海防艦 犬島   作:重装甲空母信濃

9 / 94
また別の理由で犬島は悪くない状態で河口を塞ぐように横向きに突っ込ませて、艦尾を破断。また、これ以降ずっと実艦方式で。


犬島艦尾破断河口7

海防艦・犬島

 

――河口を塞いだ鋼の身体――

 

海防艦「犬島」は、鏡のように穏やかな港内を進んでいた。

 

全長七十八・九メートル。

 

全幅九・二メートル。

 

三基の十二糎単装砲と、艦尾に並ぶ爆雷投下軌条。

 

二基のディーゼル機関が低い音を響かせ、二本の推進軸が静かに海水をかいている。

 

だが、艦内に乗員はいなかった。

 

操舵室にも、機関室にも、砲側にも、通信室にも、人の姿はない。

 

艦橋前部に立っている小柄な艦娘――犬島ただ一人が、鋼鉄の船体すべてを動かしていた。

 

犬島は艤装を身に着けていない。

 

濃紺色の短い髪。

 

琥珀色の瞳。

 

白い水兵服と紺色のスカート。

 

胸元には深緑色のスカーフが揺れ、右側の髪には淡い桃色の髪留めが付いている。

 

一見すれば、実艦の艦橋に少女が一人立っているだけだった。

 

しかし犬島の意識は、艦首から艦尾まで広がっていた。

 

右舷機関の冷却水温。

 

左舷推進軸の回転。

 

舵取機へ掛かる圧力。

 

燃料タンクの残量。

 

船底を流れる海水。

 

マスト上の電探が捉えた反射。

 

それらのすべてを、自分の鼓動や呼吸のように感じ取っている。

 

犬島が右を向けば、見張り装置も右へ向く。

 

指先をわずかに動かせば、舵が一度だけ切られる。

 

犬島が「少し遅く」と考えれば、二基の機関は同時に回転数を下げた。

 

「速力八ノット。針路、〇一六度」

 

犬島は小さく確認する。

 

「両舷機関、異常なし。舵も正常。周囲に接近船なし」

 

所属鎮守府から離れた場所にある、川代港。

 

犬島は沿岸警備任務を終え、燃料補給のため川代港へ寄港する途中だった。

 

港の東側には物流埠頭。

 

西側には修繕造船所。

 

北側には市街地を流れる大きな川――川代川が注いでいる。

 

犬島が向かう補給埠頭は南西側にあり、川代川河口とは反対方向だった。

 

予定航路を守る限り、犬島が河口へ近づくことはない。

 

天候は晴れ。

 

風は弱い。

 

台風も高潮もない。

 

係留索も、航路を誤った貨物船も存在しない。

 

港湾施設の水門や送電鉄塔にも異常は報告されていなかった。

 

「今日は普通に着けそうじゃな」

 

犬島は艦橋の窓から、遠くに見える川代川河口を見た。

 

「七つ目は、絶対に嫌じゃけぇ」

 

過去六回。

 

犬島は、すべて異なる理由で河口へ突っ込んでいた。

 

どの事故にも犬島の責任はなかった。

 

それでも結果だけを見れば、六つの河口に進入し、何度も砂州や干潟へ乗り上げている。

 

犬島は制服の内側へ手を当てた。

 

そこには、六枚の事故調査報告書が入っている。

 

どれにも「犬島に過失なし」と書かれていた。

 

「今日は、七枚目を増やさんで済むな」

 

犬島は少し安心し、艦首の方へ視線を戻した。

 

川代港の交通管制から通信が入る。

 

『川代交通管制より海防艦・犬島。現在の針路を維持してください。第三航路標識通過後、左へ十五度変針。補給埠頭二号岸壁へ進んでください』

 

犬島は通信機へ触れることなく、自分の意思を送信した。

 

「犬島より川代交通管制。現針路維持。第三航路標識通過後、左十五度、了解です」

 

『前方右舷側で海底トンネル建設工事を実施中です。工事区域は航路から三百五十メートル離れています。航行への影響はありません』

 

「工事区域、確認しました」

 

犬島は右舷前方を見た。

 

港湾道路の渋滞を減らすため、港の両岸を結ぶ海底トンネルが建設されていた。

 

海底では巨大な掘削機が地盤を掘り進み、工事区画には作業台船と測量船が停泊している。

 

犬島の指定航路からは十分に離れている。

 

海図にも進入禁止区域が明記されていた。

 

犬島は航路中央を正確に進んでいる。

 

速力も規定以下。

 

管制の指示にも従っていた。

 

「三百五十メートルあれば大丈夫じゃな」

 

犬島はそうつぶやいた。

 

それが、事故前に口にした最後の安心だった。

 

---

 

最初の異変は、海面ではなく、船底のはるか下から伝わってきた。

 

ごごごごご――。

 

犬島の両足へ、低い振動が届く。

 

機関の振動ではない。

 

推進軸でもない。

 

海底そのものが、小刻みに震えている。

 

「何……?」

 

犬島は意識を水中探信儀へ集中させた。

 

工事区域の地下から、連続した破砕音が聞こえる。

 

続いて、掘削機付近の海底から大量の気泡が上がり始めた。

 

