海防艦・犬島
――聞こえなかった命令――
港外第二区・通信途絶による進路交錯事故
事故後。
最初に提出された速報には。
かなり強い言葉が書かれていた。
«海防艦「犬島」、帰投命令に応答せず。»
«針路変更命令、減速命令、停止命令にも応答なし。»
«港外管制からの連続呼び出しを無視し航行を継続。»
そして。
最後。
«友軍補給艦との接触事故を発生。»
書類だけ読めば。
犬島は。
何度呼ばれても返事をせず。
停止命令まで無視して。
事故を起こしたことになる。
ところが。
事故直後。
犬島本人が最初に言った。
「命令?」
「何の命令ですか」
その一言で。
事故調査は。
最初からやり直しになった。
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一 通常の帰投
午後三時十二分。
犬島。
沿岸護衛訓練を終了。
単艦帰投。
海況。
良好。
視程。
約九海里。
風。
弱い。
機関。
正常。
舵。
正常。
速力。
十四ノット。
犬島は。
鎮守府港外第二区へ向かっていた。
予定航路。
正常。
ただし。
港外では。
一隻の大型補給艦が。
入港作業を開始していた。
補給艦。
「御蔵丸」。
全長。
約百二十メートル。
燃料。
食料。
整備資材搭載。
本来。
犬島は。
港外待機。
御蔵丸を先に入港させる。
その後。
犬島が入る。
それが。
当日の変更指示だった。
犬島の出港時点では。
まだ。
その変更は決まっていなかった。
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二 最初の命令
午後三時十九分。
港内管制。
『犬島』
『こちら港外管制』
『入港順変更』
『犬島は第二区待機点で停止せよ』
返答。
なし。
管制官。
もう一度。
『犬島、応答せよ』
なし。
三回目。
『海防艦犬島』
『第二区待機点で停止』
なし。
レーダー上。
犬島。
予定速度維持。
進路。
そのまま。
管制官。
「犬島、どうした?」
別の通信員。
「聞こえていないのか?」
その頃。
犬島。
艦橋。
普通に航行中。
犬島は。
自分から送信する。
「こちら犬島」
「港外第二区まで約四千です」
「帰投予定、変更ありますか」
本人は。
返答を待つ。
何も聞こえない。
犬島。
「……?」
もう一度。
「港外管制」
「こちら犬島」
返答なし。
犬島は。
少し首を傾げた。
「混信ですかね」
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三 双方とも聞こえていない
異常は。
単純な無線機故障ではなかった。
犬島側。
主通信装置。
送信表示。
正常。
受信表示。
正常。
アンテナ。
外見正常。
電源。
正常。
だが。
中継切替装置内部。
接点焼損。
主送信機からアンテナへ。
信号がほとんど出ていない。
同時に。
受信側。
増幅回路。
電源電圧低下。
外部通信。
ほとんど復調不能。
つまり。
犬島は。
送っているつもり。
管制は。
何も聞こえない。
管制は。
何度も命令している。
犬島には。
何も届かない。
双方が。
相手は返事をしていない。
と思っていた。
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四 二番目の命令
午後三時二十二分。
犬島。
港外第二区へ。
さらに接近。
御蔵丸。
入港航路へ進入開始。
管制。
危険を認識。
『犬島!』
『速力を八ノットまで落とせ!』
返答なし。
犬島。
十四ノット。
維持。
『犬島!』
『減速せよ!』
なし。
管制官。
「完全に無視しているように見えるぞ」
別の通信員。
「他周波数!」
緊急周波数。
『犬島、港外管制』
『直ちに減速』
なし。
予備周波数。
なし。
発光信号。
距離。
まだ遠い。
犬島からは。
港湾設備の背景灯と重なり。
判別しにくい。
犬島自身は。
通信が返ってこないため。
こう考えていた。
「帰投変更なし」
「通常手順で入ります」
それは。
通常なら。
正しい判断だった。
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五 御蔵丸が見える
