海防艦 犬島   作:重装甲空母信濃

23 / 94
犬島とアメリカ戦艦艦娘「アイオワ」との接触事故。
原因アメリカ式と日本式の航路表が少しズレていたこと。
両艦共に過失無し


犬島アイオワ衝突事故

海防艦・犬島

 

――二本あった、同じ航路――

 

その事故は、犬島にもアイオワにも過失がなかった。

 

見張りを怠ったわけではない。

 

速度を超過したわけでもない。

 

通信を聞き違えたわけでもない。

 

どちらかが航路を外れたのでもなかった。

 

むしろ二隻は、与えられた航路表を正確すぎるほど忠実に守っていた。

 

問題は、その航路表が二種類存在していたことだった。

 

日本側の航路表。

 

アメリカ側の航路表。

 

表題はどちらも同じ。

 

日米共同艦隊・白鷺水道通過航路表。

 

図面番号も同じ。

 

改訂日も同じ。

 

縮尺も同じ。

 

記載された安全水深も、制限速力も同じ。

 

けれど、曲線区間の中心線だけが、五十八メートルずれていた。

 

広い外洋なら、五十八メートルは小さな差だった。

 

しかし全幅三十三メートルを超える戦艦と、全幅九・二メートルの海防艦が、狭い水道ですれ違うには十分すぎる差だった。

 

---

 

一 日米共同航行

 

海防艦「犬島」は、白鷺水道の南口へ向かっていた。

 

艦内に人間の乗員はいない。

 

全長七十八・九メートルの実艦を動かしているのは、艦橋前部に立つ艦娘・犬島一人だけだった。

 

濃紺色の短い髪。

 

琥珀色の瞳。

 

白い水兵服。

 

紺色のスカート。

 

胸元には深緑色のスカーフ。

 

右側の髪には、岡山の桃の花を思わせる淡い桃色の髪留めが付いている。

 

背中に艤装はない。

 

二基のディーゼル機関。

 

二本の推進軸。

 

一枚の舵。

 

三基の十二糎単装砲。

 

足元にある実艦の全てが、犬島自身の大きな身体だった。

 

「針路、〇一二度」

 

犬島は艦橋の窓から水道入口を確認した。

 

「速力、七ノット。両舷機関、正常。舵、中央」

 

白鷺水道は、二つの島の間を通る軍民共用航路だった。

 

最も狭い場所でも航路幅は約八百メートル。

 

小型艦同士なら、余裕をもってすれ違える。

 

しかし水道中央には浅い岩礁帯があり、実際に安全に通れる範囲は複雑な曲線を描いていた。

 

その日は日米共同演習の最終日。

 

日本側艦隊は水道を北上。

 

アメリカ側艦隊は南下。

 

互いに指定航路を使い、間隔を取りながら順番にすれ違う計画だった。

 

犬島は日本側艦隊の最後尾に近い位置を航行している。

 

大型艦の引き波へ巻き込まれないよう、前方艦との距離は通常より広く取られていた。

 

一方、北側から接近していたアメリカ艦隊の先頭は、巨大な戦艦だった。

 

戦艦艦娘「アイオワ」。

 

全長二百七十メートルに迫る細長い船体。

 

全幅約三十三メートル。

 

満載排水量は五万トンを超える。

 

三基九門の四十・六センチ主砲。

 

速力、三十ノット以上。

 

実艦の大きさだけなら、犬島を五十隻近く集めても届かない。

 

ただしアイオワも犬島と同じく、通常の人間乗員を乗せていなかった。

 

アメリカ式の濃紺の制服を着た艦娘が、実艦の艦橋に一人で立ち、機関、舵、砲塔、通信設備を全て自分の身体として操っている。

 

共同通信回線へ、明るい女性の声が入った。

 

『戦艦アイオワより、白鷺管制。北側進入口へ到達したわ』

 

『白鷺管制よりアイオワ。航路表US-JP-14に従い、南行推奨線を八ノットで進んでください』

 

『アイオワ、了解。八ノットを維持するわ』

 

続いて犬島にも指示が来る。

 

『白鷺管制より犬島。航路表JP-US-14の北行推奨線を維持してください。制限速力八ノット』

 

「犬島、了解しました。現在七ノット、北行推奨線上です」

 

二隻が受けた航路表の番号は、順序こそ違うものの、同一資料を指すものと考えられていた。

 

犬島の画面には、日本式航路表。

 

アイオワの画面には、アメリカ式航路表。

 

両方とも、日米共同航路調整委員会が承認した正式資料だった。

 