海底トンネルの工事では、地下水の流入を防ぐため、工事区画内部へ高圧の圧縮空気が送り込まれていた。

 

本来、空気圧は周辺地盤の強度に合わせて細かく調整される。

 

しかし、工事会社は予定より柔らかい砂礫層へ到達したことを把握しながら、工程の遅れを避けるため掘削を継続していた。

 

圧力異常を知らせる警報は、過去に何度も誤作動したという理由で感度を下げられていた。

 

地盤に亀裂が生じる。

 

高圧の空気が亀裂へ流れ込む。

 

海底の砂と泥を押し上げながら、一気に海中へ噴き出した。

 

海底噴出事故――ブローアウトだった。

 

工事区域の海面が、巨大な泡の塊によって白く盛り上がる。

 

直径百メートル以上の気泡域が形成され、周辺の海水が押しのけられた。

 

『川代交通管制より港内全船! 海底トンネル工事区域で圧縮空気噴出! 周辺海域から離れてください!』

 

「犬島、工事区域から三百四十メートル! 指定航路上です!」

 

『現針路のまま、速力を上げて通過してください!』

 

「了解!」

 

犬島は両舷機関の回転を上げた。

 

八ノット。

 

十ノット。

 

船首が波を切る。

 

工事区域から離れるため、犬島は左へ二度だけ舵を切った。

 

航路内で認められる範囲の変針だった。

 

だが、海底から噴き出した圧縮空気は止まらなかった。

 

一度目の噴出地点から亀裂が伸びる。

 

気泡域が、犬島の航路方向へ急速に広がってきた。

 

犬島の右舷艦尾付近で、海面が白く沸騰した。

 

「近い……!」

 

気泡を大量に含んだ海水は、通常の海水より密度が低い。

 

そこへ船体が入れば、一時的に浮力が低下する。

 

さらに推進器が泡を吸い込めば、海水を十分につかめず、推進力を失う。

 

犬島の右舷推進器が気泡域へ入った。

 

右舷機関は正常に回転している。

 

しかし推進器は空気混じりの水をかくだけで、ほとんど推力を発生しなかった。

 

「右舷、空転……!」

 

船尾が右へ沈み込む。

 

同時に左舷側だけが前へ進もうとする。

 

海防艦「犬島」の船首が、急激に右へ振られた。

 

犬島は反射的に舵を左へ切る。

 

左舷機関を後進。

 

右舷機関を停止。

 

二軸の回転差で船首を戻そうとする。

 

「戻って!」

 

しかし次の瞬間、第二の噴出が起きた。

 

犬島の船底直下で、圧縮空気と泥水が爆発するように吹き上がった。

 

艦全体が数メートル持ち上げられる。

 

艦橋に立っていた犬島の体が宙へ浮いた。

 

「きゃっ……!」

 

犬島は艦橋前部の手すりへしがみついた。

 

海防艦の船底が気泡域へ落ちる。

 

浮力が不均一になり、船体が大きく傾く。

 

右舷側の推進器は空転。

 

左舷側の推進器も泥と気泡を巻き込み、推力を失った。

 

舵には海水が十分に当たらない。

 

犬島の意思は機関と舵へ正確に伝わっていた。

 

装置にも故障はない。

 

だが、どれだけ正しく動かしても、推進器と舵の周囲に海水そのものがなければ船は言うことを聞かない。

 

犬島は船体が横へ流されるのを感じた。

 

工事区域から押し出された海水が、強い横波となって犬島の左舷側へ当たる。

 

全長約七十九メートルの船体が、右へ押された。

 

艦首ではなく、船体全体が横滑りしている。

 

『犬島、船首方位が急変しています!』

 

「分かっとります! 両方の推進器が気泡を吸っとるんです!」

 

『右舷側に物流埠頭があります!』

 

犬島は右を見る。

 

大型コンテナクレーン。

 

積み上げられた危険物コンテナ。

 

岸壁には、化学薬品を積んだ内航貨物船が接岸している。

 

犬島が横向きのまま衝突すれば、貨物船の外板を十二糎砲や錨が破る可能性がある。

 

積み荷によっては、火災や有害物質の流出につながる。

 

左側へ戻ろうとしても、海底噴出区域が拡大している。

 

後方には、工事用の大型台船。

 

前方には、航路を横断する曳船と浚渫船。

 

犬島は周囲の位置を一瞬で把握した。

 

唯一、建物や大型船のない方向。

 

港の北側。

 

川代川の河口。

 

「また、そこしかないん……?」

 

犬島の声が震える。

 

『犬島、河口方向が唯一の開放水域です!』

 

「分かっとります!」

 

犬島は機関を再び動かした。

 

気泡域から外れた左舷推進器だけが、少しずつ推力を取り戻す。

 

だが船体はすでに横を向いていた。

 

船首は東。

 

艦尾は西。

 

河口は北。

 

海防艦「犬島」は、左舷側を河口へ向けたまま、横滑りしている。

 

「船首を北へ向けんと……!」

 

左舷機関前進。

 

右舷機関後進。

 

犬島は回頭を試みる。

 

しかし右舷推進器はまだ気泡域にあり、十分な推力が出ない。

 

