翌日の午後。
水平線の向こうに、大きな島影が見え始めた。
世界政府船の甲板。
メフェリアは手すりに両腕を乗せ、少し身を乗り出すようにして前方を眺めていた。
「見えてきた」
潮風に緑色の髪が揺れる。
その隣で、政府役人が港へ入る準備を確認していた。
「間もなくローグタウンです」
「大きいね」
「東の海でも有数の港町ですから。偉大なる航路へ向かう船の多くが、この町へ立ち寄ります」
「海賊も?」
「……残念ながら」
役人の表情が少し曇る。
ローグタウン。
海賊王ゴールド・ロジャーが生まれ、そして処刑された町。
大海賊時代の始まりを象徴する場所であり、偉大なる航路を目指す海賊たちにとっては特別な意味を持つ。
メフェリアは遠くに見える町並みを眺めた。
「変な町」
「何がでしょうか?」
「海賊を処刑した場所なのに、海賊がいっぱい来るんでしょ?」
「皮肉な話ではありますね」
「ふーん」
船が港へ近づいていく。
多くの帆船。
商船。
漁船。
その間を縫うように世界政府船が進む。
港には海兵の姿も多い。
さすがに、この町はこれまで立ち寄った島とは雰囲気が違った。
「メフェリア宮」
「なに?」
「到着後、まず現地の海軍支部から情報を受け取ります。その後、昨日の男が接触する予定だった場所へ向かいます」
「今日?」
「はい」
「何時?」
「日没前には」
メフェリアが空を見る。
まだ時間はある。
「じゃあ、その前に処刑台行ける?」
役人は少し考えた。
「……経路から大きく外れなければ」
メフェリアの目が少しだけ明るくなる。
「行こ」
「まずは海軍支部です」
「分かってるよ」
そう答えながら、もう町を見ている。
役人は小さくため息をついた。
*
港へ降りると、すぐにローグタウンの喧騒が押し寄せてきた。
行き交う人々。
荷物を運ぶ船員。
客を呼び込む商人。
店先から漂ってくる料理の匂い。
メフェリアは歩きながら、右を見る。
左を見る。
また右を見る。
「メフェリア宮」
「なに?」
「前をご覧ください」
「見てるよ」
「先ほどから左右しかご覧になっていません」
「ちゃんと見えてる」
そう言った直後。
正面から荷車が来た。
役人がメフェリアの肩を掴み、横へ避けさせる。
「危ないですよ」
「…………」
「前をご覧ください」
「分かった」
少しだけ大人しくなった。
一行は港から海軍支部へ向かう。
その途中にも、メフェリアの視線は忙しい。
武器屋。
衣料品店。
酒場。
菓子屋。
「…………」
役人は何も言わなかった。
言っても仕方がないと分かり始めていた。
*
ローグタウン海軍支部。
世界政府からの連絡は、すでに届いていた。
用意された部屋へ入り、現地で集められた情報を確認する。
机の上には町の地図。
役人が一点を指差した。
「接触予定地はこちらです」
港から少し離れた倉庫街。
使われていない古い建物。
「昨夜から監視しておりますが、今のところ怪しい動きはありません」
海兵が説明する。
「取引は?」
「本日の夕刻と見られます」
メフェリアは地図を見る。
「じゃあ、まだ時間あるね」
役人が先回りする。
「ございますが、好きに歩き回ってよいという意味ではありません」
「まだ何も言ってない」
「お顔に書いてあります」
「書いてない」
昨日も似たようなことを言われた気がする。
海兵が二人のやり取りを不思議そうに見ていた。
無理もない。
神の騎士団から人間が派遣される。
その話を聞いた時、支部では相当な緊張が走った。
まして。
天竜人。
どのような人物が来るのかと身構えていた。
実際に現れたのは。
小柄な緑髪の少女だった。
しかも。
先ほどから観光のことばかり気にしている。
「何か?」
メフェリアが海兵を見る。
「い、いえ!」
海兵が姿勢を正す。
「何でもありません!」
「そう?」
役人が話を戻した。
「現場へは日没の一時間ほど前に向かいます。それまでは待機となります」
メフェリアが時計を見る。
「二時間くらい?」
「その程度ですね」
「じゃあ処刑台」
「……はい」
「行っていい?」
「私も同行いたします」
「うん」
許可が出た。
メフェリアはすぐに立ち上がった。
*
ローグタウン中央広場。
そこだけは、町の他の場所とは少し空気が違っていた。
大勢の人が行き交っている。
観光客。
商人。
船乗り。
海賊らしき者も混ざっている。
その中心。
高く設けられた処刑台。
メフェリアは少し離れた場所から、それを見上げていた。
「…………」
ここで。
ゴールド・ロジャーは死んだ。
世界政府によって処刑された。
それ自体は知っている。
マリージョアでも、ロジャーの名は何度も耳にした。
世界の秩序を乱した大罪人。
海賊王。
そう教えられてきた。
「ここ?」
「はい」
役人が答える。
「二十二年前、ゴールド・ロジャーはこの場所で処刑されました」
メフェリアは処刑台を見上げたまま尋ねる。
「いっぱい人いたの?」
「広場を埋め尽くすほどだったと聞いております」
「みんな見に来たんだ」
「海賊王の最期ですから」
「怖くなかったのかな」
役人がメフェリアを見る。
「誰がです?」
「ロジャー」
少し意外な質問だった。
「……さあ」