犬島もアイオワも、それを疑う理由はなかった。

 

---

 

二 最初の通信

 

水道南口を通過した犬島は、指定された北行推奨線へ正確に乗った。

 

航路誤差、右へ一・二メートル。

 

すぐに舵を一度だけ修正する。

 

誤差、〇・三メートル。

 

「航路、正常」

 

犬島は正面を見た。

 

水道の途中には大きな島影があり、反対方向から来る艦はまだ見えない。

 

電波も島に遮られるため、通常の艦載電探では直接捕捉しにくい。

 

その代わり、白鷺水道管制所が各艦の位置を中継していた。

 

『犬島、反航するアイオワとの予定最接近距離は二百六十メートルです』

 

「了解しました」

 

二百六十メートル。

 

アイオワのような巨大戦艦とすれ違うには、決して広いとは言えない。

 

しかし速力は低く抑えられている。

 

航路も分離されている。

 

引き波を考慮した計算も済んでいた。

 

犬島は少しだけ緊張しながら、通信回線を開いた。

 

「海防艦・犬島よりアイオワさん」

 

短い間の後、明るい返事が来る。

 

『こちらアイオワ。あなたが犬島ね』

 

「はい。すれ違うとき、引き波を受けるかもしれません」

 

『分かっているわ。私も可能な範囲で低速を維持する』

 

「ありがとうございます」

 

『あなたの話は聞いているわよ』

 

犬島の表情が少し固まる。

 

「どの話ですか」

 

『いろいろ』

 

「どの事故でしょう」

 

『本当にいろいろあるのね……』

 

アイオワの声が少し困ったようになる。

 

犬島は深緑色のスカーフを整えた。

 

「今日は共同航路表もありますし、大丈夫です」

 

『そうね。お互い、表の通りに進みましょう』

 

「はい」

 

二隻は互いに安心するように通信を終えた。

 

それが、事故前に交わした最初の会話だった。

 

---

 

三 同じ画面に見えた二本の線

 

白鷺水道管制所には、二種類の航路表示装置が置かれていた。

 

日本側管制官の画面。

 

アメリカ側連絡士官の画面。

 

日本側画面では、犬島は北行推奨線の中央。

 

アイオワは南行推奨線の中央。

 

二本の推奨線の間隔は、最狭部で二百六十メートル。

 

安全だった。

 

アメリカ側画面でも、アイオワは南行推奨線の中央。

 

犬島は北行推奨線の中央。

 

やはり両艦とも正常。

 

だが二つの画面は、同じ航路線を表示していなかった。

 

日本式航路表は、白鷺水道の「浚渫航路中心線」を基準にしていた。

 

そこから北行船を東へ百三十メートル。

 

南行船を西へ百三十メートル。

 

合計二百六十メートル離す。

 

一方、アメリカ式航路表は、「安全通航区域中心線」を基準にしていた。

 

安全通航区域中心線は、岩礁帯を避けるため、浚渫航路中心線より曲線区間だけ五十八メートル東へずれていた。

 

アメリカ側では、その線から北行、南行の航路を設定している。

 

どちらの基準線も、正式な海図上に存在していた。

 

日本語では「航路中心線」。

 

英語では、どちらも翻訳上「Channel Centerline」と記載された。

 

日米共同航路調整委員会では、同じ言葉が同じ線を意味すると考えられた。

 

直線区間では、二つの中心線はほぼ一致している。

 

ずれが生じるのは、島を回り込む約一・四海里の曲線区間だけ。

 

紙の航路表を別々に見れば、違いはほとんど分からない。

 

日本側の北行推奨線。

 

アメリカ側の南行推奨線。

 

二本を一枚の海図へ正確に重ねると、曲線の出口付近で安全間隔が急に狭くなる。

 

最も近い場所では、線と線の間が四十八メートルしかなかった。

 

さらに二つの推奨線は、わずかに交差するような形になっていた。

 

犬島とアイオワは、両方とも自分の航路の中央を進んでいる。

 

だから管制画面では、どちらも正常に見えた。

 

事故の可能性を示す警報は鳴らなかった。

 

---

 

四 島影から現れた戦艦

 

犬島が曲線区間へ入る。

 

針路、〇二七度。

 

速力、七ノット。

 

左舷側には島。

 

右舷側には浅い岩礁帯。

 

犬島は日本式航路表の北行推奨線を正確にたどった。

 

同じころ。

 

アイオワも反対側から曲線区間へ入った。

 

針路、二〇七度。

 

