海防艦・犬島
――二度目の河口――
河口へ流された最初の事故から、半年が過ぎていた。
鎮守府の台風対策は、あの事故を境に大きく変わった。
小型艦用桟橋の係留金具は、従来よりも強いものへ交換された。係留索は四本から八本へ増やされ、船首と船尾だけでなく、岸壁の離れた位置に設置された大型固定環へ斜めに取る方式へ改められた。
荒天時には、艦娘一人で係留確認を行ってはならない。
艤装を展開した状態で港内待機する場合は、必ず整備員二名以上を配置する。
台風の接近が予想される際は、早い段階で防波堤内側の「荒天用泊地」へ移動する。
そして、犬島には特別な規則も設けられた。
台風警報発令後、許可なく桟橋へ近づかないこと。
移動時には、必ず担当者と行動すること。
それらは犬島を責めるための規則ではなかった。
二度と彼女を一人で嵐の中へ放り出さないためのものだった。
犬島自身も、すべてを守っていた。
以前のように「少し確認するだけ」と一人で外へ出ることはなくなった。係留作業では指示を受けた場所に立ち、整備員と一緒に一本ずつ索を確認した。
「第一船首索、よし」
「張力、正常」
「第二船首索、よし」
「摩耗なし」
「船尾側も、全部よし」
記録板を持つ整備員が頷く。
犬島はもう一度、自分の艤装を固定する八本の索を見渡した。
太い合成繊維索。
摩擦防止用の保護材。
二重に締められた固定金具。
以前の事故で破断したものとは、比べものにならないほど頑丈だった。
「これなら大丈夫ですね」
整備員が言った。
犬島は小さく頷いた。
「うん。今回は、ちゃんとみんなと確認したけぇ」
犬島の隣には、担当の海防艦と整備員二名がいる。
提督も少し離れた場所から作業を見守っていた。
規則違反はない。
確認不足もない。
係留設備にも異常は見つからない。
すべてが手順通りだった。
「犬島」
提督に呼ばれ、犬島はすぐに振り返った。
強い風の中でも、その声だけはよく聞き取れた。
「確認は終わったか」
「はい。八本全部、異常なしです」
「では、艤装を低出力待機にして、避難施設へ移動しろ」
「でも、完全に離れても大丈夫ですか?」
「遠隔監視装置がある。整備員も交代で確認する」
犬島は艤装を見た。
低く唸る機関音。
雨に濡れた十二糎砲。
何重にも固定された係留索。
以前、河口の砂州へ一緒に突っ込んだ艤装だった。
「……分かりました」
少し名残惜しそうだったが、犬島は命令に従った。
艤装から離れ、担当艦娘の後ろを歩く。
数歩進んだところで、一度だけ振り返った。
「ちゃんと、そこで待っとってな」
誰にも聞こえないほど小さな声で、艤装に話しかける。
それから犬島は駆け足で担当艦娘へ追いついた。
今度は、勝手に戻らなかった。
---
接近していた台風は、観測史上でも例の少ない勢力を保っていた。
中心気圧は予想より早く低下し、進行速度も急激に上がっている。
当初は鎮守府の西側を通過するはずだった進路も、直前になって東寄りへ変わった。
台風の中心は、鎮守府のすぐ南を通る。
夕方には暴風圏へ入った。
夜になると、窓の外は完全な暗闇となった。
雨は横から壁へ叩きつけられ、建物全体が風圧で細かく震えている。
避難施設の一室で、犬島は椅子に座っていた。
膝の上には、係留設備の遠隔監視端末が置かれている。
本来は整備員が管理するものだったが、犬島があまりにも気にしていたため、数値を見るだけという条件で持たせてもらった。
八本の索に掛かる張力が、画面上に表示されている。
第一船首索、三十八パーセント。
第二船首索、四十二パーセント。
中央補助索、三十五パーセント。
いずれも許容範囲内だった。
「大丈夫」
犬島は何度もつぶやいた。
「今度は八本ある。固定金具も新しい。みんなで確認したもん」
隣にいた海防艦が心配そうに顔をのぞき込む。
「少し休んだ方がいいですよ」
「眠れんのです」
「ずっと画面を見ていても、台風は弱くなりません」
