海防艦 犬島   作:重装甲空母信濃

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アイオワとの接触事故の1週間後、英海軍が到着し、修理の終わった2隻も含めた日米英の共同演習を実施。
最中、英駆逐艦「ジャーヴィス」の標的艦(木製)に放った実弾魚雷5本の内1本外れその延長線上にいた犬島の艦首に命中。
犬島は合同緊急停止訓練の最中であり、回避できず大破。ジャーヴィスは魚雷が本来の最大射程距離よりも2.5km長く流れた為なので互に過失無し。


犬島ジャーヴィス魚雷事故

海防艦・犬島

 

――止まっていた艦首へ――

 

犬島とアイオワが、白鷺水道で接触してから一週間後。

 

日本、アメリカ、イギリスの三か国による共同演習が始まった。

 

白鷺水道事故で損傷した二隻の修理は、演習開始前日に完了していた。

 

海防艦「犬島」。

 

左舷艦首外板を交換。

 

潰れていた錨収納部を再建。

 

第一十二糎砲の旋回基部を調整。

 

海底から回収された左舷錨も、使用不能部分だけを交換して元の位置へ戻された。

 

戦艦「アイオワ」。

 

左舷艦尾外板の擦過傷を修復。

 

曲がった手すりと作業用張出しを交換。

 

推進器と舵に異常なし。

 

二隻とも、試運転では問題が確認されなかった。

 

犬島は、修理された艦首に手を置いて言った。

 

「今度は、何にも当たらんようにしような」

 

アイオワは通信越しに答えた。

 

『その言葉、演習前に言わない方がいいんじゃない?』

 

「どうしてですか」

 

『犬島だから』

 

犬島は少し頬を膨らませた。

 

「うちが悪いみたいに言わんでください」

 

『悪いとは言ってないわ。心配しているの』

 

「今度の航路表は三か国共通です」

 

『確認番号も一致している』

 

「演習海域も広いです」

 

『危険区域も分離済み』

 

犬島は少し胸を張った。

 

「なら、大丈夫です」

 

アイオワはしばらく黙った。

 

『その台詞も不安なのよね……』

 

事故から一週間。

 

修理を終えた二隻は、再び同じ海へ出た。

 

その先には、すでにイギリス海軍の艦隊が到着していた。

 

---

 

一 三か国共同演習

 

演習海域は、軍令部港から南東へ約八十海里離れた広い外洋だった。

 

周囲に島はない。

 

民間航路からも離れている。

 

水深は三百メートル以上。

 

河口も、護岸も、港湾クレーンも、浅い岩礁もない。

 

参加艦は、日本、アメリカ、イギリスの艦娘たち。

 

各艦とも通常の人間乗員は乗せていない。

 

それぞれの艦娘一人が、実艦の機関、舵、武装、通信設備を全て自分の身体として動かしている。

 

日本側には海防艦・犬島。

 

アメリカ側には戦艦・アイオワ。

 

そしてイギリス側には、駆逐艦「ジャーヴィス」がいた。

 

ジャーヴィスは、細身の船体を持つ英海軍駆逐艦だった。

 

機敏な操艦。

 

優れた雷撃能力。

 

状況判断も早い。

 

艦娘の姿では、金色に近い薄茶色の髪と、落ち着いた青い瞳を持つ少女だった。

 

英海軍らしい濃紺の制服。

 

言葉遣いは丁寧だが、戦闘訓練では極めて正確。

 

演習前の通信試験で、ジャーヴィスは犬島へ挨拶した。

 

『駆逐艦ジャーヴィスです。あなたが犬島ですね』

 

「はい。海防艦の犬島です」

 

『お会いできて光栄です』

 

「うちのこと、聞いとるんですか」

 

『アイオワから少しだけ』

 

犬島はアイオワの方向を見る。

 

巨大な戦艦が、数千メートル離れた場所に浮かんでいる。

 

「どの話をしましたか」

 

アイオワが通信へ入る。

 

『航路表の話だけよ』

 

『ほかにも、多数の事故を無過失で切り抜けた艦だと』

 

「それ、航路表の話だけじゃないです」

 

ジャーヴィスが小さく笑った。

 

『本日の演習では、私の魚雷射線と犬島の訓練区域は十分に離されています』

 

「はい。資料で確認しました」

 

『最大射程外に、さらに安全余裕が設定されています』

 

「なら安心です」

 

アイオワが言う。

 

『犬島。魚雷訓練中は絶対に射線へ近づかないで』

 

「近づきません」

 

『流れている魚雷を拾おうとしない』

 

「拾いません」

 

『標的艦の破片を回収しに行かない』

 

「演習中は行きません」

 

『“演習中は”という言い方が気になるわ』

 

犬島は少し頬を膨らませた。

 

「ちゃんと命令を守ります」

 

ジャーヴィスは二人の会話を聞きながら、少し不思議そうにしていた。

 

その時点では、自分の魚雷が犬島へ届くとは、想像もしていなかった。

 

---

 

二 木製標的艦

 

英海軍が用意した標的艦は、無人の木造船だった。

 

全長約九十メートル。

 

外見だけを軽巡洋艦に似せている。

 

船体の主要部分は木製。

 

内部には発泡材と空気区画を設け、数本の魚雷を受けても短時間は浮いていられるよう作られていた。

 

武装も機関もない。

 

曳船によって指定地点まで運ばれた後、曳索を外して漂流させる。

 

ジャーヴィスは、五本の実弾魚雷を扇状に発射する予定だった。

 

魚雷は五十三・三センチ級。

 

演習用の減装薬弾頭ではあるものの、実際に爆発する。

 

設定速力は三十六ノット。

 

公称最大射程は九千六百メートル。

 

