海防艦 犬島   作:重装甲空母信濃

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先程生成した小説を実際の艦艇に艦娘が艤装を持たない状態で艦橋又は艦首に立っている状態(艦これの非公式用語としてメンタルモデル方式と呼ばれているもの)で、また乗員はおらず艦娘1人で艦艇を動かすことができる。そして、今までとは別の理由で犬島が全く悪くない河口へ突っ込む事故の小説。に合わせて作り直して


犬島高圧電線(送電塔)河口6

海防艦・犬島

 

――鋼の身体と、六つ目の河口――

 

海防艦「犬島」の艦橋には、誰もいなかった。

 

操舵員はいない。

 

航海長も、機関長も、見張員もいない。

 

機関室にも、砲側にも、通信室にも、乗員の姿はない。

 

艦内に聞こえるのは、二基のディーゼル機関が刻む低い鼓動と、船底を流れる海水の音だけだった。

 

それでも海防艦「犬島」は、正確に指定航路の中央を進んでいた。

 

全長七十八・九メートル。

 

全幅九・二メートル。

 

満載排水量一千百トン余り。

 

艦首から艦尾まで続く鋼鉄の船体。

 

三基の十二糎単装砲。

 

艦尾の爆雷投射機と投下軌条。

 

二本の推進軸。

 

その全ては、一人の小柄な艦娘によって動かされていた。

 

犬島は艦橋前部に立っていた。

 

濃紺色の短い髪。

 

瀬戸内海の夕暮れを思わせる琥珀色の瞳。

 

白い水兵服に紺色のスカート。

 

胸元には深緑色のスカーフ。

 

右側の髪には、淡い桃色の小さな髪留めが付いている。

 

背中に艤装はない。

 

砲塔も、推進器も、爆雷投射機も身に着けていない。

 

それらは全て、彼女の足元にある実艦そのものだった。

 

犬島が艦橋の手すりへ片手を置く。

 

手のひらから鋼板の冷たさが伝わる。

 

そのさらに奥。

 

船底。

 

燃料タンク。

 

推進軸。

 

舵取機。

 

主機械。

 

補助発電機。

 

十二糎砲の旋回機構。

 

艦尾の爆雷固定装置。

 

犬島は、それらを自分の骨や筋肉のように感じ取っていた。

 

操舵輪を回す必要はない。

 

機関伝令を鳴らす必要もない。

 

犬島が「右へ」と思えば、舵が動く。

 

「速力を落とそう」と思えば、燃料噴射量が変わる。

 

彼女の意思が実艦の装置へ直接伝わり、船体が応える。

 

「右舷機関、回転よし」

 

犬島は目を閉じたままつぶやいた。

 

右舷推進軸に異常な振動はない。

 

左舷機関の冷却水温も正常。

 

発電機の出力は安定している。

 

舵角は中央。

 

船首方位は〇二八度。

 

速力九ノット。

 

周囲に危険な接近船なし。

 

犬島は目を開けた。

 

「今日も元気じゃな」

 

自分の足元の船へ、優しく話し掛ける。

 

「このまま、普通に港へ入ろうな」

 

犬島が向かっていたのは、所属鎮守府から遠く離れた朝凪港だった。

 

沿岸警備と災害輸送の合同訓練を終え、燃料と食料の補給を受けるための寄港である。

 

朝凪港は、湾の奥に大規模な工業地帯を持つ港だった。

 

西側には造船所。

 

東側には火力発電所。

 

湾の北端には、市街地を流れる朝凪川が注いでいる。

 

港内には船舶用の航路だけでなく、発電所から沖合施設へ電力を送る海上送電設備も設けられていた。

 

巨大な送電鉄塔が、港の両岸と人工島に立っている。

 

複数の高圧送電線が海面から十分な高さを保ち、港内航路の上を横断していた。

 

犬島の入港航路は、送電線の下を通過した後、右へ曲がって補給埠頭へ向かう。

 

朝凪川の河口は、予定航路から約一・八キロ離れていた。

 

犬島は事前に海図を何度も確認している。

 

港湾管制の指示も受信していた。

 

気象条件も良好だった。

 

風速二メートル。

 

波高二十センチ。

 

視界十五海里以上。

 

台風はない。

 

高潮もない。

 

海底崩落の危険もない。

 

大型貨物船との交差予定もない。

 

係留索を使用する段階でもなかった。

 

「河口も遠い」

 

犬島は艦橋の窓から左前方を見た。

 

朝凪川の河口は、港湾倉庫と防波堤の向こうにわずかに見えるだけだった。

 

「あっちへ行く理由は、何にもないな」

 

犬島は安心するように頷いた。

 

「今度こそ、普通に埠頭へ行けるけぇ」

 

過去の河口事故を思い出し、念のためもう一度航路を確認する。

 

現在位置。

 

予定変針点。

 

水深。

 

潮流。

 

全て正常。

 

港湾管制から通信が入った。

 

『朝凪交通管制より海防艦・犬島。現在の針路を維持してください。送電線下通過後、第四浮標で右転。補給埠頭三号岸壁へ向かってください』

 

犬島は艦橋の通信機に触れず、そのまま意思を電波へ乗せた。

 

「犬島より朝凪交通管制。現在針路を維持。第四浮標で右転、了解です」

 