「分かっとるんじゃけど……」
犬島は端末を抱えるように持った。
風が建物を揺らすたび、画面の数値が少し上がる。
そして元に戻る。
上がって、戻る。
まるで係留索が、嵐に合わせて呼吸しているようだった。
犬島はその変化を一つも見逃さなかった。
午後十時二十分。
港内の潮位が急激に上昇し始めた。
台風による高潮だった。
予測値を三十センチ超え、さらに上昇している。
防波堤を越えた波が、荒天用泊地へ流れ込む。
係留索の張力が上がった。
第一船首索、五十二パーセント。
第二船首索、五十八パーセント。
中央補助索、五十四パーセント。
警戒表示が黄色へ変わる。
犬島は立ち上がった。
「張力が上がっとります」
整備員が端末を確認する。
「まだ許容範囲だ。遠隔で張力調整装置を作動させる」
「うちも行きます」
「駄目だ」
「でも――」
「荒天時は避難施設から出ない。それが規則だ」
犬島は唇を結んだ。
以前なら、「自分の艤装だから」と食い下がっていたかもしれない。
しかし今は、黙って元の席へ座った。
「……はい」
不安そうに画面を見ながらも、命令に従う。
提督と交わした約束を、犬島は忘れていなかった。
---
午後十時四十七分。
港内で異常な衝撃が発生した。
それは波ではなかった。
台風で流された大型の作業台船が、係留設備を破壊しながら荒天用泊地へ入り込んだのだ。
無人となっていた台船は風と高潮に押され、数百トンの質量を持ったまま犬島の係留場所へ接近した。
監視映像には、雨の中を横向きに流れる巨大な影が映っていた。
「漂流台船です!」
整備員が叫ぶ。
「衝突予測、犬島の泊地!」
犬島が画面を見る。
台船は艤装そのものへ向かっているのではない。
岸壁沿いに設置された、大型係留柱へ向かっていた。
「あそこは……船首側の固定場所……!」
台船が岸壁へ衝突した。
施設全体を揺らす轟音が響いた。
映像が激しく乱れる。
コンクリート製の岸壁が崩れ、大型係留柱が基礎ごと海中へ引き倒された。
犬島の船首側に取られていた二本の係留索が、固定点を失った。
索そのものは切れていない。
金具も壊れていない。
岸壁の方が耐えられなかったのだ。
「第一、第二船首索、固定点喪失!」
警報音が鳴り響いた。
艤装が風下側へ大きく振られる。
残る六本の索へ、急激に荷重が移った。
中央補助索、百三十二パーセント。
左舷船尾索、百四十五パーセント。
右舷中央索、百六十八パーセント。
すべてが赤く点滅する。
「張力分散が間に合いません!」
遠隔装置が作動する。
しかし、台船が流れ込んだ際に海中の配線も切断されていた。
調整装置は反応しない。
一本の索が限界を超えた。
ばしんっ――。
端末上から、表示が一つ消える。
犬島の肩が跳ねた。
二本目。
三本目。
索は設計通りの強度を持っていた。
係留作業にも異常はなかった。
だが、本来八本で分担するはずの力が、わずか数秒で残りの索へ集中した。
さらに高潮が艤装を押す。
四本目が切れる。
五本目の固定環が岸壁から抜ける。
最後に残った船尾索が大きく伸びた。
「切れんで……」
犬島は端末を握り締めた。
「お願いじゃから、今度こそ切れんで……!」
画面の中で、数値が上昇する。
百八十パーセント。
二百パーセント。
表示可能な上限を超え、数値が消えた。
次の瞬間、最後の係留索が破断した。
犬島の艤装は、荒天用泊地から流れ出した。
「艤装が流出!」
整備員が叫ぶ。
しかし犬島は、その声を最後まで聞いていなかった。
艤装との結び付きが強制的に働いたからだ。
艦娘と艤装は、完全に切り離された別の存在ではない。
一定以上の距離が開けば、艦娘本体が艤装側へ引かれることがある。
犬島の体が淡い光に包まれた。
「えっ――」
足元が消えるような感覚。
室内にいたはずの犬島は、一瞬のうちに暴風雨の港へ移動していた。
足元には、激しく揺れる自分の艤装。
