へ行ったこともありません」

 

「ああ」

 

犬島は少し考えた。

 

「昔、何か運んだものが壊れたんですか」

 

「関係ない」

 

「うちの部品を作った会社?」

 

「関係ない」

 

「航路情報を送ったとか」

 

「ない」

 

「うちの引き波が、ずっと北海道まで行ったとか……」

 

「行くわけがない」

 

犬島は困った顔になった。

 

「じゃあ、何でうちなんですか」

 

「事故番号の八―一二を、第八一二号艦と自動処理装置が誤認したらしい」

 

「数字が同じだけ?」

 

「ああ」

 

犬島はしばらく何も言わなかった。

 

これまでの事故には、少なくとも何らかの物理的関係があった。

 

その海域にいた。

 

その設備を使った。

 

その波を受けた。

 

その船とすれ違った。

 

犬島自身に過失がなくても、事故現場には存在していた。

 

今回は違う。

 

何もしていない。

 

近づいてもいない。

 

事故の存在すら知らなかった。

 

ただ管理番号の数字が、自分の建造番号と同じように並んでいただけ。

 

「それで、うちが原因になるんですか」

 

「ならない」

 

提督は即答した。

 

「だが誤情報が広がっている」

 

犬島は自分の胸元へ手を置いた。

 

「どうやったら、避けられたんでしょう」

 

「避ける必要はない」

 

「でも、事故が起きて、うちが原因って……」

 

「犬島は何もしていない」

 

「何もせんかったから悪いんですか」

 

「違う」

 

「北海道へ行かんかったことが?」

 

「違う」

 

犬島の声が少しずつ弱くなる。

 

「うち、何を間違えたんですか」

 

提督は犬島の両肩へ手を置いた。

 

「何も間違えていない」

 

犬島は提督を見上げる。

 

「ほんまに?」

 

「本当にだ」

 

「今回は、過失がないだけじゃなくて……」

 

「ああ」

 

「関係すらない?」

 

「一切ない」

 

犬島は目を伏せた。

 

「事故におったら、何をしたらよかったか考えられます」

 

「……ああ」

 

「もっと早う舵を切れたかな、とか。機関を止めた方がよかったかな、とか」

 

犬島は乾いたドックの床を見る。

 

「でも、そこにおらんかったら、何も考えられんです」

 

存在しない場所で起きた事故。

 

何もしていないのに責められる。

 

犬島にとって、これまでとは違う種類の不安だった。

 

提督は犬島の頭へ手を置いた。

 

「犬島が考えることは一つだけだ」

 

「何ですか」

 

「事実が確認されるまで、ここにいることだ」

 

犬島は周囲を見る。

 

ドック。

 

自分の実艦。

 

取り外された推進軸。

 

作業中の技術員。

 

「最初から、ここにおります」

 

「ああ」

 

「ここにおったことを、証明するんですか」

 

「軍令部が証明する」

 

犬島は提督の袖を軽くつかんだ。

 

「お願いします」

 

---

 

六 犬島不在証明

 

軍令部の対応は早かった。

 

午後四時三十分。

 

正式声明。

 

«海防艦「犬島」は事故発生時、岡山県玉野市所在の指定修理ドックにおいて定期整備中であった。»

 

«同艦は事故発生前日より乾ドックへ収容され、左右推進軸、推進器および舵取機を取り外されており、航行能力を有していなかった。»

 

«犬島が北霧港へ接近、航行、通信または何らかの影響を与えた事実は一切ない。»

 

«北霧港七号クレーン倒壊事故と海防艦「犬島」は、直接的にも間接的にも無関係である。»

 

それでも軍令部は、徹底的な記録を公開した。

 

犬島の乾ドック入渠時刻。

 

ドックの防犯映像。

 

船体支持台の重量記録。

 

取り外された推進軸の写真。

 

犬島が工具箱の留め金を修理していた作業記録。

 

事故時刻に隣にいた技術員三名の証言。

 

整備用仮設通信回線の送受信記録。

 

犬島の主通信機が電源を切られていた記録。

 

さらには、玉野と北霧港の距離。

 

当時の海流。

 

波浪伝播の計算。

 

仮に犬島が玉野沖を全速で航行していたとしても、北霧港へ有意な波を送ることは物理的に不可能だった。

 

軍令部の技術調査官は、記者会見で尋ねられた。

 