『送電設備の保守作業が行われていますが、航路高および安全距離に問題はありません』

 

「了解しました」

 

犬島は前方を見る。

 

港の左右に立つ二基の送電鉄塔。

 

その間を、高圧送電線が渡っている。

 

鉄塔の近くには保守作業用の大型クレーン車があり、作業員が基礎部分の補強工事を行っていた。

 

だが工事区域は陸上であり、航路からも十分に離れている。

 

犬島は送電線下へ近づいた。

 

速力を八ノットへ落とす。

 

船首方位を正確に維持する。

 

「上方障害物、余裕あり」

 

艦橋上部の測距装置を通じて、送電線までの高さを確認する。

 

マスト先端との間には、規定以上の余裕があった。

 

何の問題もない。

 

そのはずだった。

 

---

 

最初に異変を感じたのは、犬島の聴覚ではなかった。

 

船底でも、機関でもない。

 

マスト上部の電波探知装置に、一瞬だけ強い電磁雑音が入った。

 

「ん?」

 

犬島が顔を上げる。

 

通信機に白い雑音が混ざる。

 

艦橋の照明がわずかに明滅した。

 

犬島はすぐに船内電力を確認する。

 

「発電機は正常……うちの方じゃない」

 

次の瞬間、港の西側で金属が裂けるような音が響いた。

 

ぎぎぎぎぎっ――。

 

犬島が左を向く。

 

送電鉄塔の一基が、ゆっくりと海側へ傾き始めていた。

 

「鉄塔が……?」

 

補強工事中だった鉄塔の基礎部分で、重大な施工不良が発生していた。

 

数日前、基礎内部の腐食した固定材を交換するため、鉄塔を支える四本の主固定ボルトのうち二本が取り外された。

 

通常であれば仮設支柱で荷重を支えた上で作業するはずだった。

 

しかし施工会社が使用した仮設支柱の一部には、規定より強度の低い部材が混ざっていた。

 

さらに、支柱を固定する締結具の一つが正しく装着されていなかった。

 

海から吹いた風は弱かった。

 

本来なら鉄塔を倒すほどの力ではない。

 

だが、上空を飛行していた大型輸送機が港上空を通過した際、一時的な下降気流が鉄塔へ当たった。

 

強度を失っていた仮設支柱が座屈した。

 

鉄塔の荷重が、残された二本の固定ボルトへ集中する。

 

一本目が破断。

 

続いて二本目。

 

巨大な送電鉄塔が、港内航路へ向かって倒れ始めた。

 

『朝凪交通管制より港内全船! 送電鉄塔倒壊! 航路上へ高圧線落下の危険!』

 

犬島は即座に機関を後進へ入れた。

 

二本の推進軸が逆回転する。

 

艦首前方の海面が白く泡立つ。

 

「全速後進!」

 

実艦には乗員がいない。

 

命令を復唱する声もない。

 

だが犬島の意思を受け、両機関は直ちに最大後進出力へ移行した。

 

速力八ノット。

 

六ノット。

 

五ノット。

 

犬島は艦首を送電線から遠ざけるため、右へ舵を切る。

 

「面舵一杯!」

 

船体が右へ回頭し始めた。

 

しかし、送電鉄塔の倒壊は想像以上に速かった。

 

鉄塔の上部が海面へ落下する。

 

巨大な鋼鉄構造物が水面を叩いた。

 

轟音。

 

水柱。

 

複数の高圧送電線が、航路を横断するように海面へ落ちた。

 

犬島の前方と右側が、電線と鉄塔部材で塞がれた。

 

送電線の一部はまだ通電していた。

 

海面へ接触した部分で、青白い放電が発生する。

 

ばちばち、と空気を裂く音。

 

海面から白い蒸気が上がる。

 

犬島は右転を止めた。

 

「こっちは通れん……!」

 

右へ進めば、落下した高圧線へ接触する。

 

犬島のマストや砲塔は金属製だ。

 

通電中の送電線が船体へ触れれば、電気系統の破壊だけでは済まない。

 

燃料タンク付近で火花が発生すれば、火災の恐れもある。

 

通信機から管制官の声が入る。

 

『犬島、右舷側へ高圧線が落下しています! 接近しないでください!』

 

「確認しとります!」

 

犬島は左を見る。

 

左舷側には、鉄塔の基礎部分から崩れた鋼材と作業台が海面へ落ちている。

 

大型の鉄骨が半分沈み、航路上へ突き出していた。

 

そこへ近づけば、船底や外板を切り裂かれる。

 

前方。

 

高圧線。

 

右側。

 

倒壊した鉄塔。

 

左側。

 

水中に沈んだ鋼材。

 

後方。

 

港へ入ってきた大型自動車運搬船。

 

その船も緊急後進を掛けているが、犬島との距離は縮まっていた。

 

犬島は自分の船体を停止させようとした。

 

両機関全速後進。

 

速力三ノット。

 

二ノット。

 

だが完全に停止する前に、鉄塔が海面へ落ちたことで発生した大きな引き波が犬島を捉えた。

 

大量の海水が、倒壊地点へ向かって流れる。

 

船首が左へ引かれた。

 

犬島は舵で修正する。

 

「戻って……!」

 

舵は正常。

 

機関も正常。

 

しかし、前方航路は完全に閉塞している。

 