周囲には白い波。
背後では、係留場所が急速に遠ざかっている。
「また……?」
犬島は状況を理解できず、呆然とした。
「また流されとる……?」
通信機から提督の声が響いた。
『犬島! 応答しろ!』
「提督!」
『無事か!』
「はい! うちは無事です! でも、係留索が全部――』
『状況は把握している。台船が固定柱を破壊した。犬島たちの係留作業に問題はない』
犬島は目を見開いた。
提督は、彼女が自分を責めるより先に言った。
『お前の違反ではない。確認不足でもない。今回は設備側の損壊だ』
「でも……また流されて……」
『それは後で考える。現在位置を報告しろ』
提督の強い声に、犬島は我に返った。
艤装の計器を見る。
方位。
速度。
機関状態。
「荒天用泊地から北東へ流されとります。速度、六ノット……七ノットまで上がりました」
『機関は作動するか』
「両方とも動きます。でも、台船と切れた索が艦尾に絡んどって、舵が重いです」
『港外へ流される可能性がある。無理に旋回するな。まず台船から距離を取れ』
「はい!」
犬島は機関を起動した。
右舷機関前進。
左舷機関後進。
艤装の船首を少しずつ変える。
だが、風と流れが強すぎる。
以前の事故とは違い、犬島は最初から艤装を操作できていた。
それでも自然の力には抗えなかった。
荒天用泊地から外港へ。
外港から工業港区へ。
犬島は岸壁や停泊船へ衝突しないよう、流されながら艤装の角度だけを調整した。
「右に倉庫……左に燃料桟橋……」
砲塔を旋回させ、風圧を少しでも変える。
片方の機関出力を細かく調整する。
自分が止まれないなら、せめて誰もいない場所を通る。
それが今の犬島にできる唯一のことだった。
『犬島、前方に巡視艇が係留されている!』
「見えました!」
犬島は舵を切った。
しかし艦尾に絡んだ太い索が、水中で何かに引っ掛かる。
艤装が急激に右へ回された。
巡視艇との距離が縮まる。
「当たる……!」
犬島は右舷機関を最大後進に入れた。
艤装全体が振動する。
船首は巡視艇のわずか数メートル手前を通過した。
衝突は避けた。
代わりに犬島は、港内の狭い水路へ入っていった。
その先には、別の河川があった。
最初の事故で突っ込んだ小さな河口とは異なる。
市街地を流れる、幅の広い川。
鎮守府から東へ離れた場所で海へ注ぐ河川だった。
「前に……河口があります」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
『河口の名称を確認した。前回とは別の川だ』
「それは分かっとります!」
犬島は思わず大きな声を出した。
『分かっているならいい』
「よくないです! なんでまた河口なんですか!」
『私にも分からない』
「海は広いのに!」
犬島の岡山弁が強くなる。
「なんでうちは、流されたら河口へ行くんよ!」
怒りとも情けなさともつかない声だった。
だが、河口への接近は止まらない。
高潮によって海水は川へ逆流していた。
河口の流れは、犬島を上流方向へ引き込んでいる。
以前と同じだった。
しかし今回は、川幅が広い。
河口付近には漁港があり、小型漁船が何隻も係留されている。
さらに上流には、道路橋が架かっていた。
このまま流されれば、漁船を巻き込み、橋脚へ衝突する可能性がある。
犬島は表情を変えた。
自分がまた河口へ突っ込む恥ずかしさよりも、周囲への被害を防ぐことを優先する顔だった。
「提督。河口右岸側に、広い干潟があります」
『確認している。だが水深が浅い。乗り上げれば艤装を損傷する』
「橋や漁船に当たるより、ええです」
『犬島』
「前回は流されて、偶然砂州に止まりました」
犬島は右舷側の暗い陸地を見た。
「今回は、自分で止まる場所を選びます」
『機関状態は』
「両舷とも使えます。十秒だけ、最大出力をください」
『無理をすれば軸系を損傷する』
「直せます」
犬島の声は静かだった。
