海防艦・犬島
――海の下から引かれた日――
港外航路・浚渫索巻込み事故
第三次久瀬川河口進入事故から。
しばらく。
犬島は妙に慎重になっていた。
河口。
貨物船。
鉄道橋。
あの一件以来。
何かが近づけば。
以前より少し早く見る。
前。
左右。
後方。
さらに。
水面。
「上だけ見ても駄目です」
犬島は工員へ言った。
「海には、流木もありますし」
提督。
「河口もある」
犬島が振り向く。
「それは言わんでください」
そんな犬島が。
今度は。
海の下から来たものに巻き込まれた。
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一 港外航路
午前十一時二十六分。
犬島。
元所属鎮守府から出港。
目的。
沿岸警戒訓練。
天候。
晴れ。
視程。
良好。
風。
北東四メートル毎秒。
波。
〇・五メートル未満。
航路。
港外東航路。
犬島の速力。
十一ノット。
機関。
正常。
舵。
正常。
第一主砲。
固定。
中央十二糎砲。
固定。
前方。
貨物船一隻。
後方。
港湾作業艇。
距離。
十分。
特に危険な状況はなかった。
犬島は。
艦橋前方。
いつものように。
「前よし」
「右よし」
「左よし」
「後ろ……よし」
最後。
水面を見る。
「浮遊物なし」
問題なし。
そのまま。
指定航路中央を進む。
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二 昨日まで浚渫していた場所
港外東航路。
数日前まで。
浚渫工事が行われていた。
大型浚渫船。
作業台船。
曳船。
海底の土砂を取り除き。
水深を確保する作業。
前日夕方。
工事は終了。
航路は。
港湾局による確認後。
通常開放された。
犬島も。
出港前に最新の航路通知を確認している。
«浚渫作業終了。»
«作業船撤去済。»
«航路水深異常なし。»
«航行制限解除。»
犬島には。
避ける理由がなかった。
むしろ。
指定された正しい航路だった。
ただし。
海底には。
誰も把握していなかったものが。
一本だけ残っていた。
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三 沈んでいた鋼索
浚渫作業で使用された。
直径五十数ミリの鋼製ワイヤ。
本来。
作業終了時。
巻き上げて回収する。
しかし。
作業最終日。
補助台船と海底アンカーを結んでいた索の一部が。
内部疲労で切断。
切れた部分。
約百二十メートル。
そのまま。
海底の泥へ沈んだ。
作業員は。
切断を認識していた。
だが。
回収した索の長さを。
記録上誤認。
「全量回収済み」
としていた。
海底。
水深。
十四メートル。
鋼索。
泥へ半分埋没。
通常なら。
犬島の吃水。
推進器。
船底。
どこにも届かない。
航路上を通っても。
問題はない。
本当に。
そのままなら。
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四 前を通った曳船
犬島の約四分前。
大型曳船が。
同じ航路を通過した。
強い推進流。
海底。
泥。
巻き上がる。
その水流が。
海底へ沈んでいた鋼索の一端を。
泥から。
引き出した。
ワイヤ。
少し浮く。
潮流。
さらに持ち上げる。
しかし。
水面からは見えない。
約五メートル下。
犬島から。
見えるはずがない。
港湾レーダーにも。
映らない。
監視所からも。
見えない。
その状態で。
犬島が来た。
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五 最初の異音
午前十一時三十四分十二秒。
犬島。
速力。
十一ノット。
突然。
右舷船尾。
低い金属音。
「……?」
犬島が振り返る。
次。
激しい振動。
右舷推進軸。
回転数。
急低下。
「右軸?」
犬島。
すぐ。
右舷機関停止。
しかし。
停止指令より早く。
何かが。
推進器へ巻き付く。
ワイヤ。
一本。
二重。
三重。
右舷スクリュー。
回転。
一瞬で。
鋼索を巻き込む。
犬島。
右側へ強く引かれる感覚。
「っ……!」
右舷軸。
停止。
だが。
犬島の船尾が。
突然。
右へ引かれる。
舵は。
まだ前進時の水流を受けている。
左舷機関。
動いている。
船体。
急に。
右旋回。
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六 前方の練習船
悪いことに。
犬島の右前方。
約四百五十メートル。
小型練習船。
速力。
六ノット。
犬島が。
急に右へ向いたことで。
距離が縮まる。
練習船。
無線。
『犬島、進路!』
犬島。
「右舷推進器、異常!」
「右へ引かれとります!」
犬島。
左舷機関。
停止。
舵。
左最大。
だが。
右舷船尾。
まだ。
何かに引っ張られている。
犬島が。
感覚を探る。
右舷推進器。
回らない。
右舷軸。
異常振動。
さらに。
海底方向へ。
斜め後方。
強い抵抗。
「何か……絡んどる」
練習船。
距離。
三百メートル。
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七 犬島の判断
通常なら。
逆転。