後方へ下がれば、大型自動車運搬船と衝突する。

 

右へ行けば高圧線。

 

左へ行けば水中鋼材。

 

残された方向は、港の北側だけだった。

 

朝凪川の河口。

 

犬島は艦橋から河口を見た。

 

「嘘じゃろ……」

 

通信機から管制官の声が届く。

 

『犬島、北北西方向に開放水域があります!』

 

「それ、朝凪川の河口でしょう!」

 

『……はい』

 

「やっぱり!」

 

犬島の岡山弁が強くなる。

 

『現在、他に安全な退避水域がありません。後方の自動車運搬船は停止距離が不足しています!』

 

犬島は後方の映像を確認する。

 

大型船の船首が迫っている。

 

自動車運搬船は犬島を避けようと左へ舵を切っていた。

 

しかし、その先にも倒壊した鉄塔の鋼材がある。

 

犬島が後進を続ければ、二隻とも行き場を失う。

 

大型船と犬島が衝突すれば、犬島の船体が押し潰されるだけではない。

 

自動車運搬船の燃料タンクが損傷し、港内に重油が流出する恐れもあった。

 

犬島は一瞬だけ目を閉じた。

 

自分には乗員がいない。

 

実艦には、犬島一人しか乗っていない。

 

誰かに判断を任せることはできない。

 

艦長もいない。

 

航海長もいない。

 

機関長もいない。

 

この船の全責任を負い、この船を動かせるのは犬島だけだった。

 

「河口中央部の水深は?」

 

『六・二メートルです。海防艦・犬島は通航可能です』

 

「河口内の船は?」

 

『小型漁船一隻。現在、右岸船着き場へ緊急退避中です』

 

「その先に橋は?」

 

『河口から約一・四キロ上流に道路橋があります』

 

「浅瀬はありますか」

 

『左岸側、河口から九百メートル地点に広い泥質浅瀬があります』

 

犬島は決断した。

 

「犬島、朝凪川へ緊急退避します」

 

『了解しました。犬島の判断を支持します』

 

「後方の自動車運搬船には、うちの船尾を避けるよう伝えてください」

 

『了解!』

 

犬島は船首を北へ向けた。

 

右舷機関前進。

 

左舷機関後進。

 

二軸の回転差で、その場に近い状態から回頭する。

 

艦橋に立つ犬島の身体が、船体の動きに合わせてわずかに傾いた。

 

実艦の重さ。

 

水圧。

 

舵への負荷。

 

全てが犬島自身の身体感覚として伝わる。

 

「あと二十度……」

 

犬島は自分に向けてつぶやく。

 

「あと十五度」

 

高圧線から青白い火花が飛ぶ。

 

一本の送電線が海面を引きずられ、犬島の右舷前方へ近づいてきた。

 

「早う……!」

 

機関出力を上げる。

 

船首が河口を向く。

 

「あと五度……今!」

 

両舷機関を前進へ。

 

舵中央。

 

海防艦「犬島」が加速する。

 

右舷側を流れる高圧線との距離、二十八メートル。

 

左舷側の水中鋼材との距離、三十四メートル。

 

後方の自動車運搬船との距離、百六十メートル。

 

犬島は閉塞した港内航路から、狭い隙間を抜けた。

 

大型船の汽笛が長く鳴る。

 

感謝なのか、警告なのか、犬島には分からなかった。

 

ただ、衝突は避けられた。

 

「河口へ行くよ」

 

犬島は自分の船体へ言い聞かせた。

 

「またじゃけど……今は、そこしかないけぇ」

 

---

 

犬島は艦橋を出た。

 

誰もいない階段を駆け下りる。

 

第一砲塔の横を抜け、艦首甲板へ向かう。

 

操艦は続いている。

 

犬島が艦橋を離れても、船体との接続は切れない。

 

両機関の回転数。

 

舵角。

 

船首方位。

 

水深。

 

電力。

 

それらは全て、犬島の意識の中にある。

 

艦首に立つ。

 

風が濃紺色の髪を揺らした。

 

深緑色のスカーフが後方へなびく。

 

艤装はない。

 

犬島の足元にある、実際の海防艦が彼女の身体だった。

 

朝凪川の河口が近づく。

 

赤と緑の航路標識。

 

幅約百五十メートル。

 

犬島は中央水路へ船首を合わせた。

 

「右へ二度」

 

舵が動く。

 

「少し戻して」

 

舵角が中央へ近づく。

 

「左舷機関、回転を百だけ落として」

 

機関回転数が下がる。

 

船首がわずかに左へ向く。

 

犬島は誰の助けも借りず、全長約七十九メートルの実艦を細かく操っていた。

 

河口入口を通過する。

 

右側の防波堤との距離、三十六メートル。

 

左側、四十二メートル。

 

接触なし。

 

犬島は少しだけ息を吐いた。

 

しかし、その直後だった。

 

港側から引きずられてきた一本の送電線が、水中を通って犬島の艦尾付近へ達した。

 

電力供給は遮断されていたが、太い複合ケーブルそのものが海中に残っている。

 

ケーブルの先には、倒壊した鉄塔の部材が付いていた。

 

犬島が河口へ進む際、そのケーブルが左舷推進器の外側へ巻き込まれた。

 

激しい振動。

 