過去の実測試験でも、九千八百メートルを超えて航走した記録はなかった。

 

そのため、演習では発射点から一万一千百メートルまでを完全立入禁止区域とした。

 

公称最大射程に、一千五百メートルの安全余裕を加えている。

 

犬島が参加する合同緊急停止訓練の区域は、発射点から一万一千八百メートル以遠。

 

安全境界より、さらに七百メートル外側だった。

 

訓練計画上、魚雷が犬島へ到達することはない。

 

最大射程を二千二百メートル以上超えなければ、接触しない位置だった。

 

軍令部。

 

アメリカ海軍。

 

イギリス海軍。

 

三か国の安全担当者が、同じ計算結果を確認している。

 

ジャーヴィスも、発射前に自分の実艦から魚雷を一つずつ点検した。

 

信管。

 

深度調定装置。

 

針路保持装置。

 

航走距離計。

 

燃料圧力。

 

操舵機。

 

五本全て正常。

 

『ジャーヴィス、魚雷発射準備完了』

 

共同演習管制艦から返答が届く。

 

『標的艦位置、正常。危険区域内に友軍艦艇なし』

 

『魚雷設定速力、三十六ノット。最大射程、九千六百メートル』

 

『確認』

 

『発射を許可する』

 

ジャーヴィスは、実艦の魚雷発射管を標的へ向けた。

 

五本。

 

扇状発射。

 

計算された拡散角。

 

どの魚雷も、標的艦の船体幅へ入る予測だった。

 

『魚雷、発射します』

 

圧縮空気が作動する。

 

一番魚雷。

 

二番魚雷。

 

三番魚雷。

 

四番魚雷。

 

五番魚雷。

 

五本が順番に海面へ入り、白い航跡を引きながら木製標的艦へ向かった。

 

---

 

三 合同緊急停止訓練

 

同じ時刻。

 

魚雷発射点から約一万一千九百メートル離れた海域では、日米英の艦艇が合同緊急停止訓練を実施していた。

 

目的は、艦隊航行中に航路障害や機雷警報が発生した場合、全艦が短時間で推進力を失い、隊形を崩さず停止できるかを確認すること。

 

犬島は、小型艦代表として参加していた。

 

小さな艦は停止距離が短い。

 

大型戦艦は長い。

 

同じ命令を受けても、停止位置には大きな差が出る。

 

それを測定し、三か国共通の緊急停止基準を作る。

 

犬島の前方数千メートルには巡洋艦。

 

後方にはアイオワ。

 

各艦の左右間隔も十分にある。

 

『全参加艦へ。合同緊急停止訓練を開始する』

 

犬島は艦橋前部に立った。

 

「犬島、準備完了です」

 

『現在速力、十五ノットを維持』

 

二基のディーゼル機関。

 

二本の推進軸。

 

全て正常。

 

『緊急停止!』

 

犬島は直ちに両機関への燃料を遮断した。

 

推進軸クラッチを切る。

 

可変装置を後進側へ。

 

舵中央。

 

船体の直進を維持。

 

機関回転が急速に低下する。

 

犬島の実艦は、前進の慣性だけで海面を滑った。

 

十五ノット。

 

十ノット。

 

六ノット。

 

三ノット。

 

一ノット。

 

停止。

 

犬島は機関を完全停止状態へ入れた。

 

単なる低速待機ではない。

 

緊急停止訓練の計測条件に従い、燃料供給を遮断。

 

始動空気系統を停止位置へ切り替え。

 

推進軸ブレーキを作動。

 

舵への水流も失われている。

 

「犬島、完全停止しました」

 

『停止距離、規定以内。位置を維持せよ』

 

「了解です」

 

犬島は海面を見る。

 

周囲の艦も、少しずつ停止していく。

 

後方のアイオワは、巨大な船体のため犬島より長い距離を進んでから停止した。

 

『アイオワ、完全停止』

 

「アイオワさん、予定位置ですか」

 

『誤差十二メートル。許容範囲内よ』

 

「うちは三メートルです」

 

『小さい艦は有利ね』

 

犬島は少し誇らしそうに胸を張った。

 

「こういう訓練なら得意です」

 

訓練要領では、停止後九十秒間、各艦は機関を再始動してはいけない。

 

完全停止中の風圧、潮流、艦隊間隔の変化を測定するためだった。

 

ただし緊急時には、管制の中止命令によって即時再始動が認められる。

 

犬島は艦橋から艦首へ移動した。

 

第一砲塔の前へ立つ。

 

海は穏やかだった。

 

機関の振動がない。

 

推進軸も止まっている。

 

実艦全体が、静かに海面へ浮かんでいる。

 

「今日は、ちゃんと止まれました」

 

アイオワが答える。

 

『止まるだけなら事故は起きないでしょう』

 

「そうですよね」

 

その言葉の直後。

 

遠くで、木製標的艦へ魚雷が命中した。

 

---

 

四 五本目

 

一番魚雷が、木製標的艦の艦首側へ命中。

 

爆発。

 

木材と水柱が高く上がる。

 

二番魚雷。

 

船体中央部へ命中。

 

三番魚雷。

 

後部区画へ命中。

 

四番魚雷も、右舷側へ命中した。

 

標的艦は大きく折れ曲がる。

 

木製の上部構造物が吹き飛び、船体中央部が沈み始めた。

 

ジャーヴィスは四本の命中を確認した。

 

残る五本目。

 

五番魚雷は、標的艦の左舷後方を狙う拡散角で発射されていた。

 

発射時点の照準は正確だった。

 

針路保持装置も正常。

 

ところが、最初の四本がほぼ連続して命中したことで、木製標的艦の船体が想定より早く分断された。

 

