衝突未遂は貨物船が航路をミスしていた為。河口の方以外回避したら貨物船と衝突し、重油流出など大規模な汚染が発生する恐れがあった。犬島は一切悪くない。所属鎮守府近くではなく別の場所。
海防艦・犬島
――三つ目の河口――
犬島が所属する鎮守府から、海路で四百海里以上離れた場所。
太平洋側に面する白汐鎮守府は、大型商港と軍港が同じ湾内に存在する、交通量の多い鎮守府だった。
湾の西側にはコンテナ埠頭と石油桟橋が並び、東側には市街地を流れる千代波川が注いでいる。大型貨物船、内航船、漁船、巡視艇、鎮守府所属の艦娘が同じ海域を行き交うため、航路は細かく分けられていた。
犬島が白汐鎮守府へ派遣されたのは、沿岸輸送船団の護衛を手伝うためだった。
期間は十日間。
犬島にとっては、ほとんど知らない海での任務である。
潮の流れも違う。
港の匂いも違う。
工廠から聞こえる金属音も、所属鎮守府や故郷の玉野とは少し違っていた。
それでも犬島は、派遣初日から黙々と働いた。
輸送船を迎え、荷物を運び、航路図を読み込み、夜には翌日の潮流表を確認する。
知らない場所だからこそ、確認を怠らなかった。
「犬島さん、もう休んだ方がええんと違いますか?」
白汐鎮守府所属の海防艦が、机いっぱいに海図を広げた犬島へ声を掛けた。
「あと少しです」
「今日だけで三回は見直してますよ」
「初めての港じゃから、間違えたらいけんでしょう」
犬島は航路図の一角を指でなぞった。
主航路から分かれる小型艦艇用の内側航路。
その先に、千代波川の河口がある。
「ここ、川が近いんですね」
「千代波川です。河口は浅いから、普通は艦娘でも入らん方がええですよ」
犬島の指が止まった。
「……河口」
「どうしました?」
「何でもないです」
犬島は海図から目をそらした。
一度目は、台風に流されて小さな河口へ突っ込んだ。
二度目は、係留設備を破壊され、別の河川の干潟へ自ら乗り上げた。
その二件は、所属鎮守府ではすでに有名だった。
台風対策講習の資料にもなっている。
本人にとっては、思い出すだけで顔が熱くなる出来事だった。
「ここでは、河口に行くようなことはないですよね」
犬島が念を押すように尋ねた。
「普通に航路を守っとれば、絶対にありません」
「ほんまですか?」
「台風も来てませんし、係留索も関係ないですから」
「それなら、ええんです」
犬島は安心したように頷いた。
海図の河口部分を避けるようにして、翌日の航路をもう一度確認した。
---
派遣八日目。
犬島は小型輸送船「しらはま」の護衛任務を終え、白汐鎮守府へ戻る途中だった。
天候は晴れ。
風は弱い。
視界は十五海里以上。
波も穏やかだった。
台風どころか、雨雲すら見当たらない。
「しらはま」は犬島の護衛を受け、すでに湾内の輸送埠頭へ入っている。
犬島は単独で内側航路を通り、白汐鎮守府の小型艦用泊地へ向かっていた。
速力は八ノット。
港内規則で定められた速度よりも低い。
犬島は航路の右側を保ち、十分な見張りを行っていた。
前方には大型船用の主航路があり、その向こうには千代波川の河口が見える。
犬島は河口を一度だけ見た。
「今日は、そっちへは行かんからな」
誰に言うでもなくつぶやく。
艤装が答えるように、低く規則正しい機関音を響かせた。
「うん。まっすぐ帰ろう」
白汐鎮守府の防波堤までは、あと十分ほど。
犬島は少しだけ気持ちを緩めた。
任務は無事に終わった。
輸送船にも損傷はない。
このまま帰れば、派遣任務は残り二日だった。
所属鎮守府へ戻れば、提督に報告できる。
知らない海でも、きちんと護衛できたと。
犬島は帰投後のことを考えながら、前方を確認した。
主航路の奥から、一隻の大型貨物船が接近している。
船名は「北辰岳丸」。
全長およそ百七十メートル。
二万トン級の多目的貨物船で、船体中央より後方に大型クレーンを備えている。
