理由は問わないが犬島は悪くない
海防艦・犬島
――四つ目は、晴れた日に――
その日は、台風どころか雲一つない晴天だった。
海面には穏やかな日差しが反射し、港の外では漁船がゆっくりと網を引いている。
風は東から二メートル。
波高は二十センチほど。
視界は良好。
係留索も、航路を誤った貨物船も、犬島の近くには存在しなかった。
「今日は、何も起こらんよな」
犬島は海面を見渡し、小さくつぶやいた。
所属鎮守府から北へ離れた海域にある、早波港。
犬島は沿岸警備隊との合同訓練を終え、港外から補給埠頭へ戻る途中だった。
これまで犬島が突っ込んだ三つの河口とは、いずれも遠く離れた場所である。
早波港の内側にも川はあった。
港の北端へ流れ込む、早見川。
だが犬島の航路からは二キロ以上離れている。
海図上でも、目視でも、犬島がそちらへ向かう理由は何一つなかった。
「指定航路、よし」
犬島は海図と標識を見比べる。
「速力、七ノット。周囲に接近船なし」
港湾交通管制からも、異常なしとの連絡が入っている。
『犬島、現在の航路を維持してください。前方の浚渫工事区域からは十分に距離があります』
「犬島、了解しました」
港の中央部では、航路を深くするための浚渫工事が行われていた。
海底の土砂を掘り取り、大型船が通れる水深を確保する工事である。
作業区域は黄色い浮標によって囲まれ、一般船舶の進入は禁止されていた。
犬島はその区域から五百メートル以上離れた指定航路を進んでいる。
「工事しとる人も大変じゃなあ」
遠くで作業する浚渫船を見ながら、犬島は言った。
巨大な掘削装置が海底の土砂をすくい上げ、運搬台船へ移している。
規則正しい機械音。
金属が動く音。
犬島は造船所を思い出すように、少しだけ目を細めた。
そのとき、海中から低い音が響いた。
ごごごごご――。
犬島が顔を上げる。
浚渫船の機関音ではない。
もっと深い場所から伝わってくる、地面そのものが動くような音だった。
「何の音……?」
水中探信儀に大量の雑音が入る。
海底から無数の石や砂が流れ落ちている。
犬島の艤装が細かく震え始めた。
『浚渫区域、海底状況に異常!』
交通管制の声が飛び込んでくる。
『全船、浚渫工事区域から離れてください!』
「犬島は指定航路上です。距離、五百二十メートルあります!」
『現在位置を維持せず、港の南側へ退避してください!』
「了解しました!」
犬島は左へ舵を切ろうとした。
その瞬間、浚渫区域の海面が大きく沈み込んだ。
まるで海水が、突然開いた穴へ吸い込まれるようだった。
続いて、周辺の海面が盛り上がる。
浚渫工事区域の海底で、大規模な斜面崩落が発生していた。
海底の土砂が数十万立方メートル単位で滑り落ち、それによって押しのけられた水が、局地的な波となって港内へ広がった。
通常の風波とは違う。
周期が長く、海面全体が動くような押し波だった。
「波が来る!」
犬島は艤装の船首を波へ向けようとした。
しかし最初の波が届く方が早かった。
海面が犬島の足元から持ち上がる。
小柄な体と艤装が、一気に数メートル上へ押し上げられた。
「わっ……!」
犬島は砲塔基部へしがみついた。
波が通過すると、今度は海水が浚渫区域側へ引き戻される。
艤装の船首が横へ振られた。
犬島は両機関を使い、姿勢を戻そうとする。
「右舷機関、前進! 左舷、後進!」
艤装は回頭を始めた。
だが、その直後に二波目が来た。
一波目よりも大きい。
犬島の左舷後方から水の壁が迫る。
「間に合わん……!」
波が艤装の側面を直撃した。
犬島の体が甲板上を滑る。
艤装も右へ押し流された。
右へ。
港の北側へ。
早見川の河口がある方向へ。
「また、そっちなん!?」
犬島は思わず叫んだ。
現在地から河口までは、まだ一キロ以上ある。
