海防艦・犬島
――鋼の身体と、六つ目の河口――
海防艦「犬島」の艦橋には、誰もいなかった。
操舵員はいない。
航海長も、機関長も、見張員もいない。
機関室にも、砲側にも、通信室にも、乗員の姿はない。
艦内に聞こえるのは、二基のディーゼル機関が刻む低い鼓動と、船底を流れる海水の音だけだった。
それでも海防艦「犬島」は、正確に指定航路の中央を進んでいた。
全長七十八・九メートル。
全幅九・二メートル。
満載排水量一千百トン余り。
艦首から艦尾まで続く鋼鉄の船体。
三基の十二糎単装砲。
艦尾の爆雷投射機と投下軌条。
二本の推進軸。
その全ては、一人の小柄な艦娘によって動かされていた。
犬島は艦橋前部に立っていた。
濃紺色の短い髪。
瀬戸内海の夕暮れを思わせる琥珀色の瞳。
白い水兵服に紺色のスカート。
胸元には深緑色のスカーフ。
右側の髪には、淡い桃色の小さな髪留めが付いている。
背中に艤装はない。
砲塔も、推進器も、爆雷投射機も身に着けていない。
それらは全て、彼女の足元にある実艦そのものだった。
犬島が艦橋の手すりへ片手を置く。
手のひらから鋼板の冷たさが伝わる。
そのさらに奥。
船底。
燃料タンク。
推進軸。
舵取機。
主機械。
補助発電機。
十二糎砲の旋回機構。
艦尾の爆雷固定装置。
犬島は、それらを自分の骨や筋肉のように感じ取っていた。
操舵輪を回す必要はない。
機関伝令を鳴らす必要もない。
犬島が「右へ」と思えば、舵が動く。
「速力を落とそう」と思えば、燃料噴射量が変わる。
彼女の意思が実艦の装置へ直接伝わり、船体が応える。
「右舷機関、回転よし」
犬島は目を閉じたままつぶやいた。
右舷推進軸に異常な振動はない。
左舷機関の冷却水温も正常。
発電機の出力は安定している。
舵角は中央。
船首方位は〇二八度。
速力九ノット。
周囲に危険な接近船なし。
犬島は目を開けた。
「今日も元気じゃな」
自分の足元の船へ、優しく話し掛ける。
「このまま、普通に港へ入ろうな」
犬島が向かっていたのは、所属鎮守府から遠く離れた朝凪港だった。
沿岸警備と災害輸送の合同訓練を終え、燃料と食料の補給を受けるための寄港である。
朝凪港は、湾の奥に大規模な工業地帯を持つ港だった。
西側には造船所。
東側には火力発電所。
湾の北端には、市街地を流れる朝凪川が注いでいる。
港内には船舶用の航路だけでなく、発電所から沖合施設へ電力を送る海上送電設備も設けられていた。
巨大な送電鉄塔が、港の両岸と人工島に立っている。
複数の高圧送電線が海面から十分な高さを保ち、港内航路の上を横断していた。
犬島の入港航路は、送電線の下を通過した後、右へ曲がって補給埠頭へ向かう。
朝凪川の河口は、予定航路から約一・八キロ離れていた。
犬島は事前に海図を何度も確認している。
港湾管制の指示も受信していた。
気象条件も良好だった。
風速二メートル。
波高二十センチ。
視界十五海里以上。
台風はない。
高潮もない。
海底崩落の危険もない。
大型貨物船との交差予定もない。
係留索を使用する段階でもなかった。
「河口も遠い」
犬島は艦橋の窓から左前方を見た。
朝凪川の河口は、港湾倉庫と防波堤の向こうにわずかに見えるだけだった。
「あっちへ行く理由は、何にもないな」
犬島は安心するように頷いた。
「今度こそ、普通に埠頭へ行けるけぇ」
過去の河口事故を思い出し、念のためもう一度航路を確認する。
現在位置。
予定変針点。
水深。
潮流。
全て正常。
港湾管制から通信が入った。
『朝凪交通管制より海防艦・犬島。現在の針路を維持してください。送電線下通過後、第四浮標で右転。補給埠頭三号岸壁へ向かってください』
犬島は艦橋の通信機に触れず、そのまま意思を電波へ乗せた。
「犬島より朝凪交通管制。現在針路を維持。第四浮標で右転、了解です」
『送電設備の保守作業が行われていますが、航路高および安全距離に問題はありません』
「了解しました」
犬島は前方を見る。
港の左右に立つ二基の送電鉄塔。
その間を、高圧送電線が渡っている。
鉄塔の近くには保守作業用の大型クレーン車があり、作業員が基礎部分の補強工事を行っていた。
だが工事区域は陸上であり、航路からも十分に離れている。