甲板には鋼材と建設機械が積まれ、船尾機関室の両側には航海用の重油が搭載されていた。
犬島はその存在をすでに把握していた。
北辰岳丸は主航路を西へ進み、そのまま外港へ向かう予定だった。
犬島は内側航路。
北辰岳丸は主航路。
定められた航路を守っていれば、二隻の進路が交わることはない。
犬島は念のため、港湾交通管制へ連絡した。
「こちら海防艦・犬島。内側航路を北東へ航行中。白汐鎮守府へ帰投します」
『交通管制より犬島。進路、速力とも確認。主航路を北辰岳丸が出港中。現針路を維持してください』
「了解しました」
犬島は現針路を維持した。
左手に主航路。
右手に浅瀬と千代波川河口。
前方には鎮守府への分岐点。
何の問題もないはずだった。
ところが、北辰岳丸の船首がゆっくりと動いた。
本来進むべき外港方向ではない。
犬島がいる内側航路へ向かって、右へ回頭し始めている。
犬島は目を細めた。
「……曲がる場所が早くない?」
北辰岳丸が予定されていた変針点へ到達するまで、まだ千メートル以上ある。
にもかかわらず、船体は確実に内側航路へ入ろうとしていた。
犬島は交通管制へ呼び掛けた。
「交通管制、北辰岳丸が内側へ変針しとります。予定航路ですか?」
数秒の沈黙。
『北辰岳丸、こちら交通管制。現在の針路を報告してください』
貨物船から応答がない。
『北辰岳丸、応答してください。貴船は指定航路から逸脱しています』
犬島は速力を六ノットへ落とした。
艤装の機関音が低くなる。
北辰岳丸は変針を続けている。
大型貨物船の長い船体が、主航路と内側航路を斜めに塞ぎ始めた。
そのとき、貨物船からようやく通信が入った。
『こちら北辰岳丸。第三変針点へ向けて右転中』
交通管制官の声が鋭くなる。
『第三変針点ではありません。貴船は第二変針点手前です。直ちに回頭を中止してください!』
『第二変針点手前……?』
北辰岳丸の船橋に混乱が走った。
後に判明することだが、北辰岳丸の航海計画装置には、出港航路ではなく、過去に使用した別埠頭からの航路データが読み込まれていた。
その航路では、現在地付近で右へ曲がることになっていた。
当直航海士は画面上の航路線だけを信じ、実際の航路標識と照合しなかった。
船長も水先人も、変針開始まで誤りに気付かなかった。
北辰岳丸の船首が犬島へ向く。
距離は約七百メートル。
犬島は汽笛を鳴らした。
短音五回。
疑問と警告を表す信号だった。
「北辰岳丸、こちら海防艦・犬島! 貴船はこちらの航路へ進入しとります!」
『犬島を視認! 回頭を止める!』
貨物船の船橋で、舵中央と機関停止が命じられた。
しかし、二万トン近い船体はすぐには止まらない。
右への回頭運動も、舵を中央に戻しただけでは消えなかった。
北辰岳丸は惰性で回り続ける。
長い船体が内側航路を完全に塞いだ。
犬島は機関を後進に入れた。
水面が泡立つ。
速力は六ノットから四ノットへ。
だが、犬島の後方には小型巡視艇がいる。
急激に後退すれば、その巡視艇と接触する危険があった。
さらに犬島のいる海域には、主航路から押し寄せる横流れがある。
停止しようとしても、北辰岳丸の船首方向へ流されていく。
交通管制から叫ぶような指示が入った。
『犬島、直ちに退避してください! 北辰岳丸との距離四百五十メートル!』
犬島は周囲を見た。
左。
北辰岳丸の船首が迫っている。
左へ切れば、貨物船の正面へ飛び出す。
右。
千代波川の河口。
前方。
北辰岳丸の巨大な船体が航路を横切っている。
後方。
巡視艇と、内側航路を進んでくる小型貨物船。
犬島は海図を頭の中に浮かべた。
「巡視艇、機関停止! その場から動かんでください!」
『犬島はどうするんです!』
「うちは前で避けます!」
『前は塞がれています!』
「分かっとります!」
北辰岳丸との距離、三百五十メートル。
貨物船はなおも右へ回っていた。
犬島が左へ舵を切れば、北辰岳丸の船首に押し潰される。