艦尾区画が爆圧で右へ回転する。

 

五番魚雷が到達する約三秒前。

 

魚雷の予測命中位置にあった木製外板が、爆発によって崩れ落ちた。

 

五番魚雷は、ほんの数メートルの差で標的艦の残骸の間を通り抜けた。

 

ジャーヴィスに照準ミスはない。

 

魚雷にも操舵異常はない。

 

標的艦が数秒早く崩壊した結果だった。

 

『五番魚雷、標的を通過!』

 

ジャーヴィスは直ちに管制へ報告した。

 

『針路は予定射線上。最大射程後、自動停止および沈下する見込み』

 

管制艦も追跡する。

 

魚雷の白い航跡。

 

速度、正常。

 

針路、正常。

 

危険区域内に友軍艦艇はいない。

 

その延長線上には、合同緊急停止訓練の区域があった。

 

だが犬島の位置は、発射点から一万一千九百メートル以上。

 

魚雷の公称最大射程は九千六百メートル。

 

さらに一千五百メートルの安全余裕がある。

 

五番魚雷は、犬島へ届く二千三百メートル以上手前で停止するはずだった。

 

ジャーヴィスは航跡を見続けた。

 

八千メートル。

 

八千五百。

 

九千。

 

魚雷はまだ動いている。

 

これは異常ではない。

 

公称射程には多少の余裕がある。

 

九千五百。

 

九千六百。

 

通常なら、そろそろ推進力が失われる。

 

しかし五番魚雷は止まらなかった。

 

『五番魚雷、最大射程を通過』

 

ジャーヴィスの表情が変わる。

 

『管制、魚雷が停止していません』

 

『追跡継続。現在距離九千八百』

 

一万。

 

まだ動いている。

 

『航走装置故障の可能性。射線延長上の全艦へ警報!』

 

その時点で、犬島まで残り約千八百メートル。

 

魚雷の速力は三十六ノット。

 

到達まで二分に満たない。

 

だが犬島は完全停止中だった。

 

---

 

五 警報

 

犬島の通信機に、緊急警報が入る。

 

『全艦へ! 英駆逐艦ジャーヴィス発射の魚雷一本が最大射程を超えて航走中!』

 

犬島は艦首から振り返った。

 

「魚雷?」

 

『推定針路、〇七八度。合同緊急停止区域へ進入する可能性あり!』

 

犬島の電探では、水面下の小さな魚雷を直接捉えられない。

 

水中探信儀を前方へ集中。

 

数秒後。

 

高速で接近する小さな音響反応。

 

位置、左前方。

 

距離、千四百メートル。

 

進行方向。

 

犬島の艦首。

 

「うちに向かっとる……!」

 

管制から訓練中止命令が出る。

 

『犬島、緊急停止状態を解除! 直ちに回避せよ!』

 

「了解!」

 

犬島は両機関の再始動を開始した。

 

始動空気弁を開く。

 

燃料系統を復帰。

 

右舷機関を始動位置へ。

 

左舷機関も同様。

 

だが完全停止訓練のため、通常の待機状態より深く停止している。

 

始動空気圧の確認。

 

潤滑油圧の立ち上げ。

 

クラッチ接続。

 

推進軸ブレーキ解除。

 

最短でも二十数秒が必要だった。

 

魚雷までの距離、千メートル。

 

到達まで約五十四秒。

 

犬島は急ぐ。

 

「右舷機関、回って……!」

 

始動空気が流れる。

 

クランクが動く。

 

まだ着火しない。

 

左舷側も同様。

 

犬島は舵を右一杯へ切った。

 

だが船体は停止している。

 

水流がない。

 

舵だけを動かしても、船首はほとんど向きを変えない。

 

「動けん……!」

 

アイオワから通信が入る。

 

『犬島、魚雷位置を確認した! 私が――』

 

「近づかんでください!」

 

アイオワも緊急停止訓練で機関を止めている。

 

巨大戦艦の再始動には、犬島以上に時間が掛かる。

 

仮に動けても、魚雷と犬島の間へ割り込む時間はない。

 

ジャーヴィスの声が通信へ入った。

 

『犬島! 魚雷がそちらへ向かっています!』

 

「確認しとります!」

 

『私の魚雷です。私が止めなければ――』

 

「ジャーヴィスさんも近づかんで!」

 

ジャーヴィスは発射点近く。

 

一万メートル以上離れている。

 

何もできない。

 

犬島は水中反応を追う。

 

距離、七百メートル。

 

針路変化なし。

 

深度は、犬島の艦首喫水線より少し下。

 

このままなら、艦首左舷側へ直撃する。

 

犬島は主砲を向けようとした。

 

だが水中の魚雷を十二糎砲で撃つことは難しい。

 

海面を砲撃し、爆圧で魚雷を逸らす方法もある。

 

しかし距離は急速に縮まっている。

 

演習海域には味方艦が複数いる。

 

不確実な砲撃で別の被害を出す危険があった。

 

爆雷を投下するには、魚雷が艦尾側にいなければならない。

 

今は艦首正面。

 

「間に合わん……」

 

右舷機関がようやく着火した。

 

低い振動。

 

だがクラッチはまだ接続されていない。

 

左舷機関も始動。

 

魚雷まで四百メートル。

 

犬島は機関出力を上げる。

 

推進軸ブレーキ解除。

 

右舷軸、回転開始。

 

左舷軸も遅れて動く。

 

しかし実艦は、まだほとんど前へ進んでいない。

 

巨大な鋼鉄船体は、止まった状態から一瞬で横へ動けない。

 

犬島は自分の位置と魚雷針路を計算した。

 

全速前進しても、魚雷が艦首へ当たる位置が数メートルずれるだけ。

 