「犬島の事故歴が、今回の設備倒壊へ何らかの間接的影響を与えた可能性はありませんか」

 

調査官は一度、質問の意味を確認した。

 

「ありません」

 

「しかし犬島は、これまで多くの異常事態に――」

 

「事故歴が北海道の固定ボルトを破断させることはありません」

 

「犬島が過去に作った波や振動が、地盤へ残っていた可能性は」

 

「犬島は北霧港へ行ったことがありません」

 

「遠隔的な艦娘能力の影響は」

 

「そのような能力は存在しません」

 

「犬島自身が事故について何か発言したことは」

 

「事故発生まで、北霧港という地名すら知りませんでした」

 

軍令部調査官の声は、徐々に低くなった。

 

「犬島は関係ありません」

 

「直接にも」

 

「間接にも」

 

「心理的にも」

 

「物理的にも」

 

「歴史的にも」

 

「地理的にも」

 

「一切、関係ありません」

 

その会見映像は広く共有された。

 

多くの者が、ようやく誤報に気付いた。

 

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七 原因調査

 

北霧港の事故調査では、七号クレーンの残骸が詳しく調べられた。

 

破断した固定ボルト。

 

材質分析。

 

傾斜警報装置。

 

保守記録。

 

購買契約。

 

港内波浪記録。

 

貨物船の係留状態。

 

結果は明確だった。

 

固定ボルト二十四本のうち、十六本が規格外品。

 

正規品の品質証明書が複写され、模造品へ添付されていた。

 

複数のボルト内部には、事故前から疲労亀裂が存在。

 

傾斜警報装置は、保守会社の指示によって二十七日前から停止。

 

自動荷役停止機能も同時に無効化。

 

事故当日の風、波、貨物重量は、全て運用基準以内。

 

外部船舶の引き波なし。

 

地震なし。

 

地盤変動なし。

 

軍艦の通航なし。

 

そして当然。

 

犬島との関連なし。

 

正式報告書には、通常では考えにくい独立した項目が作られた。

 

第十一章 海防艦「犬島」との関連性について

 

«本事故発生当時、海防艦「犬島」は岡山県玉野市所在の乾ドックに収容されていた。»

 

«犬島は北霧港への寄港歴、航行歴、通信歴および関連事業者との契約関係を有しない。»

 

«事故設備、使用部材、保守会社、貨物船および積荷についても、犬島または犬島所属部隊との関係は確認されなかった。»

 

«犬島の航行による引き波、振動、通信、電磁波その他の物理的影響が事故現場へ到達した事実はない。»

 

«事故発生前、現場関係者の会話、作業記録および通信に犬島の名は一度も登場していない。»

 

«犬島原因説は、事故仮番号「八―一二」と犬島の旧建造番号「第八一二号艦」を民間文書処理システムが誤結合したことで発生した。»

 

«よって、海防艦「犬島」は本事故と完全に無関係である。»

 

事故原因。

 

«本事故は、北霧港湾運営株式会社および委託保守会社による規格外固定ボルトの使用、品質記録の改ざんならびに安全警報装置の意図的な停止によって発生した。»

 

最終結論。

 

«犬島に過失はない、という表現すら厳密には適切でない。»

 

«犬島は事故当事者ではなく、調査対象となるべき関係性そのものが存在しない。»

 

この文章は、軍令部内で少し話題になった。

 

これまでの報告書には、何度も書かれていた。

 

犬島に過失なし。

 

今回は違う。

 

犬島は当事者ですらない。

 

---

 

八 謝罪

 

最初の誤報を配信した情報会社は、訂正記事を出した。

 

«北霧港クレーン事故に関する過去の記事で、海防艦「犬島」が関係しているとの誤った情報を掲載しました。»

 

«事故番号と犬島の旧建造番号を自動処理システムが誤って関連付け、編集部も確認しないまま配信したものです。»

 

«犬島は事故発生時に玉野の乾ドックへ入渠しており、本件とは一切関係ありません。»

 

ほかの報道機関も次々に訂正した。

 

ただし最初の「犬島が原因」という記事ほど、大きくは扱われなかった。

 

犬島は所属鎮守府の執務室で、訂正記事を読んだ。

 

「訂正されました」

 

「ああ」

 

提督が答える。

 

「でも、最初の記事より小さいです」

 

「ああ」

 