速力、八ノット。

 

アイオワはアメリカ式航路表の南行推奨線上。

 

航路誤差、一メートル未満。

 

二隻とも完全に規定通りだった。

 

島影が少しずつ後方へ移る。

 

犬島の電探画面に、大きな反応が現れた。

 

正面やや左。

 

距離、千二百メートル。

 

「アイオワさん、確認しました」

 

同時にアイオワから通信が入る。

 

『アイオワより犬島。こちらも視認したわ』

 

犬島は艦橋前部から正面を見る。

 

島影の向こう。

 

高い艦橋。

 

巨大な主砲塔。

 

灰色の長い船体。

 

戦艦アイオワが、犬島の正面近くから現れた。

 

犬島は少し眉を寄せた。

 

予定では、もっと左側を通るはずだった。

 

「近い……?」

 

電探による予想最接近距離。

 

百二十メートル。

 

先ほど管制から伝えられた二百六十メートルの半分以下。

 

犬島はすぐに管制へ通信した。

 

「白鷺管制、犬島。アイオワとの最接近予測が百二十メートルです」

 

ほぼ同時にアイオワも報告する。

 

『アイオワより管制。私の計算では、犬島との最接近距離が九十メートルしかない!』

 

日本側管制画面では、二隻の予定線は離れている。

 

アメリカ側画面でも同様だった。

 

『両艦とも指定推奨線上です。そのまま――』

 

管制官が途中で言葉を止めた。

 

実際の艦位置を一つの画面へ直接重ねたところ、二隻の航路が異常に接近していた。

 

『犬島、アイオワ、現位置を維持せず、国際海上衝突予防規則に基づき双方右転!』

 

「犬島、了解!」

 

『アイオワ、了解! Hard starboard!』

 

犬島は舵を右一杯。

 

右舷機関を後進。

 

左舷機関を前進。

 

小さな船体を急速に右へ回す。

 

アイオワも舵を右一杯。

 

巨大な四本の推進軸を後進へ入れる。

 

九基の主砲を載せた五万トン級の船体が、ゆっくりと右へ向きを変え始めた。

 

二隻の判断は正しかった。

 

反航船同士は、互いに右側へ避ける。

 

犬島もアイオワも、同じ瞬間に規則通りの操作を行った。

 

だが大型戦艦は、海防艦のようには曲がらない。

 

アイオワの艦首は右へ向いた。

 

その反作用で、長い艦尾は左へ大きく振り出された。

 

犬島の方向へ。

 

---

 

五 間に合わない距離

 

「アイオワさんの艦尾が来ます!」

 

犬島が叫ぶ。

 

『分かっている! 機関全速後進!』

 

アイオワの声から、普段の明るさが消えていた。

 

巨大な実艦の艦橋で、艦娘アイオワは必死に船体を止めようとしていた。

 

四本の推進軸が逆回転する。

 

海面が白く泡立つ。

 

それでも五万トンを超える質量は、すぐには止まらない。

 

犬島は右へ回頭しながら、アイオワの艦尾から離れようとした。

 

しかし右舷側には浅い岩礁帯がある。

 

水深は犬島の喫水より十分深い。

 

だが海図には、海底から鋭く突き出した岩が記録されていた。

 

さらに右へ行けば、船底を損傷する。

 

「これ以上は行けん……!」

 

犬島は舵を少し戻した。

 

岩礁へ座礁するより、アイオワと浅い角度で接触した方が被害を抑えられる。

 

アイオワとの距離。

 

三百メートル。

 

二百メートル。

 

百五十メートル。

 

犬島は衝突に備える。

 

防水扉、全閉。

 

燃料弁、遮断。

 

弾薬庫、安全状態。

 

主砲、正中線へ固定。

 

右舷錨、固定確認。

 

艦橋内の可動物、固定。

 

「アイオワさん、うちはこれ以上右へ行けません!」

 

『こちらが止める!』

 

「艦尾、まだ振れています!」

 

『分かっているわ!』

 

アイオワは左舷機関の後進出力を強め、艦尾の振り出しを抑えようとする。

 

だが操作の効果が現れるまで時間が必要だった。

 

犬島は自分の位置を確認する。

 

岩礁まで、七十メートル。

 

アイオワの艦尾まで、八十メートル。

 

二つの危険の間に挟まれている。

 

犬島は最後の判断をした。

 

両機関、全速後進。

 

舵、中央。

 

回頭を止め、接触する位置を船体中央ではなく艦首側へずらす。

 