船首は十度ほど動いただけだった。

 

工事区域から押し出された水流が、犬島の左舷側を強く押す。

 

横滑り速度、四ノット。

 

五ノット。

 

六ノット。

 

河口入口まで四百五十メートル。

 

犬島は河口の幅を確認した。

 

水路幅は約九十メートル。

 

犬島の全長は七十八・九メートル。

 

横向きのまま入れば、両岸の導流堤との余裕はほとんどない。

 

「縦に入れん……」

 

犬島は必死に機関を調整する。

 

「あと三十度だけでええから……!」

 

右舷推進器が気泡域を抜けた。

 

推力が戻る。

 

犬島はすぐに最大出力を掛けた。

 

だが、今度は船底へ噴き上がった泥と砂が、右舷舵の隙間へ入り込んでいた。

 

舵は動く。

 

しかし動きが遅い。

 

河口入口まで三百メートル。

 

横滑り速度、七ノット。

 

このままでは左舷中央部から河口へ突っ込む。

 

犬島は物流埠頭を見た。

 

そこへ船首を向ければ、回頭できる可能性はある。

 

だが回頭中に艦尾が貨物船へ当たる。

 

反対方向へ向ければ、海底噴出区域へ戻る。

 

後進すれば、工事台船と衝突する。

 

河口へ横向きに入る。

 

それ以外に、重大事故を避ける道はなかった。

 

犬島は目を閉じた。

 

怖かった。

 

横向きで河口へ入れば、船体の側面全体へ衝撃が掛かる。

 

細い河口に全長七十九メートルの船体を押し込めば、どこかが壊れる。

 

それでも埠頭の人々や貨物船を巻き込むよりはよかった。

 

実艦には犬島一人しか乗っていない。

 

誰かに判断を任せることも、責任を分けることもできない。

 

犬島は目を開いた。

 

「川代交通管制」

 

『はい!』

 

「犬島、このまま横向きで河口へ緊急進入します」

 

通信の向こうが一瞬静まる。

 

『横向きで……ですか』

 

「回頭できません。ほかの方向へ向けたら、物流埠頭か工事船へ当たります」

 

『河口幅は九十メートルです。犬島の全長との差は約十一メートルしかありません!』

 

「分かっとります」

 

『両岸への接触は避けられない可能性があります』

 

「それでも、ほかの船に当たるよりええです」

 

犬島は静かに続けた。

 

「河口内の船を全部退避させてください」

 

『すでに避難指示を出しています。河口内に船舶なし』

 

「両岸の人も離してください」

 

『警察と消防へ要請します』

 

「お願いします」

 

犬島は通信を終えた。

 

艦橋を離れ、階段を駆け下りる。

 

艦首へ向かう。

 

実艦の操艦は意識だけで続けられる。

 

誰もいない甲板を走り、第一砲塔の前へ出る。

 

川代川河口が、船体の左側から近づいてくる。

 

犬島は横向きに進む自分の船を見渡した。

 

艦首。

 

中央部。

 

艦橋。

 

煙突。

 

艦尾。

 

どこが先にぶつかるか。

 

どこへ力が集中するか。

 

左舷中央部が河口入口へ入り、艦首が東側の導流堤へ、艦尾が西側の導流堤へ接触する可能性が高かった。

 

犬島は三基の十二糎砲を正中線へ戻した。

 

砲身を上へ向ける。

 

爆雷を安全固定。

 

燃料系統の遮断準備。

 

艦尾区画の防水扉をすべて閉鎖。

 

推進軸トンネルと機関室の間にある隔壁を密閉する。

 

「艦尾……」

 

犬島の声が小さくなる。

 

構造上、艦尾は中央部より細い。

 

導流堤へ横から押し付けられれば、最も壊れやすい場所だった。

 

「ごめんな」

 

犬島は甲板へ両手を置いた。

 

「守れんかもしれん」

 

それでも船体は進む。

 

河口入口まで百五十メートル。

 

犬島は両機関を最大後進に入れた。

 

前進を止めるのではない。

 

横滑り速度を少しでも落とすため、推進器の水流を斜めに当てる。

 

七ノット。

 

六ノット。

 

五・五ノット。

 

それ以上は落ちない。

 

「行くよ」

 

犬島は艦首甲板へ片膝をついた。

 

「痛いけど……一緒じゃけぇ」

 

海防艦「犬島」の左舷中央部が、川代川河口へ入った。

 

---

 

最初に左舷中央部が河口の流れを受けた。

 

川から流れ出す水と、港側から押される海水がぶつかる。

 

犬島の船体が大きく揺れる。

 

続いて艦首が、河口東側の導流堤へ接触した。

 

どんっ――。

 

鋼板とコンクリートがぶつかる、低い衝撃音。

 

犬島の右肩へ鈍い痛みが走る。

 

「っ……!」

 

艦首外板がへこむ。

 

だが船首は導流堤を滑り、河口内へ少し入り込んだ。

 

反対側。

 

艦尾が西側の導流堤へ近づく。

 

犬島は右舷機関を前進、左舷機関を後進に入れ、艦尾を内側へ振ろうとした。

 

しかし横流れが強すぎる。

 

艦尾が導流堤の先端へ衝突した。

 

があんっ――!

