ジャーヴィスの魚雷事故の後、久しぶりに河口に突っ込む事故がおきた。今とは別の理由
海防艦・犬島
――また河口へ――
ジャーヴィス魚雷事故後・第二次久瀬川河口進入事故
ジャーヴィスの魚雷事故から、二か月と十一日。
犬島は修理を終え、すでに通常の護衛任務へ戻っていた。
魚雷事故で損傷した箇所も。
造船所での検査。
海上試運転。
射撃管制確認。
機関負荷試験。
すべてを通過している。
第一主砲。
中央十二糎砲。
機関。
舵。
右軸。
左軸。
犬島自身も。
「もう普通に走れます」
と報告していた。
提督も。
必要以上に犬島を岸壁へ置かなかった。
修理した艦は。
海へ戻ってこそ艦である。
犬島も、それを望んでいた。
ただ。
一つだけ。
工員たちは時々冗談を言った。
「犬島、今度は河口へ行くなよ」
犬島はそのたび。
少し不満そうに答えた。
「前のは、うちが行きたくて行ったんじゃありません」
かつて。
久瀬川河口近くで。
右軸系統と操舵能力を大きく失い。
錨を使って民間船や岸壁への接触を避けた事故があった。
あの時は。
止まりたくても止まりにくかった。
曲がりたくても曲がりにくかった。
そして。
四つの旧錨の記憶にもつながるほど。
犬島にとって印象の強い事故だった。
だから。
まさか。
別の理由で。
もう一度。
同じ久瀬川の河口へ突っ込むことになるとは。
犬島自身。
考えていなかった。
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一 帰投航路
その日の犬島は。
小型輸送船二隻の近海護衛を終え。
単艦で鎮守府へ帰投していた。
天候。
曇り。
視程。
約七海里。
風。
南南東。
六メートル毎秒前後。
海面。
小波。
航行に困る条件ではない。
久瀬川河口沖。
犬島は十八ノットから。
十二ノットへ減速。
河口付近には。
漁船。
小型貨物船。
浚渫船。
曳船。
さまざまな民間船が行き来する。
犬島は艦橋前方に立ち。
実艦を操りながら。
右。
左。
後方。
順に確認する。
「前を見て」
「横を見て」
「後ろも見る」
小さく言う。
いつもの確認。
その時。
右前方。
約一千百メートル。
小型曳船一隻。
その後方に。
空荷の土運船。
久瀬川河口から外へ出ようとしていた。
犬島は特に問題視しなかった。
互いの航路には余裕がある。
このままなら。
犬島が沖側。
曳船が河口側。
数百メートルの間隔ですれ違う。
ところが。
犬島が九百メートルほどまで近づいたところで。
曳船の後ろ。
曳航索が。
不自然に大きく跳ねた。
「……?」
犬島が目を細める。
次の瞬間。
索が切れた。
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二 流された土運船
空荷の土運船が。
曳船から離れる。
自力航行能力はない。
風を横から受け。
さらに。
満潮へ向かう潮流に押される。
土運船は。
ゆっくり。
だが犬島の進路へ流れ始めた。
曳船から無線。
『犬島、注意!』
『曳航索切断!』
犬島は即座に答える。
「確認しました」
「犬島、減速します」
両舷機関。
前進微速。
続いて。
停止。
犬島の速力。
十二ノット。
十。
八。
六。
だが。
土運船も。
思った以上に速く横へ流される。
犬島が計算する。
このまま停止だけでは。
接触する可能性が高い。
左へ避ければ沖側。
しかし。
左後方から。
民間貨物船が一隻接近中。
急な左転は危険。
右側。
久瀬川河口。
そちらには空間がある。
犬島は判断した。
「右へ避けます」
舵。
右十五度。
両舷機関。
前進微速。
艦首が。
久瀬川河口側へ向く。
土運船との距離。
三百五十メートル。
二百八十。
二百。
犬島は。
土運船の前を横切るのではなく。
後方へ回り込もうとする。
それなら。
十分に避けられる。
はずだった。