ががががっ――。

 

犬島の左脚に、強く引っ張られるような感覚が走る。

 

「っ!」

 

犬島は反射的に膝をついた。

 

左舷推進軸から異常振動。

 

犬島は即座に左舷機関を停止した。

 

「左舷推進器に、何か絡んだ……!」

 

右舷機関だけが動き続ける。

 

二軸のうち片方を失い、船首が左へ向き始めた。

 

犬島は右舷機関の出力を落とし、舵を右へ切る。

 

それでも船体は完全には安定しない。

 

海中のケーブルが艦尾を引き、船の向きを乱していた。

 

港湾管制から通信が入る。

 

『犬島、船首が左へ偏位しています!』

 

「左舷推進器に送電線が絡まりました! 機関は停止しとります!」

 

『救難艇を――』

 

「まだ出さんでください!」

 

犬島は強く止めた。

 

「港側の高圧設備が完全に安全か分かりません! それに、河口内でうちの近くへ来たらケーブルに巻き込まれるかもしれん!」

 

『了解しました。電力会社へ完全停電を確認します』

 

犬島は片軸で操艦を続けた。

 

右舷機関。

 

舵。

 

潮流。

 

ケーブルの張力。

 

船体全体の動きを感じ取り、少しずつ進路を整える。

 

しかし朝凪川の水路は、上流へ進むにつれて狭くなっていた。

 

前方約一・四キロに道路橋。

 

右岸には倉庫。

 

左岸には葦が生えた泥質浅瀬。

 

このまま中央を進めば、片軸操艦では橋脚を安全に通過できない可能性がある。

 

停船しようとしても、河口へ流れ込む上げ潮が犬島を上流へ押していた。

 

犬島は左岸を見る。

 

広い泥地。

 

人はいない。

 

小舟もいない。

 

建物もない。

 

「また、あそこに止まるしかないんじゃな……」

 

犬島は少しだけ肩を落とした。

 

だが、すぐに表情を引き締める。

 

落ち込むのは、止まってからでいい。

 

今は、船を安全な場所へ運ぶことが先だった。

 

「朝凪交通管制。左岸の浅瀬へ乗り上げます」

 

『了解しました。河口内に他船なし。左岸浅瀬への進入を許可します』

 

「許可、受けました」

 

犬島は誰もいない甲板上で小さく頷いた。

 

「これで、うちが勝手に入ったんじゃない証拠になるな」

 

少しだけ情けない声だった。

 

右舷機関の出力を調整する。

 

船首を左岸へ向ける。

 

片軸のため、回頭には時間が掛かった。

 

海中のケーブルも艦尾を引っ張る。

 

「もう少し……」

 

犬島は艦首の手すりを握った。

 

「左へ……今度は右へ戻して」

 

船体がゆっくりと浅瀬へ向く。

 

道路橋まで七百メートル。

 

浅瀬まで百八十メートル。

 

犬島は三基の十二糎砲を全て正中線へ戻し、砲身を上へ向けた。

 

艦尾の爆雷を安全固定。

 

錨の固定を再確認。

 

燃料系統を遮断準備。

 

もし船底を損傷しても、燃料が漏れにくいようにする。

 

「行くよ」

 

犬島は船首甲板へ片膝をつき、鋼板へ手を置いた。

 

「今度も痛いかもしれんけど……うち一人じゃないよ」

 

艦内に乗員はいない。

 

だが犬島にとって、実艦そのものは別の大切な存在のようにも感じられた。

 

自分自身であり、同時に自分を運んでくれる相棒。

 

「最後まで一緒じゃけぇ」

 

船首が浅瀬へ入る。

 

船底に泥が触れた。

 

ごごごごっ――。

 

低い振動が全身へ伝わる。

 

犬島の小さな体が揺れた。

 

船首外板が泥を押し分ける。

 

速度五ノット。

 

四ノット。

 

三ノット。

 

右舷機関を停止。

 

推進器の回転が止まる。

 

それでも海防艦「犬島」は惰性と潮流で前へ進んだ。

 

十メートル。

 

二十メートル。

 

三十五メートル。

 

船首が泥へ深く食い込む。

 

船体が左へ少し傾いた。

 

犬島は手すりへしがみついた。

 

艦橋。

 

マスト。

 

砲塔。

 

煙突。

 

艦尾。

 

全長七十八・九メートルの船体全てが、ゆっくりと動きを止めていく。

 

最後に船首が小さく持ち上がった。

 

そして静止した。

 

道路橋まで五百六十メートル。

 

右岸倉庫との距離、二百メートル以上。

 

他船との接触なし。

 

燃料漏れなし。

 

火災なし。

 

海防艦「犬島」は、朝凪川左岸の泥質浅瀬へ、実艦のまま乗り上げて停止した。

 

---

 

機関音が消えた。

 

川の流れる音だけが残った。

 

犬島は艦首に座り込んだ。

 

目の前には葦。

 

横には濁った川。

 

遠くに道路橋。

 

後ろには河口と港。

 

鋼鉄の船体は泥へ深く乗り上げている。

 

犬島はしばらく何も言わなかった。

 

やがて両手で顔を覆う。

 

「六つ目……」

 

艦内には誰もいない。

 

その声を聞く乗員もいない。

 