そのまま停止すれば、貨物船の右舷船首が犬島へ衝突する。
後進すれば、横流れによって貨物船の右舷側へ吸い寄せられる。
右へ少しだけ回避しても、北辰岳丸の長い船体が犬島の進路を追う形になる。
北辰岳丸の船尾側には機関室と燃料タンクがある。
そこへ犬島が衝突すれば、犬島の十二糎砲基部や艤装の鋭い部分が貨物船の外板を破る可能性があった。
北辰岳丸には、航海用重油およそ九百キロリットルが搭載されている。
燃料タンクが損傷すれば、湾内へ大量の重油が流出する。
近くには漁場がある。
河口には干潟と葦原がある。
油が入り込めば、鳥、魚、貝類、養殖設備、海岸、漁船、取水施設にまで被害が広がる。
白汐港は長期間閉鎖されるかもしれない。
「河口の方以外へ行ったら……貨物船に当たる」
犬島の声が震えた。
交通管制官も同じ結論に達していた。
『犬島、右舷側の千代波川河口へ退避できますか』
犬島は河口を見る。
入口の幅は、およそ百二十メートル。
現在の潮位なら、中央部には犬島が通れる水深がある。
しかし河川航路の先は曲がっており、その向こうの状況は見えない。
犬島は答えなかった。
『犬島?』
「聞こえとります」
『河口以外に安全な退避水域がありません』
「分かっとります」
『これは貴艦の航路違反ではありません。北辰岳丸が指定航路を逸脱しています』
「それも、分かっとります」
犬島は唇をかんだ。
台風ではない。
係留索も切れていない。
自分は最初から艤装に乗っている。
規則も航路も守った。
それでも、目の前には河口がある。
「なんで……」
北辰岳丸との距離、二百五十メートル。
貨物船の巨大な船首が、壁のように迫る。
「なんで、また河口なん……?」
答える者はいない。
汽笛が湾内に響く。
北辰岳丸が機関を全速後進にした。
黒い煙が上がる。
だが停止には間に合わない。
犬島は一度だけ目を閉じた。
自分が河口へ突っ込むだけで済む。
貨物船の乗員も助かる。
重油も流れない。
漁師たちの海も汚れない。
ならば、迷う理由はなかった。
犬島は目を開いた。
「交通管制。犬島、千代波川へ緊急退避します」
『了解。河口内の船舶へ緊急警報を発します』
「後続の巡視艇を止めてください。うちについて来たらいけん」
『了解しました』
犬島は通信を北辰岳丸へ切り替えた。
「北辰岳丸、これより右へ退避します。これ以上、右へ回頭せんでください!」
『北辰岳丸、了解! 本当に申し訳ない!』
「謝るんは後でええです!」
犬島は強く舵を切った。
「今は、船を止めてください!」
---
右舷機関後進。
左舷機関前進。
犬島の艤装が急激に右へ回頭する。
河口へ向かう。
北辰岳丸との距離、百八十メートル。
貨物船の船首が犬島の後方へ迫った。
巨大な船体によって押し出された水が、犬島の艤装を横から揺さぶる。
「まだ……!」
犬島は左舷機関の出力を上げた。
河口の入口に、赤と緑の航路標識が立っている。
その間を通らなければならない。
北辰岳丸の船首との距離、百二十メートル。
貨物船の大きさを考えれば、ほとんど接触寸前だった。
北辰岳丸の船体が起こした吸引力が、犬島を後ろへ引く。
艤装の右舷側が貨物船へ引き寄せられる。
「行かせん……!」
犬島は舵をさらに切った。
左舷推進軸が激しく振動する。
かつての損傷を思い出させる震え。
それでも、出力を落とさなかった。
貨物船の船首が、犬島の艦尾から十数メートル後ろを通過した。
風圧と波が背中を押す。
犬島の体が前へ投げ出されそうになる。
「犬島、北辰岳丸をかわしました!」
交通管制官の声が聞こえる。
だが、事故はまだ終わっていない。
犬島はすでに千代波川の河口へ入っていた。
海から川へ向かう上げ潮と、河川から流れ出す水がぶつかり、複雑な渦を作っている。
河口の両岸には消波ブロック。
右岸には小さな漁港。
左岸には葦原と干潟。
少し上流には、低い道路橋が架かっている。