午後三時二十四分。
犬島。
右前方。
御蔵丸を確認。
「あれ?」
大型補給艦。
思っていた位置と。
違う。
本来。
犬島が先に入港する予定なら。
御蔵丸は。
もっと沖で待っているはず。
だが。
御蔵丸は。
すでに。
港口へ向けて。
変針を始めている。
犬島。
すぐ無線。
「御蔵丸」
「こちら犬島」
「入港順、どうなっとりますか」
返答。
ない。
当然。
犬島の送信。
届いていない。
犬島。
「……おかしい」
ここで。
初めて。
通信設備故障を疑う。
犬島。
予備通信機。
切替。
送信。
「港外管制」
反応なし。
さらに。
発光信号。
準備。
だが。
御蔵丸との距離。
すでに。
約千二百メートル。
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六 停止命令
港外管制。
犬島が。
御蔵丸へ近づく。
最悪。
交差。
管制官。
『犬島!』
『直ちに停止!』
『停止せよ!』
『犬島、停止!』
何度も。
送る。
応答。
なし。
犬島。
その命令を。
一度も聞いていない。
ただ。
自分の判断で。
「右へ避けます」
舵。
右十五度。
速力。
十二ノットへ減速。
ところが。
御蔵丸も。
犬島を避けようとしていた。
御蔵丸は。
犬島から返事がないため。
犬島が命令どおり停止する可能性も。
まだ考えていた。
犬島。
右へ。
御蔵丸。
左へ。
一度。
離れるように見える。
しかし。
その先。
港口防波堤。
犬島が右へ行きすぎれば。
浅瀬。
御蔵丸が左へ行きすぎれば。
航路外。
両方。
大きくは避けられない。
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七 犬島の混乱
犬島は。
ここで。
自分が知らない何かが起きている。
と判断する。
「御蔵丸さん」
「聞こえとったら汽笛お願いします」
返答。
通信。
なし。
だが。
御蔵丸。
汽笛。
長音一回。
犬島が。
目を見開く。
「聞こえてないんじゃない」
「うちの通信が出てない?」
その瞬間。
犬島は。
完全な通信故障と判断。
予備。
非常通信。
両方。
使用不能。
犬島は。
すぐ。
信号旗。
発光信号。
汽笛。
使えるもの。
全部使う。
しかし。
状況は。
もう近すぎた。
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八 接近
犬島。
御蔵丸。
距離。
六百メートル。
五百。
四百。
犬島。
機関。
停止。
続いて。
後進。
御蔵丸も。
後進。
だが。
大型補給艦。
重い。
止まりにくい。
犬島。
右へ。
さらに回頭。
御蔵丸。
左。
しかし。
犬島の右側。
浅瀬。
これ以上。
行けない。
犬島。
「左へ戻します!」
誰にも届かない声。
舵。
左。
今度は。
御蔵丸の艦首。
犬島の左舷側へ。
じわじわ近づく。
距離。
百二十。
八十。
五十。
犬島。
「止まって……!」
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九 接触
午後三時二十六分四十一秒。
御蔵丸。
艦首右舷側。
犬島。
左舷後部。
接触。
ごん。
低速。
だが。
質量差。
犬島の艦尾。
右へ押される。
犬島自身。
艦橋で。
少しよろめく。
「っ……」
御蔵丸。
即座に。
機関停止。
犬島も。
後進。
接触は。
数秒。
擦れる。
犬島。
左舷後部外板。
へこみ。
手すり。
変形。
御蔵丸。
艦首。
塗装剥離。
軽度変形。
大きな破断。
なし。
浸水。
なし。
人的被害。
軽い打撲。
数名。
犬島は。
すぐ御蔵丸を見る。
「大丈夫ですか!」
声。
届かない。
そこで。
犬島は。
汽笛。
短音。
二回。
御蔵丸。
短音。
二回。
犬島。
ようやく。
相手が無事だと分かる。
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十 港へ戻ってから
曳船。
誘導。
犬島。
通信不能のまま。
第一岸壁へ。
係留。
提督。
すでに岸壁にいる。
犬島が。
実艦から降りる。
提督は。
かなり厳しい顔。