それでも、あまりにも静かな船内へ、自分の声が響いて返ってくるように感じられた。

 

「実艦方式になっても、やっぱり河口なんじゃ……」

 

犬島は指の隙間から足元を見る。

 

本物の第一砲塔。

 

本物の鋼鉄甲板。

 

本物の艦橋。

 

本物の機関室。

 

今回は艤装を背負った艦娘が泥へ転がり込んだのではない。

 

全長約七十九メートルの海防艦そのものが、川岸に刺さっている。

 

「しかも、うち一人しかおらんのに……」

 

乗員はいない。

 

怪我人もいない。

 

人命被害が発生しなかったことは救いだった。

 

だが、一人で全てを動かしていた犬島にとって、船体の傷はそのまま自分の傷でもあった。

 

犬島は目を閉じる。

 

船首船底に広い擦過傷。

 

左舷推進器へ送電ケーブルが絡まっている。

 

推進軸は停止が間に合ったため、重大な曲損はなさそうだった。

 

舵は正常。

 

機関も停止状態で安定。

 

浸水なし。

 

燃料漏れなし。

 

「大丈夫」

 

犬島は自分へ言い聞かせた。

 

「壊れたら、また直しゃあええ」

 

船首甲板を撫でる。

 

「よう頑張ったなあ」

 

自分自身を慰めるような、優しい声だった。

 

港湾管制から通信が入る。

 

『犬島、停止を確認しました。負傷はありますか』

 

「うちは一人だけです。怪我はありません」

 

『船体状況を報告できますか』

 

「船首船底に擦り傷。左舷推進器に送電ケーブル。浸水と燃料漏れはありません。主機械は両方とも停止しとります」

 

『了解しました。高圧線は完全に停電したことを確認しました。救難隊を派遣します』

 

犬島は少し間を置いて尋ねた。

 

「管制さん」

 

『はい』

 

「うち、悪くないですよね」

 

通信の向こうが一瞬静かになる。

 

『犬島に責任はありません』

 

管制官は明確に答えた。

 

『犬島は指定航路を規定速力以下で航行していました。交通管制の指示にも従っています』

 

「はい」

 

『送電鉄塔の倒壊は、犬島が予測できるものではありません』

 

「はい」

 

『後方船との衝突、高圧線への接触、水中鋼材との衝突を避けるため、朝凪川へ退避した判断も適切でした』

 

「はい……」

 

『左岸浅瀬への乗り上げも、道路橋との衝突を防止するための最善の処置です』

 

犬島の肩から力が抜ける。

 

「ほんまに、うち一切悪くないんですね」

 

『一切悪くありません』

 

「報告書にも書いてくれますか」

 

『必ず記載します』

 

犬島は大きく息を吐いた。

 

「よかったぁ……」

 

犬島は正式な報告書を持ち歩いていた。

 

これまでの河口事故について、「犬島に責任なし」と書かれた書類。

 

今度も一枚増えることになる。

 

それを喜んでよいのか、悲しんだ方がよいのか、犬島には分からなかった。

 

「六枚目かぁ……」

 

犬島は艦首へ仰向けに寝転んだ。

 

青空が見える。

 

台風ではない。

 

雨もない。

 

波も穏やか。

 

それでも犬島は河口にいる。

 

「海はあんなに広いのに……」

 

犬島は空へ向かってつぶやく。

 

「なんで、うちは川岸におるんじゃろう……」

 

---

 

救難隊が到着したのは、事故から約二時間後だった。

 

港湾消防艇。

 

浅喫水の作業艇。

 

工作艦娘を乗せた連絡艇。

 

そして所属鎮守府から急行してきた提督の指揮艇。

 

犬島は最初の艇が見えるより早く、その存在に気付いた。

 

船底へ伝わる小さな波。

 

複数の機関音。

 

遠くから近づいてくる指揮艇。

 

その甲板上にいる提督の足音までは、さすがに川越しでは聞こえない。

 

だが犬島には、不思議と分かった。

 

「提督が来た」

 

艦首に立ち上がる。

 

連絡艇が近づいてくる。

 

犬島は両手を大きく振った。

 

「ここです!」

 

実艦の姿は、遠くからでも十分に見える。

 

全長八十メートル近い海防艦が、川岸に乗り上げている。

 

隠れようがない。

 

それでも犬島は何度も手を振った。

 

提督が手を振り返す。

 

それを見た犬島の表情が、ぱっと明るくなった。

 

艦尾側に臨時の梯子が掛けられ、提督が一人で犬島へ乗り移った。

 

乗員のいない艦内。

 

静かな後甲板。

 

提督が甲板を歩く。

 

一定の歩幅。

 

少しだけ右足が強い。

 

犬島は艦首からその足音を聞き取った。

 

「提督」

 

姿が見える前に呼び掛ける。

 

提督が第一砲塔の横から現れた。

 

犬島は駆け出した。

 

艦首から後方へ。

 

第一砲塔を回り込み、提督の前まで来る。

 

そしていつものように、その制服の袖を両手でつかんだ。

 

「迎えに来てくれた」

 

「ああ」

 

「今度は、うちしか乗っとらんです」

 

「報告で聞いている」

 

「一人で全部動かしとったんです」

 

「ああ」

 

「ちゃんと航路も守りました」

 

「分かっている」

 

「速力も守りました」

 