犬島の速力は十一ノット。
大型貨物船を回避するため、通常の河川進入速度を大きく超えていた。
「機関、後進!」
両舷機関を後進に入れる。
水面が白く泡立つ。
艤装全体が震える。
それでも勢いはすぐには落ちない。
河口内にいた漁船は、交通管制の警報を受けて岸へ寄っていた。
犬島は中央航路を進む。
「ごめんなさい! 通ります!」
漁船の乗員が驚いた顔で犬島を見る。
白い水兵服。
濃紺の髪。
その背後に、大きな海防艦用艤装。
しかも艤装の十二糎砲は、橋や周囲の船へ当たらないよう、限界まで上を向いていた。
河口のカーブが近づく。
犬島は海図を思い出した。
曲がった先には二つの選択肢がある。
中央の河川航路。
左岸側の浅い干潟。
中央航路を進めば、道路橋へ向かう。
犬島の艤装は低いが、現在の速度で橋脚の間を通れる保証はない。
舵の効きも、先ほどの急旋回で悪くなっていた。
橋脚へ衝突すれば、橋の利用者を巻き込む。
犬島は左岸を見る。
葦原。
干潟。
人家はない。
小舟もいない。
過去二回と同じ結論だった。
止まるなら、柔らかい地面へ乗り上げるしかない。
「交通管制。千代波川左岸の干潟へ乗り上げます」
『了解。ただし河口内の水深資料が古く、干潟の状態は不明です』
「橋に当たるより、ええです」
『犬島、貴艦の判断を支持します』
犬島は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
左舷へ舵を切る。
艤装の船首が葦原へ向く。
通常なら船が入る場所ではない。
河川標識もない。
航路から外れた浅瀬だった。
犬島は砲身をさらに上げ、爆雷投射機を安全状態へ固定した。
「ちょっと痛いかもしれんけど……我慢してな」
艤装に語り掛ける。
まるで怖がる犬をなだめるような、優しい声だった。
「うちも一緒じゃけぇ」
艤装の船底が泥へ触れた。
ごごごっ――。
激しい振動。
泥水が左右へ噴き上がる。
犬島は前へつんのめり、砲塔基部へしがみついた。
干潟を覆っていた葦が倒れていく。
速度が落ちる。
十一ノット。
七ノット。
四ノット。
それでも完全には止まらない。
船首が柔らかい泥へ深く入り込む。
艤装が左へ傾いた。
「止まって……!」
犬島は両機関を停止した。
艤装はさらに十メートルほど泥の上を進み、最後に小さく船首を振った。
そして、止まった。
道路橋までは二百メートル以上ある。
漁船との接触もない。
人への被害もない。
犬島は砲塔にしがみついたまま、しばらく動けなかった。
呼吸だけが速い。
腕が震えている。
けれど、背後の海から爆発音は聞こえない。
油の匂いもない。
湾の海面は青いままだった。
「北辰岳丸は……?」
『交通管制より犬島。北辰岳丸は主航路内で停止しました。船体損傷なし。油流出なし』
犬島はゆっくりと顔を上げた。
『後続船との接触もありません。巡視艇も無事です』
「そうですか……」
大きく息を吐く。
「よかったぁ……」
全身の力が抜け、犬島は泥の付いた艤装の上へ座り込んだ。
その直後、別の事実に気付く。
左を見る。
葦原。
右を見る。
濁った川。
前を見る。
土手。
後ろを見る。
河口。
犬島の表情が固まった。
「……またじゃ」
通信の向こうで、管制官が聞き返した。
『どうしました?』
「また河口に突っ込んどる……」
『今回は緊急避難です』
「でも、三つ目です」
『三つ目?』
「何でもないです……」
犬島は両手で顔を覆った。
「台風もないのに……係留索も切れとらんのに……」
足元の艤装は、干潟の泥へ見事に乗り上げている。
「ちゃんと航路を守っとったのに……」
犬島の声が小さくなる。
「なんで、うちの進む先には河口があるんよ……」
---
事故発生から二十分後。
白汐鎮守府の救難隊と港湾消防艇が千代波川へ到着した。
犬島は自力で岸へ移動せず、艤装の上で待っていた。
