海防艦・犬島
――台風と河口の迷子――
鎮守府に台風接近の報が届いたのは、朝の六時を少し回った頃だった。
南の海上で発達を続けていた大型台風は、当初の予想よりも東へ進路を変え、夕刻には鎮守府の西方を通過する見込みとなっていた。
海上はすでに荒れ始めている。
空は鉛色に曇り、強い風が波止場に積まれた木箱の覆いをばたばたと鳴らしていた。
「外洋任務中の艦隊は、正午までに全隊帰投させる。小型艇は陸揚げ。港内の各艦は係留索を増設し、艤装の固定を徹底すること」
提督の指示を受け、鎮守府全体が慌ただしく動き始めた。
犬島も倉庫と波止場の間を何度も往復していた。
白い水兵服の上から雨具を着込み、両腕に太い予備索を抱えて走る。小柄な体には重すぎる量だったが、足取りはしっかりしていた。
「犬島、それは二人で運ぶものだ」
提督が声を掛ける。
「これくらいなら大丈夫です」
「風が強くなっている。転ぶぞ」
「でも、早う持っていかんと、輸送艇の固定が間に合わんけぇ」
犬島はそう言って、さらに歩みを速めた。
風が吹くたびに深緑色のスカーフが大きく揺れる。
提督はため息をつき、犬島が抱えていた索の半分を取り上げた。
「あっ」
「半分持つ」
「うち一人でも運べます」
「命令だ」
犬島は少し不満そうに提督を見上げた。
しかし、すぐに小さく頷く。
「……はい」
二人で波止場へ向かう。
その途中、犬島は何度も港の入り口を振り返った。
まだ帰投していない遠征艦隊が一隊、残っていたからだ。
「気になるか」
「別に、心配しとるわけじゃないです」
「そうか」
「ただ、まだ帰ってきとらんから……」
それを心配していると言うのだろう、と提督は思ったが、口にはしなかった。
犬島は不安を隠すように、腕の中の索を強く抱き締めた。
---
午前十一時四十分。
最後の遠征艦隊が防波堤を越えた。
激しい雨の中、犬島は波止場の端まで駆けていった。
「おかえりー!」
風に負けないよう、大きな声を出す。
帰投した駆逐艦たちが手を振り返すと、犬島の顔が明らかに明るくなった。
さっきまで伏せ気味だった髪が、見えない耳のように少し持ち上がったように見える。
「全員、おるな……よかった」
犬島は一隻ずつ顔を確認した。
負傷者はいない。
艤装に軽い損傷こそあったものの、全員が自力で帰投できている。
それを確かめてから、犬島はようやく肩の力を抜いた。
「犬島、もう庁舎へ戻れ」
提督が言った。
「でも、まだ係留の確認が残っとります」
「整備班が行う。これ以上、外にいる必要はない」
「うちの係留場所だけでも確認してきます。すぐ戻りますから」
「犬島」
提督の声が少し低くなる。
犬島はびくりと肩を動かした。
「……五分だけ」
「三分だ」
「はい」
短く返事をすると、犬島は自分が普段使っている小型桟橋へ走っていった。
強風のため艤装を展開した状態で波止場の保全作業を行っていた犬島は、桟橋近くに四本の係留索で固定されていた。
海防艦としての艤装を完全展開しているとき、艦娘の体は艦そのものに近い性質を持つ。
体重も抵抗も大きくなり、波の上では安定する。
だが、港内に留まる場合は、通常の艦艇と同じく係留が必要だった。
犬島は一本ずつ索を確認した。
「船首側、よし。船尾側も……」
索は太い。
増し締めもされている。
防舷材の位置にも問題はない。
「これなら大丈夫じゃな」
そのときだった。
港全体を覆うような、低い唸り声が響いた。
ごおおおおおっ――。
風向きが急激に変わった。
沖から港内へ、巨大な空気の壁が押し寄せる。
「えっ?」
犬島が顔を上げた瞬間、横殴りの雨が視界を真っ白にした。
艤装が風を受け、犬島の小さな体が桟橋の外側へ引っ張られる。
係留索が一斉に張り詰めた。
ぎりぎりぎり、と金属と繊維のきしむ音がした。
「ちょ、ちょっと待って……!」
犬島は艤装の出力を上げ、桟橋側へ戻ろうとした。
しかし、水面はすでに通常の港内ではなかった。
高潮によって海面が上昇し、外海から流れ込んだ海水が、濁流のように岸壁沿いを流れている。
艤装の右舷側が風に押される。
船首側の係留索一本が、固定金具から外れた。
鋭い音が響く。
ばしんっ!
