夕暮れのローグタウン。
倉庫街を、一人の男が走っていた。
黒い服。片手には小さな鞄。
その後ろを、メフェリアが追う。
「待って」
「誰が待つか!」
「逃げても無駄だよ」
「なら黙って追ってこい!」
「…………」
メフェリアの眉が少し動いた。
「感じ悪い」
男が角を曲がる。
メフェリアも続く。
倉庫街を抜け、狭い路地へ。男は何度も進路を変えながら走っていた。土地勘があるのか、迷う様子はない。
だが、距離は少しずつ縮まっていた。
男が振り返る。
「くそ……!」
速い。
自分も決して遅くはない。それなのに、後ろから追ってくる少女は息一つ乱していなかった。
男は前方を見る。
大通り。
まだ多くの人間が行き交っている。
その中へ飛び込んだ。
「どけ!」
通行人を押し退ける。
「なんだ!?」
「危ねえぞ!」
怒鳴り声が上がる。
男は構わず走る。
その後ろからメフェリアも大通りへ出た。
「…………」
人が多い。
メフェリアは少しだけ速度を落とした。
その隙に男との距離が開く。
「逃がすか!」
別方向から海兵たちが現れた。
倉庫街を包囲していた者たちだ。
男の前へ回り込む。
「邪魔だ!」
懐から銃を取り出す。
「伏せろ!」
海兵が叫んだ。
銃声が響く。
人々の悲鳴。
男は走りながら発砲し、そのまま横道へ飛び込んだ。
「…………」
大通りは一気に混乱した。
悲鳴を上げて逃げる者。
その場に伏せる者。
何が起きたのかと立ち止まる者までいる。
メフェリアは足を止めかけた。
「……面倒」
これでは追いづらい。
おそらく男も、それを狙ったのだろう。
メフェリアの目がわずかに細くなる。
「逃げるためにそこまでするんだ」
少しだけ。
気に入らなかった。
地面を蹴る。
一気に速度を上げた。
*
男は走る。
路地。
階段。
また路地。
だが、後ろの気配が消えない。
むしろ近づいてくる。
「化け物かよ……!」
前方に市場が見えた。
人混みへ入れば、また距離を稼げる。
そう考えた瞬間。
「そっちは駄目」
すぐ後ろから声がした。
「……!」
男が振り返る。
メフェリア。
「いつの間に――」
男が銃を向ける。
引き金に指をかけた、その直前。
メフェリアのレイピアが閃いた。
銃が真っ二つになる。
「なっ……!」
男の手から残骸が落ちた。
そのままメフェリアが懐へ入る。
柄を腹へ。
「ぐっ!」
男の身体が折れる。
続けて肩を掴み、足を払った。
ドンッ。
背中から地面へ叩きつけられる。
「がっ……!」
男が起き上がろうとする。
その目の前。
レイピアの切っ先が向けられた。
「終わり」
「…………」
男の動きが止まった。
息を荒くしながら、メフェリアを見る。
「……神の騎士団が、なんで東の海なんかにいる」
「任務」
「それだけかよ」
「それだけ」
「…………」
男は天を仰いだ。
「最悪だ……」
メフェリアは首を傾げる。
「何が?」
「こっちの話だ」
「そう」
興味を失った。
遠くから足音が近づいてくる。
「メフェリア宮!」
政府役人と海兵たちが追いついてきた。
「ご無事ですか?」
「うん」
「対象は?」
メフェリアが足元を見る。
「これ」
「人を物みたいに言うな……」
男が呟く。
海兵たちがすぐに男を取り押さえ、両手を拘束した。
役人は男が持っていた鞄を回収する。
「中を確認します」
鍵が掛かっている。
メフェリアがレイピアへ手を伸ばした。
「切る?」
「お待ちください」
役人が即座に止める。
「今回は鍵を探します」
「時間かかるよ?」
「証拠品ですので」
「そっか」
メフェリアは素直にレイピアを鞘へ戻した。
男の身体が海兵によって起こされる。
その時。
メフェリアが男を見る。
「ねえ」
「……なんだ」
「さっきの倉庫にいたもう一人は?」
男の顔がわずかに変わった。
「知らん」
「嘘」
「…………」
「一緒にいたでしょ」
男は答えない。
メフェリアは役人を見る。
「まだ倉庫にいるかも」
「すぐ確認させます」
海兵の一人が走っていく。
メフェリアは男へ視線を戻した。
「東の仲介人は?」
「知らん」
「それも嘘?」
「……本当に知らん」
「ふーん」
男の表情を見る。
先ほどとは違う。
今度は、本当に知らないように見えた。
「じゃあ誰なら知ってる?」
「…………」
「答えて」
「嫌だね」
「そう」
メフェリアはそれ以上聞かなかった。
男が拍子抜けしたような顔をする。
「……諦めるのか?」
「別に」
メフェリアは鞄を見る。
「そっち調べればいいし」
