海防艦・犬島
――今度は鹿らしいです――
山陽本線の貨物列車脱線事故。
犬島。
関係なし。
実艦。
第一岸壁。
本人。
鎮守府内。
積荷。
無関係。
事故原因。
貨車の軸受異常。
そこまで確認され。
「犬島が貨物列車を脱線させた」
という妙なSNS投稿も。
ようやく流れなくなった。
犬島自身も。
今度こそ。
「これで終わりじゃろう」
と思っていた。
軍令部も。
そう思っていた。
ところが。
数日後。
情報担当参謀が。
朝の会議へ。
妙な顔で入ってきた。
軍令部総長が尋ねる。
「どうした」
参謀は答えなかった。
代わりに。
一枚の紙を。
机の中央へ置いた。
そこには。
SNS投稿の印刷。
«奥羽本線で普通列車が鹿と衝突して遅延。
海防艦犬島が鹿を線路へ追い込んだ可能性がある。
最近の事故を考えると犬島が関係していてもおかしくない。»
会議室。
静かになった。
三秒。
五秒。
総長が。
もう一度読む。
そして。
尋ねた。
「……何を?」
参謀。
「鹿を」
「どこへ?」
「線路へ」
「誰が?」
「犬島が」
その瞬間。
軍令部上層部の一人が。
吹き出した。
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一 まず地図
総長は。
笑うのを我慢しながら。
「一応」
と言った。
「一応だ」
参謀。
「はい」
「事故地点を確認しろ」
すでに。
地図が用意されていた。
奥羽本線。
東北地方。
事故地点。
内陸。
山間部。
犬島。
同時刻。
瀬戸内海側。
第一岸壁。
その距離。
何百キロ。
別の将官が。
地図を見る。
「犬島は」
「海防艦だよな」
「はい」
「鹿を追う能力があるのか」
参謀。
「確認されていません」
「確認するな」
そこで。
二人目が。
笑い始めた。
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二 軍令部総長、耐える
総長。
まだ。
真面目な顔を維持。
「まず」
「投稿内容を」
「事実と推測に分けろ」
参謀。
「はい」
紙。
事実
奥羽本線で。
普通列車。
鹿と接触。
列車遅延。
推測
犬島が。
鹿を線路へ追い込んだ。
総長。
「推測の根拠は」
参謀。
「『最近事故が多いから』」
総長。
「他には」
「ありません」
「目撃証言」
「ありません」
「犬島の目撃」
「ありません」
「犬島の実艦」
「第一岸壁です」
「本人」
「鎮守府です」
「鹿との関係」
参謀が。
一瞬。
止まる。
「……確認しますか?」
総長。
「しなくていい」
会議室。
数人。
下を向く。
肩が。
揺れている。
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三 とどめ
情報担当参謀が。
もう一枚。
資料を出した。
「なお」
総長。
「まだあるのか」
「投稿者が」
「追加説明をしています」
会議室。
嫌な予感。
参謀。
読む。
«犬島は海防艦なので海岸から鹿を追い立て、山間部まで移動させることもできるのではないか。»
沈黙。
総長。
「……山間部まで?」
参謀。
「はい」
別の将官。
「何日かけて?」
参謀。
「記載なし」
「犬島は鹿をどうやって追う」
「記載なし」
「そもそも」
「犬島は事故当日どこにいた」
「第一岸壁」
「なら」
一人が。
とうとう。
机へ伏せた。
笑っている。
別の上層部も。
堪えきれない。
「駄目だ」
「これは駄目だ」
「前の貨物列車はまだ」
「鉄道という単語だけは繋がっていた」
総長も。
ついに。
笑った。
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四 会議崩壊
軍令部。
朝会議。
本来。
艦隊運用。
海上護衛。
物資輸送。
港湾防衛。
そういう重要事項を扱う。
その会議で。
上層部が。
犬島と鹿について。
真剣に議論している。
一人。
笑いながら言う。
「犬島が」
「鹿を?」
別の将官。
「海から?」
「山へ?」
「何百キロ?」
「しかも本人は鎮守府?」
また。
笑い。
総長。
額を押さえる。
「静かに」
誰も。
静かにならない。
「これは」
総長自身も。
声が少し震えている。
「一応」
「情報案件として」
一人。
「総長」
「はい」
「本当に処理しますか」
会議室。
さらに。
笑い。
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五 犬島へ伝わる
鎮守府。
午前十時。
提督。
犬島。
犬島は。
工具箱を整理していた。
「犬島」
「はい」
「また変な投稿が出た」
犬島の手。
止まる。
少しだけ。
以前の誤報を思い出す。
「また事故ですか」
「事故自体は本当に起きた」
犬島。
「何の事故ですか」
提督。
「列車が鹿と衝突した」
犬島。
「……鹿?」
「鹿」
「それで」
犬島は。
少し身構える。
「うちが?」
「ああ」
犬島。
「何をしたことになっとるんですか」
提督は。
紙を渡す。
犬島。