アイオワの巨大な艦尾が、犬島の左前方へ迫った。

 

灰色の装甲外板。

 

上甲板。

 

後部主砲塔。

 

艦尾に掲げられた星条旗。

 

犬島は衝突の瞬間まで、アイオワの船体を見ていた。

 

「当たります!」

 

『犬島!』

 

アイオワの左舷艦尾が、犬島の左舷艦首へ斜めに接触した。

 

ごおんっ――。

 

低く重い音。

 

犬島の実艦が右へ押された。

 

艦首外板がへこむ。

 

左舷錨の収納部が潰れる。

 

第一十二糎砲の防盾が、アイオワの外板へ擦れる。

 

犬島の額と左肩に、鈍い痛みが走った。

 

「うっ……!」

 

接触は続く。

 

アイオワの船体表面を、犬島の艦首が後方へ滑った。

 

ぎぎぎぎぎ――。

 

鋼板同士の摩擦音。

 

犬島の左舷手すりが倒れる。

 

艦首旗竿が折れる。

 

第一砲塔の旋回基部へ横方向の力が掛かる。

 

しかし衝突角度は浅かった。

 

犬島は機関を後進へ入れたまま、船体をアイオワから離す。

 

アイオワも全速後進を維持する。

 

接触開始から約九秒後。

 

二隻の船体が離れた。

 

犬島は右へ押し出されたが、岩礁帯の手前で停止した。

 

最浅部まで、二十八メートル。

 

座礁は免れた。

 

アイオワも航路中央付近で停止する。

 

白鷺水道に、二隻の機関が作る泡だけが残った。

 

---

 

六 二隻の損傷

 

犬島はすぐに船体状況を確認した。

 

左舷艦首外板、大きく変形。

 

左舷錨収納部、圧壊。

 

左舷錨、海中へ脱落。

 

艦首旗竿、喪失。

 

第一十二糎砲防盾、変形。

 

砲塔旋回装置、一時停止。

 

左舷前部手すり、約八メートルにわたり損傷。

 

艦首区画へ少量浸水。

 

衝突隔壁、保持。

 

機関、正常。

 

推進軸、正常。

 

舵、正常。

 

艦橋、無傷。

 

船体主要構造に破断なし。

 

犬島は額へ手を当てた。

 

艦娘の身体には、目立った外傷はない。

 

左肩と額に、実艦の損傷に対応する痛みがあるだけだった。

 

「犬島、応答できます」

 

通信回線の向こうから、アイオワの声がすぐに返る。

 

『犬島! 怪我は? 浸水は!?』

 

「艦首に少し入っとります。隔壁で止まりました」

 

『機関は?』

 

「正常です」

 

『艦娘の身体は?』

 

「痛いですけど、怪我はありません」

 

アイオワは大きく息を吐いた。

 

『Thank God……』

 

「アイオワさんは?」

 

『左舷艦尾外板に擦過傷。装甲帯に大きな異常なし。後部の作業用張出しと手すりが曲がった。推進器と舵は正常よ』

 

アイオワの損傷は、犬島より小さかった。

 

当然だった。

 

アイオワの艦尾外板は厚い。

 

その内側には、巨大な戦艦を守る強固な構造がある。

 

犬島の一千トン余りの船体が接触しても、表面へ傷を付ける程度だった。

 

一方、犬島にとってアイオワは動く鋼鉄の岸壁に近い。

 

アイオワの低速の艦尾へ接触しただけでも、艦首は大きく損傷していた。

 

『犬島』

 

アイオワが低い声で呼ぶ。

 

「はい」

 

『ごめんなさい』

 

犬島はすぐに首を横に振った。

 

「アイオワさんは悪くありません」

 

『私の船体があなたへ当たった』

 

「うちも、アイオワさんに当たりました」

 

『損傷の大きさが違う』

 

「船の大きさが違うからです」

 

『私がもっと早く異常に気付いていれば――』

 

「うちも同じ時間に気付きました」

 

『もっと強く後進を掛けていれば』

 

「最初から全速後進でした」

 

『航路を外れてでも避けるべきだった』

 

「アイオワさんの右側にも浅い場所があったでしょう」

 

アイオワは答えなかった。

 

犬島は通信画面を見つめる。

 

「二人とも、航路表の通りに走りました」

 

『そうね』

 

「二人とも、すぐ右へ避けました」

 

『ええ』

 

「なら、調査が終わる前に自分を責めたらいけません」

 

犬島は数多くの事故調査を経験してきた。

 

誰がどの時点で、何を知り、何ができたか。

 