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三 機関指令が戻らない
「両舷停止」
犬島が機関へ指令する。
通常なら。
すぐ回転が落ちる。
だが。
右舷。
正常。
左舷。
回転が落ちない。
「……左?」
犬島が再指令。
「左舷機関、停止」
反応なし。
左舷ディーゼルは。
前進微速のまま。
回り続けている。
機関そのものが壊れたわけではない。
油圧。
潤滑。
冷却。
回転。
すべて正常。
だが。
艦橋側から送られる。
左舷機関の遠隔操縦信号だけが。
停止位置へ切り替わらない。
犬島はすぐ原因を理解する。
「操縦信号が固まっとる……」
右舷機関。
後進。
舵。
左。
左右の推力差で。
艦首を戻そうとする。
しかし。
ちょうどその時。
久瀬川河口へ向かう満潮流が。
犬島の右舷側から艦尾を押した。
艦首。
さらに河口側。
犬島の表情が変わる。
「そっちじゃない!」
両舷軸はある。
舵も動く。
前回とは違う。
それでも。
今回は。
左舷機関だけが。
犬島の意思と違う推力を出し続けている。
そこへ。
潮流。
回避運動。
狭い水域。
条件が重なった。
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四 「また河口!?」
岸側の港湾監視所。
犬島の動きを見ていた職員が叫んだ。
「犬島、河口向いてるぞ!」
別の職員。
「またか!?」
無線。
『犬島、進路確認!』
犬島。
「分かっとります!」
少し声が強い。
「好きで向いとるんじゃありません!」
艦首は。
久瀬川河口中央。
速力。
約五・八ノット。
犬島は。
左舷機関の現場停止系統を使う。
艦橋遠隔系統を切離。
機側制御へ強制移行。
だが。
切替には時間がかかる。
二十秒。
三十秒。
その間にも。
犬島は河口へ近づく。
前方。
河口防波堤。
右。
小型漁船二隻。
左。
浅瀬。
後方。
漂流する土運船。
犬島は。
もう沖側へ戻そうとしなかった。
無理に戻せば。
土運船か。
別の民間船へ向く。
「河口へ入ります」
港湾監視所が聞き返す。
『入るのか!?』
「外へ戻すより安全です」
『水深は!』
「確認済みです」
久瀬川河口。
航路中央。
満潮時。
犬島の吃水なら通れる。
ただし。
奥へ行きすぎれば。
川幅が狭くなる。
犬島は。
今度は事故で河口へ向かっている。
だが。
河口へ入ること自体を。
回避手段として選んだ。
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五 河川航行する海防艦
犬島の艦首が。
防波堤の間を通過する。
海防艦。
全長七十八・九メートル。
久瀬川河口へ進入。
岸から。
通行人。
漁業関係者。
港湾職員。
多くの人が見る。
「軍艦が川に入ってきたぞ!」
犬島自身も。
艦橋で少し顔をしかめる。
「見世物じゃないです……」
速力。
四・二ノット。
左舷機関。
まだ前進。
右舷機関。
後進。
舵。
小刻みに修正。
犬島は。
中央水路を維持する。
岸へ寄せない。
小型船へ近づかない。
その時。
左舷機関の遠隔信号遮断。
成功。
回転が落ち始める。
「止まった!」
犬島はすぐ。
右舷機関も停止。
だが。
今度は。
船体そのものの惰性。
さらに。
河口内へ流れ込む潮。
犬島は。
まだ奥へ進む。
三・五ノット。
三。
二・六。
前方。
約六百メートル。
川が少し曲がる。
そこまで行けば。
旋回は難しくなる。
犬島は決めた。
「錨使います」
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六 今回は錨が全部ある
前回の河口事故。
犬島にとって。
錨は。
最後に止めてくれたものだった。
今回。
主錨は両方正常。
投錨装置も正常。
犬島は右舷錨を落とす。
着底。
走錨。
錨鎖が伸びる。
「もう少し……」