犬島は送電線下へ近づいた。
速力を八ノットへ落とす。
船首方位を正確に維持する。
「上方障害物、余裕あり」
艦橋上部の測距装置を通じて、送電線までの高さを確認する。
マスト先端との間には、規定以上の余裕があった。
何の問題もない。
そのはずだった。
---
最初に異変を感じたのは、犬島の聴覚ではなかった。
船底でも、機関でもない。
マスト上部の電波探知装置に、一瞬だけ強い電磁雑音が入った。
「ん?」
犬島が顔を上げる。
通信機に白い雑音が混ざる。
艦橋の照明がわずかに明滅した。
犬島はすぐに船内電力を確認する。
「発電機は正常……うちの方じゃない」
次の瞬間、港の西側で金属が裂けるような音が響いた。
ぎぎぎぎぎっ――。
犬島が左を向く。
送電鉄塔の一基が、ゆっくりと海側へ傾き始めていた。
「鉄塔が……?」
補強工事中だった鉄塔の基礎部分で、重大な施工不良が発生していた。
数日前、基礎内部の腐食した固定材を交換するため、鉄塔を支える四本の主固定ボルトのうち二本が取り外された。
通常であれば仮設支柱で荷重を支えた上で作業するはずだった。
しかし施工会社が使用した仮設支柱の一部には、規定より強度の低い部材が混ざっていた。
さらに、支柱を固定する締結具の一つが正しく装着されていなかった。
海から吹いた風は弱かった。
本来なら鉄塔を倒すほどの力ではない。
だが、上空を飛行していた大型輸送機が港上空を通過した際、一時的な下降気流が鉄塔へ当たった。
強度を失っていた仮設支柱が座屈した。
鉄塔の荷重が、残された二本の固定ボルトへ集中する。
一本目が破断。
続いて二本目。
巨大な送電鉄塔が、港内航路へ向かって倒れ始めた。
『朝凪交通管制より港内全船! 送電鉄塔倒壊! 航路上へ高圧線落下の危険!』
犬島は即座に機関を後進へ入れた。
二本の推進軸が逆回転する。
艦首前方の海面が白く泡立つ。
「全速後進!」
実艦には乗員がいない。
命令を復唱する声もない。
だが犬島の意思を受け、両機関は直ちに最大後進出力へ移行した。
速力八ノット。
六ノット。
五ノット。
犬島は艦首を送電線から遠ざけるため、右へ舵を切る。
「面舵一杯!」
船体が右へ回頭し始めた。
しかし、送電鉄塔の倒壊は想像以上に速かった。
鉄塔の上部が海面へ落下する。
巨大な鋼鉄構造物が水面を叩いた。
轟音。
水柱。
複数の高圧送電線が、航路を横断するように海面へ落ちた。
犬島の前方と右側が、電線と鉄塔部材で塞がれた。
送電線の一部はまだ通電していた。
海面へ接触した部分で、青白い放電が発生する。
ばちばち、と空気を裂く音。
海面から白い蒸気が上がる。
犬島は右転を止めた。
「こっちは通れん……!」
右へ進めば、落下した高圧線へ接触する。
犬島のマストや砲塔は金属製だ。
通電中の送電線が船体へ触れれば、電気系統の破壊だけでは済まない。
燃料タンク付近で火花が発生すれば、火災の恐れもある。
通信機から管制官の声が入る。
『犬島、右舷側へ高圧線が落下しています! 接近しないでください!』
「確認しとります!」
犬島は左を見る。
左舷側には、鉄塔の基礎部分から崩れた鋼材と作業台が海面へ落ちている。
大型の鉄骨が半分沈み、航路上へ突き出していた。
そこへ近づけば、船底や外板を切り裂かれる。
前方。
高圧線。
右側。
倒壊した鉄塔。
左側。
水中に沈んだ鋼材。
後方。
港へ入ってきた大型自動車運搬船。
その船も緊急後進を掛けているが、犬島との距離は縮まっていた。
犬島は自分の船体を停止させようとした。
両機関全速後進。
速力三ノット。
二ノット。
だが完全に停止する前に、鉄塔が海面へ落ちたことで発生した大きな引き波が犬島を捉えた。
大量の海水が、倒壊地点へ向かって流れる。
船首が左へ引かれた。
犬島は舵で修正する。
「戻って……!」
舵は正常。
機関も正常。
しかし、前方航路は完全に閉塞している。
後方へ下がれば、大型自動車運搬船と衝突する。
右へ行けば高圧線。
左へ行けば水中鋼材。
残された方向は、港の北側だけだった。
朝凪川の河口。
犬島は艦橋から河口を見た。
「嘘じゃろ……」
通信機から管制官の声が届く。
『犬島、北北西方向に開放水域があります!』