記録を見ずに責任を決めてはいけないことを知っている。

 

アイオワは少しだけ苦笑した。

 

『あなた、本当に事故調査に慣れているのね』

 

「慣れたくて慣れたんじゃありません」

 

犬島の頬が少し膨らむ。

 

その反応に、アイオワの声がわずかに柔らかくなった。

 

---

 

七 アイオワの来艦

 

救難艇と軍令部の工作艦が到着した。

 

犬島の艦首破口へ応急防水板を取り付ける。

 

脱落した左舷錨の位置を確認。

 

第一砲塔の旋回装置を固定。

 

犬島は右舷錨と機関、舵を使用できるため、自力航行能力を維持していた。

 

だが艦首の詳細検査が必要なため、軍令部の修理港へ向かうことになった。

 

アイオワは水道内で停止したまま、犬島の救援作業を見守っていた。

 

やがてアイオワから小型艇が降ろされる。

 

艦娘の姿となったアイオワが一人で乗っていた。

 

実艦側は最低限の自動維持状態。

 

アイオワは犬島の右舷へ接近し、仮設梯子を使って甲板へ上がった。

 

長い金髪。

 

青い瞳。

 

アメリカ海軍式の濃紺の制服。

 

背が高く、犬島より明らかに大きい。

 

それでも実艦同士の排水量差と比べれば、艦娘の姿では普通の身長差に見えた。

 

犬島は第一砲塔の後ろに立っていた。

 

アイオワが近づく。

 

「犬島」

 

「はい」

 

アイオワは損傷した左舷艦首を見る。

 

潰れた錨収納部。

 

曲がった手すり。

 

変形した第一砲塔防盾。

 

その表情が曇る。

 

「痛い?」

 

「少し」

 

「少しには見えないわ」

 

「前に船体が三つに分かれたときよりは、ずっと軽いです」

 

アイオワが固まった。

 

「比較する事故が重すぎるわよ」

 

犬島は少し首を傾げた。

 

アイオワは犬島の左肩へ触れようとして、手を止める。

 

「ここ?」

 

「はい」

 

「触っても?」

 

犬島は頷いた。

 

アイオワは壊れ物を扱うように、犬島の肩へ手を置いた。

 

艦娘の身体には傷がない。

 

だが犬島はわずかに顔をしかめた。

 

「Sorry」

 

「大丈夫です」

 

「大丈夫じゃないでしょう」

 

アイオワは膝を曲げ、犬島と視線の高さを合わせた。

 

「私は、自分に責任がないと調査で言われても、あなたの艦首を見たら簡単には納得できないと思う」

 

犬島は少し考えた。

 

「うちも、山城さんにぶつけられたとき、山城さんがずっと自分を責めとりました」

 

「戦艦だったの?」

 

「はい」

 

「日本の戦艦に続いて、今度はアメリカ戦艦?」

 

犬島は目を逸らした。

 

「そうなります」

 

アイオワは額へ手を当てた。

 

「あなた、本当に戦艦との相性が……」

 

「悪いって言わんでください」

 

犬島は少しだけ頬を膨らませた。

 

アイオワは初めて笑った。

 

ほんの小さな笑いだった。

 

「分かった。言わない」

 

犬島はアイオワの制服の袖を軽くつかんだ。

 

「調査が終わるまで、一緒に待ちましょう」

 

アイオワが犬島の手を見る。

 

「私のために言っている?」

 

「二人のためです」

 

犬島は静かに答えた。

 

「アイオワさんも悪くないかもしれんのに、一人で責めたらいけんけぇ」

 

アイオワは犬島の手へ自分の手を重ねた。

 

「Okay。一緒に待ちましょう」

 

---

 

八 二本の航跡

 

日米合同事故調査委員会は、両艦の航海記録を回収した。

 

犬島の航跡。

 

アイオワの航跡。

 

速力。

 

舵角。

 

機関出力。

 

電探映像。

 

通信記録。

 

白鷺水道管制所の表示情報。

 

最初に確認されたのは、犬島の航路だった。

 

犬島は日本式航路表に記載された北行推奨線から、最大でも一・四メートルしか外れていない。

 

事故直前までは、ほぼ中心線上。

 

速度も制限以下。

 

見張りと通信にも問題なし。

 

アイオワも同様だった。

 

アメリカ式航路表の南行推奨線から、最大誤差一・七メートル。

 

八ノットを維持。

 

島影から犬島を視認した直後、規則通り右転。

 

全速後進。

 

対応の遅れなし。

 