「ああ」

 

「送電線の下を通ってええって、管制から許可も受けとりました」

 

「記録を確認した」

 

犬島は提督の袖を握ったまま見上げる。

 

「うち、全く悪くないですよね」

 

「全く悪くない」

 

提督は迷わず答えた。

 

「鉄塔の基礎工事に問題があり、仮設支柱が破損したことが原因だ。犬島には予測も回避もできなかった」

 

「河口へ向けたんは、うちです」

 

「他の方向は高圧線、水中鋼材、後続船で塞がれていた」

 

「浅瀬へ乗り上げたんも、うちです」

 

「道路橋へ衝突しないためだろう」

 

「はい」

 

「正しい判断だった」

 

犬島は目を閉じた。

 

「……よかった」

 

そのまま、提督の腕へ少しだけ額を寄せる。

 

艤装はない。

 

周囲に乗員もいない。

 

広い甲板にいるのは、犬島と提督の二人だけだった。

 

犬島に尻尾はない。

 

だが、提督が頭を撫でると、深緑色のスカーフが小さく何度も揺れた。

 

「船体の具合は」

 

提督が尋ねる。

 

「左舷推進器にケーブルが絡んどります。船首船底に擦り傷。浸水なし。燃料漏れなしです」

 

「痛むか」

 

犬島は少し考えた。

 

実艦の傷は、艦娘の身体に直接傷跡として現れてはいない。

 

それでも船首や船底の違和感は、鈍い痛みとして犬島の中に残っていた。

 

「少しだけ」

 

「無理に立っていなくていい」

 

「でも、うちがこの船を見とかんと」

 

「今は工作艦が来ている」

 

「それでも……」

 

犬島は甲板へ手を置いた。

 

「この子も、うちじゃから」

 

艦娘としての小さな犬島。

 

実艦としての大きな犬島。

 

二つは同じ存在だった。

 

犬島は船体を動かせる。

 

船体の感覚を受け取れる。

 

けれど、泥へ乗り上げた実艦を見ると、傷ついた相棒を置いていくような気持ちになる。

 

提督は犬島の隣へ立った。

 

「なら、離礁作業が終わるまで一緒にいよう」

 

犬島が顔を上げる。

 

「提督も?」

 

「ああ」

 

「ずっと?」

 

「必要な間は」

 

犬島は少し嬉しそうに笑った。

 

「えへへ……」

 

すぐに表情を取り繕う。

 

「今のは、笑ったんじゃないです」

 

「そうか」

 

「安心しただけです」

 

「分かった」

 

犬島は提督の袖を離さないまま、艦首へ戻った。

 

---

 

事故調査では、犬島の航海記録が詳しく分析された。

 

船体位置。

 

針路。

 

速力。

 

舵角。

 

主機回転数。

 

港湾管制との通信内容。

 

送電鉄塔が倒壊した時刻。

 

緊急後進を開始した時刻。

 

高圧線の落下位置。

 

後続船との距離。

 

朝凪川へ転針した地点。

 

全てが正確に残っていた。

 

犬島は指定航路の中央を、規定以下の速力で航行していた。

 

管制から送電線下の通過許可も受けている。

 

見張りにも問題はなかった。

 

鉄塔の倒壊を認識すると同時に、犬島は全速後進を開始した。

 

右舷側へ落下した高圧線。

 

左舷側の水中鋼材。

 

後方の大型船。

 

事故時点で、朝凪川河口以外に安全な退避方向は存在しなかった。

 

さらに河口進入後、送電ケーブルが左舷推進器へ絡んだため、犬島は片軸での操艦を強いられた。

 

それでも漁船、倉庫、護岸、道路橋の全てを避けている。

 

最終報告書には、明確に記された。

 

«海防艦「犬島」および艦娘・犬島の航行、見張り、通信、機関操作、操舵ならびに緊急避難判断に、過失は一切認められない。»

 

続いて、犬島の判断が評価された。

 

«犬島が朝凪川河口へ退避したことにより、通電中の高圧送電線への接触、倒壊した鉄塔部材との衝突、および後続大型船との衝突が防止された。»

 

«また、左舷推進器の使用不能後に左岸浅瀬へ意図的に乗り上げた処置は、道路橋および河川沿岸施設への二次被害を防ぐ上で、極めて適切であった。»

 

報告書を受け取った犬島は、艦橋の机に広げた。

 

艦内には犬島しかいない。

 

椅子へ座る必要もなかったが、彼女は艦長席に小さく腰掛けている。

 

一行ずつ読む。

 

「過失は一切認められない」

 

指で文章をなぞる。

 

「極めて適切であった」

 

犬島は報告書を丁寧に折った。

 

制服の内側へしまう。

 

その場所には、すでに五枚の報告書が入っていた。

 

「これで六枚目」

 

隣に立つ提督が尋ねる。

 

「全て持ち歩く必要があるのか」

 

「あります」

 

犬島は真剣だった。

 

「六回も河口へ行っとったら、絶対に誰かが『犬島が河口を目指して操艦しとる』って思います」

 

「そんな操艦をする理由がないだろう」

 

「でも、結果だけ見たら六回です」

 

「全て理由が違う」

 

「だから、その証拠を持っとるんです」

 

犬島は制服の胸元を押さえた。

 