周囲の状況を確認し、機関を停止し、燃料漏れがないことも確かめている。
規則通りだった。
救難艇は水深の関係で接近できず、浅喫水の作業艇が犬島のもとへ向かった。
白汐鎮守府の提督も乗っていた。
「犬島!」
呼ばれた犬島が顔を上げる。
聞き慣れた所属鎮守府の提督の声ではない。
派遣先の提督だった。
それでも、自分を迎えに来た人物を見つけると、犬島の表情が少しだけ明るくなった。
「ここです」
「見れば分かる」
白汐鎮守府の提督は、泥の上に乗り上げた艤装を見回した。
「怪我は?」
「ありません。艤装の船首が少しへこんどるかもしれません」
「北辰岳丸とは接触していないな?」
「はい。船尾から十数メートルくらいじゃったと思います」
「よく避けた」
褒められた犬島は、困ったようにうつむいた。
本来なら少し嬉しそうにするところだった。
しかし今は、泥に埋まった艤装の姿が気になって仕方がない。
「でも、また河口へ来てしもうたんです」
「交通管制から聞いている」
「今回は、ほんまにうちのせいじゃないんです」
「分かっている」
「航路も守っとりました」
「ああ」
「速度も規則より落としとりました」
「記録で確認した」
「見張りもしとったし、管制にも連絡しました」
「すべて確認済みだ」
犬島はそれでも不安そうだった。
「違反、してないですよね」
「一つもしていない」
白汐鎮守府の提督は、はっきりと言った。
「犬島は指定航路を指定速度以下で航行していた。貨物船が誤って航路へ進入し、犬島の進路を塞いだ」
犬島は黙って聞いている。
「そのままなら衝突。左へ避けても貨物船の船首と衝突。後進しても貨物船の右舷側へ流される状況だった」
「はい」
「河口への退避は、事故と油流出を防ぐ唯一の選択だった」
「……はい」
「犬島に責任はない」
犬島の肩から、少しだけ力が抜けた。
「ほんまに?」
「本当だ」
「後から変わりませんか?」
「変わらない」
「報告書にも書いてくれますか?」
「書く」
犬島はようやく安心したように頷いた。
「ありがとうございます」
白汐鎮守府の提督が犬島へ手を伸ばす。
「まず艤装から降りろ」
犬島はその手を取ろうとした。
だが途中で、艤装を振り返る。
「この子は?」
「工作艦と曳船を呼んでいる」
「置いて帰るんですか」
「ここは安全だ。潮位が上がってから引き出す」
犬島は艤装の装甲板をそっと撫でた。
「ちゃんと迎えに来るけぇ、待っとってな」
その言葉は艤装へ向けたものだったが、自分自身にも言い聞かせているように聞こえた。
作業艇へ移ると、犬島は白汐鎮守府の提督の上着の裾を少しだけつかんだ。
知らない土地。
知らない河口。
所属鎮守府の仲間も、いつもの提督もいない。
自分から抱きつくことはしない。
ただ、そこに人がいることを確かめるように、指先だけで布をつかむ。
白汐鎮守府の提督は何も言わず、犬島の頭へ手を置いた。
「大丈夫だ。所属鎮守府にも連絡した」
犬島が顔を上げる。
「うちの提督に?」
「ああ。すぐこちらへ向かうそうだ」
「遠いのに……」
「迎えに行くと言っていた」
犬島の琥珀色の瞳が少し明るくなった。
「……そうですか」
作業艇が干潟から離れる。
犬島は何度も艤装を振り返った。
---
北辰岳丸の船橋では、事故直後から航海記録の保全が行われていた。
港湾交通管制の記録。
船舶自動識別装置の航跡。
航海情報記録装置の音声。
電子海図に入力された航路。
操舵命令。
機関命令。
それらを調査した結果、原因は明確だった。
北辰岳丸は、指定された出港航路とは異なる航路データを使用していた。
当直航海士は航路番号を確認せず、古い計画を呼び出した。
航路監視警報も作動していたが、当直者は「海図上の誤差」と判断して解除していた。
さらに船橋内では、電子海図と実際の航路標識を照合する作業が行われていなかった。
犬島には、避ける余地がほとんどなかった。