絡んだものを。
外す試み。
だが。
犬島は。
やらなかった。
原因不明。
もし。
鋼線。
漁網。
鎖。
どれかなら。
逆転した瞬間。
さらに深く巻き込む可能性がある。
犬島。
左舷機関。
後進。
舵。
左。
船首。
ゆっくり左へ戻す。
同時。
錨。
右舷。
準備。
犬島。
「練習船」
「こちら犬島」
「そちら、左へ避けてください」
『了解!』
練習船。
左へ。
犬島も。
可能な範囲で。
反対方向。
しかし。
右舷船尾を。
海底側から。
引かれ続ける。
まるで。
海の中から。
「こっちへ来い」
と引っ張られているようだった。
犬島。
少し顔をしかめる。
「嫌です」
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八 ワイヤが張る
犬島が。
ほぼ停止。
その瞬間。
海底鋼索。
完全に張る。
右舷推進器。
鋼索。
その先。
海底アンカー。
犬島の船尾。
強く止められる。
左舷機関。
後進。
しかし。
船体だけ。
旋回。
犬島の艦首が。
練習船の方へ。
また向く。
距離。
百六十メートル。
犬島。
「右錨、投下!」
右舷錨。
落下。
海底。
着底。
錨鎖。
伸びる。
船首側にも。
抵抗。
犬島は。
右舷船尾。
右舷艦首。
二点で。
海底へ固定されたような状態になる。
左舷機関。
短時間前進。
船体姿勢。
調整。
艦首。
練習船から外れる。
距離。
最接近。
約九十六メートル。
接触。
なし。
犬島。
ようやく停止。
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九 「海底に捕まりました」
鎮守府。
緊急連絡。
提督。
「犬島、状況」
犬島。
『右舷推進器、使用不能です』
「接触は」
『ありません』
「練習船」
『無事です』
「原因」
少し間。
犬島。
『分かりません』
さらに。
少し。
『でも』
「何だ」
『海底に捕まっとります』
提督。
「……海底?」
『はい』
「座礁?」
『違います』
『浮いとります』
「では何に」
犬島は。
自分の右舷船尾を見る。
水面。
何も見えない。
『たぶん』
『何か巻いとります』
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十 潜水調査
港湾局。
潜水班。
到着。
犬島。
両機停止。
右舷錨。
投下状態。
タグボート。
待機。
潜水員。
水中へ。
約十五分後。
報告。
『犬島』
「はい」
『原因確認』
「何ですか」
『鋼索』
犬島。
「鋼索?」
『太い』
『右スクリューへ五周くらい巻いてる』
犬島は。
少し黙る。
「どこから来たんですか」
『海底アンカーへ繋がってる』
犬島。
「……航路の中ですよね」
『ど真ん中』
犬島。
「うちは航路の真ん中を通っただけです」
潜水員。
『知ってる』
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十一 切るか、外すか
問題。
鋼索。
かなり強く。
推進器へ巻き込まれている。
切断。
可能。
だが。
右舷推進軸。
シール。
軸受。
スクリュー翼。
損傷状態。
不明。
無理に切ると。
張力が急に抜け。
犬島の船尾が。
急回頭する可能性。
そこで。
まず。
海底アンカー側。
浮力袋。
取り付け。
鋼索張力を。
少し抜く。
タグ。
犬島左舷側へ。
軽く張力。
船体。
保持。
犬島。
右錨。
維持。
潜水員。
一本ずつ。
鋼索を切る。
犬島が。
艦橋で。
時々。
小さく顔をしかめる。
提督。
無線。
「痛いか」
犬島。
『少し』
「無理なら」
『大丈夫です』
少し間。
『でも』
『推進器の近くで工具使われるの、変な感じです』
提督は。
返事に少し困った。
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十二 解放
作業開始から。
二時間十一分。
最後の鋼索。
切断。
犬島の右舷船尾。
自由になる。
犬島。
「外れました」
右舷軸。
回さない。
タグボート。
二隻。
護衛。
犬島。
左舷機関のみ。
微速。
港へ帰投。
速力。
四ノット。
犬島は。
少し不満そうに。
「遅いです」
タグ船長。
『右スクリュー回すなよ』
「分かっとります」
『絶対だぞ』
犬島。
「分かっとります!」
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十三 ドック調査
右舷推進器。
鋼索痕。
多数。
翼。
一枚。
先端。
約七センチ変形。
二枚目。
擦過痕。
軸。
わずかな曲がり。
軸受。
異常荷重痕。
船尾管。
漏水なし。
主機。
無事。
舵。
無事。
損傷。
中程度。
修理期間。
十七日。
犬島は。
ドックで。
右スクリューを見た。
「よく巻きましたね」
工員。
「五周半」
「そんなに?」
「十一ノットで回してたからな」
犬島は。
少し申し訳なさそうに。
「うちが巻いたみたいに言わんでください」
「スクリューは犬島のだろ」
「でもワイヤは知らんです」
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十四 調査結果
港湾局。
海軍。
