ゴア王国、王都北部。
かつて貴族たちが暮らしていた古い屋敷の前で、メフェリアは閉ざされた扉を見上げていた。
周囲の道はすでにゴア王国兵によって封鎖され、政府役人たちも逃走者が出た場合に備えて配置についている。
「メフェリア宮」
後ろから政府役人が声をかけた。
「準備が整いました」
「うん」
メフェリアは腰のレイピアへ手を添える。
見聞色で探れば、屋敷の中にいる人間の位置はおおよそ分かる。地上にもいくつか気配はあるが、その大半は地下に集まっていた。
そして、最も奥にいる一人。
おそらく、あれが東の仲介人だ。
「行ってくる」
「お待ちください。我々も同行いたします」
メフェリアが振り返る。
「危ないよ?」
「……承知しております」
「じゃあ外にいた方がよくない?」
「しかし、メフェリア宮お一人で向かわせるわけにはまいりません」
メフェリアは少し考え、屋敷を見た。
「入口まで来る?」
「入口まで、ですか?」
「中は狭そうだから、いっぱい来ると邪魔」
あまりにも率直だった。
役人は屋敷へ目を向ける。
相手は二十人以上。本来ならば複数の部隊を投入し、慎重に制圧すべき場所だろう。
だが、目の前にいるのは神の騎士団員だ。
ベルネ島でもローグタウンでも、その実力は十分すぎるほど見ている。
「……分かりました。ただし、異常があれば我々も突入いたします」
「うん」
メフェリアは扉へ向き直った。
「じゃあ開けるね」
「お待ちを。罠が――」
ドンッ!
扉が勢いよく吹き飛んだ。
役人が黙る。
メフェリアは何事もなかったようにレイピアを鞘へ戻した。
「開いた」
「……左様ですね」
今さら何を言っても仕方がなかった。
*
屋敷の中は薄暗かった。
長い間使われていないように見えるが、床には新しい足跡が残り、家具にも最近動かされた形跡がある。誰かがここを頻繁に出入りしていることは明らかだった。
メフェリアは迷うことなく奥へ進んでいく。
見聞色がある以上、わざわざ探し回る必要はない。
廊下を曲がったところで、三人の男が現れた。
「止まれ!」
銃口が向けられる。
メフェリアは足を止めた。
「そこ通りたい」
「何者だ!」
「世界政府」
男たちの表情が変わる。
「政府だと……?」
一人が引き金へ指をかけた。
メフェリアは小さく息を吐く。
「やっぱりこうなるんだ」
銃声が響いた。
身体をわずかに横へずらし、弾丸を避ける。同時にレイピアを抜き、そのまま一気に間合いへ踏み込んだ。
男の目が見開かれる。
レイピアの柄が顎を打ち抜き、一人目が倒れた。
二人目が銃を向けようとするが、その手首を打たれて武器を落とす。続けて腹へ蹴りを受け、壁へ叩きつけられた。
三人目が剣を抜いた。
「この……!」
振り下ろされた剣を、メフェリアはレイピアで受け止める。
金属音が響く。
二度、三度と刃がぶつかり合うが、男の顔から余裕はすぐに消えていった。
「なんだ、この力……!」
次の瞬間、男の剣が宙を舞った。
レイピアの切っ先が喉元へ向けられる。
「もうやめる?」
男は答えない。
メフェリアは少し待った。
「…………」
まだ構えるつもりらしい。
レイピアの柄で額を打つ。
「ぐっ……!」
三人目も床へ倒れた。
メフェリアは再び歩き出す。
「やめるって言わないから」
静かな屋敷の中に、その声だけが残った。
*
地下への入口は、屋敷の書斎に隠されていた。
本棚を動かすと、その奥から石造りの階段が現れる。
メフェリアが暗い階段を下りていくにつれて、人の気配は増していった。
やがて階段が終わり、広い地下施設へ出る。
通路の左右には大量の木箱が積み上げられていた。その中には、見覚えのある世界政府の紋章が刻まれたものも混ざっている。
「見つけた」
ラッカ島から追ってきた盗難物資。
間違いない。
その時、通路の奥から複数の足音が響いた。
「侵入者だ!」
「止めろ!」
十人以上の男たちが現れる。
銃や剣、斧。それぞれが武器を構え、通路を塞いだ。
メフェリアは彼らを見渡す。
「……多い」
先頭の男が笑った。
「今さら怖気づいたか!」
「違うよ」
レイピアを構える。
「面倒だなって」
「舐めるな!」
男たちが一斉に動いた。
メフェリアの翡翠色の瞳が細くなる。
直後、凄まじい圧力が地下通路を駆け抜けた。
空気が震え、積み上げられた木箱が軋む。