「台風でも、係留索でも、貨物船でも、海底崩落でも、送電鉄塔でも……うちが悪かったことは一回もないです」

 

「分かっている」

 

「提督は分かってくれますけど、初めて会う人は分からんでしょう」

 

「報告書を六枚見せられた方が驚くと思うが」

 

犬島の頬が膨らむ。

 

「じゃあ、どうしたらええんですか」

 

「事故を起こさないことだな」

 

「うちも起こしたくて起こしとるんじゃないです!」

 

艦橋内へ犬島の声が響いた。

 

無人のため、笑う乗員はいない。

 

だが提督が少しだけ口元を緩めた。

 

犬島はそれを見逃さなかった。

 

「今、笑いましたね」

 

「笑っていない」

 

「絶対、笑いました」

 

「安心しただけだ」

 

犬島は自分がよく使う言い訳を返され、何も言えなくなった。

 

---

 

海防艦「犬島」の離礁作業は、満潮に合わせて行われた。

 

最初に左舷推進器へ絡んだ送電ケーブルを除去する。

 

高圧線の停電を再確認した後、潜水作業員が水中へ入った。

 

太いケーブルは推進器と軸受の外側へ三重に巻き付いていた。

 

犬島は艦首に立ち、作業を見守る。

 

海中でケーブルが切断されるたび、左舷推進器を締め付けていた感覚が少しずつ軽くなった。

 

「もう少し……」

 

最後の一本が外れる。

 

左舷推進器が自由になった。

 

犬島は低い回転数で機関を試す。

 

ゆっくり。

 

一回転。

 

二回転。

 

異常な振動はない。

 

「左舷、動きます」

 

犬島の顔が明るくなった。

 

「推進軸も無事です」

 

次に二隻の曳船が艦尾へ曳航索を取った。

 

船体を軽くするため、燃料の一部を補給船へ移す。

 

船首周辺の泥を浚渫する。

 

犬島は艦橋前部へ立った。

 

「曳航開始します!」

 

曳船の出力が上がる。

 

太い索が張る。

 

艦尾がわずかに動いた。

 

船底と泥の間から低い音が響く。

 

ごごごっ――。

 

犬島は手すりを握った。

 

船体へ掛かる力を感じる。

 

「あと少し」

 

艦尾が後退する。

 

艦首が泥から抜け始める。

 

船体が一度大きく震えた。

 

犬島は両足を踏ん張る。

 

「抜けるよ……!」

 

曳船がさらに引く。

 

艦首船底が泥を離れた。

 

海防艦「犬島」の船体が、再び完全に水面へ浮かんだ。

 

左岸と道路橋から、拍手が聞こえた。

 

犬島は驚いて川岸を見る。

 

港湾作業員。

 

電力会社の職員。

 

消防隊。

 

警察官。

 

漁師。

 

近隣住民。

 

多くの人々が、離礁した犬島へ手を振っている。

 

犬島は艦橋から艦首へ走った。

 

船首旗竿の近くまで行き、両手を振り返す。

 

「ありがとうございます!」

 

犬島の声は、川風に乗って岸へ届いた。

 

誰かが叫ぶ。

 

「犬島、おかえり!」

 

別の場所からも声が上がる。

 

「港を守ってくれて、ありがとう!」

 

犬島の琥珀色の瞳が少し潤んだ。

 

自分はこの土地の艦娘ではない。

 

朝凪港へ来たのも、今回が初めてだった。

 

それでも人々は、川から海へ戻る犬島を迎えてくれている。

 

「おかえりって……言うてもらえた」

 

犬島は嬉しそうにつぶやいた。

 

提督が艦橋から答える。

 

「犬島が港を守ったからだ」

 

「うちは逃げただけです」

 

「最も被害の少ない方向へ逃げた。それも立派な判断だ」

 

「……えへへ」

 

犬島は今度は笑ったことを否定しなかった。

 

実艦「犬島」は曳船に導かれ、朝凪川を下っていく。

 

道路橋を離れる。

 

倉庫を通過する。

 

河口標識の間へ入る。

 

そして船首が、再び海へ出た。

 

犬島は大きく息を吸った。

 

潮の匂い。

 

広い水面。

 

遮るもののない水平線。

 

「海じゃ」

 

安心しきった声だった。

 

「やっぱり、うちは海におる方がええなあ」

 

提督が答える。

 

「海防艦だからな」

 

「河川艦じゃありません」

 

「六つの河川へ入っているが」

 

犬島が勢いよく振り返る。

 

「提督!」

 

「事実確認だ」

 

「もう、六つ目って言わんでください!」

 

「犬島が最初に言ったんだろう」

 

「うちが言うんと、他の人が言うんは違うんです!」

 

艦橋と艦首の間に、犬島の声が響く。

 

乗員はいない。

 

それでも実艦の船内が、少しだけ賑やかになったように感じられた。

 

---

 

朝凪港を出港する日。

 

海防艦「犬島」は、自分の機関だけで補給埠頭を離れた。

 

犬島は艦橋に立っていた。

 

艤装はない。

 

乗員もいない。

 

艦橋には、小柄な犬島一人だけ。

 

しかし船体は正確に岸壁から離れ、港内航路へ入る。

 

右舷機関。

 

左舷機関。

 

舵。

 

発電機。

 