「一本、外れた!?」
犬島が残る索へ手を伸ばす。
だが次の瞬間、桟橋そのものを越える大波が押し寄せた。
犬島の姿が水しぶきの中に消える。
二本目の係留索が切れた。
続いて三本目。
最後に残った船尾索だけが、犬島を桟橋へつなぎ止めていた。
「切れんで……お願いじゃから、切れんで!」
犬島は両手で索をつかんだ。
艤装を収納すれば風の抵抗は減る。
しかし、急激な高潮の中で艤装を完全収納すれば、今度は自分の体が波にのみ込まれる危険があった。
犬島は必死に踏ん張る。
だが、巨大な艤装に掛かる風圧と水圧は、小さな体で支えられるものではなかった。
係留索の表面が裂け始める。
繊維が一本ずつ弾ける。
「提督……!」
最後の索が切れた。
犬島の体が、桟橋から一気に引き離された。
---
庁舎へ向かっていた提督は、波止場から響いた大きな破断音を聞いた。
反射的に振り返る。
雨の向こうで、小型桟橋の係留索が風に舞っていた。
本来そこにいるはずの犬島の姿がない。
「犬島!」
提督は波止場へ走った。
しかし桟橋には、切れた索と転がった防舷材しか残っていなかった。
通信機をつかむ。
「犬島、応答しろ!」
雑音。
激しい風と雨の音。
数秒後、かすかな声が聞こえた。
『て、提督……』
「犬島、現在位置は!」
『桟橋から離されました。艤装の舵が……風に負けて、効かん……!』
「機関は動くか!」
『動きます。でも、港の外側に流されとって……前に進んどるのか、横に流れとるのか、分からんです!』
通信の向こうから、犬島の荒い呼吸が聞こえる。
提督は港内の監視所へ連絡した。
「犬島を捜索しろ! 港内監視カメラ、電探、すべて使え!」
だが、豪雨によって視界はほぼ失われていた。
港内電探にも、波と飛散物による大量の雑反射が出ている。
小柄な犬島を正確に追うことは困難だった。
『提督』
「聞こえている。落ち着け」
『うち……どこへ行けばええですか』
普段なら自分で状況を判断する犬島の声が震えていた。
前後左右のすべてが灰色の雨で覆われ、岸壁も防波堤も見えない。
何より、犬島は鎮守府から遠ざかっていくことを恐れていた。
置いていかれることよりも、帰る場所を見失うことが怖かった。
「艤装の出力を落とせ。無理に風へ逆らうな」
『でも、流されます!』
「転覆するよりいい。まず姿勢を保て」
『はい……!』
「通信は切るな。必ず見つける」
その言葉を聞くと、犬島は少しだけ呼吸を整えた。
『……はい。待っとります』
通信越しの声には、不安と同時に、提督の言葉を疑わない響きがあった。
---
犬島は港の北側へ流されていた。
通常なら小型船でも容易に逆らえる程度の流れだったが、高潮と河川からの増水が重なり、港内には複雑な流れが生じていた。
海から押し寄せる水。
陸から流れ込む雨水。
それらがぶつかり合い、犬島の艤装を横向きに押していく。
「右へ……右へ向かえば、防波堤の内側に戻れるはず……」
犬島は舵を切った。
右舷機関の出力を上げる。
しかし、艤装は思った方向を向かない。
風が背部の爆雷投射機に当たり、船首を反対側へ振り回す。
「言うこと聞いて……!」
犬島は艤装を叱るようにつぶやいた。
だが、すぐに言い直す。
「違うな。無理させとるんは、うちの方か……ごめんな」
艤装の振動が脚から伝わる。
かつて苦手としていた、右舷推進軸の細かな震え。
普段なら身を固くする感覚だったが、今はその震えが、機関がまだ生きている証拠に思えた。
犬島は周囲の音に耳を澄ませた。
風。
雨。
波。
その中に、低く連続する別の音があった。
大量の水が流れる音。
「川……?」
犬島の前方に、薄暗い陸地の影が現れた。
港の奥へ流れ込む河川の河口だった。
通常時なら穏やかな小河川で、両岸には低い堤防と漁船用の船着き場がある。
しかし今は、茶色く濁った水が岸を越えそうな勢いで流れていた。
海から押された犬島は、河口へ向かう流れに完全に捕まっていた。