「うちが悪いって見た人が、全員これも見てくれますか」

 

「全員は難しいだろう」

 

犬島は少し悲しそうに目を伏せた。

 

「何もしてないって、証明されたのに」

 

「事実は記録された」

 

提督は、分厚い報告書を犬島の前へ置いた。

 

表紙。

 

北霧港七号連続式荷役機倒壊事故調査報告書

 

付箋の付いた第十一章。

 

海防艦「犬島」との関連性について

 

犬島はそのページを開く。

 

何度も読む。

 

直接的にも。

 

間接的にも。

 

物理的にも。

 

歴史的にも。

 

完全に無関係。

 

「ここまで書かんといけんかったんですね」

 

「書かなければ、あとから何か関係があったと言い出す者がいる」

 

犬島は少し考えた。

 

「報告書、もらってええですか」

 

「ああ」

 

「うちの事故報告書と一緒に置きます」

 

「犬島の事故ではないぞ」

 

「でも、うちが原因じゃないって書いとる大切な報告書です」

 

犬島は報告書を胸へ抱いた。

 

「何もしてないことを証明する紙って、変じゃな」

 

提督は答えなかった。

 

犬島は少しだけ笑う。

 

「次は、うちが生まれる前の事故まで原因にされそうです」

 

「不吉なことを言うな」

 

「でも、数字が同じだけで北海道の事故がうちのせいになったんですよ」

 

「今後、事故番号の表記方式は変更される」

 

「犬島って書かれんように?」

 

「ああ」

 

軍令部は、事故番号と艦艇識別番号を自動的に区別する新しい規則を導入した。

 

数字だけで関連資料を結び付けない。

 

艦名、日時、場所、所属、物理的接点を確認する。

 

自動生成された事故記事は、人間が必ず原資料と照合する。

 

犬島とは無関係の事故を、犬島へ結び付けないための規則だった。

 

その規則が必要になったこと自体、犬島には少し納得できなかった。

 

---

 

九 港湾会社のその後

 

北霧港湾運営株式会社は、七号クレーンを含む全ての大型荷役設備の運用を停止された。

 

規格外ボルトの使用。

 

品質証明書の改ざん。

 

傾斜警報装置の無効化。

 

事故後に犬島原因説を否定せず、外部波浪の可能性を示唆した広報対応。

 

それぞれが厳しく追及された。

 

広報部長は、社内で犬島が無関係である可能性を指摘されていたにもかかわらず、責任分散のため曖昧な説明を続けたことを認めた。

 

記者会見で頭を下げる。

 

「海防艦・犬島および関係者に対し、根拠のない疑いを拡大させたことをお詫びします」

 

購買担当責任者と保守会社管理者は、品質記録改ざんに関する責任を問われた。

 

会社は事故被害の補償とクレーン撤去費用を負担。

 

経営陣の一部は辞任した。

 

一方、事故直前に退避警報を出した現場作業員たちは、その判断によって多数の命を救ったとして表彰された。

 

彼らもまた、犬島を責めてはいなかった。

 

事故時には犬島の存在すら知らなかったからだ。

 

後日、現場作業員の代表から犬島へ手紙が届いた。

 

«私たちは事故が起きるまで、あなたの名前を一度も聞いていませんでした。»

 

«報道を見たとき、なぜ現場にいなかった艦が責められているのか理解できませんでした。»

 

«七号機が倒れたのは、私たちの港の設備と会社の管理に問題があったからです。»

 

«あなたには何の責任もありません。»

 

手紙には、北霧港の絵葉書が一枚入っていた。

 

犬島はしばらく眺めた。

 

「初めて北霧港を見ました」

 

「事故後に、だがな」

 

「きれいなところですね」

 

港。

 

雪を残した山。

 

青い海。

 

そこに犬島の実艦は描かれていない。

 

本当に、一度も行っていない場所。

 

「いつか行ってもええですか」

 

提督が少し警戒した表情になる。

 

「事故とは関係なく?」

 

「はい。今度は本当に近づきます」

 

「事前に航路と設備を確認する」

 

「軍令部が?」

 

「ああ」

 

犬島は少し頬を膨らませる。

 

「うちが行く前から事故扱いせんでください」

 

---

 

十 犬島原因ではない日

 

定期整備が終わった。

 

左右の新しい軸受。

 

再装着された推進軸。

 

二枚の推進器。

 

整備された舵取機。

 