「…………」
男の顔が引きつった。
役人も鞄を見る。
「確かに」
「おい」
メフェリアは少しだけ首を傾げた。
「分かりやすいね」
どうやら。
この鞄には何かあるらしい。
*
夜。
ローグタウン海軍支部。
机の上に、黒い鞄の中身が並べられていた。
帳簿。
数枚の手紙。
金貨。
そして、小さな鍵。
メフェリアは椅子に座り、それを眺めている。
隣では政府役人と海兵たちが資料を確認していた。
「こちらです」
役人が一枚の手紙を取り出した。
暗号のような文字が並んでいる。
「読めない」
メフェリアが言った。
「暗号化されています」
「分かる?」
「時間は必要ですが」
「どれくらい?」
「数時間ほど」
「長い」
メフェリアは机に頬杖をついた。
少し眠い。
役人たちが作業を続ける。
しばらくして。
「……これは」
一人の海兵が声を上げた。
机の上に広げられた帳簿。
そこに何度も同じ記号が記されている。
役人が別の資料と照らし合わせる。
ベルネ島で押収した帳簿。
ラッカ島の記録。
そして今回のもの。
「一致します」
「なにが?」
メフェリアが顔を上げる。
「取引先を示す符号です」
役人が三つの資料を並べた。
「これまで我々は、この記号が『東の仲介人』本人を示していると考えていました」
「違うの?」
「正確には、彼が管理する拠点を示していたようです」
指が帳簿の下へ移る。
そこには地名が書かれていた。
ゴア王国。
メフェリアの目が止まる。
「ここ?」
「はい」
役人の表情が険しくなる。
「過去半年間、複数の島から運ばれた物資が、最終的にこの場所へ集められています」
「全部?」
「少なくとも、確認できる範囲では」
ラッカ島。
ベルネ島。
さらに別の島々。
政府から奪われた物資。
武器。
薬品。
それらが様々な経路を通り、最後には一つの場所へ集まっている。
ゴア王国。
「じゃあ」
メフェリアが帳簿を見る。
「東の仲介人もそこにいる?」
「可能性は非常に高いでしょう」
「本人捕まえたら終わり?」
役人は少し考えた。
「今回追っている東の海の密輸網については、大部分を潰せるはずです」
「大部分?」
「残党まで一人残らず、という意味ではありません。しかし、組織としての活動は困難になるでしょう」
メフェリアは少し考える。
それから。
「じゃあ、ほとんど終わりだね」
「そうなることを願います」
メフェリアの表情がわずかに明るくなった。
役人がそれに気づく。
「嬉しそうですね」
「だって終わるんでしょ?」
「まだゴア王国が残っています」
「そこ終わったら?」
「マリージョアへ一度報告に戻ることになるでしょう」
「ほんと?」
「はい」
今度は、はっきりと目が輝いた。
「じゃあ頑張る」
「……ベルネ島でも似たようなことを仰っていましたね」
「早く帰りたいから」
「東の海がお嫌いになりましたか?」
メフェリアは少し考えた。
「嫌いじゃないよ」
牧場。
ミルクプリン。
ソフトクリーム。
ローグタウン。
処刑台。
アップルパイ。
知らないものをたくさん見た。
「面白い」
「それは何よりです」
「でも」
メフェリアは椅子の背にもたれる。
「そろそろ自分の部屋で寝たい」
「なるほど」
「お風呂も入りたい」
「船にもございますが」
「狭い」
「……左様ですか」
メフェリアにとって、マリージョアは聖地である以前に、生まれ育った場所だった。
帰れば自分の部屋がある。
慣れたベッドがある。
広い風呂もある。
そして。
いつも顔を合わせる人間たちもいる。
「出航は?」
「早ければ明日の午後です。ローグタウンでの処理が済み次第、ゴア王国へ向かいます」
「明日の午後……」
メフェリアが何かを考える。
役人は嫌な予感を覚えた。
「何でしょうか」
「午前中空いてる?」
「……なぜでしょう」
「まだ町ちゃんと見てない」
「本日の午後にご覧になったのでは?」
「処刑台しか見てない」
「アップルパイも買われましたよね」
「あれは食べただけ」
「…………」
役人は額を押さえた。
「任務に支障のない範囲でお願いいたします」
「うん」
即答。
その顔はすでに、明日のローグタウン観光のことを考えている。
役人は深く息を吐いた。
長かった今回の任務にも、ようやく終わりが見えてきた。
次なる目的地。
ゴア王国。
東の仲介人。
そこに辿り着けば、ラッカ島から続いた追跡も、いよいよ最後になる。
そしてメフェリアも。
久しぶりに。
マリージョアへ帰ることができる。