「それ、朝凪川の河口でしょう!」
『……はい』
「やっぱり!」
犬島の岡山弁が強くなる。
『現在、他に安全な退避水域がありません。後方の自動車運搬船は停止距離が不足しています!』
犬島は後方の映像を確認する。
大型船の船首が迫っている。
自動車運搬船は犬島を避けようと左へ舵を切っていた。
しかし、その先にも倒壊した鉄塔の鋼材がある。
犬島が後進を続ければ、二隻とも行き場を失う。
大型船と犬島が衝突すれば、犬島の船体が押し潰されるだけではない。
自動車運搬船の燃料タンクが損傷し、港内に重油が流出する恐れもあった。
犬島は一瞬だけ目を閉じた。
自分には乗員がいない。
実艦には、犬島一人しか乗っていない。
誰かに判断を任せることはできない。
艦長もいない。
航海長もいない。
機関長もいない。
この船の全責任を負い、この船を動かせるのは犬島だけだった。
「河口中央部の水深は?」
『六・二メートルです。海防艦・犬島は通航可能です』
「河口内の船は?」
『小型漁船一隻。現在、右岸船着き場へ緊急退避中です』
「その先に橋は?」
『河口から約一・四キロ上流に道路橋があります』
「浅瀬はありますか」
『左岸側、河口から九百メートル地点に広い泥質浅瀬があります』
犬島は決断した。
「犬島、朝凪川へ緊急退避します」
『了解しました。犬島の判断を支持します』
「後方の自動車運搬船には、うちの船尾を避けるよう伝えてください」
『了解!』
犬島は船首を北へ向けた。
右舷機関前進。
左舷機関後進。
二軸の回転差で、その場に近い状態から回頭する。
艦橋に立つ犬島の身体が、船体の動きに合わせてわずかに傾いた。
実艦の重さ。
水圧。
舵への負荷。
全てが犬島自身の身体感覚として伝わる。
「あと二十度……」
犬島は自分に向けてつぶやく。
「あと十五度」
高圧線から青白い火花が飛ぶ。
一本の送電線が海面を引きずられ、犬島の右舷前方へ近づいてきた。
「早う……!」
機関出力を上げる。
船首が河口を向く。
「あと五度……今!」
両舷機関を前進へ。
舵中央。
海防艦「犬島」が加速する。
右舷側を流れる高圧線との距離、二十八メートル。
左舷側の水中鋼材との距離、三十四メートル。
後方の自動車運搬船との距離、百六十メートル。
犬島は閉塞した港内航路から、狭い隙間を抜けた。
大型船の汽笛が長く鳴る。
感謝なのか、警告なのか、犬島には分からなかった。
ただ、衝突は避けられた。
「河口へ行くよ」
犬島は自分の船体へ言い聞かせた。
「またじゃけど……今は、そこしかないけぇ」
---
犬島は艦橋を出た。
誰もいない階段を駆け下りる。
第一砲塔の横を抜け、艦首甲板へ向かう。
操艦は続いている。
犬島が艦橋を離れても、船体との接続は切れない。
両機関の回転数。
舵角。
船首方位。
水深。
電力。
それらは全て、犬島の意識の中にある。
艦首に立つ。
風が濃紺色の髪を揺らした。
深緑色のスカーフが後方へなびく。
艤装はない。
犬島の足元にある、実際の海防艦が彼女の身体だった。
朝凪川の河口が近づく。
赤と緑の航路標識。
幅約百五十メートル。
犬島は中央水路へ船首を合わせた。
「右へ二度」
舵が動く。
「少し戻して」
舵角が中央へ近づく。
「左舷機関、回転を百だけ落として」
機関回転数が下がる。
船首がわずかに左へ向く。
犬島は誰の助けも借りず、全長約七十九メートルの実艦を細かく操っていた。
河口入口を通過する。
右側の防波堤との距離、三十六メートル。
左側、四十二メートル。
接触なし。
犬島は少しだけ息を吐いた。
しかし、その直後だった。
港側から引きずられてきた一本の送電線が、水中を通って犬島の艦尾付近へ達した。
電力供給は遮断されていたが、太い複合ケーブルそのものが海中に残っている。
ケーブルの先には、倒壊した鉄塔の部材が付いていた。
犬島が河口へ進む際、そのケーブルが左舷推進器の外側へ巻き込まれた。
激しい振動。
ががががっ――。
犬島の左脚に、強く引っ張られるような感覚が走る。
「っ!」
犬島は反射的に膝をついた。
左舷推進軸から異常振動。
犬島は即座に左舷機関を停止した。
「左舷推進器に、何か絡んだ……!」
右舷機関だけが動き続ける。
二軸のうち片方を失い、船首が左へ向き始めた。