鎖が張る。
艦首が。
右へ振られる。
速力。
二ノット。
一・六。
左舷錨も投下。
二つの錨。
船体中央。
推力なし。
犬島は。
両錨を使って。
川の中央で止めようとする。
だが。
川底は。
柔らかい泥。
右舷錨が少し滑る。
左も。
一度。
ずるりと動く。
犬島。
「今回は止まってくださいよ……!」
さらに鎖を出す。
右。
六節。
左。
五節半。
ようやく。
船体の前進が。
ほとんど消える。
しかし。
完全に中央では止まれなかった。
艦首が。
右岸側の浅い泥底へ。
ゆっくり。
乗り上げる。
どん。
大きな衝撃ではない。
犬島が。
少しだけ前へよろける。
「……あ」
実艦。
停止。
位置。
久瀬川河口から。
約四百八十メートル上流。
艦首のみ。
軟泥へ軽く接地。
犬島は。
川の中で止まった。
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七 久しぶりの報告
鎮守府。
提督の執務室。
緊急電話。
『海防艦犬島、久瀬川河口内で停止』
提督が立ち上がる。
「衝突は」
『ありません』
「人員被害」
『なし』
「民間船」
『土運船を含め接触なし』
「犬島は」
『本人から通信が来ています』
無線へ切替。
提督。
「犬島」
犬島。
『はい』
「状態を報告してくれ」
少し間。
『……久しぶりに河口へ突っ込みました』
提督は。
一瞬。
返事に困る。
犬島が続ける。
『でも前と理由が違います』
「分かっている」
『右軸もあります』
「ああ」
『舵もあります』
「ああ」
『今回は左舷機関の操縦信号です』
「了解」
『あと』
「何だ」
犬島は。
少し言いにくそうにする。
『軽く座礁しとります』
提督は額へ手を置いた。
「場所は」
『河口から四百八十メートルくらいです』
「ずいぶん入ったな」
『土運船にぶつかるよりええです』
「それはそうだ」
犬島は少しだけ。
安心したような声になる。
『誰も怪我してません』
「ああ」
『土運船も無事です』
「ああ」
『なら』
犬島は言った。
『後は、うちを川から出してください』
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八 見物人
犬島の周囲には。
次第に。
人が集まり始めた。
当然。
規制線の外。
河岸。
橋。
道路。
全長八十メートル近い海防艦が。
川の中にいる。
珍しい。
犬島は。
艦橋から。
橋の上を見る。
人。
人。
人。
「……多い」
港湾職員から無線。
『犬島、橋の人は警察が整理している』
「お願いします」
『写真を撮られてるぞ』
犬島は黙る。
数秒後。
「仕方ないです」
少し間。
「でも」
『でも?』
「変な見出しになったら嫌です」
翌日。
新聞には。
実際。
かなり目立つ記事が載ることになる。
«海防艦、再び久瀬川へ»
犬島は後で。
その見出しを見て。
「『再び』を大きくせんでもええでしょう」
と不満を言う。
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九 救出
救出作業。
満潮位を待つ。
タグボート二隻。
犬島自身の機関も。
左舷操縦系統を応急復旧。
現場操作では正常。
右舷も正常。
舵。
正常。
船底検査。
艦首部。
泥に乗っただけ。
外板損傷。
目立ったものなし。
ただし。
塗装剥離。
数か所。
午後四時十八分。
曳船。
後方から張力。
犬島。
両舷機関後進微速。
錨巻上げ。
艦首。
泥から外れる。
「抜けました」
河岸から。
なぜか拍手。
犬島が。
艦橋で少し恥ずかしそうにする。
「拍手はいらんです……」
タグボートが先導。
犬島は。
今度は慎重に。
河口から海へ戻る。
防波堤通過。
外海。
犬島が小さく言う。
「ただいま、海」
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十 事故調査