「まずい……!」
犬島は両方の機関を全力にした。
艤装が激しく震える。
白波を立てながら、わずかに前へ進む。
それでも、横から押す流れの方が強かった。
河口の防波壁が近づく。
漂流した木材や浮きが、犬島の周囲を高速で通過していく。
「止まって……止まってよぉ!」
岡山弁すら出ないほど、犬島は必死だった。
左舷艤装が流木に接触する。
金属音。
犬島の体が回転した。
船首が河口の方を向く。
そのまま濁流に押され、犬島は川の中へ突っ込んでいった。
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河口に入った瞬間、波の性質が変わった。
左右から堤防が迫り、水路が狭くなる。
増水した川の流れは海へ向かっていたが、高潮は逆に海水を川上へ押し込んでいる。
二つの流れがぶつかる場所で、犬島は激しく揺さぶられた。
「ひゃっ……!」
艤装の船首が右岸の護岸へ衝突した。
どんっ、と鈍い音が響く。
犬島は前へ投げ出され、艤装の上に両手をついた。
十二糎砲の防盾が曲がり、右側の機銃台が外れる。
「まだ……まだ沈んどらん!」
犬島は機関を後進に入れた。
だが、直後に流れてきた太い倒木が艤装の左舷側へ引っ掛かった。
倒木は川の流れを受け、大きな梃子となって艤装の向きを変える。
犬島は横向きのまま押し流された。
河口から百メートルほど上流。
川が少しだけ曲がった場所に、増水時の水流を弱めるための浅い砂州があった。
普段は葦が生え、小鳥が休む程度の場所だった。
そこへ、犬島は艤装ごと乗り上げた。
ざざざざっ――。
艤装の底が砂と小石を削る。
そのまま勢いは止まらず、葦の群れをなぎ倒す。
最後に船首が土手の斜面へ突き刺さり、犬島の体が前方へ飛んだ。
「わっ……!」
柔らかい泥の上へ、頭から落ちる。
数秒遅れて、背後で艤装が大きく傾いた。
しかし砂州に船底を深く乗り上げたことで、それ以上流されることはなかった。
犬島は泥の中から顔を上げた。
髪も頬も制服も、茶色い泥まみれだった。
桃の花の髪留めには、長い葦の葉が引っ掛かっている。
「……止まった?」
周囲を見る。
右には濁った川。
左には草むら。
正面には低い土手。
背後には、川の中へ斜めに突き出した自分の艤装。
犬島はしばらく動かなかった。
それから通信機を確認する。
「提督?」
雑音しか聞こえない。
河口周辺の地形と暴風雨によって、通信が途切れていた。
「提督、聞こえますか」
返事はない。
「……提督?」
犬島の声が小さくなる。
風に吹かれ、濡れた制服が体に張り付いている。
艤装は砂州に乗り上げ、右舷側には倒木が絡んでいた。
自力で川へ戻ることは難しい。
犬島は土手を見上げた。
鎮守府がどちらにあるのかも分からない。
「迷子に……なったんかな」
口にした途端、急に心細くなった。
戦場で敵に囲まれたときとは違う。
敵はいない。
魚雷も飛んでこない。
ただ、帰る方向が分からない。
犬島は泥の上に座り込み、膝を抱えた。
「迎えに来てくれるって、言うとったもん」
提督の言葉を思い出す。
必ず見つける。
犬島は顔を上げた。
「じゃけぇ、ここで待っとったらええ」
そう言って、自分を落ち着かせる。
一度信じた相手の言葉を、犬島は疑わない。
犬島は艤装から応急信号灯を取り外し、土手側へ向けて点滅させた。
赤い光。
少し間を置いて、もう一度。
「ここです」
誰にも聞こえない声で言う。
「うち、ここにおります」
---
最初に犬島を見つけたのは、鎮守府の捜索隊ではなかった。
河口近くに住む老漁師だった。
避難所へ移動する前に、自宅裏の小船が流されていないか確認しに来たところ、増水した川の砂州に見慣れないものが突き刺さっているのを発見した。
「船か……?」
雨の中、目を凝らす。
灰色の艤装。
曲がった砲。
折れた葦。
そして、その横で赤い信号灯を振っている小さな少女。
「人がおる!」