港湾当局が作成した航跡図では、その状況が一目で分かった。
犬島は内側航路の右側を、一定速度でまっすぐ進んでいる。
北辰岳丸は主航路から早すぎる変針を行い、犬島の前方を斜めに塞いでいる。
犬島が河口へ転針した地点も記録されていた。
衝突予測線を重ねると、河口以外のどの進路を選んでも、北辰岳丸との距離がゼロになる。
調査官は結論を読み上げた。
「海防艦・犬島の操艦および見張りに、不適切な点は認められない」
犬島は会議室の椅子に座り、膝の上で両手を握っていた。
「犬島は早期に異常を発見し、減速、警告信号、交通管制への通報を行っている」
報告書のページがめくられる。
「最終段階における千代波川への退避は、北辰岳丸との衝突および重油流出を防ぐために必要な緊急措置だった」
犬島は正面を見たまま、静かに聞いていた。
「したがって、本件における犬島の責任は一切認められない」
一切。
その言葉を聞いて、犬島は小さく息を吐いた。
隣に座っていた白汐鎮守府の提督が尋ねる。
「安心したか」
「はい」
「私が何度説明しても、不安そうだったな」
「前にも二回、河口へ行っとるから……」
犬島は少しうつむいた。
「三回目となると、みんな、うちの操艦が下手なんじゃと思うかもしれんでしょう」
調査官が首を横に振った。
「むしろ逆です」
犬島が顔を上げる。
「北辰岳丸を回避した際の余裕は、最小で十四メートルでした。その後、十一ノットで河口へ進入し、漁船を避け、橋脚の手前で無人の干潟へ乗り上げています」
「でも、乗り上げました」
「あの状況では、乗り上げることが最善でした」
調査官は航跡図を指した。
「犬島が貨物船へ衝突していた場合、北辰岳丸の右舷燃料タンクが破損した可能性があります。最悪の場合、数百キロリットル規模の重油が湾内へ流出していました」
スクリーンに、汚染予測範囲が表示される。
白汐港。
千代波川河口。
沿岸の干潟。
漁業区域。
養殖場。
潮流によって油が流れる可能性のある海岸。
赤く塗られた範囲は、犬島が想像していたよりも広かった。
「犬島の判断により、この汚染は発生しませんでした」
犬島はしばらく画面を見ていた。
自分が泥へ突っ込んだことで、守られた海。
「それなら……」
犬島の声が小さくなる。
「河口に行ったんも、無駄じゃなかったんですね」
「無駄ではありません」
調査官は明確に答えた。
「犬島は人命だけでなく、この海域の環境と産業を守りました」
犬島は少しだけ胸を張った。
褒められた嬉しさを隠そうと、口元を引き締める。
しかし深緑色のスカーフが、体の動きに合わせて小さく揺れていた。
「……えへへ」
笑い声が漏れる。
犬島は慌てて口を押さえた。
「今のは、違います」
「何が違うんだ?」
「何でもないです」
---
北辰岳丸の船長と航海士は、犬島へ直接謝罪した。
白汐鎮守府の面会室。
犬島の前で、船長は深く頭を下げた。
「我々の航路確認不足によって、あなたを危険な目に遭わせました。本当に申し訳ありません」
犬島は困ったように両手を膝の上で動かした。
相手から怒られることは苦手だが、謝られることにも慣れていない。
「うちは怪我しとりませんから」
「しかし、艤装を損傷させ、河口へ乗り上げさせてしまった」
「艤装は直せます」
犬島はいつものように答えた。
「壊れたら、また直しゃあええんです」
「それだけでは済みません」
船長は顔を上げた。
「あなたが河口へ避けなければ、我々の船はあなたと衝突していました。重油が流出し、この港と川を汚染していたかもしれません」
犬島は少し黙った。
「じゃあ、次からは間違えんようにしてください」
責める声ではなかった。
ただ、真剣だった。
「海は、みんなが使う場所じゃから」
「はい」
「漁師さんも、魚も、鳥もおるんです。船だけが無事ならええわけじゃないでしょう」
船長はもう一度頭を下げた。
「二度と同じことを起こさないと約束します」
