下界の飯は悪くない   作:ボヤージュ500億

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逃げる男

夕暮れのローグタウン。

 

倉庫街を、一人の男が走っていた。

 

黒い服。片手には小さな鞄。

 

その後ろを、メフェリアが追う。

 

「待って」

 

「誰が待つか!」

 

「逃げても無駄だよ」

 

「なら黙って追ってこい!」

 

「…………」

 

メフェリアの眉が少し動いた。

 

「感じ悪い」

 

男が角を曲がる。

 

メフェリアも続く。

 

倉庫街を抜け、狭い路地へ。男は何度も進路を変えながら走っていた。土地勘があるのか、迷う様子はない。

 

だが、距離は少しずつ縮まっていた。

 

男が振り返る。

 

「くそ……!」

 

速い。

 

自分も決して遅くはない。それなのに、後ろから追ってくる少女は息一つ乱していなかった。

 

男は前方を見る。

 

大通り。

 

まだ多くの人間が行き交っている。

 

その中へ飛び込んだ。

 

「どけ!」

 

通行人を押し退ける。

 

「なんだ!?」

 

「危ねえぞ!」

 

怒鳴り声が上がる。

 

男は構わず走る。

 

その後ろからメフェリアも大通りへ出た。

 

「…………」

 

人が多い。

 

メフェリアは少しだけ速度を落とした。

 

その隙に男との距離が開く。

 

「逃がすか!」

 

別方向から海兵たちが現れた。

 

倉庫街を包囲していた者たちだ。

 

男の前へ回り込む。

 

「邪魔だ!」

 

懐から銃を取り出す。

 

「伏せろ!」

 

海兵が叫んだ。

 

銃声が響く。

 

人々の悲鳴。

 

男は走りながら発砲し、そのまま横道へ飛び込んだ。

 

「…………」

 

大通りは一気に混乱した。

 

悲鳴を上げて逃げる者。

 

その場に伏せる者。

 

何が起きたのかと立ち止まる者までいる。

 

メフェリアは足を止めかけた。

 

「……面倒」

 

これでは追いづらい。

 

おそらく男も、それを狙ったのだろう。

 

メフェリアの目がわずかに細くなる。

 

「逃げるためにそこまでするんだ」

 

少しだけ。

 

気に入らなかった。

 

地面を蹴る。

 

一気に速度を上げた。

 

 

男は走る。

 

路地。

 

階段。

 

また路地。

 

だが、後ろの気配が消えない。

 

むしろ近づいてくる。

 

「化け物かよ……!」

 

前方に市場が見えた。

 

人混みへ入れば、また距離を稼げる。

 

そう考えた瞬間。

 

「そっちは駄目」

 

すぐ後ろから声がした。

 

「……!」

 

男が振り返る。

 

メフェリア。

 

「いつの間に――」

 

男が銃を向ける。

 

引き金に指をかけた、その直前。

 

メフェリアのレイピアが閃いた。

 

銃が真っ二つになる。

 

「なっ……!」

 

男の手から残骸が落ちた。

 

そのままメフェリアが懐へ入る。

 

柄を腹へ。

 

「ぐっ!」

 

男の身体が折れる。

 

続けて肩を掴み、足を払った。

 

ドンッ。

 

背中から地面へ叩きつけられる。

 

「がっ……!」

 

男が起き上がろうとする。

 

その目の前。

 

レイピアの切っ先が向けられた。

 

「終わり」

 

「…………」

 

男の動きが止まった。

 

息を荒くしながら、メフェリアを見る。

 

「……神の騎士団が、なんで東の海なんかにいる」

 

「任務」

 

「それだけかよ」

 

「それだけ」

 

「…………」

 

男は天を仰いだ。

 

「最悪だ……」

 

メフェリアは首を傾げる。

 

「何が?」

 

「こっちの話だ」

 

「そう」

 

興味を失った。

 

遠くから足音が近づいてくる。

 

「メフェリア宮!」

 

政府役人と海兵たちが追いついてきた。

 

「ご無事ですか?」

 

「うん」

 

「対象は?」

 

メフェリアが足元を見る。

 

「これ」

 

「人を物みたいに言うな……」

 

男が呟く。

 

海兵たちがすぐに男を取り押さえ、両手を拘束した。

 

役人は男が持っていた鞄を回収する。

 

「中を確認します」

 

鍵が掛かっている。

 

メフェリアがレイピアへ手を伸ばした。

 

「切る?」

 

「お待ちください」

 

役人が即座に止める。

 

「今回は鍵を探します」

 

「時間かかるよ?」

 

「証拠品ですので」

 

「そっか」

 

メフェリアは素直にレイピアを鞘へ戻した。

 

男の身体が海兵によって起こされる。

 

その時。

 

メフェリアが男を見る。

 

「ねえ」

 

「……なんだ」

 

「さっきの倉庫にいたもう一人は?」

 

男の顔がわずかに変わった。

 

「知らん」

 

「嘘」

 

「…………」

 

「一緒にいたでしょ」

 

男は答えない。

 

メフェリアは役人を見る。

 

「まだ倉庫にいるかも」

 

「すぐ確認させます」

 

海兵の一人が走っていく。

 

メフェリアは男へ視線を戻した。

 

「東の仲介人は?」

 

「知らん」

 

「それも嘘?」

 

「……本当に知らん」

 

「ふーん」

 

男の表情を見る。

 

先ほどとは違う。

 

今度は、本当に知らないように見えた。

 

「じゃあ誰なら知ってる?」

 

「…………」

 

「答えて」

 

「嫌だね」

 

「そう」

 