「壊れたら、また直しゃあええ。でも、家や船に当たったら、元に戻せんものもあります」
通信の向こうで提督が息を吐いた。
『許可する。ただし、乗り上げた後は機関を直ちに停止しろ』
「はい!」
犬島は干潟の位置を見定めた。
河口からおよそ三百メートル上流。
増水によって水没しているが、本来は浅い泥地だった。
周囲に建物はない。
小舟もいない。
ただし、その手前には河川航路を示す標識灯があった。
犬島は左舷機関の出力を上げる。
船首を右へ向ける。
風が艤装を押し戻す。
「もっと……!」
右舷機関最大前進。
左舷機関半速後進。
艤装が大きく傾きながら旋回する。
河口の中央から外れ、干潟の方向へ向いた。
標識灯が目前に迫る。
犬島は体を低くし、十二糎砲の砲身を上へ向けた。
艤装は標識灯の横をぎりぎりで通過する。
右舷側の手すりが触れ、細い金属音を立てた。
しかし標識灯は倒れなかった。
「今!」
犬島は両機関を最大出力にした。
逆流する海水を横切り、干潟へ向かって進む。
数秒だけ、流れよりも機関の力が勝った。
艤装の船首が浅瀬へ入る。
船底が泥に触れた。
ごごごごっ――。
低い振動が全身へ伝わる。
犬島は奥歯をかみしめた。
船首が泥を押し分ける。
速度が落ちる。
それでも後方から押す高潮によって、艤装はさらに干潟の奥へ進んだ。
「止まって……!」
犬島は両機関を停止した。
艤装は十メートル。
二十メートル。
三十メートルと泥の上を滑る。
最後に船首が盛り上がった地面へ乗り上げ、右舷側へ大きく傾いた。
犬島は艤装から投げ出されそうになり、砲塔基部へ両腕でしがみついた。
一度つかむと、絶対に離さなかった。
やがて動きが止まった。
周囲では濁流が流れている。
艤装の半分は泥に埋まり、右舷機関は異常停止していた。
だが、橋にも漁船にも衝突していない。
「止まった……」
犬島は荒い息をついた。
「今度は、自分で止まれた……」
その声には安堵と、ほんの少しの誇らしさが混ざっていた。
---
台風の中心が通過するまで、救助隊は河口へ近づけなかった。
犬島は艤装の通信装置を使い、鎮守府との連絡を保った。
干潟は高潮で水没している。
徒歩で岸へ移動することもできない。
周囲には大量の流木やごみが流れていた。
犬島は砲塔の陰に身を寄せ、風雨を避けた。
『寒くないか』
提督の声が聞こえる。
「少し寒いです。でも、大丈夫」
『負傷は』
「右手を擦っただけです」
『艤装は』
「船首が泥に埋まっとります。右舷機関は止まりました。左舷は動かせますけど、命令通り停止しとります」
『そのままでいい』
「はい」
しばらく沈黙が続いた。
犬島は通信機を両手で持っていた。
「提督」
『どうした』
「今回は……うち、悪くないんですよね」
声は小さかった。
自分でも分かっている。
規則を守った。
係留確認も複数人で行った。
避難施設から勝手に出てもいない。
それでも、また河口へ突っ込んだ。
偶然とは思えないほど、前回と似た結果だった。
『悪くない』
提督は即答した。
『お前は決められた手順をすべて守った。固定柱を基礎ごと破壊する台船の衝突は想定外だった』
「でも、うちが別の場所に係留されとったら……」
『別の艦が流されていた』
「うちがもっと重かったら……」
『設備側の破壊には関係ない』
「もっと上手に操艦できたら、河口に入らずに済んだかも……」
『流されながら巡視艇を避け、漁船を避け、橋へ到達する前に無人の干潟へ乗り上げた。それ以上、何を求める』
犬島は黙った。
『犬島』
「はい」
『今回は、よくやった』
その一言で、犬島の肩から力が抜けた。
褒められた嬉しさを隠すように、通信機を胸元へ引き寄せる。
「……えへへ」
『今、笑ったか』
「笑ってないです」
『そうか』
「ちょっと安心しただけです」
犬島は泥に埋まった艤装を撫でた。
「迎えに来てくれますか」
『夜が明け、風が弱まり次第向かう』