犬島はその言葉を聞き、静かに頷いた。
一度約束した相手の言葉を、犬島は信じる。
ただし、今度は航路を何度も確認してほしいと思った。
---
犬島の艤装は、満潮を待って干潟から引き出された。
船首外板にへこみ。
左舷推進器に泥と水草。
舵にはわずかな変形。
十二糎砲の防盾には、折れた葦が何本も引っ掛かっていた。
大きな損傷ではない。
白汐鎮守府の工作艦は、三日ほどで修理できると判断した。
「三回目にしては軽傷ですね」
工作艦が冗談交じりに言う。
犬島は作業台の横で顔を赤くした。
「三回目って言わんでください」
「でも三つ目の河口でしょう?」
「今回は自分から好きで入ったんじゃないです」
「前の二回も好きで入ったわけではないでしょう」
「そうじゃけど……」
「河口に好かれているんですかね」
犬島の頬が膨らむ。
「うちは海防艦です。河川艦じゃありません」
「分かっていますよ」
「ほんまに分かっとりますか?」
少し怒った犬島は、桃の花の髪留めを揺らしながら工作艦を見上げた。
だが、修理された艤装を見せられると、表情はすぐに明るくなった。
「船首、直ったんですか?」
「仮修理ですが、所属鎮守府まで戻れる状態です」
犬島は艤装へ近づく。
新しく張られた船首外板を手で撫でた。
「よう帰ってきたなあ」
自分が迎えに来ると約束した通り、艤装は工廠へ戻ってきた。
犬島は装甲板へ頬を寄せる。
「もう大丈夫じゃけぇ」
工作艦は、その様子を見て小さく笑った。
犬島は気付かなかった。
---
事故から二日後の夕方。
白汐鎮守府の波止場へ、所属鎮守府から連絡艇が到着した。
犬島は工廠で、修理箇所の確認をしていた。
廊下から複数の足音が聞こえる。
その中に、一つだけ知っている歩き方があった。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
遠く離れた場所でも、聞き間違えることはなかった。
犬島は工具を置いた。
入口へ顔を向ける。
扉が開くより早く呼び掛けた。
「提督」
所属鎮守府の提督が工廠へ入ってきた。
犬島は立ち上がる。
走り出しかけ、工廠内であることを思い出して足を止めた。
それでも歩く速度は明らかに速い。
提督の前まで来ると、犬島は制服の袖を両手でつかんだ。
「迎えに来てくれた」
「ああ」
「こんな遠いところまで」
「別の河口でも迎えに行くと約束したからな」
犬島は少しだけ顔を伏せた。
「三つ目でも?」
「三つ目でもだ」
「今度は台風じゃなかったです」
「報告を読んだ」
「係留索も切れとりません」
「ああ」
「うち、航路を間違えてないです」
「分かっている」
「交通管制の指示も守りました」
「全部知っている」
提督は犬島の頭へ手を置いた。
「今回は犬島に何の責任もない」
犬島は動かなかった。
頭に置かれた手の感触を確かめるように、ほんの少しだけ体を寄せる。
「貨物船へぶつからず、油も流さず、誰も怪我をさせなかった。よくやった」
犬島の指先が、提督の袖を強くつかむ。
「……はい」
「怖かったか」
「怖かったです」
犬島は正直に答えた。
「あんな大きな船が、こっちへ向いてきて……どこへ避けても当たりそうで」
声が少し震える。
「河口しかないって分かったときも、またかって思って……」
「それでも舵を切った」
「油が流れたら、海が汚れるけぇ」
犬島は工廠の外に見える港を見た。
夕日を反射する穏やかな水面。
北辰岳丸から流出するはずだった重油は、どこにもない。
海鳥が水面近くを飛び、漁船が港へ戻ってくる。
「誰かの帰る海を、汚したくなかったんです」
提督は犬島の頭を静かに撫でた。
褒められた犬島は、安心したように目を細める。
もし尻尾があれば、今度こそ隠せないほど揺れていただろう。
もちろん犬島に尻尾はない。
代わりに、深緑色のスカーフが何度も小さく揺れていた。
「所属鎮守府へ帰るぞ」