通常なら機関で容易に戻れる距離だった。
ところが海底崩落で発生した押し波は、港全体を北東方向へ流していた。
作業台船。
浮標。
小型艇。
海面にあったあらゆるものが、同じ方向へ流されている。
犬島は機関を最大出力にした。
「戻って……!」
推進器が水をかく。
一時的に進路を南へ向ける。
だが、艤装から異常な振動が伝わってきた。
船尾を確認する。
崩落によって浮き上がった海底ケーブルが、右舷推進器へ絡んでいた。
通信設備用の太い海底ケーブルだった。
「推進器に何か絡んどる!」
右舷機関の回転数が急低下する。
警報音。
犬島は直ちに右舷機関を停止した。
無理に回せば、推進軸そのものが曲がる。
左舷機関だけでは、押し波と流れに逆らえない。
『犬島、応答してください!』
「犬島、無事です! 右舷推進器に海底ケーブルが絡まりました!」
『左舷機関だけで港南側へ退避できますか』
「やっています! でも、北へ流されとります!」
犬島は左舷機関の出力を上げた。
艤装は前へ進むのではなく、ゆっくりと回転した。
右舷推進器に絡んだケーブルが、水中の錨のように船尾を引っ張っている。
船首は南を向こうとする。
船尾は北へ引かれる。
その間にも、犬島は早見川河口へ近づいていた。
『救難艇を出します!』
「今は出したらいけません!」
犬島は強い声で止めた。
『しかし――』
「まだ押し波が残っとります! 小さい艇を出したら、同じように流されます!」
港内では別の小型艇が岸壁へ衝突していた。
幸い乗員はいなかったが、救難艇を出せる状況ではない。
犬島は自分の位置を確認した。
河口まで七百メートル。
右手には石油製品を扱う埠頭。
左手には大型冷蔵倉庫の岸壁。
その間に犬島が流されている。
ここで無理に南へ向けば、左舷機関だけでは船首の制御ができない。
石油埠頭へ横向きに衝突する可能性があった。
埠頭には燃料配管がある。
損傷すれば火災や油流出につながる。
反対側へ向けば、冷蔵倉庫の岸壁へ衝突する。
岸壁では作業員が避難している途中だった。
犬島は周囲を見回した。
安全に流れを受け流せる方向は、一つだけだった。
早見川の河口。
「また……」
犬島の顔が引きつる。
「また河口しかないん……?」
交通管制から返答がある。
『犬島、現在の流向では、早見川河口側が唯一の開放水域です』
「分かっとります……」
『河口中央部の水深は四・八メートル。犬島の進入は可能です』
「その先は?」
『上流五百メートルに旧貨物桟橋があります。河道は右へ湾曲しています』
「干潟はありますか」
『左岸に広い泥地があります。ただし、現在は押し波によって冠水しています』
犬島は一度、目を閉じた。
一つ目。
台風で流され、河口の砂州へ乗り上げた。
二つ目。
係留場所を台船に破壊され、別の川の干潟へ自ら突っ込んだ。
三つ目。
航路を誤った大型貨物船を避け、重油流出を防ぐために河口へ退避した。
そして今。
晴天。
視界良好。
指定航路。
適正速力。
他船との衝突もない。
それでも、目の前には四つ目の河口がある。
「提督に、何て説明したらええんじゃろう……」
『犬島?』
「何でもないです」
犬島は通信機を握り直した。
「早見川河口へ入ります。石油埠頭と岸壁への衝突を避けます」
『了解しました。犬島の判断を支持します』
「河口内の船に退避警報をお願いします」
『すでに発令しています』
犬島は船首を河口へ向けた。
今回は、自分の意思で舵を切った。
河口へ入りたいからではない。
他に、安全な場所が存在しないからだった。
「艤装、もうちょっとだけ頑張って」
犬島は船体を撫でるように手を置いた。
「今度も一緒に帰ろうな」
---
河口の入口が近づく。
赤と緑の標識灯。