「死ぬんでしょ?」
「そうですね」
「なのに笑ってたって書いてあった」
メフェリアは昨日読んだ観光案内を思い出していた。
処刑される直前。
海賊王は笑ったという。
「変な人」
ぽつりと呟く。
役人は答えなかった。
メフェリアにも、その気持ちは分からない。
死ぬことが怖くない人間なんているのだろうか。
少なくとも。
自分にはまだ分からなかった。
「でも」
「はい?」
「ここで終わったのに、ここから始まったんだよね」
役人が黙る。
ロジャーの最期の言葉。
それによって。
大海賊時代が始まった。
「そういうことになります」
「やっぱり変なの」
一人の人間が死んだ場所。
なのに。
そこから数え切れないほどの人間が海へ出た。
始まりと終わりが、同じ場所にある。
メフェリアはしばらく処刑台を見つめていた。
その時。
広場の反対側。
一人の少年が走っていった。
「…………」
メフェリアの視線が、ほんの一瞬だけそちらへ向く。
麦わら帽子。
赤い服。
何かを探しているのか、きょろきょろと周囲を見ながら人混みの中へ消えていく。
それだけだった。
メフェリアはすぐに処刑台へ視線を戻した。
当然。
名前も知らない。
気に留める理由もない。
「そろそろ参りましょう」
役人が時計を見る。
「うん」
メフェリアも歩き出す。
数歩。
そして止まる。
役人が振り返る。
「どうされました?」
メフェリアは通りの向こうを見る。
そこには小さな店。
ガラス越しに、焼き菓子が並んでいる。
「…………」
「メフェリア宮」
「時間ある?」
「ございますが」
「一個だけ」
「何がでしょう?」
「あれ」
指差す。
役人は店を見る。
次に時計を見る。
「……一個だけですよ」
「うん」
数分後。
メフェリアは紙袋を持って店から出てきた。
中には、焼きたてのアップルパイ。
「一個だけって言いましたよね」
「一個だよ」
「その袋、随分と大きくありませんか?」
「大きい一個」
「…………」
丸ごと一台だった。
役人は額を押さえた。
*
夕刻。
ローグタウン西部。
倉庫街。
昼間の賑わいは遠く、辺りには古い建物が並んでいる。
メフェリアたちは一つの倉庫が見える場所で待機していた。
現地の海兵たちは少し離れた場所に配置されている。
「来るかな」
「予定が変更されていなければ」
役人が答える。
メフェリアは木箱に腰掛けていた。
手にはアップルパイ。
「メフェリア宮」
「なに?」
「まだ召し上がっていたのですか?」
「大きいから」
「……そうでしたね」
一口。
サクッ。
メフェリアは満足そうに食べる。
「美味しい」
「それは何よりです」
役人はすでに諦めていた。
「来たら教えて」
「メフェリア宮も警戒を」
「してるよ」
「食べながら?」
「うん」
本当なのだから困る。
見聞色。
メフェリアは食事をしながらでも、周囲の気配を捉えていた。
その時。
「…………」
フォークが止まった。
役人が気づく。
「どうされました?」
メフェリアは倉庫の方を見る。
「来た」
役人の表情が変わる。
「何人です?」
「一人」
路地の向こう。
男が歩いてくる。
灰色の上着。
帽子を深く被っている。
ごく普通の商人に見える。
だが。
男は周囲を何度も確認していた。
やがて、目的の倉庫へ入っていく。
「情報通りですね」
役人が小声で言う。
「どうする?」
「接触相手を確認します」
「捕まえないの?」
「まだです」
メフェリアは少し不満そうだった。
「待つの?」
「はい」
「どれくらい?」
「それは……」
役人にも分からない。
メフェリアは残っているアップルパイを見る。
「じゃあ食べてる」
「静かにお願いいたします」
「分かってる」
十分。
二十分。
日が沈み始める。
倉庫に入った男は出てこない。
「遅い」
「もう少しお待ちください」
「アップルパイなくなった」
「それは知りません」
さらに数分。
その時。
メフェリアの表情が変わった。
「…………」
「メフェリア宮?」
「増えた」
「何がです?」
「中の人」
役人が倉庫を見る。
「何人です?」
「二人」
「いつ入った?」
周囲を監視していた海兵からも連絡はない。
正面入口。
裏口。
どちらからも誰も入っていない。
「分かんない」
メフェリアは立ち上がる。
「でもいる」
役人の顔が険しくなる。
「地下道でしょうか」
「多分」
倉庫の中。
二つの気配。
一人は先ほど入った男。
もう一人。
「…………」
メフェリアの目が細くなる。
その気配が動いた。
速い。
「離れて!」
役人が反応するより早く。
倉庫の壁が吹き飛んだ。
ドンッ!!
木片と埃が路地へ飛び散る。
メフェリアは役人の前へ出た。
煙の向こう。
一人の男が姿を現す。
黒い服。
手には小さな鞄。
こちらを見る。
メフェリアと目が合った。
「…………」
「…………」
男の顔が変わる。
「神の騎士団……!」
メフェリアはレイピアへ手を伸ばした。
だが。
男は戦わなかった。
反対方向へ走り出す。
「あ」
役人が叫ぶ。
「逃げます!」
「うん」
メフェリアが地面を蹴る。
「追う」
夕暮れのローグタウン。
人々の知らないところで。
東の仲介人へ繋がる追跡が始まった。