 

犬島の背中に、鋭い痛みが突き抜けた。

 

「うあっ……!」

 

犬島は甲板へ倒れた。

 

艦尾外板が押しつぶされる。

 

爆雷投下軌条が曲がる。

 

後部十二糎砲の基部が歪む。

 

舵取機室へ浸水。

 

両舷推進軸が急激に曲げられる。

 

犬島は即座に両機関を停止した。

 

だが、船体に掛かる力は消えなかった。

 

港側から押す水流が、船体中央部をさらに河口へ押し込む。

 

艦首は東側導流堤に沿って動く。

 

中央部も河口内へ入り始める。

 

しかし艦尾だけは、西側導流堤の先端へ引っ掛かったままだった。

 

全長七十八・九メートルの船体が、弓のようにしなった。

 

犬島は自分の背骨を両側から引っ張られるような感覚に襲われた。

 

「待って……!」

 

船体中央部は動く。

 

艦尾は動かない。

 

艦尾区画と機関室の境目に、設計値を超える力が集中する。

 

鋼板がきしむ。

 

縦通材が曲がる。

 

甲板が盛り上がる。

 

船体側面の溶接線に亀裂が走った。

 

犬島は艦首甲板へ手をつき、必死に耐えた。

 

「切れんで……!」

 

だが、川と港の水は犬島の願いを聞かなかった。

 

亀裂が甲板を横切る。

 

左舷から右舷へ。

 

船底から上甲板へ。

 

機関室後部の防水隔壁、そのさらに後ろ。

 

艦尾区画が、船体中央部から引き離される。

 

ばきん――。

 

それは爆発音ではなかった。

 

巨大な鋼鉄の骨が、折れる音だった。

 

犬島の視界が真っ白になる。

 

背中から下が、突然失われたような痛み。

 

「――っ!」

 

声すら出なかった。

 

海防艦「犬島」の艦尾が破断した。

 

後部十二糎砲。

 

爆雷投下軌条。

 

舵。

 

両舷推進器。

 

約十五メートルの艦尾区画が、本体から完全に分離する。

 

破断面から海水が流れ込む。

 

犬島は意識の中で防水扉を閉鎖した。

 

機関室後部隔壁。

 

推進軸トンネル閉鎖装置。

 

燃料移送弁。

 

電路切断器。

 

一つずつ、残った船体を守るために作動させる。

 

分離した艦尾は西側導流堤へ引っ掛かり、その場に残った。

 

船体前部と中央部は、港側から押す水流によってさらに横へ進む。

 

艦首が東岸へ。

 

破断面が西岸へ。

 

海防艦「犬島」の残存船体は、川代川河口を完全に横切る形で停止した。

 

河口幅約九十メートル。

 

犬島の残存船体、約六十四メートル。

 

分離した艦尾区画、約十五メートル。

 

東側導流堤と西側導流堤の間を、本体と艦尾がほとんど隙間なく塞いでいる。

 

海から川へ入る船も、川から海へ出る船も通れない。

 

水の流れさえ、犬島の船体によって分けられていた。

 

海防艦「犬島」は、河口を塞ぐ巨大な鋼鉄の障害物となっていた。

 

---

 

犬島は艦首甲板に倒れていた。

 

深緑色のスカーフが、水しぶきで甲板へ張り付いている。

 

濃紺色の髪も濡れていた。

 

艦娘の体に目立った出血はない。

 

足も腕も失われていない。

 

だが実艦の艦尾が破断した感覚は、そのまま犬島の身体へ重く残っていた。

 

背中が焼けるように痛む。

 

腰から下へ力が入らない。

 

犬島は両手で甲板をつかみ、ゆっくりと体を起こした。

 

「艦尾……」

 

振り返る。

 

本来なら煙突の後ろに続いているはずの後甲板が、途中でなくなっていた。

 

鋭く裂けた鋼板。

 

曲がった骨材。

 

垂れ下がった配線。

 

破断面の向こうには、濁った川面。

 

さらに離れた場所に、導流堤へ引っ掛かった自分の艦尾が見える。

 

「ほんまに……切れたんじゃ……」

 

犬島の声が震えた。

 

自分の一部が、目に見える形で離れている。

 

これまでにも艤装や船体を傷つけたことはある。

 

推進軸を曲げたことも、外板をへこませたことも、泥地へ乗り上げたこともあった。

 

だが、完全に船体の一部を失ったことはなかった。

 

犬島は破断面へ向かって歩こうとした。

 

一歩。

 

二歩。

 

背中に激痛が走り、膝をつく。

 

「痛っ……」

 

それでも立ち上がる。

 

誰もいない実艦で、船体の状態を確認できるのは犬島だけだった。

 

残存船体の浸水区画。

 

後部燃料庫。

 

機関室。

 

発電機。

 

電気系統。

 

犬島は目を閉じ、自分の体内を探る。

 

機関室への浸水なし。

 

後部隔壁は保持。

 

主機械二基は緊急停止。

 

推進軸は両方とも破断。

 

舵と推進器は艦尾側へ残されている。

 

自力航行不能。

 

左舷側に軽度の浸水。

 

船体中央部の横強度材に変形。

 