二隻の航跡を、それぞれの航路表へ重ねる。

 

完全に正常。

 

次に、犬島の航跡をアメリカ式航路表へ重ねた。

 

日本側推奨線から外れ、南行航路へ近づいて見える。

 

アイオワの航跡を日本式航路表へ重ねる。

 

同じように、反対航路へ近づいて見える。

 

調査員たちは、初めて異常の全体像を理解した。

 

二隻が間違えたのではない。

 

二隻へ与えられた「正しい航路」が違っていた。

 

航路表の原資料を調べる。

 

日本側は、白鷺港湾局の浚渫航路中心線を採用。

 

アメリカ側は、共同演習用安全区域図の安全通航区域中心線を採用。

 

翻訳作業では、双方とも「Channel Centerline」と表記された。

 

日本側担当者は、自国の航路中心線を指すと理解。

 

アメリカ側担当者は、安全通航区域中心線を指すと理解。

 

どちらの解釈も、それぞれの運用基準では正しかった。

 

直線部では二本の線が重なるため、事前の電子試験でも異常が出ない。

 

曲線部だけに存在する五十八メートルのずれ。

 

さらに航路表は自国艦の推奨線だけを強調表示する形式で、相手国版の線と同時表示されなかった。

 

日本側管制官の画面では、犬島もアイオワも正常。

 

アメリカ側連絡士官の画面でも正常。

 

だが画面の背景となる中心線が異なる。

 

互いに「同じものを見ている」と信じていた。

 

事故調査委員会は、両航路表を大型画面へ重ねた。

 

青い線。

 

日本式北行航路。

 

赤い線。

 

アメリカ式南行航路。

 

曲線出口で、二本の線が急速に接近する。

 

そしてわずかに交差する。

 

犬島が画面を見つめる。

 

「ほんまに、二本あったんじゃな」

 

隣のアイオワも腕を組んでいた。

 

「私たちは、それぞれ違う一本を同じ航路だと思っていた」

 

調査官が答える。

 

「その通りです」

 

犬島が尋ねる。

 

「うちが日本の表じゃなくて、アメリカの表を使っとったら?」

 

「事故は避けられた可能性があります」

 

アイオワが尋ねる。

 

「私が日本の表を使っていても?」

 

「同様です」

 

犬島は少し不安そうに言う。

 

「じゃあ、相手の表を確認せんかったんが悪いんですか」

 

調査官は首を横に振った。

 

「各艦へ他国版航路表は配布されていませんでした」

 

「どうして?」

 

「同一内容であると認識されていたからです」

 

アイオワが低い声で言う。

 

「確認しようのない違いだったということね」

 

「はい」

 

「管制も?」

 

「日本側とアメリカ側で表示する地図層が異なっていました。どちらの管制官も、自分の画面上では両艦が正しい航路にいると確認しています」

 

犬島は報告資料を見る。

 

「なら、誰が悪いんですか」

 

調査官は少し間を置いた。

 

「個人の操艦過失として責任を問える者はいません」

 

事故原因は、人間一人の判断ではなかった。

 

用語の定義。

 

翻訳。

 

地図層。

 

航路表の表示方式。

 

別々の制度が、それぞれ正しく動いた結果、両国の間に小さなずれが生まれた。

 

---

 

九 合同報告書

 

最終報告会には、日本とアメリカ双方の軍関係者が出席した。

 

犬島とアイオワは隣に座っている。

 

犬島の実艦は、日本側軍令部ドック。

 

アイオワの実艦は、共同修理岸壁。

 

二隻とも修理中だった。

 

日本側事故調査委員長が報告書を読み上げる。

 

«海防艦「犬島」は、日本側より正式に配布された白鷺水道北行推奨航路を、規定速力以下で正確に航行していた。»

 

«戦艦「アイオワ」は、アメリカ側より正式に配布された白鷺水道南行推奨航路を、規定速力以下で正確に航行していた。»

 

«両艦の見張り、通信、位置確認、速力、操舵および緊急回避動作に、過失は認められない。»

 

アメリカ側委員が続ける。

 

«Both vessels complied fully with the navigation instructions officially issued to them.»