「はい」
「艤装の修理は終わっているのか」
「仮修理は終わりました。自力で帰れます」
「河口へ寄る予定は?」
犬島は提督を見上げた。
「ないです」
「本当に?」
「ないです!」
工廠内に犬島の声が響く。
作業していた艦娘たちが笑った。
犬島は耳まで赤くなる。
「もう……提督までからかわんでください」
「確認しただけだ」
「帰りの航路、川からぼっけぇ離れたところにしてください」
「安全な指定航路を使う」
「河口が見えんくらい離れたいです」
「それは難しいかもしれないな」
犬島は少し不満そうに頬を膨らませた。
それでも提督が歩き出すと、すぐ隣へ並ぶ。
そして、いつものように袖を軽くつかんだ。
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出港の日。
犬島は白汐鎮守府の防波堤を抜けた。
北辰岳丸は事故調査のため、まだ沖合の指定錨地に停泊している。
犬島が近くを通ると、北辰岳丸の汽笛が長く一回鳴った。
感謝と謝罪を示すような、低い音だった。
甲板には乗員たちが並んでいる。
犬島は少し迷った後、片手を上げた。
「今度は、ちゃんと航路を見てくださいね!」
距離があるため声は届かない。
それでも乗員たちは一斉に頭を下げた。
犬島も小さく頭を下げる。
貨物船は無傷。
海も汚れていない。
それなら、今回のことはそれでよいと思った。
白汐港が遠ざかる。
千代波川の河口が右手に見えた。
犬島はそちらを見ないようにしていた。
しかし、どうしても気になり、最後に一度だけ振り返る。
河口近くの干潟には、犬島が乗り上げた跡がまだ残っている。
葦の一部が倒れ、泥の上に船底の形が刻まれていた。
「……三つ目」
犬島が小さくつぶやく。
提督が隣から尋ねる。
「何か言ったか」
「何でもないです」
「そうか」
「ただ……」
犬島は河口から海へ視線を戻した。
「次は、普通に港へ帰りたいなって」
「誰もがそう思っている」
「四つ目は、絶対に嫌です」
「私もだ」
「約束できますか」
「台風や他船の航路までは約束できない」
犬島は不安そうな顔をする。
提督は続けた。
「だが、どこへ流されても、どこへ避けても、必ず迎えに行く」
犬島は提督を見上げた。
「河口じゃなくても?」
「ああ」
「知らない港でも?」
「ああ」
「四つ目でも?」
「できれば、四つ目は避けてくれ」
犬島は小さく笑った。
「善処します」
「今、目を逸らしたな」
「気のせいです」
犬島は提督の袖を少し強くつかんだ。
艤装の船首は、所属鎮守府の方角を向いている。
その先に河口はない。
少なくとも、今のところは。
白汐鎮守府から遠く離れた海で、航路を誤った貨物船との衝突を避けるため、三つ目の河口へ飛び込んだ小さな海防艦。
彼女が守ったのは、一隻の貨物船だけではなかった。
港で働く人々。
漁師の生活。
川辺の生き物。
仲間たちが帰るための青い海。
犬島は前を向いた。
「提督」
「何だ」
「帰ったら、うちが無事じゃって、みんなに言ってください」
「自分で言えばいい」
「先に伝えてほしいんです。みんな、待っとるかもしれんから」
提督は通信機を取った。
犬島の所属鎮守府へ帰投予定を送る。
やがて返事が届いた。
港ではすでに、多くの艦娘が犬島の帰りを待っているという。
犬島の顔が明るくなった。
「ほんまに?」
「ああ」
「みんな、おるんですか」
「工廠の前で待っているそうだ」
犬島の足取りが目に見えて軽くなる。
艤装の機関音さえ、少し嬉しそうに聞こえた。
帰る場所には、「おかえり」と言う人が必要だ。
そして迎えられる側には、その声へ答える言葉がある。
犬島は所属鎮守府の方角を見つめ、小さく練習するようにつぶやいた。
「ただいま」
今度は河口でも、干潟でもない。
いつもの波止場で、その言葉を言うために。
犬島は青い海の上を、まっすぐ故郷へ向かって進んでいった。