メフェリアはそれ以上聞かなかった。

 

男が拍子抜けしたような顔をする。

 

「……諦めるのか?」

 

「別に」

 

メフェリアは鞄を見る。

 

「そっち調べればいいし」

 

「…………」

 

男の顔が引きつった。

 

役人も鞄を見る。

 

「確かに」

 

「おい」

 

メフェリアは少しだけ首を傾げた。

 

「分かりやすいね」

 

どうやら。

 

この鞄には何かあるらしい。

 

 

夜。

 

ローグタウン海軍支部。

 

机の上に、黒い鞄の中身が並べられていた。

 

帳簿。

 

数枚の手紙。

 

金貨。

 

そして、小さな鍵。

 

メフェリアは椅子に座り、それを眺めている。

 

隣では政府役人と海兵たちが資料を確認していた。

 

「こちらです」

 

役人が一枚の手紙を取り出した。

 

暗号のような文字が並んでいる。

 

「読めない」

 

メフェリアが言った。

 

「暗号化されています」

 

「分かる?」

 

「時間は必要ですが」

 

「どれくらい?」

 

「数時間ほど」

 

「長い」

 

メフェリアは机に頬杖をついた。

 

少し眠い。

 

役人たちが作業を続ける。

 

しばらくして。

 

「……これは」

 

一人の海兵が声を上げた。

 

机の上に広げられた帳簿。

 

そこに何度も同じ記号が記されている。

 

役人が別の資料と照らし合わせる。

 

ベルネ島で押収した帳簿。

 

ラッカ島の記録。

 

そして今回のもの。

 

「一致します」

 

「なにが?」

 

メフェリアが顔を上げる。

 

「取引先を示す符号です」

 

役人が三つの資料を並べた。

 

「これまで我々は、この記号が『東の仲介人』本人を示していると考えていました」

 

「違うの?」

 

「正確には、彼が管理する拠点を示していたようです」

 

指が帳簿の下へ移る。

 

そこには地名が書かれていた。

 

ゴア王国。

 

メフェリアの目が止まる。

 

「ここ?」

 

「はい」

 

役人の表情が険しくなる。

 

「過去半年間、複数の島から運ばれた物資が、最終的にこの場所へ集められています」

 

「全部?」

 

「少なくとも、確認できる範囲では」

 

ラッカ島。

 

ベルネ島。

 

さらに別の島々。

 

政府から奪われた物資。

 

武器。

 

薬品。

 

それらが様々な経路を通り、最後には一つの場所へ集まっている。

 

ゴア王国。

 

「じゃあ」

 

メフェリアが帳簿を見る。

 

「東の仲介人もそこにいる?」

 

「可能性は非常に高いでしょう」

 

「本人捕まえたら終わり?」

 

役人は少し考えた。

 

「今回追っている東の海の密輸網については、大部分を潰せるはずです」

 

「大部分?」

 

「残党まで一人残らず、という意味ではありません。しかし、組織としての活動は困難になるでしょう」

 

メフェリアは少し考える。

 

それから。

 

「じゃあ、ほとんど終わりだね」

 

「そうなることを願います」

 

メフェリアの表情がわずかに明るくなった。

 

役人がそれに気づく。

 

「嬉しそうですね」

 

「だって終わるんでしょ?」

 

「まだゴア王国が残っています」

 

「そこ終わったら?」

 

「マリージョアへ一度報告に戻ることになるでしょう」

 

「ほんと?」

 

「はい」

 

今度は、はっきりと目が輝いた。

 

「じゃあ頑張る」

 

「……ベルネ島でも似たようなことを仰っていましたね」

 

「早く帰りたいから」

 

「東の海がお嫌いになりましたか?」

 

メフェリアは少し考えた。

 

「嫌いじゃないよ」

 

牧場。

 

ミルクプリン。

 

ソフトクリーム。

 

ローグタウン。

 

処刑台。

 

アップルパイ。

 

知らないものをたくさん見た。

 

「面白い」

 

「それは何よりです」

 

「でも」

 

メフェリアは椅子の背にもたれる。

 

「そろそろ自分の部屋で寝たい」

 

「なるほど」

 

「お風呂も入りたい」

 

「船にもございますが」

 

「狭い」

 

「……左様ですか」

 

メフェリアにとって、マリージョアは聖地である以前に、生まれ育った場所だった。

 

帰れば自分の部屋がある。

 

慣れたベッドがある。

 

広い風呂もある。

 

そして。

 

いつも顔を合わせる人間たちもいる。

 

「出航は?」

 

「早ければ明日の午後です。ローグタウンでの処理が済み次第、ゴア王国へ向かいます」

 

「明日の午後……」

 

メフェリアが何かを考える。

 

役人は嫌な予感を覚えた。

 

「何でしょうか」

 

「午前中空いてる?」

 

「……なぜでしょう」

 

「まだ町ちゃんと見てない」

 

「本日の午後にご覧になったのでは?」

 

「処刑台しか見てない」

 

「アップルパイも買われましたよね」

 

「あれは食べただけ」

 

「…………」

 

役人は額を押さえた。

 

「任務に支障のない範囲でお願いいたします」

 

「うん」

 

即答。

 

その顔はすでに、明日のローグタウン観光のことを考えている。

 

役人は深く息を吐いた。

 

長かった今回の任務にも、ようやく終わりが見えてきた。

 

次なる目的地。

 

ゴア王国。

 

東の仲介人。

 

そこに辿り着けば、ラッカ島から続いた追跡も、いよいよ最後になる。

 

そしてメフェリアも。

 

久しぶりに。

 

マリージョアへ帰ることができる。

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