その間を、押し波によって濁った海水が川上へ向かって流れている。
犬島は左舷機関だけで船首の角度を保った。
右舷推進器に絡んだ海底ケーブルは、まだ船尾を引いている。
水中のケーブルは海底崩落区域につながっており、犬島が進むたびに伸びていた。
完全に固定されているわけではない。
だが船尾の自由を奪うには十分だった。
「右へ三度……」
左舷機関の出力を調整する。
「戻して……今度は左へ二度」
犬島は細かく船首を制御した。
河口の中央部へ入る。
両岸には避難した漁船が並んでいた。
漁師たちが土手の上から犬島を見ている。
突然港から流れ込んできた海防艦に、驚いているようだった。
犬島は片手を上げた。
「ごめんなさい! また通ります!」
誰も「また」の意味を理解できなかった。
河口内へ入っても、流れは止まらなかった。
海から押し込まれた水が、犬島を上流へ運んでいく。
左舷機関を後進に入れる。
速度を落とす。
七ノット。
六ノット。
五ノット。
しかし右舷側の推進器は使えない。
船首が徐々に左へ向く。
このままでは、左岸の護岸へ斜めに衝突する。
犬島は左舷機関を前進に戻し、船首を右へ振った。
今度は右岸へ向きすぎる。
片軸操艦で狭い河道を進むのは難しかった。
「言うこと聞いて……!」
艤装を叱りかけ、すぐに言い直す。
「違う。うちが上手に動かさんといけんのよな。ごめん」
旧貨物桟橋が見えてきた。
錆びた鋼製杭が河道へ突き出している。
現在は使われていないが、衝突すれば艤装の外板を貫く恐れがあった。
右には桟橋。
左には冠水した泥地。
犬島は迷わなかった。
「左岸の泥地へ乗り上げます!」
『了解。ただし、押し波が収まるまで河川水位は変動します。奥へ入りすぎないでください』
「止まれる範囲で止まります!」
犬島は左舷機関を前進に入れた。
船首を左へ向ける。
右舷推進器に絡んだケーブルが、艤装の向きを戻そうとする。
「あと少し……!」
犬島は機関を最大出力にした。
艤装がゆっくりと左を向く。
泥地まで百メートル。
旧貨物桟橋まで八十メートル。
犬島は砲身を上へ向けた。
爆雷を安全固定。
甲板上の可動物を確認。
「行くよ」
船首が河道から外れた。
浅瀬へ入る。
船底が泥へ触れる。
ごりごり、と低い音。
犬島の体が揺れる。
一度目よりも穏やか。
二度目よりも制御されている。
三度目よりも速度は低い。
それでも、河口へ突っ込み、泥地へ乗り上げていることに変わりはなかった。
艤装は泥を押し分けながら進んだ。
十メートル。
二十メートル。
速度が落ちる。
犬島は左舷機関を停止した。
船体はしばらく惰性で進み、最後に右舷側へわずかに傾いた。
そして止まった。
旧貨物桟橋とは十分な距離がある。
民家にも、船にも、橋にも接触していない。
犬島は艤装の上に座り込んだ。
「止まった……」
通信機から声が届く。
『犬島、停止を確認しました』
「はい」
『石油埠頭、冷蔵岸壁とも被害なし。河口内の船舶にも接触なし』
「はい……」
『犬島に負傷はありますか』
「ありません」
『艤装は』
「右舷推進器にケーブル。船底は泥に乗り上げ。たぶん船首も少しへこんどります」
『了解しました。押し波の収束後に救難隊を送ります』
「はい」
通信が一段落する。
犬島はゆっくりと周囲を見た。
茶色い水。
葦。
泥。
土手。
河口。
これまでとは違う景色。
だが、妙に見慣れている。
犬島は両手で顔を覆った。
「四つ目……」
誰も答えない。
「四つ目じゃ……」
風もない。
雨もない。
貨物船もいない。
係留索もない。
「晴れとるのに……」
犬島は空を見上げた。
青空だった。
鳥が一羽、何事もなかったように飛んでいる。
「晴れとるのに、なんで河口におるんよ……」
---