完全な回避には二十秒以上足りない。

 

「当たる……」

 

犬島は機関を止めなかった。

 

少しでも衝突位置を艦首先端側へ寄せる。

 

第一砲塔直下や艦橋方向への命中を避けるためだった。

 

前部弾薬庫へ緊急注水。

 

燃料弁閉鎖。

 

艦首から中央部へ続く防水扉を全閉。

 

第一砲塔の電力遮断。

 

両錨を安全固定。

 

艦首区画の換気閉鎖。

 

犬島は艦橋ではなく、艦首甲板に立っていた。

 

接近する魚雷の白い航跡が見える。

 

細い線。

 

海面直下。

 

まっすぐ自分へ向かっている。

 

「ジャーヴィスさん」

 

犬島は通信した。

 

『犬島!』

 

「今は、自分を責めんでください」

 

『でも――』

 

「調査してからです」

 

魚雷まで百メートル。

 

犬島は甲板へ手を置いた。

 

「艦首、ごめんな」

 

修理が終わったばかりだった。

 

アイオワとの接触で傷つき、一週間かけて戻った艦首。

 

新しい外板。

 

戻された錨。

 

再建された旗竿。

 

それらが、再び衝撃を受けようとしている。

 

「耐えて……!」

 

魚雷が犬島の左舷艦首へ命中した。

 

---

 

六 爆発

 

最初に聞こえたのは、硬い金属音だった。

 

ごん――。

 

魚雷の先端が、犬島の左舷艦首外板へ接触する。

 

次の瞬間。

 

弾頭が爆発した。

 

海面が白く吹き上がる。

 

轟音。

 

犬島の艦首が、水柱の中へ消えた。

 

爆圧が左舷外板を内側へ押し潰す。

 

船底外板が裂ける。

 

艦首構造材が複数同時に破断。

 

左舷錨と錨鎖が収納部ごと吹き飛ぶ。

 

右舷錨も基部から歪む。

 

艦首旗竿、消失。

 

第一十二糎砲が基部から持ち上がり、砲身を右へ向けたまま動かなくなる。

 

上甲板が波打つ。

 

犬島の実艦全体が、右へ大きく傾いた。

 

犬島の頭と胸、両腕へ、激しい痛みが走る。

 

「――っ!」

 

声すら出なかった。

 

艦娘の身体が甲板上を転がる。

 

白い水兵服が海水に濡れる。

 

深緑色のスカーフが大きく翻る。

 

犬島は第一砲塔後方の甲板へ叩き付けられた。

 

艦娘の身体に大きな外傷はない。

 

だが実艦の艦首が受けた損傷は、痛みとしてそのまま伝わっていた。

 

左舷艦首区画へ大量浸水。

 

右舷側にも亀裂。

 

艦首先端から約十四メートルが、ほぼ完全に破壊されている。

 

第一砲塔前方の上甲板は失われた。

 

艦首部の一部は、わずかな外板と内部骨材だけで船体へつながっている。

 

爆発で船首形状を失った実艦は、急速に前方へ沈み始めた。

 

傾斜、前へ四度。

 

七度。

 

左へ十度。

 

犬島は甲板へ手をついたまま、船体全体を確認する。

 

「艦首……浸水……」

 

前部弾薬庫。

 

注水済み。

 

誘爆なし。

 

第一砲塔。

 

完全停止。

 

艦橋。

 

窓の一部破損。

 

主要構造は健在。

 

機関室。

 

異常なし。

 

両機関、運転継続。

 

推進軸、正常。

 

舵、正常。

 

船体中央部と艦尾は生きている。

 

「隔壁、閉めた……」

 

艦首防水隔壁へ圧力が掛かる。

 

犬島は排水ポンプを起動。

 

だが破口が大きすぎる。

 

艦首区画の排水は不可能。

 

犬島は破損区画を完全に放棄した。

 

艦首側の配管と電路を切断。

 

燃料、弾薬、通信回路を中央部から分離。

 

前部弾薬庫の注水状態を維持。

 

「これ以上、入れんで……!」

 

防水隔壁がきしむ。

 

修理されたばかりの鋼板。

 

新しく交換された骨材。

 

それらが爆圧を受けながらも、艦橋直前で浸水を止めている。

 

実艦は前方を沈めながら、辛うじて浮いていた。

 

---

 

七 アイオワの声

 

『犬島! 応答して!』

 

アイオワの声が通信機から響く。

 

犬島は息を整えようとした。

 

胸が痛い。

 

頭の奥が重い。

 

失われた艦首の感覚が、途切れたり戻ったりしている。

 

「犬島……応答します」

 

『艦娘の身体は!?』

 

「無事です」

 

『船体は!』

 

「艦首、大破……前部区画浸水」

 

『沈むの?』

 

犬島は船体傾斜を見る。

 

左十二度。

 

前方九度。

 

防水隔壁、保持。

 

「今は、浮いとります」

 

アイオワの声が少し震える。

 

『救難部隊が向かっている。私も機関を再始動したわ』

 

「速力を上げすぎんでください」

 

『こんなときに私の引き波を心配しているの?』

 

「今、大きい波を受けたら隔壁が……」

 

アイオワはすぐに答えた。

 

『分かった。低速で近づく』

 

ジャーヴィスからも通信が入る。

 

『犬島』

 

その声は、アイオワ以上に震えていた。

 

「はい」

 

『私が発射した魚雷です』

 

「はい」

 

『私が確認した魚雷です』

 

「はい」

 

『私の実艦から出たものが、あなたへ――』

 

「ジャーヴィスさん」

 

犬島は静かに遮った。

 

「標的艦を狙ったんでしょう」

 