見張り装置。

 

通信機。

 

それら全てを犬島一人が動かしている。

 

倒壊した送電鉄塔は、すでに撤去されていた。

 

高圧送電線の代わりに、仮設の海底送電ケーブルが設置されている。

 

港湾管制から通信が入った。

 

『海防艦・犬島、出港航路に異常ありません。安全な航海を祈ります』

 

「ありがとうございます。犬島、所属鎮守府へ帰投します」

 

『朝凪川へ向かう予定はありませんね』

 

犬島の動きが止まった。

 

通信の向こうから、管制官の小さな笑い声が聞こえる。

 

犬島は頬を膨らませた。

 

「ありません!」

 

『失礼しました』

 

「海へ帰ります!」

 

『了解しました。海へ帰ってください』

 

犬島は少し怒ったまま通信を切った。

 

提督は連絡艇ではなく、帰投航海の間だけ犬島へ同乗していた。

 

艦橋後方で海図を見ている。

 

犬島が提督を見る。

 

「管制さんまで、からかうんですよ」

 

「無事に帰れることが分かっているからだろう」

 

「でも、うちは本気で河口を避けたいんです」

 

「今日の航路周辺にも河川はいくつかある」

 

犬島の顔が曇る。

 

「言わんでください」

 

「海図上の事実だ」

 

「見えんかったことにします」

 

「見張りを放棄するな」

 

「そういう意味じゃないです!」

 

提督が小さく笑う。

 

犬島は不満そうに前を向いた。

 

それでも少し経つと、提督がまだ艦橋にいるか確認するように振り返る。

 

提督が視界に入ると、安心して正面へ戻る。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

ついに提督が尋ねた。

 

「何度も振り返って、どうした」

 

「別に」

 

「私がいるか確認しているのか」

 

「違います」

 

「そうか」

 

「……ちょっとだけです」

 

犬島は正直に言い直した。

 

「実艦を一人で動かせますけど、知らん港から帰るときは、誰かがおる方が安心するんです」

 

「船を動かしているのは犬島だ」

 

「分かっとります」

 

「航路も犬島が確認している」

 

「はい」

 

「なら、私がいなくても帰れるだろう」

 

犬島は少し黙った。

 

その後、艦橋の床を歩き、提督のそばへ来る。

 

制服の袖を軽くつかんだ。

 

「帰れます」

 

犬島は答えた。

 

「でも、一緒の方がええんです」

 

提督は犬島の頭へ手を置いた。

 

犬島は少しだけ頭を寄せる。

 

その間も、実艦「犬島」は正確に航路を進んでいる。

 

艦娘の身体が提督の隣にあっても、意識は船体全体へ広がっていた。

 

前方見張り。

 

推進器。

 

舵。

 

機関。

 

船底。

 

全て異常なし。

 

犬島は水平線を見た。

 

河口は見えない。

 

川岸もない。

 

泥地もない。

 

ただ、広い海だけが続いている。

 

「提督」

 

「何だ」

 

「今度こそ、普通に帰れそうです」

 

「ああ」

 

「河口へは行きません」

 

「ああ」

 

「送電鉄塔も倒れてきません」

 

「そう願おう」

 

「貨物船も来ません」

 

「見張りは続けろ」

 

「台風もありません」

 

「天気は良好だ」

 

「海底も崩れません」

 

「通常はな」

 

犬島は提督を見る。

 

「通常は、って言わんでください」

 

「絶対とは言えない」

 

「不安になるじゃろ……」

 

犬島は袖をつかむ指に少し力を入れた。

 

提督が犬島の頭をもう一度撫でる。

 

「何か起きても、犬島なら最も安全な場所を選べる」

 

「それが、また河口じゃったらどうするんですか」

 

「そのときは迎えに行く」

 

「実艦ごとでも?」

 

「ああ」

 

「遠い河口でも?」

 

「ああ」

 

「七つ目でも?」

 

提督は少し考えた。

 

「七つ目には行かないでくれ」

 

犬島も真剣に頷く。

 

「うちも、絶対に嫌です」

 

実艦「犬島」は、二基のディーゼル機関を響かせながら海を進む。

 

艦首には小さな艦娘。

 

背中に艤装はない。

 

艦内に乗員もいない。

 

彼女一人が、この鋼鉄の船全てを動かしている。

 

送電鉄塔の倒壊。

 

高圧線の落下。

 

水中鋼材。

 

後続大型船。

 

犬島には予測できず、犬島の操艦にも整備にも、何の過失もなかった。

 

それでも犬島は、事故の中で最も多くのものを守れる方向を選んだ。

 

その先に、また河口があっただけだった。

 

犬島は艦橋から艦首へ移動した。

 

第一砲塔の前に立つ。

 

海風が髪とスカーフを揺らす。

 

足元には、修理を終えた実艦の船体。

 

犬島は鋼鉄の甲板へ手を当てた。

 

「今度こそ、普通に帰ろうな」

 

二本の推進軸が、滑らかに海水をかく。

 

犬島は笑った。

 

「帰ったら、みんなに『ただいま』って言わんといけんけぇ」

 

全長七十八・九メートルの海防艦は、小さな艦娘一人だけを乗せ、今度こそ川ではなく、帰るべき鎮守府へ向かってまっすぐ進んでいった。

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