犬島は右舷機関の出力を落とし、舵を右へ切る。
それでも船体は完全には安定しない。
海中のケーブルが艦尾を引き、船の向きを乱していた。
港湾管制から通信が入る。
『犬島、船首が左へ偏位しています!』
「左舷推進器に送電線が絡まりました! 機関は停止しとります!」
『救難艇を――』
「まだ出さんでください!」
犬島は強く止めた。
「港側の高圧設備が完全に安全か分かりません! それに、河口内でうちの近くへ来たらケーブルに巻き込まれるかもしれん!」
『了解しました。電力会社へ完全停電を確認します』
犬島は片軸で操艦を続けた。
右舷機関。
舵。
潮流。
ケーブルの張力。
船体全体の動きを感じ取り、少しずつ進路を整える。
しかし朝凪川の水路は、上流へ進むにつれて狭くなっていた。
前方約一・四キロに道路橋。
右岸には倉庫。
左岸には葦が生えた泥質浅瀬。
このまま中央を進めば、片軸操艦では橋脚を安全に通過できない可能性がある。
停船しようとしても、河口へ流れ込む上げ潮が犬島を上流へ押していた。
犬島は左岸を見る。
広い泥地。
人はいない。
小舟もいない。
建物もない。
「また、あそこに止まるしかないんじゃな……」
犬島は少しだけ肩を落とした。
だが、すぐに表情を引き締める。
落ち込むのは、止まってからでいい。
今は、船を安全な場所へ運ぶことが先だった。
「朝凪交通管制。左岸の浅瀬へ乗り上げます」
『了解しました。河口内に他船なし。左岸浅瀬への進入を許可します』
「許可、受けました」
犬島は誰もいない甲板上で小さく頷いた。
「これで、うちが勝手に入ったんじゃない証拠になるな」
少しだけ情けない声だった。
右舷機関の出力を調整する。
船首を左岸へ向ける。
片軸のため、回頭には時間が掛かった。
海中のケーブルも艦尾を引っ張る。
「もう少し……」
犬島は艦首の手すりを握った。
「左へ……今度は右へ戻して」
船体がゆっくりと浅瀬へ向く。
道路橋まで七百メートル。
浅瀬まで百八十メートル。
犬島は三基の十二糎砲を全て正中線へ戻し、砲身を上へ向けた。
艦尾の爆雷を安全固定。
錨の固定を再確認。
燃料系統を遮断準備。
もし船底を損傷しても、燃料が漏れにくいようにする。
「行くよ」
犬島は船首甲板へ片膝をつき、鋼板へ手を置いた。
「今度も痛いかもしれんけど……うち一人じゃないよ」
艦内に乗員はいない。
だが犬島にとって、実艦そのものは別の大切な存在のようにも感じられた。
自分自身であり、同時に自分を運んでくれる相棒。
「最後まで一緒じゃけぇ」
船首が浅瀬へ入る。
船底に泥が触れた。
ごごごごっ――。
低い振動が全身へ伝わる。
犬島の小さな体が揺れた。
船首外板が泥を押し分ける。
速度五ノット。
四ノット。
三ノット。
右舷機関を停止。
推進器の回転が止まる。
それでも海防艦「犬島」は惰性と潮流で前へ進んだ。
十メートル。
二十メートル。
三十五メートル。
船首が泥へ深く食い込む。
船体が左へ少し傾いた。
犬島は手すりへしがみついた。
艦橋。
マスト。
砲塔。
煙突。
艦尾。
全長七十八・九メートルの船体全てが、ゆっくりと動きを止めていく。
最後に船首が小さく持ち上がった。
そして静止した。
道路橋まで五百六十メートル。
右岸倉庫との距離、二百メートル以上。
他船との接触なし。
燃料漏れなし。
火災なし。
海防艦「犬島」は、朝凪川左岸の泥質浅瀬へ、実艦のまま乗り上げて停止した。
---
機関音が消えた。
川の流れる音だけが残った。
犬島は艦首に座り込んだ。
目の前には葦。
横には濁った川。
遠くに道路橋。
後ろには河口と港。
鋼鉄の船体は泥へ深く乗り上げている。
犬島はしばらく何も言わなかった。
やがて両手で顔を覆う。
「六つ目……」
艦内には誰もいない。
その声を聞く乗員もいない。
それでも、あまりにも静かな船内へ、自分の声が響いて返ってくるように感じられた。
「実艦方式になっても、やっぱり河口なんじゃ……」
犬島は指の隙間から足元を見る。
本物の第一砲塔。
本物の鋼鉄甲板。
本物の艦橋。
本物の機関室。
今回は艤装を背負った艦娘が泥へ転がり込んだのではない。
全長約七十九メートルの海防艦そのものが、川岸に刺さっている。