老漁師は土手から声を張り上げた。
「おーい! そこの子! 大丈夫か!」
犬島が勢いよく振り返った。
人の声を聞いた瞬間、琥珀色の瞳が明るくなる。
「はい! 大丈夫です!」
返事は必要以上に大きかった。
老漁師は近くの避難所へ連絡し、消防団員数名が土手へ集まった。
しかし川は増水しており、砂州まで舟を出すことはできない。
そこで土手から救助索を投げ渡し、犬島自身が砂州から歩いて移動することになった。
「艤装は置いてこい! 今は体だけでええ!」
消防団員が叫ぶ。
犬島は背後を振り返った。
砂州に乗り上げた艤装は、泥と葦に埋もれている。
船首部分には衝突の傷。
左舷には流木。
一人で動かすことはできない。
「……ごめんな。ちょっとだけ、ここで待っとって」
犬島は艤装に手を触れた。
まるでそこに残す仲間へ言い聞かせるような声だった。
艤装を最小限まで収納すると、犬島は救助索を腰に結んだ。
泥の中を一歩ずつ進む。
水深は膝ほどだったが、流れが強い。
足を取られ、何度もよろめく。
「ゆっくりでええ! 索はこっちで持っとる!」
老漁師の声に、犬島は頷いた。
「はい!」
半分ほど進んだところで、足元の砂が崩れた。
犬島の体が水流へ引かれる。
「わっ!」
土手側の消防団員が一斉に索を引いた。
犬島は水に流されかけながらも、両手で索へしがみついた。
「離すな!」
「離しません!」
犬島は歯を食いしばった。
一度つかんだ索を、絶対に放そうとしない。
泥だらけの手が滑っても、腕に擦り傷ができても、指を食い込ませ続ける。
ようやく浅瀬へたどり着くと、老漁師が犬島の腕をつかみ、土手の上へ引き上げた。
「大丈夫か、嬢ちゃん」
「はい……ありがとうございます」
犬島は息を切らしながら頭を下げた。
老漁師は犬島の服装と艤装の一部を見て、ようやく正体に気付いた。
「鎮守府の艦娘か?」
「海防艦の犬島です」
「犬島?」
老漁師は砂州に刺さった艤装を見た。
「なるほど。それで、あんなふうに流れ着いたんか」
犬島は恥ずかしそうにうつむいた。
「係留索が切れて……河口に突っ込んでしもうて……」
「台風の日に、えらい迷子じゃな」
迷子。
その言葉に、犬島の肩がわずかに下がった。
「……はい」
否定できなかった。
---
犬島が救助されたという連絡は、消防から鎮守府へ伝えられた。
河口近くの公民館へ避難させられた犬島は、毛布に包まり、温かいお茶を両手で持っていた。
避難所の人々は突然現れた艦娘に驚いたものの、濡れて震える犬島を見ると、すぐに乾いたタオルや着替えを用意した。
近所の老婦人は、犬島の髪についた泥を丁寧に拭き取ってくれた。
「こんな小さい子が、あんな嵐の中におったんか」
「小さくても海防艦ですから」
犬島は胸を張ろうとした。
しかし毛布にくるまった姿では、あまり威厳が出なかった。
「でも、流されたんじゃろ?」
「……はい」
「河口に突っ込んだんじゃろ?」
「……それも、はい」
「土手に船を刺したんじゃろ?」
犬島は湯飲みで顔を隠した。
「それは、あんまり言わんでください……」
避難所に小さな笑いが広がる。
犬島はますます恥ずかしくなったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
やがて、公民館の外で車の音が止まった。
複数の足音が近づいてくる。
その中に、犬島がよく知る歩き方があった。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島は勢いよく立ち上がった。
毛布が肩から落ちる。
入口の扉が開くより早く、犬島は叫んだ。
「提督!」
扉が開き、雨具姿の提督が入ってきた。
犬島は駆け出した。
数歩進んだところで、自分が避難所にいることを思い出し、急停止する。
普段の犬島なら、提督へ抱きつくようなことはしない。
代わりに、提督の目の前まで来ると、制服の袖を両手でしっかりつかんだ。