 

通訳が日本語へ直す。

 

«両艦は、それぞれに正式に与えられた航行指示を完全に遵守していた。»

 

事故原因。

 

«日本側航路表は浚渫航路中心線を基準とし、アメリカ側航路表は安全通航区域中心線を基準としていた。»

 

«両基準線は直線区間でほぼ一致する一方、曲線区間において最大五十八メートルの位置差を有していた。»

 

«翻訳上、両基準線が同一の「航路中心線」として表記されたため、日米双方は同一航路を使用していると認識した。»

 

«その結果、両艦はそれぞれの指定航路を正確に航行しながら、実際には衝突する方向へ誘導された。»

 

緊急回避について。

 

«犬島およびアイオワは、危険を認識した直後、国際海上衝突予防規則に従って右転および減速を実施した。»

 

«しかし、視認可能となった時点で両艦間の距離は既に短く、加えてアイオワの大船体に伴う旋回時の艦尾振り出しにより、接触を完全に回避することはできなかった。»

 

そして結論。

 

«本事故において、海防艦「犬島」および戦艦「アイオワ」のいずれにも過失はない。»

 

«白鷺水道管制担当者についても、それぞれに提供された航路表示上、両艦が正常航行中であることを確認しており、個人の見張りまたは管制過失は認められない。»

 

«本事故は、日米間の航路基準定義および電子航路表示の不一致によって生じた制度的事故である。»

 

犬島は最後の一文を何度も読んだ。

 

アイオワが横から尋ねる。

 

「納得できた?」

 

「はい」

 

犬島は報告書をアイオワにも見せる。

 

「ここに、アイオワさんも悪くないって書いとります」

 

「犬島もね」

 

「はい」

 

二人は少しだけ笑った。

 

---

 

十 修理中の二隻

 

犬島の損傷は、軍令部ドックで修理された。

 

左舷艦首外板。

 

錨収納部。

 

第一十二糎砲防盾。

 

艦首旗竿。

 

手すり。

 

脱落した左舷錨も、水道の海底から回収された。

 

錨爪は大きく曲がっていたが、犬島の希望で廃棄されなかった。

 

修復可能な部分は戻され、使用できない一部は保管庫へ残された。

 

アイオワの実艦も、左舷艦尾の擦過傷を補修していた。

 

厚い装甲には重大な損傷がない。

 

だが犬島の第一砲塔防盾が擦れた場所には、長い塗装剥離跡が残っていた。

 

アイオワは修理前、その傷をしばらく消さずにいた。

 

「記念に残すつもりですか」

 

犬島が尋ねる。

 

二人は艦娘の姿で、共同修理岸壁を歩いていた。

 

「戒めとして少しだけね」

 

「アイオワさんに過失はないです」

 

「分かっているわ」

 

アイオワは海面に浮かぶ自分の巨大な実艦を見る。

 

「でも、大きな艦は、小さな艦へ少し触れただけでも大きく傷つける。そのことは忘れたくない」

 

犬島は少し考えた。

 

「うちも、アイオワさんの大きさを怖いとは思っとりません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

犬島は首を傾げる。

 

「ちょっと大きすぎるとは思います」

 

アイオワが笑う。

 

「それは否定できないわね」

 

二人は犬島の実艦へ移動した。

 

修理中の左舷艦首。

 

新しい外板が仮止めされている。

 

アイオワはその前で立ち止まる。

 

「私の艦尾と同じ高さまでしかないのね」

 

「何がですか」

 

「犬島のマスト」

 

犬島は自分の実艦を見上げる。

 

アイオワの巨大な船体と並べれば、本当に小さく見える。

 

「でも、狭いところへ入れます」

 

「私は入れない港が多いわ」

 

「燃料も少なくて済みます」

 

「私の燃料消費は聞かない方がいいわよ」

 

犬島の表情が少し明るくなる。

 

「役目が違うだけですね」

 

「その通り」

 

アイオワは犬島の頭へ手を伸ばした。

 

途中で一度、触れてよいか確認するように止める。

 

犬島が少しだけ頭を寄せた。

 

アイオワは優しく撫でた。

 

「次にすれ違うときは、同じ航路表を使いましょう」

 

「はい」

 

「できれば、もっと広い海で」

 

「それがええです」

 

「でも犬島」

 

「何ですか」

 

「あなた、アメリカへ来る予定はない?」

 

犬島は少し警戒するように首を傾げた。

 

「アメリカの航路表、大丈夫ですか」

 

アイオワは声を上げて笑った。

 

---

 

十一 一枚になった航路表

 

事故後、日米共同航路表は全面的に改訂された。

 

日本版とアメリカ版を別々に作る方式は廃止。

 

一つの共通電子データを、両国の表示装置で直接使用する。

 

基準線には固有の識別番号を付ける。

 

「航路中心線」という曖昧な名称だけを使用しない。

 

浚渫航路中心線。

 