「しかも、うち一人しかおらんのに……」
乗員はいない。
怪我人もいない。
人命被害が発生しなかったことは救いだった。
だが、一人で全てを動かしていた犬島にとって、船体の傷はそのまま自分の傷でもあった。
犬島は目を閉じる。
船首船底に広い擦過傷。
左舷推進器へ送電ケーブルが絡まっている。
推進軸は停止が間に合ったため、重大な曲損はなさそうだった。
舵は正常。
機関も停止状態で安定。
浸水なし。
燃料漏れなし。
「大丈夫」
犬島は自分へ言い聞かせた。
「壊れたら、また直しゃあええ」
船首甲板を撫でる。
「よう頑張ったなあ」
自分自身を慰めるような、優しい声だった。
港湾管制から通信が入る。
『犬島、停止を確認しました。負傷はありますか』
「うちは一人だけです。怪我はありません」
『船体状況を報告できますか』
「船首船底に擦り傷。左舷推進器に送電ケーブル。浸水と燃料漏れはありません。主機械は両方とも停止しとります」
『了解しました。高圧線は完全に停電したことを確認しました。救難隊を派遣します』
犬島は少し間を置いて尋ねた。
「管制さん」
『はい』
「うち、悪くないですよね」
通信の向こうが一瞬静かになる。
『犬島に責任はありません』
管制官は明確に答えた。
『犬島は指定航路を規定速力以下で航行していました。交通管制の指示にも従っています』
「はい」
『送電鉄塔の倒壊は、犬島が予測できるものではありません』
「はい」
『後方船との衝突、高圧線への接触、水中鋼材との衝突を避けるため、朝凪川へ退避した判断も適切でした』
「はい……」
『左岸浅瀬への乗り上げも、道路橋との衝突を防止するための最善の処置です』
犬島の肩から力が抜ける。
「ほんまに、うち一切悪くないんですね」
『一切悪くありません』
「報告書にも書いてくれますか」
『必ず記載します』
犬島は大きく息を吐いた。
「よかったぁ……」
犬島は正式な報告書を持ち歩いていた。
これまでの河口事故について、「犬島に責任なし」と書かれた書類。
今度も一枚増えることになる。
それを喜んでよいのか、悲しんだ方がよいのか、犬島には分からなかった。
「六枚目かぁ……」
犬島は艦首へ仰向けに寝転んだ。
青空が見える。
台風ではない。
雨もない。
波も穏やか。
それでも犬島は河口にいる。
「海はあんなに広いのに……」
犬島は空へ向かってつぶやく。
「なんで、うちは川岸におるんじゃろう……」
---
救難隊が到着したのは、事故から約二時間後だった。
港湾消防艇。
浅喫水の作業艇。
工作艦娘を乗せた連絡艇。
そして所属鎮守府から急行してきた提督の指揮艇。
犬島は最初の艇が見えるより早く、その存在に気付いた。
船底へ伝わる小さな波。
複数の機関音。
遠くから近づいてくる指揮艇。
その甲板上にいる提督の足音までは、さすがに川越しでは聞こえない。
だが犬島には、不思議と分かった。
「提督が来た」
艦首に立ち上がる。
連絡艇が近づいてくる。
犬島は両手を大きく振った。
「ここです!」
実艦の姿は、遠くからでも十分に見える。
全長八十メートル近い海防艦が、川岸に乗り上げている。
隠れようがない。
それでも犬島は何度も手を振った。
提督が手を振り返す。
それを見た犬島の表情が、ぱっと明るくなった。
艦尾側に臨時の梯子が掛けられ、提督が一人で犬島へ乗り移った。
乗員のいない艦内。
静かな後甲板。
提督が甲板を歩く。
一定の歩幅。
少しだけ右足が強い。
犬島は艦首からその足音を聞き取った。
「提督」
姿が見える前に呼び掛ける。
提督が第一砲塔の横から現れた。
犬島は駆け出した。
艦首から後方へ。
第一砲塔を回り込み、提督の前まで来る。
そしていつものように、その制服の袖を両手でつかんだ。
「迎えに来てくれた」
「ああ」
「今度は、うちしか乗っとらんです」
「報告で聞いている」
「一人で全部動かしとったんです」
「ああ」
「ちゃんと航路も守りました」
「分かっている」
「速力も守りました」
「ああ」
「送電線の下を通ってええって、管制から許可も受けとりました」
「記録を確認した」
犬島は提督の袖を握ったまま見上げる。
「うち、全く悪くないですよね」
「全く悪くない」
