偉大なる航路――とある島。
港町の大通りを、一人の少女が歩いていた。
年の頃は二十歳を少し過ぎたくらい。
鮮やかな緑色の髪。頭頂部の髪は左右にふわりと跳ね、どことなく猫の耳を思わせる。
身長は百六十センチほど。
その小柄な身体には、彼女の身分には不釣り合いなほど物々しい騎士団の衣装が纏われていた。
腰には一本のレイピア。
細身の剣そのものは珍しくない。
だが、鍔に刻まれた獣の牙を思わせる装飾だけが妙に禍々しかった。
少女――トップマン・メフェリア宮は、大きなあくびをした。
「……遠い」
彼女は今、任務中だった。
正確には――任務を終えた直後だった。
島の北部で世界政府にとって少々都合の悪い活動をしていた一団を調査する。
それが今回の仕事だった。
三日を予定していた任務は、半日で終わった。
別に張り切ったわけではない。
三日も同じ仕事をするのが面倒だったから、最初から全力で片付けただけだ。
そして現在。
メフェリアには任務よりも遥かに重要な目的があった。
「……あった」
眠そうだった翡翠色の瞳が、わずかに開く。
通りの向こう。
古びた看板が見える。
『肉料理 バルバロ亭』
メフェリアは懐から一枚の紙を取り出した。
この島へ来る前に手に入れた新聞の切り抜きだ。
『港町名物! 三日間煮込んだ特製骨付き肉!』
そこだけ丁寧に切り抜かれている。
「ここだ」
メフェリアの歩く速度が少しだけ上がった。
任務中には一度も見せなかった俊敏さだった。
*
扉を開ける。
カラン、とベルが鳴った。
「いらっしゃ――」
店主の声が止まった。
店内にいた客たちも、一斉にこちらを見る。
メフェリアは気にしない。
「一人」
「……へ?」
「一人なんだけど」
「あ、ああ! どうぞ!」
案内された席に座る。
メニューを開く。
十秒。
「この特製骨付き肉」
「はい!」
「あと、この煮込み」
「はい!」
「ステーキも」
「……はい」
「デザートある?」
「プリンがありますが……」
「それも」
店主が固まった。
「お、お一人で?」
メフェリアが顔を上げる。
「そうだけど?」
「い、いえ! 何でもありません!」
店主が厨房へ消えていった。
メフェリアは頬杖をついた。
「楽しみ」
ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
その時だった。
――ドンッ!
店の扉が乱暴に開いた。
「全員動くなァ!」
数人の男たちが入ってくる。
海賊だった。
先頭の大男が銃を天井へ向ける。
パンッ!
悲鳴が上がった。
「金目の物を全部出せ!」
客たちが震えながら財布を取り出し始める。
メフェリアは頬杖をついたままだった。
興味がない。
海賊が店を襲おうが、下界の人間が金を取られようが、自分には関係ない。
「おい、そこの緑髪!」
呼ばれた。
メフェリアは無視した。
「聞こえねェのか!」
「……聞こえてる」
「だったら金を出せ!」
「嫌」
店内が静まり返った。
海賊の額に青筋が浮かぶ。
「てめェ……!」
銃口がメフェリアへ向けられる。
それでも彼女は動かなかった。
「撃つぞ!」
「どうぞ」
海賊が引き金に指をかけた。
その瞬間。
厨房から店主が飛び出してきた。
「や、やめてください! 料理が――!」
海賊が振り返る。
「うるせェ!」
男がテーブルを蹴り飛ばした。
ガシャァン!
皿が床へ落ちる。
そこには――。
焼き上がったばかりの、大きな骨付き肉。
ソースと肉汁が床へ飛び散った。
メフェリアの視線が、ゆっくりと床へ向いた。
沈黙。
「…………」
海賊が笑った。
「ハハハ! なんだァ? そんなに食いたかったのか?」
メフェリアは立ち上がった。
「それ」
「あ?」
「私の?」
店主が震えながら答える。
「は、はい……」
「……そう」
腰へ手を伸ばす。
細いレイピアが鞘から抜かれた。
シュン。
次の瞬間。
海賊の手から銃が消えた。
「……は?」
正確には、銃身だけが切断されていた。
切断された銃が床へ落ちる。
カラン。
誰もメフェリアが剣を振った瞬間を見ていなかった。
「な……何しやがった!」
メフェリアの瞳が細くなる。
猫のように。
「あなたたちが誰からお金取ろうが、別にどうでもいい」
一歩。
「この店を襲うのも、まあ、私には関係ない」
二歩。
「でも」
海賊たちが本能的に後退する。
少女から何かが漂い始めていた。
黒い煙。
いや。
炎にも似た、禍々しい何か。
殺意。
怒り。
恐怖。
店内に満ち始めた負の感情へ反応するように、それはメフェリアの身体へまとわりついていく。
「私のご飯をダメにした」
赤みを帯びた瞳が海賊を捉えた。
「それは私に関係あるね」
数秒後。
店の外へ数人の海賊が吹き飛んだ。
*
「お待たせしました……」
新しく焼き直された骨付き肉がテーブルへ置かれた。
メフェリアの目が輝く。
「おお」
先ほどまでの禍々しい雰囲気は完全に消えている。
ナイフを入れる。
肉汁が溢れた。
一口。
「…………」
店主が緊張している。
「い、いかがでしょう……?」
メフェリアはゆっくり咀嚼した。
そして。
「美味しい」
店主が安堵する。
「ありがとうございます!」
「もう一個」
「はい!」
「あとプリン」
「はい!」
店の外には、山積みにされた海賊たち。
店内では客たちが少女を恐る恐る見ている。
だが本人はもう彼らのことなど見ていなかった。
二本目の骨付き肉が運ばれてくる。
メフェリアは満足そうに頬張った。
「……下界、結構いいかも」
彼女がそう思った理由は、人でも景色でもない。
肉だった。
この頃。
東の海の小さな村では、一人の少年が海へ出る日を待ち続けていた。
その少年とメフェリアが出会うのは――。
まだ、少し先の話である。