救難隊が到着するまで、約一時間かかった。
海底崩落による押し波が収まり、港内の安全確認が終わるまで出動できなかったためである。
犬島はその間、艤装の状態を確認した。
右舷推進器には、太い海底ケーブルが三重に絡んでいる。
舵には泥が付着していた。
船底から燃料や油が漏れた様子はない。
「大丈夫じゃな」
犬島は艤装へ話しかけた。
「今回も、よう頑張った」
装甲板を撫でる。
「うちが変なところへ連れてきたんじゃないけぇな」
少し間を置く。
「……でも、また河口でごめんな」
遠くから小型艇の音が聞こえた。
犬島はすぐに立ち上がった。
救難艇。
作業艇。
その後ろには、港湾調査船もいる。
先頭の艇に立っているのは、早波港の港長だった。
「犬島!」
「ここです!」
犬島は両手を振った。
相手にはすでに見えている。
位置も通信で伝えている。
それでも、迎えに来た姿を確認すると、犬島は手を振らずにはいられなかった。
作業艇が泥地の手前まで来る。
港長と救難員が浅瀬へ降りた。
「そこから動くな!」
犬島は前へ踏み出しかけ、ぴたりと止まった。
「はい!」
艤装の上で姿勢を正す。
港長たちが近づいてくる間、犬島はじっと待った。
だが視線だけは、何度も迎えの人々を追っていた。
港長が艤装のそばへ到着する。
「怪我はないか」
「ありません」
「機関を止めたのは犬島か」
「はい。右舷機関は、ケーブルが絡んだ時点で停止しました」
「適切な判断だ」
「左舷機関も、乗り上げた後すぐ止めました」
「それも確認している」
犬島は少し不安そうに尋ねた。
「うち、指定航路から外れてませんでしたよね」
「海底崩落が発生するまでは、航路中央を正確に進んでいた」
「速力は?」
「規定以下だ」
「工事区域にも入ってません」
「五百メートル以上離れていた」
「管制の指示も守りました」
「すべて守っている」
犬島は港長の目を見る。
「じゃあ……うち、悪くないですか」
港長は迷わず答えた。
「犬島には一切の責任がない」
その言葉を聞き、犬島は大きく息を吐いた。
「よかったぁ……」
肩が下がる。
深緑色のスカーフも、緊張が解けたように風へ垂れた。
「事故原因は、浚渫工事区域の海底斜面崩壊だ。犬島が予測できるものではない」
「工事しとった人は、大丈夫ですか」
「全員避難している。負傷者はいない」
「そうですか」
犬島の表情が明るくなった。
自分の責任が否定されたときより、作業員の無事を聞いたときの方が、明らかに嬉しそうだった。
「よかった。ほんまによかった」
港長は泥に乗り上げた艤装を見る。
「それにしても、よく石油埠頭を避けたな」
「流れに逆らえんかったので、河口へ向けました」
「冷蔵岸壁にも接触しなかった」
「人がおりましたから」
「片軸で旧桟橋も避けている」
「泥地が見えたので、そこに止めました」
港長は感心したように頷いた。
「事故に巻き込まれながら、最も被害が少ない場所を選んだ。立派な操艦だ」
犬島は褒められ、少しだけ頬を赤くした。
「そんな……」
顔をそらす。
けれど、桃の花の髪留めが嬉しそうに揺れている。
「うちは、帰る場所を探しただけです」
「帰る場所?」
「船にも、人にも当たらんで、止まって待てる場所です」
港長は泥地を見回した。
「それが河口だったと」
犬島の表情が曇る。
「……そこは、あんまり言わんでください」
---
海底崩落の調査は、事故翌日から本格的に行われた。
海底地形の測量。
浚渫記録の確認。
工事機械の作業履歴。
海中映像。
地質試料。
その結果、工事区域の海底斜面が、許可された角度より急に掘削されていたことが判明した。
浚渫会社の現場責任者は、工期の遅れを取り戻すため、計画より深い場所まで土砂を掘り取っていた。