提督は迷わず答えた。
「鉄塔の基礎工事に問題があり、仮設支柱が破損したことが原因だ。犬島には予測も回避もできなかった」
「河口へ向けたんは、うちです」
「他の方向は高圧線、水中鋼材、後続船で塞がれていた」
「浅瀬へ乗り上げたんも、うちです」
「道路橋へ衝突しないためだろう」
「はい」
「正しい判断だった」
犬島は目を閉じた。
「……よかった」
そのまま、提督の腕へ少しだけ額を寄せる。
艤装はない。
周囲に乗員もいない。
広い甲板にいるのは、犬島と提督の二人だけだった。
犬島に尻尾はない。
だが、提督が頭を撫でると、深緑色のスカーフが小さく何度も揺れた。
「船体の具合は」
提督が尋ねる。
「左舷推進器にケーブルが絡んどります。船首船底に擦り傷。浸水なし。燃料漏れなしです」
「痛むか」
犬島は少し考えた。
実艦の傷は、艦娘の身体に直接傷跡として現れてはいない。
それでも船首や船底の違和感は、鈍い痛みとして犬島の中に残っていた。
「少しだけ」
「無理に立っていなくていい」
「でも、うちがこの船を見とかんと」
「今は工作艦が来ている」
「それでも……」
犬島は甲板へ手を置いた。
「この子も、うちじゃから」
艦娘としての小さな犬島。
実艦としての大きな犬島。
二つは同じ存在だった。
犬島は船体を動かせる。
船体の感覚を受け取れる。
けれど、泥へ乗り上げた実艦を見ると、傷ついた相棒を置いていくような気持ちになる。
提督は犬島の隣へ立った。
「なら、離礁作業が終わるまで一緒にいよう」
犬島が顔を上げる。
「提督も?」
「ああ」
「ずっと?」
「必要な間は」
犬島は少し嬉しそうに笑った。
「えへへ……」
すぐに表情を取り繕う。
「今のは、笑ったんじゃないです」
「そうか」
「安心しただけです」
「分かった」
犬島は提督の袖を離さないまま、艦首へ戻った。
---
事故調査では、犬島の航海記録が詳しく分析された。
船体位置。
針路。
速力。
舵角。
主機回転数。
港湾管制との通信内容。
送電鉄塔が倒壊した時刻。
緊急後進を開始した時刻。
高圧線の落下位置。
後続船との距離。
朝凪川へ転針した地点。
全てが正確に残っていた。
犬島は指定航路の中央を、規定以下の速力で航行していた。
管制から送電線下の通過許可も受けている。
見張りにも問題はなかった。
鉄塔の倒壊を認識すると同時に、犬島は全速後進を開始した。
右舷側へ落下した高圧線。
左舷側の水中鋼材。
後方の大型船。
事故時点で、朝凪川河口以外に安全な退避方向は存在しなかった。
さらに河口進入後、送電ケーブルが左舷推進器へ絡んだため、犬島は片軸での操艦を強いられた。
それでも漁船、倉庫、護岸、道路橋の全てを避けている。
最終報告書には、明確に記された。
«海防艦「犬島」および艦娘・犬島の航行、見張り、通信、機関操作、操舵ならびに緊急避難判断に、過失は一切認められない。»
続いて、犬島の判断が評価された。
«犬島が朝凪川河口へ退避したことにより、通電中の高圧送電線への接触、倒壊した鉄塔部材との衝突、および後続大型船との衝突が防止された。»
«また、左舷推進器の使用不能後に左岸浅瀬へ意図的に乗り上げた処置は、道路橋および河川沿岸施設への二次被害を防ぐ上で、極めて適切であった。»
報告書を受け取った犬島は、艦橋の机に広げた。
艦内には犬島しかいない。
椅子へ座る必要もなかったが、彼女は艦長席に小さく腰掛けている。
一行ずつ読む。
「過失は一切認められない」
指で文章をなぞる。
「極めて適切であった」
犬島は報告書を丁寧に折った。
制服の内側へしまう。
その場所には、すでに五枚の報告書が入っていた。
「これで六枚目」
隣に立つ提督が尋ねる。
「全て持ち歩く必要があるのか」
「あります」
犬島は真剣だった。
「六回も河口へ行っとったら、絶対に誰かが『犬島が河口を目指して操艦しとる』って思います」
「そんな操艦をする理由がないだろう」
「でも、結果だけ見たら六回です」
「全て理由が違う」
「だから、その証拠を持っとるんです」
犬島は制服の胸元を押さえた。
「台風でも、係留索でも、貨物船でも、海底崩落でも、送電鉄塔でも……うちが悪かったことは一回もないです」
「分かっている」