読む。
一行。
二行。
三行。
そして。
止まる。
「……」
提督。
「犬島?」
犬島。
もう一度読む。
「……」
「大丈夫か」
犬島は。
ゆっくり。
顔を上げた。
「提督」
「何だ」
「鹿って」
「山におりますよね」
「ああ」
「うちは」
自分を指す。
「海防艦ですよね」
「ああ」
「何でですか」
提督。
「私も知らない」
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六 犬島と鹿
念のため。
提督が聞く。
「鹿についてどれくらい知っている」
犬島。
「角があります」
「はい」
「茶色いです」
「はい」
「山におります」
「だいたい」
犬島。
少し考える。
「……奈良にもいっぱいおるって聞きました」
提督。
「それくらいか」
「はい」
「鹿を追ったことは」
「ありません」
「触ったこと」
「ありません」
「近くで見たこと」
犬島。
さらに考える。
「たぶんありません」
「では」
犬島。
「何を確認しとるんですか」
提督。
「一応」
犬島。
「軍令部と同じこと言っとりますね」
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七 本当に確認する
笑っていても。
軍令部は。
一応。
確認した。
事故時刻。
午後六時三十二分。
犬島。
第一岸壁。
整備終了後。
提督執務室。
壊れた懐中電灯を修理。
午後六時四十分。
白桃菓子。
一個。
午後七時前。
自室へ。
実艦。
係留。
機関停止。
航海記録なし。
航空機。
使用なし。
陸上長距離移動。
なし。
東北方面出張。
なし。
鹿輸送。
なし。
鹿飼育。
なし。
野生動物管理業務。
なし。
軍令部の資料には。
本当に。
«犬島と鹿との接触歴:確認されず»
という一文が入った。
参謀。
それを書いた後。
しばらく。
自分の文章を見る。
「私」
「何を書いてるんだろう」
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八 極めつけ
さらに。
事故を担当した鉄道会社へ。
念のため確認。
事故原因。
普通列車走行中。
山林側から。
野生鹿一頭。
線路内へ進入。
運転士。
非常ブレーキ。
接触。
鹿。
その後。
自力で山林方向へ。
列車。
軽微な損傷。
乗客。
負傷なし。
犬島。
関係なし。
鉄道会社担当者も。
軍令部から問い合わせが来た理由を聞く。
「海防艦ですか?」
「はい」
「犬島?」
「はい」
「この事故に?」
「SNS上で」
数秒。
電話の向こう。
沈黙。
その後。
小さく。
笑う声。
「すみません」
軍令部参謀。
「お気持ちは分かります」
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九 公式反論すらしない
広報部。
「どうしますか」
総長。
「何もしなくていい」
「よろしいので」
「これに正式反論したら」
少し間。
「軍令部が犬島の鹿追い疑惑を真面目に否定した」
「という文章が残る」
また。
会議室。
笑い。
総長。
「問い合わせが来た場合だけ」
「事実を答えろ」
広報官。
「内容は」
総長。
淡々と。
「犬島は事故地点にいない」
「実艦も第一岸壁」
「鹿との関係も確認されない」
一人。
「最後の一文必要ですか」
総長。
「私もそう思う」
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十 SNS側でも
投稿は。
広がるより先に。
突っ込まれた。
«「犬島、海防艦だぞ」»
«「奥羽本線までどうやって行った」»
«「鹿を追い込む特殊能力でも追加されたの?」»
«「第一岸壁にいたらしい」»
«「犬島アリバイ強すぎる」»
«「鹿まで犬島のせいにするな」»
そして。
最も拡散された返信。
«犬島より鹿本人の方が事故原因に近い。»
犬島。
それを見た。
数秒。
考える。
「……それはそうです」
提督。
「納得するところか」
「だって」
犬島。
「鹿は現場におります」
「うちはおらんです」
「かなり大きな違いです」
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十一 軍令部の雑談
その日の午後。
正式会議終了後。
軍令部上層部。
まだ。
少し話題になる。
一人。
「次は何だ」
別の一人。
「航空事故」
「艦爆事故は実際にあった」
「では道路事故」
「犬島が自動車を?」
「山はどうだ」
総長。
「やめろ」
別の将官。
「犬島が山崩れを起こした」
総長。
とうとう。
笑う。
「海防艦から離れすぎだ」
一人。
「鹿の時点で離れています」
また。
笑い。
もはや。
犬島を疑っている人間。
一人もいない。
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十二 犬島本人も笑う
夕方。
第一岸壁。
犬島。
提督。
二人。
犬島。
少し考えて。
「提督」