男たちの動きが止まった。
「な……」
一人、また一人と白目を剥き、床へ倒れていく。
武器が石床へ落ちる音が次々と響いた。
最後まで意識を保っていた数人も、まともに身体を動かせていない。
「なんだ……これは……」
メフェリアは静かに彼らの間を歩いていく。
「邪魔だから寝てて」
一人が震える手で銃を向ける。
引き金が引かれるより早く、メフェリアの姿が視界から消えた。
次に見えた時には、その男も床へ倒れている。
残った者たちも長くは持たなかった。
ほどなくして地下通路は静まり返った。
メフェリアはレイピアを鞘へ戻す。
「やっぱり多いだけだった」
そのまま、地下のさらに奥へ進んでいった。
*
最奥には大きな部屋があった。
中央には机が置かれ、壁には東の海の地図が広げられている。いくつもの島が線で結ばれ、その周囲には取引記録らしき書類が積み上げられていた。
そして、地図の前に一人の男が立っている。
五十代ほどだろうか。
整えられた髪に、高価そうな服。武器を持っている様子はなく、逃げることもせずメフェリアを待っていた。
「随分早かったな」
「あなた?」
「何がだ」
「東の仲介人」
男は少しだけ笑った。
「そう呼ぶ者もいる」
「じゃあ合ってる」
メフェリアは部屋へ入る。
男の視線が彼女の服装から、腰のレイピアへ移った。
「まさか神の騎士団が来るとは思わなかった」
「よく言われる」
「東の海の密輸事件一つに、随分と大層な人間を寄越したものだ」
「私もそう思う」
男が一瞬黙った。
「……お前自身が言うのか」
「だって遠かったし」
メフェリアは机の上を見る。
帳簿。
手紙。
取引記録。
これだけあれば、十分な証拠になるだろう。
「これ全部あなたの?」
「答えると思うか?」
「別に」
「…………」
「持って帰れば調べられるでしょ」
男の眉が動いた。
「お前は……もう少し話というものを――」
「長い?」
「まだ何も話していない!」
メフェリアは少しだけ首を傾げた。
男は額を押さえる。
「……調子が狂うな」
「捕まってくれる?」
「断る」
「じゃあ仕方ないね」
メフェリアがレイピアへ手を伸ばした。
しかし、男は武器を構えなかった。
代わりに、机の下へ手を伸ばす。
カチッ。
小さな音。
メフェリアの耳がそれを捉えた。
「?」
直後、壁の向こうから轟音が響く。
地下全体が大きく揺れ、天井から細かな埃が落ちてきた。
男が笑う。
「この施設には爆薬を仕掛けてある。証拠も物資も、ここにいる人間も全部消える」
メフェリアは男を見る。
「あなたも?」
「当然だ」
「死ぬよ?」
「捕まるよりはましだ」
メフェリアは理解できないような顔をした。
「変なの」
「何?」
「死んだら終わりなのに」
男の表情がわずかに変わった。
再び爆発が起き、天井に大きな亀裂が走る。
遠くから声が聞こえた。
「メフェリア宮!」
入口にいた政府役人たちも異変に気づいたらしい。
男は勝ち誇ったように笑う。
「もう遅い!」
メフェリアは崩れ始めた天井を見上げた。
その瞬間。
身体が変わる。
緑色の髪が大きく揺らめき、腕や脚を覆うように毛並みが広がっていく。指先から鋭い爪が伸び、背には翼が現れ、頭部には角が生じる。
そして身体の周囲には、黒い焔のような雲が浮かんだ。
ネコネコの実、幻獣種。
モデル――窮奇。
男の顔から笑みが消えた。
「……なんだ、それは」
メフェリアは答えない。
床を蹴った。
男の目には、一瞬その姿が消えたように見えた。
「がっ……!」
腹へ衝撃を受け、男の身体が浮く。
メフェリアはその身体を掴むと、来た道を一気に駆け戻った。
「な、何を――!」
「逃げる」
「離せ!」
「嫌」
天井が次々と崩れていく。
石や木材が降り注ぐ中、メフェリアは落下物を避けながら地下通路を駆け抜ける。
途中、倒れている男たちが目に入った。
先ほど制圧した者たちだ。
「…………」
メフェリアの速度が少し落ちる。
全員を自分で運ぶには数が多い。
その時、地上側から複数の気配が近づいてくるのを感じた。
政府役人と王国兵。
「こっち!」
メフェリアが声を上げる。
「まだ中に人いる!」
「承知しました!」
返事が聞こえた。
それを確認すると、メフェリアは東の仲介人を抱えたまま地上を目指した。
*
数分後。
屋敷の外。