「犬島」
「はい」
「なぜ停止命令を無視した」
犬島。
止まる。
「……停止命令?」
提督。
「何度も出した」
犬島。
本気で。
分からない顔。
「聞いてません」
周囲。
一瞬。
静かになる。
提督。
「一度も?」
「はい」
「減速命令は」
「聞いてません」
「待機命令」
「それも」
「入港順変更」
犬島。
「知りません」
提督の表情が。
変わる。
犬島は。
少し不安そうに。
「うち」
「何も聞こえんかったんです」
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十一 犬島側の記録
通信装置。
即時封印。
工廠。
解析。
犬島の送信ログ。
残っている。
午後三時十九分。
«港外第二区まで約四千。帰投予定変更ありますか。»
午後三時二十四分。
«御蔵丸、こちら犬島。入港順どうなっとりますか。»
午後三時二十五分。
«港外管制、応答願います。»
つまり。
犬島自身は。
何度も確認していた。
ただ。
送信機。
アンテナへ。
出ていない。
受信ログ。
ほぼ無音。
管制側命令。
記録なし。
犬島は。
「無視した」のではない。
命令を受け取っていない。
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十二 故障原因
原因。
通信中継箱。
内部。
主電源接続端子。
微細亀裂。
振動。
熱。
経年疲労。
航行中。
接触抵抗。
急増。
電圧。
低下。
その影響。
受信増幅系。
機能低下。
さらに。
送信切替リレー。
半端な位置で固着。
結果。
表示灯。
正常。
操作盤。
正常。
送信操作。
正常表示。
受信機。
正常表示。
しかし。
実際には。
送信。
ほぼ不可能。
受信。
ほぼ不可能。
しかも。
予備通信機も。
同じアンテナ中継箱を。
共有。
そのため。
予備へ切り替えても。
改善しなかった。
設計上。
単一故障点。
存在。
事故後。
即改修対象。
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十三 調査委員会
調査。
焦点。
犬島が。
命令を無視したか。
結論。
否。
犬島は。
命令受信そのものが。
成立していなかった。
さらに。
異常認識後。
自分から複数回。
通信確認。
予備装置切替。
汽笛。
発光信号。
回避。
減速。
実施。
御蔵丸との接触は。
通信途絶により。
両艦が。
異なる入港順序を前提に。
同一航路へ進入したことが主因。
最終評価。
«海防艦犬島に命令違反の事実なし。»
«外形的には命令不応答状態であったが、当該命令は犬島側通信設備故障により本人へ伝達されていなかった。»
«犬島は通信異常を認識後、自艦判断により減速、回避、非常信号を実施しており、操艦上の重大な過失を認めず。»
御蔵丸。
管制命令どおり。
行動。
過失なし。
港外管制。
規定どおり。
指示。
過失なし。
事故原因。
通信設備。
複合故障。
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十四 「完全無視」
事故速報。
訂正。
最初。
«犬島、停止命令を完全無視。»
修正後。
«犬島、停止命令を受信せず。»
犬島は。
その二枚を。
並べて見る。
「かなり違いますね」
提督。
「ああ」
犬島。
「最初のだけ残ったら」
「うち、すごく言うこと聞かん艦みたいです」
提督。
「実際」
少し間。
犬島が。
じっと見る。
提督。
「今回は違う」
犬島。
「今回は、って何ですか」
提督。
「何でもない」
犬島は。
少しだけ。
頬を膨らませる。
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十五 御蔵丸
後日。
御蔵丸側の乗員。
犬島へ。
「こちらも」
「犬島が停止すると思っていました」
犬島。
「うちは」
「御蔵丸さんが沖で待っとると思ってました」
両方。
少し困った顔。
犬島。
「真逆ですね」
「ですね」
「通信って」
犬島は。
壊れた中継箱を見る。
「大事ですね」
御蔵丸側。
「今さら?」
犬島。
「今さらでも大事です」