さらに、崩落の兆候を示す濁度上昇や海底の微小変位が前日から観測されていたが、工事停止の報告は行われていなかった。
監督機関にも伝えられていない。
犬島は、崩落区域から十分に離れた正規航路を航行していた。
回避指示が出された時点では、すでに押し波が発生している。
海底ケーブルが浮き上がり、右舷推進器へ絡んだことも、犬島には避けようがなかった。
事故調査会の最終報告書には、明確に記された。
«海防艦・犬島の航行、見張り、速力、通信および事故後の操艦に、過失は認められない。»
さらに続く。
«犬島が早見川河口へ進入し、左岸泥地へ意図的に乗り上げた判断は、石油埠頭、冷蔵岸壁、河川内船舶および旧貨物桟橋への衝突を防止する上で、合理的かつ適切であった。»
報告書を受け取った犬島は、その部分を三回読んだ。
「合理的かつ適切……」
隣にいた所属鎮守府の提督が答える。
「そう書いてあるな」
「一切悪くないとも書いてあります」
「ああ」
犬島は報告書を光へかざす。
「後から消えたりせんですよね」
「消えない」
「誰かが書き換えたりも」
「正式な報告書だ」
犬島は安心したように、報告書を胸へ抱いた。
「これで四枚目です」
「何がだ」
「河口事故で、うちに責任がないって書かれた紙です」
提督は一瞬、言葉を失った。
「保管しているのか」
「全部持っとります」
「なぜ」
「四回も河口へ行っとったら、誰かに『犬島が好きで行っとる』って思われるかもしれんでしょう」
「その可能性はあるな」
犬島の頬が膨らんだ。
「提督も、そう思っとるんですか」
「好きで行っているとは思っていない」
「じゃあ何ですか」
「河口との縁が深いとは思っている」
「同じです!」
犬島は報告書を抱えたまま顔を背けた。
「もう知りません」
提督が席を立つ。
犬島は数秒だけ動かなかった。
だが提督が会議室を出ようとすると、すぐ後ろからついてきた。
「知らないんじゃなかったのか」
「知らんけど、一緒に帰るんです」
「艤装はまだ修理中だが」
「工廠までです」
犬島は提督の袖を軽くつかんだ。
「違う港じゃから、迷ったら困るけぇ」
「案内表示がある」
「足音についていく方が分かりやすいです」
犬島はそう言いながら、提督の隣へ並んだ。
---
艤装の修理には五日を要した。
右舷推進軸は交換。
推進器に絡んだ海底ケーブルは、工作艦が少しずつ切断して取り除いた。
船底外板には泥地への乗り上げによる擦り傷があったが、浸水はしていない。
船首の変形も軽度だった。
修理中、犬島は工廠へ毎日通った。
初日は、工具を渡そうとして止められた。
二日目は、外したボルトを大きさ順に並べた。
三日目は、右舷推進軸の交換作業をじっと見ていた。
四日目は、作業員へ飲み物を配った。
五日目。
新しい推進軸が取り付けられ、機関試験が行われた。
右舷機関が起動する。
低く安定した音。
犬島は耳を澄ませた。
振動はない。
異音もない。
「直った……」
犬島が艤装へ駆け寄る。
「直ったんじゃな」
装甲板へ両手を当てる。
「よう頑張ったなあ。もう大丈夫じゃけぇ」
工作艦が後ろから声を掛けた。
「犬島ちゃんも無事でよかったわ」
「うちは、ほとんど何もしとりません」
「石油埠頭への衝突を避けて、片軸で河口へ入って、旧桟橋を避けて泥地に乗り上げたでしょう」
「また河口へ入った、という部分を抜いて言ってください」
「そこを抜くと状況が説明できないもの」
犬島は頬を膨らませる。
「早波港に来たときは、絶対に河口へ行かんと思っとったのに……」
「台風ではありませんでしたね」
「はい」
「他船の航路ミスでもありませんでした」
「はい」
「係留索も関係ありません」
「はい……」
「それでも河口へ行きましたね」
犬島は両手で顔を覆った。
「もう言わんでぇ……」