事故調査は。
かなり細かく行われた。
最大の理由。
ジャーヴィス魚雷事故から。
あまり時間が経っていなかったため。
修理不良ではないか。
という疑いが出た。
しかし。
結論は違った。
原因一
民間土運船の曳航索切断
曳航索内部に。
外見から発見しにくい疲労。
突然の横荷重で破断。
土運船が犬島の航路へ流出。
原因二
回避時の左舷主機遠隔操縦信号固定
機関そのものには異常なし。
左舷主機の遠隔操縦盤。
中継接点の一つで。
接触片が一時的に溶着。
「前進微速」の信号が保持された。
原因は。
部品内部の製造不良と。
長期振動の組み合わせ。
ジャーヴィス魚雷事故の損傷部とは。
位置も系統も異なっていた。
原因三
満潮時の久瀬川流入潮
犬島が右へ避けた時。
艦尾へ横方向の力が加わり。
河口方向への回頭を助長。
原因四
安全側を選んだ犬島自身の進路選択
沖側へ無理に復帰した場合。
漂流土運船。
後方貨物船。
小型漁船。
いずれかへの接近危険が高まった。
そのため。
水深を確認したうえで。
久瀬川河口内へ進入。
これは事故拡大防止措置として。
妥当と判断された。
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十一 軍令部評価
軍令部事故調査部。
最終評価。
«海防艦「犬島」に操船上の過失を認めず。»
«土運船回避後の河口進入は、当時利用可能であった安全水域を選択した結果である。»
«主機遠隔操縦異常発生後も、右舷機、舵、機側停止操作および両舷錨を組み合わせ、人的・物的被害の拡大を防止した。»
«河口内での軽度座礁は、他船との衝突回避を優先した結果として発生。»
«死傷者なし。»
«民間船損傷なし。»
«河川施設損傷なし。»
«犬島船体についても軽微な塗装損傷のみ。»
工廠側は。
一文だけ。
別の追記をした。
«なお、本件は過去の久瀬川河口接近事故とは発生機序を異にする。»
犬島は。
その文章を見て。
かなり真面目な顔で言った。
「ここ大事です」
提督。
「そんなにか」
「大事です」
「前と同じ事故って思われたら」
少し間。
「うちが河口好きみたいじゃないですか」
提督は笑いをこらえた。
「違うのか」
犬島が提督を見る。
「違います」
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十二 前回との比較
軍令部は。
教材として。
二つの事故を比較した。
旧・久瀬川河口接近事故
主な問題。
右推進系統。
操舵能力。
船体制御能力そのものの低下。
犬島は。
錨を使って船体を止め。
河口付近の民間船や施設を守った。
結果。
河口へ近づいたものの。
大きな接触を回避。
今回・第二次久瀬川河口進入事故
推進軸。
舵。
船体。
すべて使用可能。
ただし。
左舷主機の遠隔指令だけが。
短時間。
固定。
そこへ。
土運船回避。
満潮流。
狭い航路。
複数条件が重なった。
犬島は。
河口を。
「逃げ場所」として利用。
その結果。
約四百八十メートル河川内へ進入し。
軟泥へ軽く乗り上げて停止。
犬島は比較表を見て。
「二回目の方が奥まで行っとる……」
女性副官。
「かなり奥だな」
「言わんでください」
「前は河口付近」
「はい」
「今回は河口内四百八十メートル」
「数字で言わんでください」
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十三 ジャーヴィスが知った場合
後日。
ジャーヴィスが。
犬島の事故を知った。
犬島は。
少し嫌な予感がした。
「犬島」
「はい」
「川に行ったって?」
犬島はすぐ答える。
「事故です」
「聞いたよ」
「前とは原因が違います」
「それも聞いた」
犬島は少し警戒する。
ジャーヴィスは。
犬島を見る。
そして。
「魚雷に当たった次は川?」