『そうです』

 

「射線に、うちはおらんかった」

 

『最大射程の外でした』

 

「安全区域も守っとりました」

 

『それでも、私の魚雷が……』

 

犬島は痛みに顔をしかめながら、通信機へ答える。

 

「魚雷が遠くまで行きすぎたんです」

 

『二・五キロも』

 

「ジャーヴィスさんが押したんじゃないでしょう」

 

返事がない。

 

「今は、助けに来てください」

 

犬島は言った。

 

「謝るんは、調査の後でええです」

 

『……了解しました』

 

ジャーヴィスの声は、まだ震えていた。

 

それでも駆逐艦としての落ち着きを取り戻そうとしていた。

 

『ジャーヴィス、救難支援へ向かいます。新たな魚雷発射なし。全武装、安全状態』

 

犬島は少し安心した。

 

「待っとります」

 

---

 

八 艦首を失わないために

 

魚雷命中から七分後。

 

犬島の艦首部分は、波を受けるたび上下へ動いていた。

 

破壊された艦首最前部。

 

曲がった第一砲塔。

 

裂けた上甲板。

 

艦首約十四メートルは、左舷側の主要構造をほぼ失っている。

 

右舷側の外板と、数本の縦通材だけで中央部へつながっていた。

 

完全に切り離せば、残存船体の浮力は安定する。

 

しかし犬島は、すぐには分離しなかった。

 

「まだ、つながっとる……」

 

失われかけている艦首にも、犬島の感覚が残っている。

 

痛い。

 

冷たい。

 

海水で満たされている。

 

それでも自分の一部だった。

 

犬島は右舷機関を微速前進。

 

左舷機関を停止。

 

破損した艦首へ横波を受けないよう、船体を少しずつ波の方向へ向ける。

 

舵への水流は弱い。

 

両軸の出力差を使い、慎重に回頭する。

 

突然、破断寸前の上甲板が大きく曲がった。

 

ぎぎぎっ――。

 

犬島の両腕へ鋭い痛みが走る。

 

「待って……!」

 

切れかけた艦首に対して言った。

 

「救難艦が来るまで、待ってて……」

 

アイオワが低速で近づいてくる。

 

巨大な戦艦は、犬島から二千メートル離れた位置で停止した。

 

これ以上近づけば、わずかな引き波でも犬島へ影響する。

 

『アイオワ、現在位置で停止。救難艇を出すわ』

 

「ありがとうございます」

 

ジャーヴィスはさらに近い位置まで来た。

 

駆逐艦であるため、アイオワより小さな波で接近できる。

 

それでも犬島から八百メートル離れて停止した。

 

『ジャーヴィス、救難用短艇を降ろします』

 

ジャーヴィス本人が小型艇へ移り、犬島へ向かった。

 

アイオワも別の艇で近づく。

 

二人が犬島の右舷へ上がったとき、犬島は第一砲塔後方へ座り込んでいた。

 

白い水兵服は濡れている。

 

濃紺色の髪も海水で顔へ張り付いている。

 

桃色の髪留めは残っていた。

 

アイオワが先に犬島のもとへ来る。

 

「犬島」

 

「アイオワさん」

 

「一週間よ」

 

犬島は少し首を傾げる。

 

「何がですか」

 

「あなたの艦首を直してから、まだ一週間しか経っていない」

 

アイオワは壊れた艦首を見る。

 

「どうして、またそこなの……」

 

犬島も艦首を見る。

 

「うちも、そう思います」

 

少し遅れて、ジャーヴィスが近づいた。

 

普段の整った表情は消えていた。

 

青い瞳が、犬島の損傷から離れない。

 

「犬島……」

 

「ジャーヴィスさん」

 

ジャーヴィスは犬島の前へ膝をついた。

 

「申し訳ありません」

 

「まだ調査前です」

 

「ですが、魚雷を撃ったのは私です」

 

「標的へ撃ちました」

 

「その一本が、あなたに命中した」

 

犬島は少し考えた。

 

そしてジャーヴィスの制服の袖を軽くつかんだ。

 

ジャーヴィスが驚いて犬島を見る。

 

「うちが止まっとったんは、訓練命令です」

 

「はい」

 

「ジャーヴィスさんが魚雷を撃ったんも、訓練命令です」

 

「はい」

 

「安全距離もありました」

 

「ありました」

 

「なら、まず魚雷が何でそこまで来たんか調べましょう」

 

ジャーヴィスは答えられなかった。

 

アイオワが犬島の反対側へ座る。

 

「犬島は、また相手の方を先に心配している」

 

「ジャーヴィスさん、ぼっけぇ顔しとるけぇ」

 

「どのような顔ですか」

 

「今にも沈みそうな顔です」

 

ジャーヴィスは目を伏せた。

 

犬島は袖をつかんだまま言った。

 

「沈まんでください」

 

「……はい」

 

「うちも沈みません」

 

犬島は損傷した艦首を見る。

 

「たぶん」

 

アイオワが強く言う。

 

「“たぶん”では困るわ!」

 

犬島は少し驚いた。

 

その直後、三人の間にわずかな笑いが生まれた。

 

短い笑いだった。

 

それでも、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。

 

---

 

九 応急切断

 

救難工作艦が到着した。

 

潜水作業班が犬島の艦首を調べる。

 

艦内に人間の乗員はいない犬島だが、救難作業中は外部の技術者が一時的に乗艦する。

 

調査結果。

 

艦首最前部十四・二メートル。

 

主要縦通材六本のうち、五本が破断。

 

右舷側一本だけが残存。

 

上甲板もほぼ切断。

 

波を受ければ、いつ完全分離してもおかしくない。

 