燃料漏れは、ごく少量。

 

犬島はすぐに後部タンクから前部タンクへ燃料を移送し、破損した配管を閉鎖した。

 

「油は……流したらいけん」

 

犬島は苦しそうに息をしながらも、処置を続ける。

 

「川も海も、汚したらいけんけぇ」

 

交通管制から通信が入る。

 

『犬島! 応答してください!』

 

犬島は艦橋へ戻る力がなかった。

 

艦首甲板に座ったまま、自分の意識を通信装置へつなぐ。

 

「犬島……応答します」

 

『無事ですか!』

 

「艦娘の体に大きな怪我はありません。でも……艦尾が破断しました」

 

通信の向こうが静まる。

 

『こちらでも確認しています。船体後部が分離しています』

 

「機関室は無事です。防水隔壁も持っとります。燃料系統は閉鎖しました」

 

『河口を完全に閉塞しています。川側に小型船二隻がいますが、退避済みです』

 

「人は?」

 

『負傷者なし。導流堤周辺も事前に避難させていました』

 

犬島は目を閉じた。

 

「よかった……」

 

自分の艦尾がなくなったことより、人々が無事だったことに安心している。

 

『救難隊と消防艇を派遣します』

 

「工事区域の気泡は?」

 

『噴出圧力が低下しています。安全確認後に接近させます』

 

「まだ危ないなら、無理に来んでください」

 

『しかし犬島は――』

 

「うちは動けませんけど、沈んどりません」

 

犬島は破断面を見た。

 

隔壁は海水を止めている。

 

艦首と中央部は、両岸に支えられて安定していた。

 

「待てます」

 

少し間を置く。

 

声が弱くなる。

 

「……迎えに来てくれるなら、待っとります」

 

『必ず向かいます』

 

犬島は小さく頷いた。

 

「はい」

 

---

 

河口周辺では、異様な光景が広がっていた。

 

海防艦「犬島」の船体が、川代川河口を横向きに塞いでいる。

 

艦首は東側の導流堤へ乗り上げていた。

 

船体中央部は河口の水面に浮き、艦橋と煙突が川を横切っている。

 

船尾は本体から完全に破断し、西側導流堤へ引っ掛かっている。

 

海側から見れば、実艦一隻が河口へ横倒しになったようにも見えた。

 

川の流れは船底と導流堤の隙間から抜けている。

 

しかし船舶が通れる余裕はない。

 

警察は両岸の道路を封鎖した。

 

消防は油膜の発生に備えて吸着材とオイルフェンスを展開した。

 

港湾局は川上側の船舶へ停泊命令を出した。

 

市街地では、河口が塞がれたことによる水位上昇が心配された。

 

幸い、その日は上流で雨が降っておらず、川の流量は少なかった。

 

河口閉塞による急激な増水は発生していない。

 

犬島自身も船体の位置を少しずつ調整しようとしていた。

 

舵も推進器もない。

 

それでも錨鎖を左右で異なる長さに繰り出し、船首の動きを抑える。

 

十二糎砲を横へ向けることで、わずかに重心を調整する。

 

注排水装置を使い、左右のタンクへ海水を移す。

 

河口の流れで船体がさらに回転しないよう、実艦の中に残された機能を一つずつ使っていた。

 

「もう動いたらいけんよ」

 

犬島は自分の船体へ話しかける。

 

「これ以上動いたら、橋の方へ流されるかもしれんけぇ」

 

犬島は艦首の手すりへ背中を預けた。

 

腰から背中に掛けて、鈍い痛みが続いている。

 

それでも意識を失わなかった。

 

一人で動かす船だからこそ、犬島が眠れば監視できる者はいない。

 

川の水位。

 

船体の傾斜。

 

浸水量。

 

燃料の残量。

 

破断面の隔壁。

 

すべてを自分で見続けていた。

 

遠くから複数の機関音が聞こえた。

 

港湾消防艇。

 

救難作業艇。

 

工作艦を乗せた大型曳船。

 

そして、所属鎮守府から急行してきた提督の指揮艇。

 

犬島は顔を上げた。

 

痛みでぼんやりしていた琥珀色の瞳が、少しだけ明るくなる。

 

「提督……?」

 

指揮艇は河口の海側で停止した。

 

犬島の残存船体が河口を塞いでいるため、直接川内へ入れない。

 

小型艇が東側導流堤へ接近し、提督が岸から犬島の艦首へ渡ることになった。

 

犬島は足音を待った。

 

コンクリートの導流堤。

 

仮設梯子。

 

鋼鉄の艦首甲板。

 

やがて、聞き慣れた足音が船体へ伝わる。

 

一定の歩幅。

 

少しだけ右足が強い。

 

犬島は立ち上がろうとした。

 

だが背中へ痛みが走り、その場で膝をつく。

 

「犬島、動くな!」

 

提督の声。

 

犬島は顔を上げた。

 

第一砲塔の横から、提督が走ってくる。

 

犬島はその姿を見ると、安心したように笑った。

 

「迎えに来てくれた……」

 

「ああ」

 

提督が犬島のそばへ膝をつく。

 

犬島はいつものように制服の袖をつかもうとした。

 