「今度は前の河口と違いますよ」
『場所は把握している』
「間違えんでくださいね」
『河口を二つも間違えると思うか』
「提督でも、たまに書類を違う箱に入れとるでしょう」
『それとこれは別だ』
犬島は少し笑った。
嵐の中でも、提督の声が聞こえている。
帰る方向は分かっている。
だから、前回のように「迷子になった」とは思わなかった。
「ここで待っとります」
『ああ』
「動かずに、ちゃんと待っとるけぇ」
その言葉通り、犬島は朝まで艤装のそばを離れなかった。
---
夜明け前、風が少しずつ弱まった。
雲の切れ間から薄い光が差し、河口周辺の様子が見えるようになった。
川面には流木が浮かび、漁港の一部は浸水している。
しかし、係留されていた漁船はすべて無事だった。
道路橋にも損傷はない。
干潟の中央には、泥に深く乗り上げた犬島の艤装があった。
船首から右舷側にかけて茶色い泥で覆われ、爆雷投射機には水草が絡んでいる。
犬島自身も頭から足まで泥だらけだった。
桃の花の髪留めには、小さな葉が三枚付いている。
遠くから救難艇の機関音が聞こえた。
犬島はすぐに顔を上げた。
複数の機関音。
その中に混じる、船上を歩く足音。
波の音に隠れているはずなのに、犬島には分かった。
「提督」
救難艇が接近する前から、犬島は立ち上がっていた。
船上の提督が犬島を見つける。
犬島は両手を大きく振った。
「ここです!」
居場所は分かっている。
信号も届いている。
それでも、見つけてもらったことが嬉しくて、何度も手を振る。
救難艇が干潟の手前で停止した。
水深が足りず、それ以上は進めない。
救助隊が浅瀬へ降り、ロープを持って犬島のもとへ向かう。
提督もその後ろに続いていた。
犬島は待っていられず、一歩だけ前へ出ようとした。
だが、足元の泥に靴が埋まる。
「わっ」
転びそうになり、艤装へ手をついた。
提督が遠くから声を上げる。
「そこから動くな!」
「はい!」
犬島は即座に止まった。
両足をそろえ、背筋を伸ばして待つ。
どこか、迎えに来た主人の姿を見つけながら、「待て」と言われて懸命にその場へ留まる小さな犬のようだった。
提督が近づいてくる。
残り十メートル。
五メートル。
犬島の表情が少しずつ明るくなる。
提督が目の前へ到着すると、犬島は何かを言うより先に、その袖を両手でつかんだ。
「迎えに来てくれた」
「ああ」
「違う河口でも、ちゃんと来てくれた」
「約束したからな」
犬島はしっかりと頷いた。
前回よりも袖をつかむ力が強い。
一晩中、平静を保っていた緊張が、ようやく解けたのだろう。
「怪我を見せろ」
「擦り傷だけです」
「本当にそれだけか」
「はい。艤装の方が重傷です」
提督は周囲を見た。
艤装は干潟に深く埋まり、右舷推進器の一部が変形している。
だが、船体中央部や爆雷庫に重大な損傷はなかった。
「回収には時間が必要だな」
犬島は不安そうに艤装を見る。
「置いて帰るんですか」
「今日はお前だけ先に戻す」
「でも……」
「救難隊と工作艦が残る。艤装も必ず帰す」
犬島は少し迷った。
自分だけ帰ることへの抵抗。
艤装を置き去りにするような感覚。
だが、提督は犬島の頭へ手を置いた。
「信じられないか」
犬島は勢いよく首を横に振った。
「信じます」
「なら戻ろう」
「はい」
犬島は艤装へ近づき、泥の付いた船首を撫でた。
「ちゃんと待っとってな。今度は、うちが迎えに来るけぇ」
そして提督の隣へ戻る。
帰り道でも、犬島は提督の袖を離さなかった。
---
事故調査は、台風通過直後から始められた。
犬島の係留索八本には、規格外の製品も、劣化したものもなかった。
結び方にも問題はない。
張力調整装置も、台船の衝突までは正常に作動していた。
事故の直接原因は、別の港区から流出した無人台船が岸壁へ衝突し、二本の係留索を固定していた岸壁構造そのものを破壊したことだった。