「提督は分かってくれますけど、初めて会う人は分からんでしょう」
「報告書を六枚見せられた方が驚くと思うが」
犬島の頬が膨らむ。
「じゃあ、どうしたらええんですか」
「事故を起こさないことだな」
「うちも起こしたくて起こしとるんじゃないです!」
艦橋内へ犬島の声が響いた。
無人のため、笑う乗員はいない。
だが提督が少しだけ口元を緩めた。
犬島はそれを見逃さなかった。
「今、笑いましたね」
「笑っていない」
「絶対、笑いました」
「安心しただけだ」
犬島は自分がよく使う言い訳を返され、何も言えなくなった。
---
海防艦「犬島」の離礁作業は、満潮に合わせて行われた。
最初に左舷推進器へ絡んだ送電ケーブルを除去する。
高圧線の停電を再確認した後、潜水作業員が水中へ入った。
太いケーブルは推進器と軸受の外側へ三重に巻き付いていた。
犬島は艦首に立ち、作業を見守る。
海中でケーブルが切断されるたび、左舷推進器を締め付けていた感覚が少しずつ軽くなった。
「もう少し……」
最後の一本が外れる。
左舷推進器が自由になった。
犬島は低い回転数で機関を試す。
ゆっくり。
一回転。
二回転。
異常な振動はない。
「左舷、動きます」
犬島の顔が明るくなった。
「推進軸も無事です」
次に二隻の曳船が艦尾へ曳航索を取った。
船体を軽くするため、燃料の一部を補給船へ移す。
船首周辺の泥を浚渫する。
犬島は艦橋前部へ立った。
「曳航開始します!」
曳船の出力が上がる。
太い索が張る。
艦尾がわずかに動いた。
船底と泥の間から低い音が響く。
ごごごっ――。
犬島は手すりを握った。
船体へ掛かる力を感じる。
「あと少し」
艦尾が後退する。
艦首が泥から抜け始める。
船体が一度大きく震えた。
犬島は両足を踏ん張る。
「抜けるよ……!」
曳船がさらに引く。
艦首船底が泥を離れた。
海防艦「犬島」の船体が、再び完全に水面へ浮かんだ。
左岸と道路橋から、拍手が聞こえた。
犬島は驚いて川岸を見る。
港湾作業員。
電力会社の職員。
消防隊。
警察官。
漁師。
近隣住民。
多くの人々が、離礁した犬島へ手を振っている。
犬島は艦橋から艦首へ走った。
船首旗竿の近くまで行き、両手を振り返す。
「ありがとうございます!」
犬島の声は、川風に乗って岸へ届いた。
誰かが叫ぶ。
「犬島、おかえり!」
別の場所からも声が上がる。
「港を守ってくれて、ありがとう!」
犬島の琥珀色の瞳が少し潤んだ。
自分はこの土地の艦娘ではない。
朝凪港へ来たのも、今回が初めてだった。
それでも人々は、川から海へ戻る犬島を迎えてくれている。
「おかえりって……言うてもらえた」
犬島は嬉しそうにつぶやいた。
提督が艦橋から答える。
「犬島が港を守ったからだ」
「うちは逃げただけです」
「最も被害の少ない方向へ逃げた。それも立派な判断だ」
「……えへへ」
犬島は今度は笑ったことを否定しなかった。
実艦「犬島」は曳船に導かれ、朝凪川を下っていく。
道路橋を離れる。
倉庫を通過する。
河口標識の間へ入る。
そして船首が、再び海へ出た。
犬島は大きく息を吸った。
潮の匂い。
広い水面。
遮るもののない水平線。
「海じゃ」
安心しきった声だった。
「やっぱり、うちは海におる方がええなあ」
提督が答える。
「海防艦だからな」
「河川艦じゃありません」
「六つの河川へ入っているが」
犬島が勢いよく振り返る。
「提督!」
「事実確認だ」
「もう、六つ目って言わんでください!」
「犬島が最初に言ったんだろう」
「うちが言うんと、他の人が言うんは違うんです!」
艦橋と艦首の間に、犬島の声が響く。
乗員はいない。
それでも実艦の船内が、少しだけ賑やかになったように感じられた。
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朝凪港を出港する日。
海防艦「犬島」は、自分の機関だけで補給埠頭を離れた。
犬島は艦橋に立っていた。
艤装はない。
乗員もいない。
艦橋には、小柄な犬島一人だけ。
しかし船体は正確に岸壁から離れ、港内航路へ入る。
右舷機関。
左舷機関。
舵。
発電機。
見張り装置。
通信機。
それら全てを犬島一人が動かしている。