「迎えに来てくれた……」
「ああ」
「ほんまに、来てくれた」
「必ず見つけると言っただろう」
犬島は何度も頷いた。
「はい」
提督の袖をつかんだまま、離そうとしない。
提督は犬島の頭に手を置いた。
髪はまだ少し濡れており、桃の花の髪留めには折れた葦が一本残っていた。
「怪我は?」
「擦り傷だけです。艤装の方は……河口の砂州に乗り上げとります」
「確認した。救難隊を向かわせている」
「直りますか?」
「船首と右舷艤装の一部が損傷しているが、修理できる」
犬島は深く息を吐いた。
自分の怪我を聞いたときより、明らかに安心した顔だった。
「よかったぁ……」
提督は犬島の頬についた泥を指で拭った。
「それにしても、三分で戻れと言ったはずだが」
犬島の体が固まった。
「……はい」
「どうして河口にいる?」
「それは、その……」
「しかも艤装を砂州に突き刺している」
「風と水が、ぼっけぇ強うて……」
「港から直線で約二・七キロ流されている」
犬島は視線をそらした。
「うちも、そんな遠くまで行くつもりはなかったんです」
「当たり前だ」
「止まろうとはしたんよ?」
「結果は?」
「……河口に突っ込みました」
避難所の隅から、誰かが吹き出す声が聞こえた。
犬島の顔が赤くなる。
「笑わんでください……うちも恥ずかしいんじゃから」
提督は叱るべきか迷った。
命令に従わず桟橋へ戻った結果、危険に巻き込まれた。
一歩間違えば、河口の護岸へ正面から激突していた可能性もある。
だが、犬島が無事だったことへの安堵の方が大きかった。
「鎮守府へ戻ったら反省文だ」
「はい……」
「係留作業は、今後必ず複数人で行う」
「はい」
「台風時には外出禁止」
「はい……」
犬島の返事は次第に小さくなった。
その姿を見て、老漁師が提督へ話し掛けた。
「まあ、あんまり叱らんでやってくれ。あの子、流された後も信号灯を振って、自分で助けを呼んどった。よう頑張ったで」
「頑張りすぎるのが問題なんです」
提督が答える。
犬島は袖をつかむ手に、少し力を込めた。
「提督」
「何だ」
「帰っても、ええですか」
その声は、叱られた子どもが家へ入れてもらえるか確かめるようだった。
「そのために迎えに来た」
「……はい」
犬島はようやく笑った。
---
台風が通過した翌朝。
河口の水位が下がると、犬島の艤装回収作業が始まった。
砂州には、犬島が突っ込んだ跡がはっきりと残っていた。
葦の中を幅数メートルにわたってなぎ倒し、艤装の船首が土手の斜面へ深く刺さっている。
それを見た救難隊の艦娘たちは、しばらく言葉を失った。
「……どうやったら、こんな角度で刺さるの?」
「うちに聞かんでください」
犬島は土手の上で、恥ずかしそうに帽子を深くかぶった。
「流されとったら、こうなったんです」
「河口を百メートル以上さかのぼってるけど」
「高潮が押してきたんよ」
「葦を全部倒してる」
「止まれんかったんじゃもん……」
「船首が土手に埋まってる」
「それ以上言わんで!」
普段は声を荒らげない犬島が珍しく叫び、周囲の艦娘たちは顔を見合わせた。
それから、一斉に笑った。
犬島は頬を膨らませた。
怒っているはずなのに、その表情はどこか幼く、雨の中で迷子になった犬がようやく家族を見つけたときのようでもあった。
艤装は二隻の曳船と工作艦の力で、午後には砂州から引き出された。
船首部分は大きくへこんでいた。
右舷側の機銃台は曲がり、爆雷投射機には大量の草が絡んでいる。
艤装の隙間からは、小枝、空き瓶、片方だけの長靴、木製のたらいまで出てきた。
明石がたらいを持ち上げる。
「犬島ちゃん、河口で拾ってきたもの、多すぎない?」
「拾うつもりはなかったです」
「犬島だから?」
「名前は関係ないでしょう!」
また笑いが起きる。
犬島は耳まで赤くしながら、艤装に絡んだ葦を一本ずつ外していった。
「もう……みんなして……」