工廠。
合同調査。
犬島。
航路。
正常。
指定中心線。
誤差。
十二メートル以内。
速度。
規定内。
見張り。
正常。
航路通知。
確認済み。
警報情報。
なし。
水面から。
鋼索確認不能。
音響探査対象でもない。
事故前。
危険情報。
提供なし。
犬島側過失なし。
鋼索。
浚渫台船用。
作業最終日に切断。
作業会社。
回収長記録。
誤記。
海底に約百二十メートル残存。
さらに。
先行した大型曳船の推進流が。
泥中から鋼索を引き出した。
犬島通過直前。
鋼索が。
海底から約九メートル。
一時的に浮上。
犬島の右舷推進器高さ。
ほぼ一致。
調査官。
「回避は」
別の調査官。
「無理だ」
「見えない」
「位置も知らされていない」
「正規航路上だ」
最終結論。
«海防艦犬島に操艦上の過失は認められない。»
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十五 作業会社
浚渫会社。
責任者。
鎮守府へ。
犬島へ謝罪。
「申し訳ありません」
犬島は。
少し考える。
「記録を間違えたんですよね」
「はい」
「わざと残したんじゃない」
「もちろんです」
「なら」
犬島は言う。
「次から数えてください」
責任者。
「はい」
犬島。
「二回」
責任者。
「え?」
「一回数えて」
「もう一回確認してください」
責任者は。
深く頷いた。
「必ず」
犬島も。
それ以上は。
責めなかった。
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十六 提督の反応
修理後。
第一岸壁。
犬島。
帰還。
提督。
「おかえり」
「ただいまです」
提督が。
右舷船尾を見る。
「今度は海底か」
犬島が。
すぐ振り向く。
「うちのせいじゃありません」
「分かっている」
「正しい航路です」
「ああ」
「水面にも何もありませんでした」
「ああ」
「航路通知も見ました」
「分かっている」
犬島は。
少し黙る。
提督が。
わずかに笑う。
犬島。
「……何で笑うんですか」
「説明が早いからだ」
「最近」
犬島は。
少し不満そうに。
「説明せんと」
「また何かやったと思われそうなので」
提督。
「私は思っていない」
犬島。
「工員さんは思っとります」
後ろから。
工員。
「今回は河口じゃなかったな!」
犬島。
「今回はって言わんでください!」
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十七 新しい対策
事故後。
港湾局。
浚渫作業規定。
改定。
作業用鋼索。
番号管理。
使用前長さ。
使用後長さ。
二名確認。
海底アンカー。
回収確認。
ソナー検査。
作業終了後。
航路全面走査。
さらに。
犬島側。
改修。
艦首ソナー。
低速港内モード。
海底異物警戒機能。
ただし。
犬島は。
説明を聞いて言った。
「これでワイヤ分かりますか」
技師。
「条件が良ければ」
犬島。
「条件が悪かったら?」
技師。
「分からないこともある」
犬島は。
少し考える。
「じゃあ」
「見えんものは仕方ないですね」
提督。
「珍しく諦めが早いな」
犬島。
「見えんものまで見ろって言われても困ります」
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十八 事故名
正式事故名。
港外東航路・浚渫用鋼索巻込み事故
工員間。
非公式名称。
犬島海底捕縛事件。
犬島が。
その呼び名を知った日。
「誰ですか」
工員。
「何が」
「海底捕縛って付けた人です」
誰も答えない。
犬島。
「怒りません」
誰も答えない。
犬島。
「ちょっとだけ怒ります」
さらに。
誰も答えない。
提督は。
少し離れたところで。
笑っていた。
犬島が気づく。
「提督、知っとりますね」
「知らない」
「ほんまですか」
「本当だ」
犬島は。
しばらく。
提督の顔を覗き込む。
「……今回は信じます」
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十九 それでも帰ってくる
十七日後。
犬島。
右舷推進器修理完了。
軸芯。
再調整。
試運転。
右舷。
正常。
左舷。
正常。
最大速力試験。
問題なし。
犬島。
第一岸壁。
出港準備。
提督が尋ねる。
「今日はどこへ」
「港外東航路です」
「また?」
犬島。
「正しい航路ですから」
「怖くないか」
犬島は。
少し考える。
「ちょっとだけ」
そして。
言う。
「でも」
「ワイヤがあったからって」
「航路が悪いわけじゃありません」
犬島は。
実艦へ戻る。
機関始動。
左右。
正常。
右舷軸。
静か。
舵。
正常。
係留索。
解除。
犬島。
出港。
港外東航路。
事故地点。
ゆっくり。
通過。
今回は。
何もない。
犬島は。
水面を見る。
海底は。
見えない。
それでも。
前。
左右。
後ろ。
確認。
そして。
少しだけ笑った。
「今日は」
「海の下も静かです」
そのまま。
普通に。
航路を通過していった。
犬島側の過失。
なし。
民間船との接触。
なし。
人的被害。
なし。
事故原因。
見えない海底鋼索。
それでも。
犬島は。
また一つ。
無事に帰ってきた。