大きな音とともに、古い屋敷の一部が崩れ落ちた。
王国兵たちは地下から次々と人間を運び出し、政府役人たちは回収できた証拠品を確認している。
その少し離れた場所で、メフェリアは東の仲介人を地面へ下ろした。
「ぐっ……」
男は咳き込みながら顔を上げる。
窮奇の姿はすでに解かれていた。
そこにいるのは、服を埃で汚し、少し髪を乱したいつものメフェリアだった。
「なんで……」
男が呟く。
「何?」
「なぜ俺を助けた」
メフェリアは首を傾げる。
「捕まえるために来たから」
「…………」
「死んだら捕まえられないでしょ?」
それだけだった。
男は何も言えなくなった。
そこへ政府役人が駆け寄ってくる。
「メフェリア宮!」
「うん」
「お怪我は?」
「ないよ」
役人は念のためメフェリアの全身を確認した。
服には埃がつき、髪も少し乱れているものの、本当に怪我は見当たらない。
「対象は?」
メフェリアが足元を指す。
「これ」
「……これ?」
東の仲介人が眉をひそめた。
「俺には名前があるんだが」
「知らない」
「…………」
「教えてくれなかったし」
男は何か言い返そうとして、やめた。
政府役人も特に触れず、王国兵へ指示を出す。
男はその場で拘束され、周辺では証拠品の回収と地下に残された者たちの救出が続けられた。
メフェリアは崩れた屋敷をしばらく眺める。
「終わった?」
役人が振り返った。
「まだ確認作業は残っておりますが……」
「任務は?」
少し間を置いてから、役人は頷いた。
「はい。東の仲介人を拘束し、拠点も制圧しました。今回の任務については、これで完了と考えてよろしいでしょう」
メフェリアの目が少し開く。
「ほんと?」
「はい」
「帰れる?」
「報告書をまとめ次第、マリージョアへ帰還します」
「いつ?」
「明日の出航を予定しております」
メフェリアの口元がわずかに緩んだ。
「やった」
役人は思わず笑う。
「随分と嬉しそうですね」
「だって帰れるから」
メフェリアは大きく伸びをした。
久しぶりの自分の部屋。
広い風呂。
慣れたベッド。
マリージョアの景色。
「早く帰ろ」
「まずは後処理です」
「…………」
笑顔が消えた。
「まだあるの?」
「ございます」
「長い?」
「それなりに」
メフェリアは崩れた屋敷を見た。
少し考えてから、小さく息を吐く。
「じゃあ早くやろ」
「はい」
今回ばかりは、文句を言いながら逃げることもなかった。
早く終わらせれば、早く帰れる。
理由はそれで十分だった。
*
翌日。
ゴア王国の港から、世界政府船がゆっくりと岸を離れていった。
甲板に立つメフェリアは、遠ざかっていく王国を眺めている。
短い滞在だった。
綺麗に整えられた王都や、緊張した様子の国王。
そして、高い城壁。
その向こうに大勢の人間が暮らしていることも知った。
結局、城壁の外へ行く時間はなかった。
「…………」
少しだけ気になる。
けれど、今はそれよりも帰れることの方が嬉しかった。
「メフェリア宮」
政府役人が隣へやってくる。
「マリージョアまでは数日の航海となります」
「うん」
「その間に報告書の確認をお願いいたします」
メフェリアの顔が曇る。
「私も?」
「当然です」
「任務終わったのに」
「終わったからこそ必要なのです」
「…………」
役人は容赦がない。
メフェリアはため息をつき、もう一度ゴア王国へ目を向けた。
島は少しずつ遠ざかっていく。
ラッカ島。
ベルネ島。
ローグタウン。
そしてゴア王国。
マリージョアを離れてから、いろいろなものを見た。
知らない場所を歩き、知らない食べ物を口にして、マリージョアでは出会わないような人間たちとも話した。
下の世界は、思っていたよりずっと広い。
「また来るかな」
「東の海へですか?」
「うん」
「任務があれば、いずれは」
メフェリアは少し考える。
「任務じゃなくてもいいけど」
役人が意外そうに彼女を見る。
「お気に召しましたか?」
「まあまあ」
「それは何よりです」
「でも今は帰りたい」
「でしょうね」
メフェリアは海へ視線を戻した。
潮風が緑色の髪を揺らしていく。
その先、遥か遠くには赤い土の大陸があり、さらにその頂には彼女が生まれ育った場所がある。
マリージョア。
長かった東の海での任務を終え、メフェリアはようやく故郷への帰路についた。