不満そうにつぶやきながらも、無事に戻った艤装へ触れる手つきは優しかった。
---
事故後、鎮守府では係留設備の全面点検が行われた。
小型艦用桟橋の係留金具は強化され、台風時には艤装を陸上の固定台へ収納する規則が追加された。
犬島は命令違反により、三日間の港湾作業禁止を命じられた。
本人にとって、出撃禁止よりも厳しい処分だった。
一日目。
犬島は寮の窓から、係留作業をする艦娘たちを見ていた。
二日目。
工具箱を抱えて工廠へ向かおうとしたところを、提督に見つかって連れ戻された。
三日目。
犬島は執務室の前で座り込み、提督の仕事が終わるのを待っていた。
「何をしている」
「港湾作業は禁止されとりますから」
「それは分かっている。なぜここにいる」
「提督が外へ出るなら、ついていこうと思って」
「なぜだ」
犬島は少し考えた。
「……また迷子になったら困るから」
「私が?」
「うちがです」
提督は頭を抱えた。
犬島はその隣で、何事もなかったように座っている。
事故以来、提督が移動すると、犬島は以前より少しだけ近い距離を歩くようになった。
置いていかれないためなのか。
また流されないためなのか。
それとも、迎えに来てくれた人のそばが安心するのか。
本人に聞いても、きっと否定するだろう。
「犬島」
「はい」
「もう台風の日に一人で外へ出るな」
犬島は少しうつむいた。
「はい」
「必ず誰かを呼べ」
「はい」
「流されたときは、無理に一人で戻ろうとするな」
「……はい」
提督は犬島の頭へ手を置いた。
「帰る場所が分からなくなっても、こちらから迎えに行く」
犬島は顔を上げた。
琥珀色の瞳が、ほんの少しだけ潤んでいた。
「絶対ですか」
「ああ」
「河口まででも?」
「できれば、もう河口には行かないでくれ」
「うちも行きとうないです」
「では約束だ」
「はい。約束します」
犬島は満足そうに頷いた。
そして提督の袖を少しだけつかむと、そのまま隣を歩き始めた。
---
河口の砂州には、その後しばらく、犬島の艤装が突っ込んだ跡が残った。
地元の人々はそこを冗談交じりに「犬島の泊地」と呼ぶようになった。
鎮守府内でも事故は長く語り継がれ、
「犬島は台風の日、港から流されて河口へ入り、最後は土手に艦首を突き刺して止まった」
という話は、やがて新任艦娘向けの台風対策講習で使われることになる。
講習のたびに、犬島本人は教室の隅で顔を赤くした。
「悪い見本として紹介せんでもええじゃろ……」
それでも、話の最後には必ずこう付け加えられた。
犬島は流されても艤装を捨てず、状況を確認し、自ら信号を発して救助を待った。
救助索をつかんだ手を最後まで離さなかった。
そして提督が迎えに来るまで、その場から動かなかった。
事故ではあった。
失敗でもあった。
けれど犬島は、その日も最後には帰ってきた。
嵐が去った夕方。
修理を終えた犬島は、鎮守府の波止場に立っていた。
係留索は以前の倍に増やされている。
その一本一本を、整備員と一緒に確認する。
「船首側、よし。船尾側、よし。予備索も、よし」
すべてを確認すると、犬島は港の奥を見た。
提督が庁舎へ戻ろうとしている。
犬島は係留索から手を離し、小走りで追い掛けた。
提督が振り返る。
「どうした?」
「何でもないです」
犬島はその隣に並んだ。
「ただ、一緒に帰ろうと思って」
「一人でも戻れるだろう」
「戻れます」
そう答えながらも、犬島は提督の袖を軽くつかんだ。
「でも、一緒の方が迷わんけぇ」
二人は並んで庁舎へ向かった。
犬島は一度だけ振り返り、頑丈に係留された自分の艤装を確認する。
もう流されない。
帰る方向も分かっている。
そして、たとえまた嵐の中で道を見失っても、迎えに来てくれる人がいる。
犬島は安心したように提督の隣へ戻った。
「提督」
「何だ?」
「ただいま」
提督は少しだけ笑った。
「おかえり、犬島」
その返事を聞くと、犬島の足取りは、ほんの少しだけ嬉しそうに軽くなった。