固定点を失ったことで、残りの索へ設計値を超える荷重が集中。
索の破断と固定環の脱落が連鎖し、犬島の艤装が流出した。
調査報告書の結論には、はっきりと記された。
«海防艦・犬島および係留作業担当者に、規則違反または整備上の過失は認められない。»
報告書を受け取った犬島は、その一文を何度も読んだ。
「本当に、うちのせいじゃない……」
「最初からそう言っている」
提督が答える。
「でも、紙に書いてあると……安心します」
犬島は報告書を丁寧に折り、制服の内側へしまった。
「持ち歩くのか」
「また誰かに『河口へ突っ込んだ』って言われたときに見せます」
「突っ込んだこと自体は事実だが」
「今回は自分から干潟を選んだんです」
犬島は少し胸を張った。
「前の事故とは違います」
「二つの河口へ乗り上げた艦娘という点は変わらない」
犬島の頬が膨らんだ。
「提督まで言うんですか」
「事実確認だ」
「もう知らん」
犬島は顔を背けた。
だが、提督が部屋を出ようとすると、すぐ後ろをついてきた。
「知らないんじゃなかったのか」
「それと一緒に行くんは、別です」
「どこへ行くか伝えていないが」
「足音で、工廠へ行くって分かります」
提督は立ち止まった。
犬島もぴたりと止まる。
「艤装を見に行くんでしょう?」
「ああ」
「うちも行きます」
「許可は出していない」
「今回は台風警報、出とらんです」
「確かにそうだな」
犬島は少し嬉しそうに提督の隣へ並んだ。
その歩調は、いつもよりわずかに軽かった。
---
犬島の艤装は、干潟から引き出された後、工廠へ運び込まれていた。
船首外板の変形。
右舷推進軸の曲がり。
舵取機の損傷。
艦尾に絡んだ係留索による外板の傷。
修理箇所は多かった。
それでも明石は、艤装を一周してから言った。
「大丈夫。全部直せるわ」
犬島の顔が明るくなる。
「ほんまですか?」
「船首は張り替え。右舷軸は交換。艦尾の傷も補修すれば問題ないわ」
「よかった……」
犬島は艤装へ近づき、泥の残った装甲板に頬を寄せた。
「よう頑張ったなあ」
明石が笑う。
「それは犬島ちゃんもでしょう」
「うちは、操艦しただけです」
「巡視艇も漁船も橋も避けて、干潟に自分から乗り上げたんでしょう?」
「はい」
「十分すごいと思うけど」
犬島は褒められ、少し困ったように目をそらした。
しかし深緑色のスカーフの端が、体の動きに合わせて小さく揺れている。
「……えへへ」
嬉しさを隠し切れなかった。
「じゃあ、修理を手伝います」
「駄目。今日は休むこと」
「工具を渡すくらいなら」
「駄目」
「部品を並べるだけでも」
「駄目」
犬島は提督を見る。
助けを求めるような視線だった。
提督は首を横に振った。
「明石の指示に従え」
「……はい」
犬島はしょんぼりと肩を落とした。
だが工廠を離れる直前、艤装へ向かって小さく手を振った。
「また明日、来るけぇ」
---
その後、鎮守府では二度目の係留設備改修が実施された。
係留柱そのものを強化するだけではなく、複数の岸壁へ荷重を分散させる独立式固定装置が追加された。
港外から大型漂流物が流入することを防ぐため、荒天時に展開する防護索も設置された。
さらに艦娘と艤装の強制転移を防ぐ緊急切断機構が研究されることになった。
新しい台風対策講習では、前回の事故と今回の事故が並べて紹介された。
一件目。
規則整備前に発生した、係留索破断と小河川への漂流事故。
二件目。
対策後も発生した、漂流台船による岸壁破壊と別河川への漂流事故。
講師は説明した。
「一件目から、手順と設備を改善しました。しかし二件目では、想定を超える外力によって設備そのものが破壊されました」
教室の隅で、犬島は小さくなっていた。
「二回とも、河口まで行く必要はなかったんじゃないかな……」
隣の海防艦がささやく。
「でも二回目は、犬島さんが自分で安全な場所を選んだんですよ」
「それはそうじゃけど……」