このまま曳航すれば、破損した艦首が船体中央部へ衝突し、被害を広げる可能性がある。

 

救難指揮官が犬島へ説明した。

 

「艦首区画を一度、切り離す必要がある」

 

犬島は黙った。

 

「回収用浮力袋とワイヤーを取り付ける。海へ沈めない」

 

「ほんまに?」

 

「切断後も曳航して、犬島と一緒に修理港へ運ぶ」

 

「置いていかん?」

 

「置いていかない」

 

犬島は破壊された艦首へ意識を向けた。

 

まだかすかに感覚がある。

 

冷たい海水。

 

曲がった錨鎖。

 

動かない第一砲塔前方。

 

「分かりました」

 

作業が始まる。

 

浮力袋。

 

回収ワイヤー。

 

電気と配管の完全切断。

 

弾薬安全確認。

 

第一砲塔は残存船体側にある。

 

切り離されるのは、それより前方。

 

艦首旗竿。

 

錨収納部。

 

最前部外板。

 

犬島は甲板へ手を置いた。

 

「すぐ戻すけぇ」

 

切断装置が残った縦通材へ入る。

 

鋼材が切られる。

 

犬島の胸へ、細く鋭い痛み。

 

「っ……」

 

ジャーヴィスが犬島の袖を、今度は自分から軽くつかんだ。

 

アイオワも犬島の肩へ手を置く。

 

最後の鋼材が切れた。

 

破壊された艦首区画が、実艦から離れる。

 

浮力袋とワイヤーで支えられ、海面へ残る。

 

犬島の感覚から艦首先端が途切れた。

 

犬島は目を閉じた。

 

「聞こえんようになった……」

 

「すぐ隣にあります」

 

ジャーヴィスが言う。

 

「見えています。沈んでいません」

 

犬島は目を開けた。

 

切り離された艦首。

 

壊れている。

 

だが海面にいる。

 

回収ワイヤーで救難艦へつながっている。

 

「ほんまじゃ」

 

犬島は小さく息を吐いた。

 

「一緒に帰れます」

 

---

 

十 魚雷はなぜ届いたか

 

三か国合同事故調査委員会が設置された。

 

日本。

 

アメリカ。

 

イギリス。

 

犬島とジャーヴィスの全記録。

 

演習管制。

 

標的艦。

 

魚雷整備記録。

 

海象。

 

海中温度。

 

塩分。

 

潮流。

 

全てが調べられた。

 

最初にジャーヴィスの射撃が検証された。

 

発射位置、正確。

 

設定速力、正確。

 

設定深度、正確。

 

発射角度、演習計画通り。

 

安全区域確認、正常。

 

五本の魚雷全て、発射前検査に合格。

 

五番魚雷の針路保持にも異常なし。

 

標的を外れた理由は、最初の四本が命中したことで木製船体が早期崩壊し、予測命中位置が消失したため。

 

ジャーヴィスが予測できる現象ではなかった。

 

次に犬島。

 

指定された緊急停止訓練区域の中央。

 

魚雷発射点から一万一千九百メートル。

 

最大射程九千六百メートルから、二千三百メートル以上離れている。

 

停止命令を完全に遵守。

 

警報後、即座に機関再始動。

 

回避不能と判断した後、防水扉、弾薬庫、燃料系統を適切に処置。

 

犬島にも過失はない。

 

ではなぜ、魚雷は最大射程を約二・五キロメートルも超えて到達したのか。

 

回収された魚雷の推進装置と航走距離計が解析された。

 

機関故障なし。

 

燃料量、規定通り。

 

異常な燃料追加なし。

 

速度調定器、正常。

 

航走距離計が記録した対水距離は、九千六百二十メートル。

 

ほぼ公称最大射程通りだった。

 

しかし魚雷が海図上で実際に進んだ対地距離は、一万二千百メートル。

 

差。

 

約二千四百八十メートル。

 

魚雷自体が、余分な燃料で二・五キロ長く走ったわけではない。

 

魚雷が走っていた水そのものが、犬島の方向へ高速で流れていた。

 

演習当日。

 

海面から約二メートルまでの表層水は、ほぼ静止していた。

 

観測浮標も、通常値を示している。

 

水深十五メートルより下の流れも弱かった。

 

だが水深四メートルから十一メートルの間だけに、細長い高速海流が形成されていた。

 

塩分の違う二つの水塊が接したことで生まれた、一時的な海中噴流。

 

幅、約四百メートル。

 

流速、最大四・六ノット。

 

継続時間、約二十五分。

 

魚雷の設定深度は八メートル。

 

ちょうど高速流の中心だった。

 

観測浮標の表層計は水深二メートル。

 

深層計は十五メートル。

 

その間だけを流れる海流は、どちらにも捉えられていなかった。

 

魚雷は水に対して、設計通り九千六百メートル進んだ。

 

しかし周囲の海水も同じ方向へ動いていたため、海図上では約一万二千百メートル進んだ。

 

公称射程より約二・五キロメートル長い。

 

しかも魚雷停止装置が働く直前、犬島の艦首へ到達した。

 

調査報告書には、次のように記された。

 

«五番魚雷の推進機関、航走距離調定装置、操舵装置および信管に、整備上または製造上の異常は認められない。»

 

«同魚雷は対水距離約九千六百二十メートルを航走しており、設定された性能範囲内であった。»

 

«一方、魚雷設定深度と一致する水深帯において、一時的な高速海中噴流が発生していた。»

 

«この海流によって、魚雷の対地航走距離は公称最大射程を約二・五キロメートル上回った。»

 

«当該海流は従来の表層・深層観測装置の中間を流れており、演習前に検知することは不可能であった。»

 

---

 

十一 三隻の無過失

 