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十六 改修
事故後。
犬島の通信設備。
大幅改修。
第一。
主通信系。
完全二重化。
第二。
予備通信機。
別アンテナ。
別電源。
第三。
送信実出力。
監視計。
追加。
表示灯が。
「送信操作した」
ではなく。
「実際に電波が出た」
まで確認。
第四。
受信監視。
一定時間。
外部信号なし。
自動警報。
第五。
港内航行時。
通信途絶。
一定時間以上。
原則。
現位置で減速または停止。
犬島は。
最後の項目を見る。
「これ」
「うちの事故で増えたんですか」
技師。
「そう」
犬島。
「じゃあ」
「次からは」
「聞こえんかったら止まればええんですね」
提督。
「そういうことだ」
犬島。
「簡単です」
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十七 再現訓練
修理後。
同じ港外第二区。
犬島。
訓練。
わざと。
通信途絶状態を。
模擬。
管制。
『犬島』
当然。
犬島側。
受信しない設定。
三十秒。
犬島。
「通信ありません」
一分。
犬島。
速力。
半分。
さらに。
予備通信。
切替。
反応なし。
二分。
犬島。
「犬島、通信途絶と判断」
機関。
停止。
待機。
港内管制。
模擬解除。
『犬島、受信状況』
犬島。
「聞こえました」
『訓練終了』
犬島。
少し満足。
「今日は」
「命令無視してません」
提督。
「最初から無視していない」
犬島。
「そうでした」
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十八 少しだけ残った怖さ
夕方。
第一岸壁。
犬島。
提督。
二人。
犬島が。
通信機の受話器を見る。
「提督」
「何だ」
「命令って」
「聞こえんかったら」
「無いのと同じなんですね」
提督。
「犬島にとってはな」
「でも」
「外から見たら」
犬島は。
少し俯く。
「うちが無視しとるように見えました」
提督。
「ああ」
犬島。
「そこ」
「ちょっと怖いです」
「自分ではちゃんとやっとるのに」
「相手には」
「違うように見えることがあるので」
提督は。
少し考えて。
答える。
「だから記録を残す」
「調べる」
「最初の印象だけで決めない」
犬島は。
頷く。
---
十九 犬島の事故報告
犬島自身。
事故報告。
最後。
«犬島は停止命令、減速命令、待機命令を受信していなかった。»
«帰投予定変更も受信していない。»
«通信設備の故障を認識するまで、出港時に指定されていた通常の帰投手順を継続していた。»
«異常認識後は減速、回避、予備通信、発光信号および汽笛による意思疎通を試みた。»
そして。
少しだけ。
犬島らしい追記。
«聞こえん命令には返事できません。»
さらに。
その下。
«でも、聞こえんと分かったら止まります。»
提督が読む。
「いい教訓だ」
犬島。
「はい」
「次は」
少し間。
「ちゃんと聞きます」
提督。
「通信機が壊れていなければな」
犬島。
「そこは整備してください」
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二十 完全無視ではなかった
この事故は。
長い間。
工員たちから。
冗談半分に。
「犬島命令無視事件」
と呼ばれた。
犬島は。
そのたび。
訂正した。
「違います」
「聞こえんかったんです」
工員。
「でも返事一回もなかったぞ」
犬島。
「聞こえてないので」
「停止命令も」
「聞こえてません」
「減速命令も?」
「聞こえてません」
「帰投変更も?」
「聞こえてません」
工員。
「完全に聞こえてなかったんだな」
犬島。
「そうです」
少し間。
「完全無視じゃなくて」
「完全通信不能です」
そして。
最後。
犬島は。
第一岸壁から。
自分の実艦を見る。
通信アンテナ。
新しい。
二重化済み。
予備系。
独立。
犬島が。
提督へ無線。
『提督』
提督。
「聞こえている」
犬島。
『犬島です』
「分かっている」
犬島。
少し笑う。
『今日は』
『ちゃんと聞こえます』
それだけで。
少し。
安心できた。