講師が続ける。
「重要なのは、規則を守っていても事故が起こる可能性があること。そして事故発生後、どのように被害を最小化するかです」
スクリーンに、干潟へ乗り上げた犬島の艤装が映し出された。
泥まみれで、船首を陸へ向けて止まっている。
教室の何人かが、小さく笑った。
犬島は机へ顔を伏せた。
「やっぱり恥ずかしい……」
しかし次の画面には、無傷で残った漁港と道路橋が表示された。
「犬島の判断によって、民間船、港湾施設、橋梁への被害は発生しませんでした」
教室の空気が変わる。
講師が犬島を見る。
「流されることを防げなかったとしても、流された後にできることはあります。犬島はその模範を示しました」
全員の視線が集まった。
犬島はおそるおそる顔を上げた。
「……うちですか?」
拍手が起こった。
最初は数人。
やがて教室全体へ広がる。
犬島は戸惑い、提督のいる後方を見た。
提督が静かに頷く。
犬島の表情が少しずつ緩んだ。
「えっと……」
立ち上がり、照れくさそうに頭を下げる。
「ありがとうございます」
それから、少しだけ岡山弁が混じった。
「次は、できれば河口へ行かんように頑張ります」
教室に笑い声が広がった。
今度の笑いは、犬島をからかうものではなかった。
無事に帰ってきた彼女を迎える、温かな笑いだった。
---
修理完了の日。
犬島は新しい係留場所に立っていた。
独立固定装置から伸びる十本の係留索。
漂流物防護索。
二重化された遠隔監視装置。
整備員と犬島は、一本ずつ確認した。
「第一船首索、よし」
「第二船首索、よし」
「中央補助索、よし」
すべての確認を終える。
提督が尋ねた。
「不安か」
犬島は正直に頷いた。
「少しだけ」
「台風が怖いか」
「台風も怖いです。でも……」
犬島は港の東側を見た。
その先には、二度目に突っ込んだ河口がある。
反対方向には、一度目の小さな河口があった。
「次に流されたら、どこの河口へ行くんじゃろうって」
「流される前提で考えるな」
「うちも流されたくて流されとるわけじゃないです」
「それは分かっている」
「海へ出たら、ちゃんと海におりたいんです」
犬島は真剣だった。
提督はしばらく黙った後、犬島の頭へ手を置いた。
「今度も、必要な対策はすべて行う」
「はい」
「それでも事故が起きたら、こちらから迎えに行く」
犬島は提督を見上げた。
「三つ目の河口でも?」
「三つ目には行かないでくれ」
「それは台風に言ってください」
「努力する」
犬島は小さく笑った。
それから提督の袖を軽くつかむ。
「帰りましょう」
「艤装はいいのか」
犬島は振り返った。
十本の係留索に固定された艤装。
修復された船首。
新しく交換された右舷推進軸。
今度こそ、しっかりと泊地につながれている。
「大丈夫です」
犬島は頷いた。
「みんなで確認したけぇ」
そして提督の隣を歩き始めた。
数歩進んだところで、艤装へ振り返る。
「ちゃんと、そこで待っとってな」
前回と同じ言葉。
しかし今回は、不安よりも信頼の方が強かった。
犬島は提督の足音に合わせて歩く。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い、よく知っている歩き方。
その音を聞きながら進めば、帰る方向を間違えることはない。
たとえ台風に流されても。
たとえ別の河口へ突っ込んでも。
迎えに来てくれる人がいて、自分をつなぎ止める場所がある。
犬島は少しだけ提督の近くへ寄った。
「提督」
「何だ」
「ただいま」
「まだ出掛けていないだろう」
「それでも言いたかったんです」
提督は犬島を見る。
泥も傷もなく、修理された艤装と一緒に鎮守府へ戻ってきた小さな海防艦。
「おかえり、犬島」
犬島の足取りが、目に見えて軽くなった。
「はい。ただいまです」
二度も河口へ流された海防艦は、今度こそ自分の足で、帰る場所へ向かって歩いていった。