合同報告会。

 

犬島。

 

ジャーヴィス。

 

アイオワ。

 

三人が並んで座っていた。

 

事故の直接関係艦は犬島とジャーヴィス。

 

アイオワは目撃艦であり、直後の救難支援艦として出席している。

 

日本側調査委員長が読み上げる。

 

«海防艦「犬島」は指定された合同緊急停止訓練区域において、管制命令に従い完全停止状態にあった。»

 

«魚雷警報受信後、犬島は直ちに機関再始動および回避操作を開始したが、警報時点の距離と完全停止状態からの始動所要時間を考慮すると、回避は物理的に不可能であった。»

 

イギリス側調査官が続ける。

 

«駆逐艦「ジャーヴィス」は承認済みの射撃位置、設定、照準および安全確認に従い、五本の魚雷を発射した。»

 

«五番魚雷が標的艦を通過したことは、先行する命中魚雷による木製標的艦の早期崩壊に起因し、ジャーヴィスの照準または発射操作の過失ではない。»

 

事故原因。

 

«魚雷は公称最大射程を約二・五キロメートル上回る対地距離を航走した。»

 

«この距離増加は、魚雷設定深度にのみ存在した一時的な高速海中噴流によるものである。»

 

«演習計画時点の観測装置および既知の海洋資料から、当該現象を予測することはできなかった。»

 

そして結論。

 

«海防艦「犬島」および駆逐艦「ジャーヴィス」の双方に、過失は一切認められない。»

 

«演習管制、魚雷整備担当、標的配置担当および海象観測担当についても、当時の基準と利用可能な情報に基づく適切な措置を実施しており、処分対象となる過失は認められない。»

 

«本事故は、実弾魚雷射撃と合同緊急停止訓練を分離する安全距離を、未知の海中噴流によって魚雷が超過したことで発生した、予測不能な演習事故である。»

 

犬島は報告書を見る。

 

「ジャーヴィスさん、悪くないって書いとります」

 

ジャーヴィスは同じ文を見つめていた。

 

「犬島にも、過失はありません」

 

「はい」

 

「ですが、私の魚雷が命中した事実は変わりません」

 

犬島は少し考えた。

 

「アイオワさんの船体がうちに当たった事故も、同じです」

 

アイオワが横から答える。

 

「そうね」

 

「当たったものが誰のものかと、誰が悪いかは、同じじゃないんです」

 

犬島はジャーヴィスを見る。

 

「うちは、ジャーヴィスさんを怖いとは思っとりません」

 

「魚雷も?」

 

「魚雷は怖いです」

 

ジャーヴィスが少し困った表情になる。

 

犬島は続ける。

 

「でも、ジャーヴィスさんがうちへ撃ったとは思っとりません」

 

「……ありがとうございます」

 

犬島はジャーヴィスの袖を軽くつかんだ。

 

「次は、訓練用の魚雷にしましょう」

 

アイオワがすぐに言う。

 

「次がある前提なの?」

 

「演習は続くんでしょう」

 

「犬島は、修理が終わるまで参加禁止よ」

 

「アイオワさんが決めるんですか」

 

「三か国共同で決めてもらうわ」

 

犬島の頬が膨らむ。

 

ジャーヴィスは、事故後初めて小さく笑った。

 

---

 

十二 二度目の艦首修理

 

犬島は軍令部の大型ドックへ収容された。

 

切り離した艦首区画も、同じドックへ運ばれた。

 

損傷は大きい。

 

艦首最前部十四・二メートル。

 

外板の大半を交換。

 

錨収納区画を再建。

 

艦首旗竿を新造。

 

左舷錨は爆発で失われ、海底捜索が行われた。

 

右舷錨も変形が激しい。

 

第一十二糎砲は砲身自体こそ残ったが、基部と旋回機構を大規模修理。

 

前部弾薬庫周辺の隔壁も交換。

 

修理期間は、約三か月と見積もられた。

 

犬島はドックの通路から、失われた艦首を見ていた。

 

一週間前にも、同じ場所を修理していた。

 

新しかった外板。

 

戻された錨。

 

塗り直したばかりの艦首番号。

 

全て、魚雷の爆発で壊れていた。

 

「せっかく直したのになあ……」

 

犬島は少しだけ悲しそうに言った。

 

アイオワとジャーヴィスが隣にいる。

 

アイオワが腕を組む。

 

「修理完了から七日」

 

ジャーヴィスが静かに続ける。

 

「実際の航海日数は四日」

 

犬島は二人を見る。

 

「数えんでください」

 

「記録として必要です」

 

「軍令部の人みたいになっとります」

 

アイオワが犬島の頭へ手を置いた。

 

「今度はもっと強く直してもらいましょう」

 

「魚雷に耐えられる海防艦になったら、重くなります」

 

「なら、魚雷が来ない規則に変えるべきね」

 

事故後、三か国共同演習規則は改訂された。

 

実弾魚雷射撃と、機関完全停止訓練を同時に行わない。

 

魚雷危険区域は、公称最大射程ではなく、対地移動距離の最悪条件で設定。

 

海面から海底まで、一メートル単位で潮流を測定。

 

実弾魚雷には、友軍艦艇位置と連動した強制停止装置を追加。

 

標的を通過した場合、遠隔で推進停止と信管無力化を行う。

 

犬島の事故によって、新しい安全基準が作られた。

 

ジャーヴィスは修理中、何度も犬島のところへ来た。

 

最初は謝罪のため。

 

次は修理状況の確認。

 

その次は、回収された魚雷部品の調査結果を伝えるため。

 

やがて、理由がなくても来るようになった。

 

犬島はそれを拒まなかった。

 

ある日、ジャーヴィスが小さな木箱を持ってきた。

 