工廠に笑い声が広がる。
犬島は恥ずかしそうに小さくなった。
それでも艤装の機関音が聞こえると、指の間から少しだけ嬉しそうに様子を見ていた。
---
所属鎮守府へ戻る日。
早波港の関係者が波止場へ集まっていた。
浚渫作業員。
港湾管制官。
救難隊。
河口で犬島を見た漁師たち。
犬島は一人ずつに頭を下げた。
「お世話になりました」
港長が犬島へ小さな箱を渡した。
中には、早見川河口の形をした金属製の記念章が入っていた。
犬島の表情が固まる。
「これは……」
「早波港を守った記念だ」
「河口の形にせんでもよかったんじゃないですか」
「犬島が止まった場所も刻んである」
よく見ると、河口左岸の泥地に、小さな船の印が彫られていた。
犬島は複雑そうな表情で記念章を見つめた。
「嬉しいような、嬉しくないような……」
「嫌なら別の意匠にするが」
犬島は記念章を胸元へ抱えた。
「いえ。もらいます」
「いいのか」
「うちがここで、何かを護れた証でしょう?」
「ああ」
「なら、大事にします」
犬島は少しだけ笑った。
「河口の形じゃけど」
艤装を展開する。
修理された右舷推進器が静かに回り始めた。
係留索が外される。
犬島は所属鎮守府の提督の隣に並んだ。
「帰りの航路は確認したか」
「五回しました」
「河口は」
「近くに三つあります」
犬島の顔が不安そうになる。
「でも、指定航路からは離れとります」
「なら問題ない」
「海底崩落も起きませんよね」
「通常は起きない」
「通常は、ですか」
「絶対とは言えない」
犬島は提督の袖をつかんだ。
「今日は、離れんでください」
「最初から同行する予定だ」
「ずっと隣におってください」
「分かった」
犬島は安心したように頷いた。
港を出る。
早見川河口が左手に見えた。
犬島はそちらを見ないよう、正面を向いていた。
だが防波堤を越える直前、少しだけ振り返る。
泥地には、艤装が乗り上げた跡がまだ残っていた。
一つ目の河口。
二つ目の河口。
三つ目の河口。
そして四つ目。
すべて理由は違う。
どの事故でも、犬島は規則を守っていた。
それでも河口へたどり着いた。
「提督」
「何だ」
「うち、河口に好かれとるんでしょうか」
「どうだろうな」
「嫌われとるよりは、ええんですかね」
「毎回泥に乗り上げているが」
「やっぱり、好かれとらん気がします」
提督は小さく笑った。
犬島は少しだけ頬を膨らませる。
それでも、袖をつかんだ手は離さなかった。
「次こそは、普通に帰ります」
「ああ」
「河口にも、川にも、干潟にも行きません」
「ああ」
「何が起きてもです」
「無理はするな」
犬島は少し考えた。
「……安全のために必要なら、行くかもしれません」
「それでいい」
「でも、五つ目にはしたくないです」
「私も同感だ」
犬島は前を向いた。
目の前には広い海がある。
青く、穏やかで、河口よりもはるかに広い。
「海防艦なんじゃから、海におりたいんよ」
小さくつぶやく。
艤装の機関音は安定している。
提督の足音も、すぐ隣から聞こえる。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い、帰る方向を教えてくれる音。
犬島はその音に合わせ、故郷へ向かって進んだ。
晴れた日に四つ目の河口へ突っ込んだ海防艦。
海底崩落という予測不能な事故に巻き込まれながら、石油埠頭と港湾作業員を守り、誰も傷つけずに自らを泥地へ止めた艦娘。
犬島に責任はなかった。
それでも彼女は、自分が守った港へ向かって最後に深く頭を下げた。
「もう来んようにするけぇ」
少し間を置く。
「……でも、また何かあったら護ります」
そして犬島は、今度こそ河口ではない場所へ帰るため、広い海へと進んでいった。