安全通航区域中心線。

 

実測通航推奨線。

 

それぞれを明確に区別する。

 

座標データには、元となる測地系、変換方法、基準日を記録。

 

両国の航路表を自動的に重ね、差が一メートルを超えた場合は承認できない仕組みも導入された。

 

さらに、共同航行前には両艦が互いの航路データの照合値を交換する。

 

同じ資料なら、同じ確認番号が表示される。

 

違えば、出航前に警報が出る。

 

新しい航路表の最初の試験には、犬島とアイオワが選ばれた。

 

ただし今回は狭い水道ではない。

 

軍令部港外の広い試験海域。

 

二隻の間隔、二千メートル。

 

速力、五ノット。

 

犬島は北上。

 

アイオワは南下。

 

双方の画面に、同じ共通航路が表示されている。

 

犬島が通信する。

 

「犬島、航路確認番号、JUS-001-7A」

 

アイオワが答える。

 

『アイオワ、航路確認番号、JUS-001-7A。一致したわ』

 

「位置のずれは?」

 

『ゼロ』

 

「うちもゼロです」

 

二隻は広い海ですれ違った。

 

最接近距離、二千メートル。

 

アイオワは事前に速力を四ノットまで落とし、引き波を小さくしていた。

 

犬島の船体が、穏やかな波で少しだけ揺れる。

 

問題はない。

 

犬島は艦首へ出た。

 

遠くにアイオワの姿が見える。

 

アイオワも巨大な艦橋から外へ出て、犬島へ手を振っていた。

 

犬島も両手を振り返す。

 

「今度は当たりませんでした!」

 

『それが普通よ!』

 

「うちの場合、普通にできたら嬉しいんです!」

 

アイオワの笑い声が通信から届く。

 

二隻は接触することなく、互いの横を通過した。

 

同じ海図。

 

同じ航路線。

 

同じ確認番号。

 

今度は本当に、同じ道を見ていた。

 

---

 

十二 帰る場所の違う友達

 

試験終了後。

 

犬島は所属鎮守府へ。

 

アイオワはアメリカ艦隊の停泊地へ戻ることになった。

 

分岐点で、二隻は進路を分ける。

 

犬島が通信する。

 

「アイオワさん」

 

『何?』

 

「また会えますか」

 

『もちろん。次の共同演習でね』

 

「今度は、ぶつからんようにしましょう」

 

『航路表が同じなら大丈夫よ』

 

犬島は少し考える。

 

「それでも、ちゃんと見張ります」

 

『私も』

 

「速力も守ります」

 

『私も守る』

 

「違う表を持ってないか確認します」

 

『一番大切ね』

 

犬島は艦首甲板へ手を置いた。

 

修理された左舷艦首。

 

戻ってきた錨。

 

再建された旗竿。

 

全て正常。

 

「アイオワさん」

 

『Yes?』

 

「うち、アイオワさんとぶつかったこと、嫌な思い出だけじゃないです」

 

少し通信が静かになる。

 

『どうして?』

 

「友達になれました」

 

アイオワはすぐには答えなかった。

 

やがて、柔らかな声が返る。

 

『私もよ、犬島』

 

「なら、事故は嫌ですけど、会えたことはよかったです」

 

『次は事故なしで会いましょう』

 

「はい」

 

犬島は大きく手を振った。

 

アイオワの巨大な実艦も、汽笛を短く一度鳴らす。

 

低く、遠くまで響く音。

 

犬島も小さな汽笛で答えた。

 

二隻の進路が分かれる。

 

大きな戦艦は東へ。

 

小さな海防艦は西へ。

 

海面には二本の航跡が残った。

 

今度の航跡は交差しない。

 

互いに十分な距離を保ち、それぞれの帰る場所へ続いている。

 

犬島とアイオワの接触事故。

 

原因は、日本式とアメリカ式の航路表に存在した、わずか五十八メートルのずれ。

 

犬島は正しく航行した。

 

アイオワも正しく航行した。

 

二隻とも、危険を認識した瞬間から最善を尽くした。

 

どちらにも過失はなかった。

 

悪かったのは、二本の異なる線が、同じ航路の名を持っていたことだけだった。

 

犬島は所属鎮守府の方角を見る。

 

「次は、普通に会おうな」

 

遠ざかるアイオワから通信が返る。

 

『約束よ!』

 

深緑色のスカーフが、海風に小さく揺れた。

 

犬島は少しだけ嬉しそうに笑い、自分の正しい航路をまっすぐ進んでいった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。