犬島。
「順番で言わんでください」
ジャーヴィスが笑う。
「でも無事だったんでしょう?」
「はい」
「誰も怪我してない?」
「はい」
「なら良かった」
犬島は。
少し肩の力を抜く。
「……はい」
ジャーヴィスが続ける。
「ところで」
「はい」
「川はどんな感じだった?」
犬島は。
少し考える。
「狭いです」
「それだけ?」
「海防艦で行く場所ではありません」
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十四 河口対策
事故後。
犬島には。
いくつかの改修が行われた。
第一。
左右主機遠隔操縦系統を。
互いに独立した二重接点方式へ変更。
第二。
艦橋側に。
機関遠隔信号の不一致表示灯を追加。
指令位置と。
実際の機関側受信位置が異なる場合。
即座に警報。
第三。
機側停止への移行時間を短縮。
第四。
河口・港内低速時には。
主機遠隔制御の応答確認を事前実施。
第五。
久瀬川河口付近の。
潮流情報を。
犬島の航海資料へ追加。
犬島が。
その改修一覧を見る。
最後に。
工員が手書きで。
一行。
«河口へ行かないこと。»
犬島は赤鉛筆で。
その横へ書いた。
«行きたくて行っとるんじゃありません。»
翌朝。
さらに別の工員が。
その下へ。
«知ってる。»
犬島は。
少し笑った。
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十五 第一岸壁へ帰る
修理。
点検。
塗装補修。
二日後。
犬島は第一岸壁へ戻った。
提督がいる。
女性副官。
工員。
いつもの人たち。
「おかえり、犬島」
犬島は。
少し疲れた顔で。
「ただいまです」
提督が尋ねる。
「川はどうだった」
犬島が止まる。
「提督まで言いますか」
「感想を聞いただけだ」
「もう行きたくないです」
「そうか」
犬島は。
第一岸壁を見る。
幅がある。
係留設備。
慣れた水深。
海へ開いている。
「やっぱり」
「はい」
「岸壁の方がええです」
提督が笑う。
犬島は。
少しだけ頬を膨らませた。
それから。
実艦の艦首を振り返る。
前回とは違う事故。
違う故障。
違う判断。
それでも。
守ったものは同じだった。
土運船。
貨物船。
漁船。
河岸。
人。
誰にも。
大きな被害を出さなかった。
犬島は。
深緑色のスカーフを整える。
「まぁ」
小さく言う。
「誰も置いていかんかったので」
提督が聞く。
「何か言ったか」
犬島は首を横へ振る。
「何でもありません」
そして。
いつもの第一岸壁を。
ゆっくり歩いていった。
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第二次久瀬川河口進入事故・要約
発生時期
ジャーヴィス魚雷事故から約二か月後。
事故地点
久瀬川河口から約480m上流。
直接原因
左舷主機遠隔操縦盤の中継接点が一時溶着し、「前進微速」指令が解除されなかった。
発端
曳航索切断で漂流した民間土運船を回避。
悪化要因
満潮時の流入潮により、艦尾が押され河口方向への回頭が増大。
犬島の対応
河口内を安全な退避水域として選択。
左舷主機遠隔系統を切離。
右舷主機と舵で姿勢制御。
両舷錨を使用。
河口内の軟泥へ艦首を軽く接地させ停止。
被害
人的被害なし。
民間船被害なし。
河川施設被害なし。
犬島は艦首部塗装剥離程度。
責任判断
犬島の操船上の過失なし。
前回との最大の違い
前回は推進・操舵能力そのものを大きく失った事故。
今回は船体・舵・両軸は正常で、左舷主機の遠隔操縦信号だけが一時固定されたことと、他船回避・潮流が重なった事故。
犬島本人の評価
「前と理由が違います」
「右軸も舵もあります」
「今回は、河口を避ける余裕がなかっただけです」
そして最後に。
「……しばらく久瀬川の近くを通る時、工員さんが笑うのだけは困ります」