だが腕に力が入らず、指先が布へ触れただけだった。

 

提督が代わりに犬島の手を握る。

 

「怪我は」

 

「艦娘の体は、たぶん大丈夫です」

 

「立てないのか」

 

「艦尾が切れた感覚が……背中に残っとって」

 

犬島は苦しそうに呼吸した。

 

それでも、自分の状態より先に尋ねる。

 

「川の人は?」

 

「全員無事だ」

 

「港の船は?」

 

「衝突していない」

 

「工事の人も?」

 

「作業員は事故前に退避した。負傷者はいない」

 

「油は……」

 

「犬島が燃料を移したおかげで、大規模な流出は起きていない」

 

犬島は目を閉じ、大きく息を吐いた。

 

「よかったぁ……」

 

提督は破断した船体後部を見る。

 

本来あるはずの艦尾がない。

 

鋼板が無残に裂け、隔壁がむき出しになっている。

 

離れた導流堤には、犬島の艦尾区画が残されていた。

 

「よく隔壁を閉めたな」

 

「うちしかおらんから……うちがやらんと」

 

「十分だ。後は工作艦と救難隊に任せろ」

 

犬島は首を横に振った。

 

「まだ離れられません」

 

「犬島」

 

「この船を一人で動かしとるんは、うちです」

 

犬島は甲板へ手を置いた。

 

「艦尾がなくなっても、この子はまだ、うちの体じゃけぇ」

 

「だからこそ、休め」

 

「でも……」

 

提督は犬島の頭へ手を置いた。

 

濡れた濃紺色の髪を、ゆっくりと撫でる。

 

「犬島が眠っている間は、私がここにいる」

 

犬島が提督を見る。

 

「提督が?」

 

「ああ」

 

「艦のこと、分かりますか」

 

「犬島ほどには分からない」

 

「浸水量も、隔壁の状態も……」

 

「計器と工作艦から報告を受ける」

 

「河口の流れも?」

 

「港湾局が監視する」

 

犬島は少し迷った。

 

自分だけが船を動かせる。

 

自分だけが船体の痛みを感じられる。

 

それでも、一度信頼した相手の言葉を疑うことはできなかった。

 

「……ほんまに、ここにおりますか」

 

「いる」

 

「起きたときも?」

 

「ああ」

 

「勝手に帰らんでくださいね」

 

「帰らない」

 

犬島は提督の袖を、今度は少しだけ強くつかんだ。

 

「じゃあ……ちょっとだけ、休みます」

 

提督の腕へ額を寄せる。

 

目を閉じる直前、犬島は小さくつぶやいた。

 

「艦尾も……迎えに行ってください」

 

「ああ。必ず回収する」

 

「置いていかんでください」

 

「約束する」

 

その言葉を聞き、犬島はようやく意識を休ませた。

 

---

 

事故調査は、海底トンネル工事会社と港湾管理者の記録を中心に進められた。

 

犬島の航海記録には、事故発生前後の状況がすべて残されていた。

 

指定航路の中央を航行。

 

速力は規定以下。

 

港湾管制の指示を遵守。

 

工事区域から三百メートル以上の安全距離を確保。

 

圧縮空気噴出後、直ちに増速と回避操船を実施。

 

しかし拡大した気泡域によって両舷推進器の推力が一時的に失われ、舵効も低下。

 

さらに噴出によって発生した横流れにより、船体が河口方向へ圧流された。

 

物流埠頭、工事台船、大型後続船への衝突を避けるには、川代川河口への進入しかなかった。

 

河口入口で回頭できなかったことについても、右舷推進器の推力低下と舵周辺への土砂流入が確認された。

 

犬島の操艦に誤りはない。

 

むしろ限られた推力で横滑り速度を低下させたことで、導流堤への衝突速度は大きく抑えられていた。

 

一方、工事会社では重大な問題が発見された。

 

地質調査で軟弱な砂礫層が確認されていたにもかかわらず、工事計画は変更されていなかった。

 

圧力監視警報の感度は、現場判断で引き下げられていた。

 

噴出前日には小規模な空気漏れが観測されていたが、港湾管理者へ報告されていなかった。

 

最終報告書には、明確に記された。

 

«海防艦「犬島」および艦娘・犬島の航行、見張り、通信、速力、機関操作ならびに事故回避操船に、過失は一切認められない。»

 

さらに、河口への緊急進入についても評価された。

 

«犬島が川代川河口を退避先として選択したことは、物流埠頭、危険物積載船、工事船および後続大型船への衝突を防止するため、唯一実行可能な判断であった。»

 

«船体が横向きとなった状態で進入したことについても、気泡域による推進力低下および舵効喪失が原因であり、犬島の操艦に起因するものではない。»

 

«艦尾破断は、西側導流堤への接触後、横流れによって船体中央部へ加わった過大な曲げ荷重により発生したものである。»

 

結論は一つだった。

 

犬島は全く悪くなかった。

 

報告書を受け取った犬島は、修理施設の仮設艦橋でその文章を読んだ。

 

実艦「犬島」は大型浮きドックへ収容されていた。

 

艦尾を失った残存船体。

 

別に引き上げられた艦尾区画。

 