「何だ」
「軍令部」
「笑ったってほんまですか」
提督。
「ああ」
犬島。
「総長も?」
「ああ」
「かなり?」
「かなり」
犬島。
少しだけ。
不満そう。
「うちの話なのに」
提督。
「犬島を笑ったわけではない」
「投稿内容をだ」
犬島。
「分かっとります」
少し間。
犬島の口元。
少し上がる。
「でも」
「うちも」
「ちょっと面白いです」
提督。
「どこが」
犬島。
「鹿を」
「海防艦が」
「山まで追い込むところです」
言っている途中で。
犬島自身も。
笑ってしまった。
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十三 犬島の知識
数日後。
工員。
犬島へ。
「犬島」
「はい」
「鹿の鳴き声知ってる?」
犬島。
「知りません」
「鹿せんべいは」
「知っとります」
「食べる?」
犬島。
「うちが?」
「鹿が」
犬島。
「そっちですか」
工員。
「鹿を追う方法」
犬島。
「知りません!」
周囲。
笑う。
犬島。
少し頬を膨らませる。
だが。
以前のように。
傷ついてはいない。
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十四 最終確認書
軍令部内部。
案件。
最終処理。
«件名:
奥羽本線鹿衝突事案に関する海防艦犬島関与情報。»
結論。
«関連を示す事実なし。»
補足。
«事故発生時、犬島は鎮守府内に所在。»
«実艦は第一岸壁に係留。»
«事故地点への移動歴なし。»
«当該鹿との接触歴なし。»
総長。
最後の一行を見る。
「当該鹿との接触歴なし」
しばらく。
黙る。
参謀。
「何か問題が」
総長。
「いや」
少し。
肩が震える。
「公文書に」
「この文章が残るのか」
参謀も。
笑った。
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十五 犬島の事故一覧には入らない
提督。
「記録するか」
犬島。
「しません」
即答。
「前の貨物列車も?」
「入れてません」
「今回も?」
「入れません」
「理由は」
犬島。
「うちの事故じゃありません」
少し考える。
「うちの話ですら」
「ほとんどありません」
提督。
「名前だけ使われた」
「はい」
犬島は。
自分の事故記録冊子を閉じる。
「事故記録に鹿まで入ったら」
「何の帳面か分からんくなります」
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十六 少し強くなったところ
犬島は。
前回の誤報道では。
閉じこもった。
「事故を起こしに行っている」
その言葉。
自分でも。
事故の多さを気にしていたから。
深く刺さった。
貨物列車の時。
少し呆れられるようになった。
そして。
鹿。
もう。
怖くならなかった。
犬島は。
自分で言う。
「関係ないです」
それで。
終われるようになった。
名前が出たから。
自分の責任になるわけではない。
SNSに書かれたから。
調査結果が変わるわけでもない。
犬島自身も。
そこを理解した。
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十七 ただし一つだけ
犬島。
その後。
任務で。
本当に。
鹿を見る機会があった。
鎮守府近く。
山沿いの道路。
陸上移動。
道路脇。
一頭。
犬島。
止まる。
鹿。
犬島を見る。
犬島も。
鹿を見る。
数秒。
提督。
「どうした」
犬島。
小さな声。
「鹿です」
「ああ」
「初めて近くで見ました」
鹿。
そのまま。
山へ戻る。
犬島。
追わない。
もちろん。
線路へも。
追い込まない。
提督。
「追わないのか」
犬島。
すぐ。
「追いません!」
提督が。
少し笑う。
犬島も。
少しだけ笑う。
「これで」
「接触歴ありになりますか」
提督。
「見るだけなら接触ではない」
犬島。
「よかったです」
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十八 そして翌朝
軍令部。
総長。
朝会議。
情報担当参謀。
入室。
総長が。
少し警戒する。
「犬島か」
参謀。
「違います」
会議室。
全員。
なぜか。
少し安心。
「では何だ」
「通常の海上交通情報です」
総長。
「そうか」
普通の報告。
普通の事故。
普通の会議。
誰も。
鹿について話さない。
最後。
会議終了。
総長が。
資料を閉じる。
そして。
小さく言った。
「今日は犬島が何もしていないな」
一人の将官。
「昨日もです」
別の一人。
「鹿の件も何もしてません」
総長。
「そうだった」
また。
少しだけ。
笑いが起きる。
犬島本人は。
その頃。
第一岸壁で。
いつものように。
出港準備をしていた。
「前よし」
「右よし」
「左よし」
「後ろよし」
少し考える。
陸側を見る。
「……鹿なし」
近くの工員が。
吹き出す。
犬島。
「確認です」
そして。
何事もなく。
海へ出ていった。