ドックへ海水が入れられる。

 

実艦「犬島」が、支持台からゆっくり浮き上がる。

 

艦内に乗員はいない。

 

艦橋前部には艦娘・犬島一人。

 

右舷機関、始動。

 

左舷機関、始動。

 

二本の推進軸、低速回転。

 

舵、右。

 

左。

 

中央。

 

全て正常。

 

犬島は艦首へ移動した。

 

第一砲塔の前へ立つ。

 

海風が深緑色のスカーフを揺らす。

 

提督が後ろから歩いてくる。

 

一定の歩幅。

 

少しだけ右足が強い。

 

「提督」

 

「何だ」

 

「今日、北海道で何か壊れてませんか」

 

「犬島の出港と北海道の設備故障は関係ない」

 

「分かっとります」

 

犬島は少し笑った。

 

「でも、確認したくなっただけです」

 

「北霧港の設備は全て点検中だ」

 

「なら安心です」

 

係留索が外される。

 

実艦「犬島」が玉野の岸壁を離れた。

 

犬島は艦首甲板へ手を置いた。

 

今回は、自分が海を進んでいる。

 

推進器も回っている。

 

航跡も残る。

 

それでも犬島の周囲に異常はない。

 

港湾設備も壊れない。

 

クレーンも倒れない。

 

「うちが動いても、何も起きんときはあるんですよ」

 

「ああ」

 

「うちがおらんところで、事故が起きることもあります」

 

「当然だ」

 

「事故が全部、うちを中心に回っとるわけじゃない」

 

「ああ」

 

犬島は、ようやく少し納得したように頷いた。

 

「当たり前のことなんですけどなあ」

 

遠くで小型作業船がクレーンを動かしている。

 

正常。

 

別の貨物船が岸壁へ接岸する。

 

正常。

 

海鳥が飛ぶ。

 

犬島の頭上には来ない。

 

何も壊れない。

 

誰も犬島を指ささない。

 

犬島は水平線を見る。

 

「今回の報告書、題名は何にしたらええんでしょう」

 

「犬島の報告書ではない」

 

「でも、保管するんでしょう」

 

「事故報告書の棚ではなく、誤情報対応記録へ入れる」

 

犬島は少し考えた。

 

「犬島が原因ではなかった事故?」

 

「犬島が関係なかった事故だ」

 

「もっと短く」

 

提督は答えた。

 

「犬島不在事故」

 

犬島は首を傾げる。

 

「うちがいないことが事故みたいです」

 

「では、無関係事故」

 

「事故そのものが無関係みたいです」

 

「好きに呼べ」

 

犬島はしばらく考えた。

 

やがて、少しだけ笑う。

 

「『犬島、何もしてない事件』でええです」

 

後に所属鎮守府では、本当にその名前が定着した。

 

犬島、何もしてない事件。

 

正式な事故原因は、規格外ボルトと安全装置の無効化。

 

犬島は直接にも、間接にも関係していない。

 

現場へ近づいたこともない。

 

事故前に名前が出たこともない。

 

ただ一つ。

 

事故番号の数字が、かつての建造番号と同じように並んでいただけ。

 

それだけで犬島は、千キロメートル離れた事故の原因にされた。

 

けれど最終的には、軍令部も事故調査委員会も、現場作業員も明確に記録した。

 

犬島は悪くない。

 

それ以前に。

 

犬島は、そこにすらいなかった。

 

実艦「犬島」は穏やかな瀬戸内海を進む。

 

二基の機関は正常。

 

二本の推進軸も正常。

 

犬島は艦首から、自分の航跡を振り返った。

 

白い航跡は、今いる場所にだけ残っている。

 

北海道には続いていない。

 

北霧港にも届いていない。

 

犬島はそれを確かめると、少し安心したように前を向いた。

 

「うちが原因じゃない事故まで、背負わんでええんじゃな」

 

提督が答える。

 

「最初から背負う必要はない」

 

犬島は深緑色のスカーフを整えた。

 

「なら、あの報告書は証拠として置いときます」

 

「何の証拠だ」

 

「世界には、うちと関係なく起きる事故もあるっていう証拠です」

 

その言葉は、考えてみれば当然だった。

 

だが不幸ばかりに巻き込まれてきた犬島にとっては、正式な調査報告書を一冊使って確認しなければならないほど、大切な事実だった。

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