倒壊した送電鉄塔は、すでに撤去されていた。
高圧送電線の代わりに、仮設の海底送電ケーブルが設置されている。
港湾管制から通信が入った。
『海防艦・犬島、出港航路に異常ありません。安全な航海を祈ります』
「ありがとうございます。犬島、所属鎮守府へ帰投します」
『朝凪川へ向かう予定はありませんね』
犬島の動きが止まった。
通信の向こうから、管制官の小さな笑い声が聞こえる。
犬島は頬を膨らませた。
「ありません!」
『失礼しました』
「海へ帰ります!」
『了解しました。海へ帰ってください』
犬島は少し怒ったまま通信を切った。
提督は連絡艇ではなく、帰投航海の間だけ犬島へ同乗していた。
艦橋後方で海図を見ている。
犬島が提督を見る。
「管制さんまで、からかうんですよ」
「無事に帰れることが分かっているからだろう」
「でも、うちは本気で河口を避けたいんです」
「今日の航路周辺にも河川はいくつかある」
犬島の顔が曇る。
「言わんでください」
「海図上の事実だ」
「見えんかったことにします」
「見張りを放棄するな」
「そういう意味じゃないです!」
提督が小さく笑う。
犬島は不満そうに前を向いた。
それでも少し経つと、提督がまだ艦橋にいるか確認するように振り返る。
提督が視界に入ると、安心して正面へ戻る。
一度。
二度。
三度。
ついに提督が尋ねた。
「何度も振り返って、どうした」
「別に」
「私がいるか確認しているのか」
「違います」
「そうか」
「……ちょっとだけです」
犬島は正直に言い直した。
「実艦を一人で動かせますけど、知らん港から帰るときは、誰かがおる方が安心するんです」
「船を動かしているのは犬島だ」
「分かっとります」
「航路も犬島が確認している」
「はい」
「なら、私がいなくても帰れるだろう」
犬島は少し黙った。
その後、艦橋の床を歩き、提督のそばへ来る。
制服の袖を軽くつかんだ。
「帰れます」
犬島は答えた。
「でも、一緒の方がええんです」
提督は犬島の頭へ手を置いた。
犬島は少しだけ頭を寄せる。
その間も、実艦「犬島」は正確に航路を進んでいる。
艦娘の身体が提督の隣にあっても、意識は船体全体へ広がっていた。
前方見張り。
推進器。
舵。
機関。
船底。
全て異常なし。
犬島は水平線を見た。
河口は見えない。
川岸もない。
泥地もない。
ただ、広い海だけが続いている。
「提督」
「何だ」
「今度こそ、普通に帰れそうです」
「ああ」
「河口へは行きません」
「ああ」
「送電鉄塔も倒れてきません」
「そう願おう」
「貨物船も来ません」
「見張りは続けろ」
「台風もありません」
「天気は良好だ」
「海底も崩れません」
「通常はな」
犬島は提督を見る。
「通常は、って言わんでください」
「絶対とは言えない」
「不安になるじゃろ……」
犬島は袖をつかむ指に少し力を入れた。
提督が犬島の頭をもう一度撫でる。
「何か起きても、犬島なら最も安全な場所を選べる」
「それが、また河口じゃったらどうするんですか」
「そのときは迎えに行く」
「実艦ごとでも?」
「ああ」
「遠い河口でも?」
「ああ」
「七つ目でも?」
提督は少し考えた。
「七つ目には行かないでくれ」
犬島も真剣に頷く。
「うちも、絶対に嫌です」
実艦「犬島」は、二基のディーゼル機関を響かせながら海を進む。
艦首には小さな艦娘。
背中に艤装はない。
艦内に乗員もいない。
彼女一人が、この鋼鉄の船全てを動かしている。
送電鉄塔の倒壊。
高圧線の落下。
水中鋼材。
後続大型船。
犬島には予測できず、犬島の操艦にも整備にも、何の過失もなかった。
それでも犬島は、事故の中で最も多くのものを守れる方向を選んだ。
その先に、また河口があっただけだった。
犬島は艦橋から艦首へ移動した。
第一砲塔の前に立つ。
海風が髪とスカーフを揺らす。
足元には、修理を終えた実艦の船体。
犬島は鋼鉄の甲板へ手を当てた。
「今度こそ、普通に帰ろうな」
二本の推進軸が、滑らかに海水をかく。
犬島は笑った。
「帰ったら、みんなに『ただいま』って言わんといけんけぇ」
全長七十八・九メートルの海防艦は、小さな艦娘一人だけを乗せ、今度こそ川ではなく、帰るべき鎮守府へ向かってまっすぐ進んでいった。