二つは並べて保管され、再接合が可能か調査されている。

 

犬島は制服の内側から、これまでの六枚の報告書を取り出した。

 

その上へ、新しい一枚を重ねる。

 

「七枚目……」

 

提督が隣に立っていた。

 

「今回も責任なしだ」

 

「はい」

 

「報告書にも、はっきり書かれている」

 

「はい……」

 

犬島は書類を胸へ抱えた。

 

「でも、艦尾がなくなりました」

 

「修復計画を立てている」

 

「元通りになりますか」

 

提督はすぐには答えなかった。

 

艦尾の破断は大きな損傷だった。

 

推進軸。

 

舵取機。

 

艦尾外板。

 

後部砲基部。

 

爆雷投下設備。

 

その多くを新しく造り直す必要がある。

 

「完全に同じ部材にはならない」

 

提督は正直に答えた。

 

「だが、同じ形、同じ能力に戻すことはできる」

 

「切れた艦尾は?」

 

「使える部材は可能な限り戻す」

 

犬島は浮きドックの向こうに置かれた艦尾区画を見た。

 

曲がった後部砲。

 

潰れた外板。

 

折れた爆雷投下軌条。

 

それでも、自分の一部だったものだ。

 

「捨てんでください」

 

「捨てない」

 

「直せん部品も、どこかに残してください」

 

「ああ」

 

「うちが忘れんように」

 

提督は犬島の頭へ手を置いた。

 

「忘れる必要はない。だが、自分を責めるな」

 

犬島は小さく頷いた。

 

「うちが悪くないんは、分かっとります」

 

制服の内側にある七枚の報告書を押さえる。

 

「紙にも書いとるけぇ」

 

それでも声は少し寂しそうだった。

 

「でも、痛かったんは本当なんです」

 

「ああ」

 

「艦尾が切れたとき、もう戻らんのかと思いました」

 

「必ず戻す」

 

犬島は提督を見上げた。

 

「約束ですか」

 

「約束だ」

 

犬島は少しだけ安心し、提督の袖をつかんだ。

 

「じゃあ、待っとります」

 

「修理が終わるまでか」

 

「はい」

 

少し間を置く。

 

「艦尾が帰ってくるまで、ここで待っとります」

 

まるで、帰りの遅い仲間を港で待つときのような声だった。

 

---

 

犬島の修復工事には、長い時間が掛かった。

 

破断した船体後部を切りそろえ、新しい強化隔壁を設置する。

 

損傷した推進軸を撤去。

 

二基の機関を分解し、急停止時の損傷を調査。

 

新しい軸受と推進軸を取り付ける。

 

艦尾骨材を再建し、外板を一枚ずつ張る。

 

回収された旧艦尾から、使用可能な部品が戻された。

 

後部十二糎砲の砲身。

 

爆雷投下軌条の一部。

 

艦尾旗竿。

 

艦名を刻んだ小さな内部銘板。

 

損傷した部材のうち再使用できないものは、工廠内の保管庫へ残された。

 

犬島は毎日、工事を見に来た。

 

仮設通路から、少しずつ形を取り戻す自分の艦尾を見つめる。

 

「今日は、肋骨が増えたなあ」

 

翌日。

 

「外板が半分まで付いとる」

 

さらに翌日。

 

「推進軸、入ったんじゃな」

 

犬島は作業員へ飲み物を配り、工具を整理し、取り外された部品を種類ごとに並べた。

 

艤装は持たない。

 

実艦の工事中は、自分の大きな身体を動かせない。

 

小柄な艦娘の姿で工廠内を歩き、修復される船体を待つことしかできなかった。

 

ついに新しい艦尾外板が閉じられた日。

 

犬島は船尾側へ回った。

 

以前と同じ丸み。

 

二本の推進軸。

 

中央の舵。

 

再建された爆雷投下軌条。

 

ただし内部には、新しい補強材が追加されていた。

 

犬島は外板へそっと手を触れた。

 

船体との感覚が戻る。

 

新しい鋼材。

 

新しい軸。

 

古い部品。

 

それらが自分の意識につながっていく。

 

「おかえり」

 

犬島は小さく言った。

 

「よう帰ってきたなあ」

 

自分の艦尾へ向けた言葉だった。

 

けれど、それは艦尾を待ち続けていた犬島自身へ向けた言葉にも聞こえた。

 

提督が後ろから尋ねる。

 

「具合はどうだ」

 

犬島は目を閉じた。

 

右舷推進軸。

 

左舷推進軸。

 

舵取機。

 

後部外板。

 

機関との接続。

 

すべてを確かめる。

 

「少し、前と感じが違います」

 

「新しい部材が多いからな」

 

「でも……」

 

犬島は目を開けた。

 

「ちゃんとうちです」

 

提督が頷く。

 

「なら、公試運転へ出られるな」

 

犬島の表情が明るくなる。

 

「海へ行けますか」

 

「ああ」

 

「川じゃなくて?」

 

「海だ」

 

「河口へは?」

 

「出港時に一つ通過する」

 

犬島の顔が固まった。

 

「別の港から出られませんか」

 

「工廠が川沿いにあるから無理だ」

 

犬島は再建された艦尾へ手を置き、しばらく悩んだ。

 