「これは?」

 

「木製標的艦の残骸です」

 

箱の中には、魚雷の爆発を受けながら海面へ残っていた木片が入っていた。

 

表面は黒く焦げている。

 

「事故原因となった標的の一部を、記録資料として保管することになりました」

 

犬島は木片へ触れた。

 

「これが早く壊れたから、魚雷が通ったんですね」

 

「はい」

 

「木の船も悪くありません」

 

「もちろんです」

 

犬島は木片を見つめた。

 

「魚雷も、設定通り走った」

 

「はい」

 

「海流も、誰かが作ったわけじゃない」

 

「はい」

 

「ほんまに、誰も悪くない事故じゃな」

 

ジャーヴィスは小さく頷いた。

 

「だからこそ、気持ちの置き場所が難しいです」

 

犬島はジャーヴィスの袖を軽くつかんだ。

 

「なら、修理が終わるまでここに置いときましょう」

 

「気持ちを?」

 

「それもです」

 

犬島は木箱を指した。

 

「この木片も、うちの艦首が戻るまで一緒に待ってもらいます」

 

ジャーヴィスは、ようやく穏やかに笑った。

 

「分かりました」

 

---

 

十三 再び三隻で

 

三か月後。

 

実艦「犬島」の艦首修理が完了した。

 

再接続された艦首。

 

新しい左右の錨。

 

修復された第一十二糎砲。

 

強化された防水隔壁。

 

艦首下部には、魚雷爆圧を外側へ逃がすための補強構造が追加された。

 

ただし、戦艦や大型巡洋艦のような重装甲ではない。

 

犬島は今も、小さな海防艦だった。

 

艦橋前部に立ち、船体全体を確認する。

 

右舷機関。

 

正常。

 

左舷機関。

 

正常。

 

推進軸。

 

正常。

 

舵。

 

正常。

 

艦首。

 

つながっている。

 

第一砲塔。

 

動く。

 

左右の錨。

 

収納済み。

 

「全部、戻りました」

 

岸壁にはアイオワとジャーヴィスがいた。

 

二人とも艦娘の姿。

 

それぞれの実艦は、安全な距離を取って港外に停泊している。

 

ジャーヴィスが犬島へ尋ねる。

 

「痛みは?」

 

「ありません」

 

アイオワが続ける。

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「無理をしていない?」

 

「してません」

 

犬島は少し胸を張った。

 

「試運転も正常です」

 

アイオワは、まだ心配そうだった。

 

ジャーヴィスも同じ。

 

犬島は二人の間へ歩いていった。

 

右手でアイオワの袖。

 

左手でジャーヴィスの袖。

 

二人分を軽くつかむ。

 

「また三隻で演習できますか」

 

アイオワが答える。

 

「実弾魚雷なしなら」

 

ジャーヴィスも頷く。

 

「最大射程の外でも、犬島を停止させません」

 

「今回は、訓練そのものを分けました」

 

「それが安全です」

 

犬島は少し笑った。

 

「なら、今度は大丈夫じゃな」

 

アイオワとジャーヴィスが同時に言った。

 

「その台詞は言わないで」

 

犬島の頬が膨らむ。

 

だがすぐに三人で笑った。

 

---

 

一週間前。

 

犬島はアイオワと接触した。

 

原因は、日本式とアメリカ式の航路表のずれ。

 

そして一週間後。

 

犬島はジャーヴィスの魚雷を艦首へ受けた。

 

原因は、魚雷が海中噴流に乗り、公称最大射程を二・五キロメートル超えて流れたこと。

 

犬島は止まるよう命じられていた。

 

ジャーヴィスは撃つよう命じられていた。

 

二人とも正しい位置にいた。

 

二人とも正しい操作をした。

 

それでも魚雷は、二人の間に設定された安全距離を越えた。

 

犬島にも。

 

ジャーヴィスにも。

 

過失はなかった。

 

後に軍令部では、この一週間について、半ば呆れながらこう記録された。

 

«海防艦「犬島」は、日米航路基準不一致事故の修理完了から七日後、日米英共同演習中に英駆逐艦「ジャーヴィス」の魚雷を受け、再び艦首を大破した。»

 

«なお、二件の事故は原因が全く異なり、関係艦艇のいずれにも過失は認められない。»

 

余白には、調査官の手書きで小さく付け加えられていた。

 

«犬島の艦首には、しばらく何も近づけない方がよい。»

 

その文章を読んだ犬島は、少し頬を膨らませた。

 

「うちの艦首が悪いみたいです」

 

アイオワは答えた。

 

「悪くないから、みんなで守るのよ」

 

ジャーヴィスも続ける。

 

「次は私たちが、犬島の艦首を見る番です」

 

犬島は修復された艦首甲板へ手を置いた。

 

「なら、お願いします」

 

新しい鋼板。

 

戻された錨。

 

再建された旗竿。

 

その全てが、穏やかな海風を受けている。

 

犬島は水平線を見た。

 

今度は、白い魚雷航跡も、巨大戦艦の艦尾も近づいていない。

 

左右には、十分な距離を保ったアイオワとジャーヴィスの実艦。

 

三隻は同じ速度で、同じ方向へ進んでいた。

 

「前を見て、横を見て、後ろも見る」

 

犬島はいつもの言葉を口にする。

 

「それが護衛じゃけぇ」

 

そして少しだけ付け加えた。

 

「艦首も、ちゃんと見てもらうけぇ」

 

通信の向こうから、アイオワとジャーヴィスの返事が同時に届いた。

 

『了解!』

 

海防艦「犬島」は、二隻の友軍艦に見守られながら、修復された艦首で静かに波を切って進んでいった。

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