「……縦向きに通れますよね」

 

「通常の航行ならな」

 

「横向きになりませんよね」

 

「海底から圧縮空気が噴き出さなければ」

 

「そういう不安になる言い方、やめてください」

 

提督は小さく笑った。

 

犬島は頬を膨らませたが、すぐに艦尾をもう一度撫でた。

 

「大丈夫。今度は普通に海へ帰ろうな」

 

再建された二本の推進軸が、低速で回り始める。

 

新しい艦尾は、滑らかな振動で犬島へ応えた。

 

---

 

公試運転の日。

 

実艦「犬島」は、再び水面へ浮かんでいた。

 

艦内に乗員はいない。

 

艦橋には犬島一人。

 

背中に艤装はない。

 

小柄な艦娘が、修復された実艦全体を自分の意思で動かしている。

 

係留索が外される。

 

犬島は左右の機関を低速前進に入れた。

 

船体が岸壁から離れる。

 

新しい艦尾が水を切る。

 

舵の反応。

 

推進軸の回転。

 

船体後部の振動。

 

すべて正常だった。

 

犬島は艦橋から艦首へ出た。

 

海風が髪を揺らす。

 

前方には、事故を起こした川代川河口。

 

西側導流堤には補修された跡が残っている。

 

東側にも、犬島の艦首が接触した傷が薄く見えた。

 

犬島は少しだけ足を止めた。

 

怖さが戻ってくる。

 

横向きの船体。

 

艦尾をつかんだ導流堤。

 

鋼鉄が折れる音。

 

背中を引き裂かれる感覚。

 

犬島の手が震えた。

 

提督は公試立会いのため、艦橋後方に乗っていた。

 

犬島の様子に気付き、艦首へ来る。

 

「止めるか」

 

犬島は首を横に振った。

 

「通ります」

 

「無理をする必要はない」

 

「ここを通らんと、海へ戻れんでしょう」

 

「ああ」

 

「なら、通ります」

 

犬島は提督の袖を軽くつかんだ。

 

「でも、ちょっとだけ一緒におってください」

 

「分かった」

 

犬島は船首を河口中央へ合わせた。

 

今回は縦向き。

 

速力四ノット。

 

両舷機関正常。

 

舵正常。

 

潮流も穏やか。

 

犬島は一つずつ確認する。

 

「右舷側、余裕あり」

 

「左舷側も、余裕あり」

 

艦首が河口入口へ入る。

 

続いて中央部。

 

艦橋。

 

煙突。

 

そして再建された艦尾。

 

犬島は息を止めるようにして、艦尾が導流堤の間を通過する感覚を確かめた。

 

接触なし。

 

異常振動なし。

 

新しい艦尾が、無事に河口を抜ける。

 

船首が広い海へ出た。

 

犬島は大きく息を吐いた。

 

「通れた……」

 

提督が答える。

 

「ああ」

 

「今度は、ちゃんと縦向きで」

 

「ああ」

 

「艦尾も一緒に」

 

犬島は振り返った。

 

再建された後甲板。

 

後部十二糎砲。

 

爆雷投下軌条。

 

艦尾旗。

 

すべてがそこにある。

 

犬島の表情が、少しずつ笑顔へ変わった。

 

「帰ってきたんじゃな」

 

提督が犬島の頭へ手を置く。

 

「犬島も、艦尾もな」

 

犬島は嬉しそうに目を細めた。

 

深緑色のスカーフが、海風の中で何度も小さく揺れる。

 

もし尻尾があれば、きっと隠しきれないほど大きく振られていただろう。

 

「提督」

 

「何だ」

 

「これからも、ずっとこの船で行きます」

 

犬島は鋼鉄の甲板へ手を置いた。

 

「艤装を背負うんじゃなくて、この実艦がうちです」

 

「ああ」

 

「一人で動かします」

 

「ああ」

 

「でも、帰るときは迎えてください」

 

「約束する」

 

犬島は頷いた。

 

「それなら、大丈夫です」

 

実艦「犬島」は二本の推進軸を回し、広い海へ向かった。

 

一度は河口を横向きに塞ぎ、艦尾を完全に失った船。

 

それでも修理され、切り離された部分を取り戻し、再び同じ海へ戻ってきた。

 

事故の原因は犬島ではなかった。

 

航路も、速力も、判断も正しかった。

 

犬島は、他の船や港を守るため、唯一開かれていた河口を選んだ。

 

横向きのまま突っ込むしかなかった。

 

その結果として、艦尾を失った。

 

けれど犬島は沈まなかった。

 

河口を塞ぎながらも燃料流出を防ぎ、誰一人傷つけず、迎えが来るまで自分の船体を守り続けた。

 

犬島は艦首に立った。

 

背中に艤装はない。

 

足元にある鋼鉄の船体こそが、彼女の身体だった。

 

「今度こそ、普通に帰ろうな」

 

新しい艦尾が、穏やかな航跡を海面へ残す。

 

犬島は所属鎮守府の方角を見つめ、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「みんなが『おかえり』って言うてくれるけぇ」

 

海防艦「犬島」は、失った艦尾とともに、帰るべき港へ向かって進んでいった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。