赤い土の大陸、その頂。
世界の中心に君臨する聖地――マリージョア。
東の海を発って数日。
世界政府船は長い航海を終え、ようやくメフェリアを故郷へ送り届けた。
久しぶりに目にする白い街並みを前に、メフェリアは小さく息を吐く。
広く整えられた道に、美しく並ぶ建物。遠くにはパンゲア城がそびえ、その周囲には世界貴族たちの邸宅が点在している。
生まれた時から見てきた景色だった。
「やっと着いた」
どこか嬉しそうな声だった。
隣にいた政府役人が一礼する。
「長旅、お疲れ様でございました」
「うん」
「東の海からですので、さすがに長かったですね」
「船飽きた」
「途中から毎日のように仰っていましたね」
メフェリアはマリージョアの街並みを眺める。
「やっぱり落ち着く」
「故郷ですからね」
「ベッドあるし」
「そこですか」
「お風呂も広い」
「そちらも何度か伺いました」
メフェリアは気にせず歩き出す。
久しぶりのマリージョア。
やっと自分の部屋へ戻れる。
そう思ったところで、ふと足を止めた。
「そういえば報告は?」
「本日中にお願いいたします」
「今日?」
「はい」
メフェリアの顔が曇る。
「明日じゃ駄目?」
「駄目です」
「帰ってきたばっかりなのに」
「まずは神の騎士団へ帰還のご報告を。その後でしたら、ご自由になさっていただいて構いません」
「…………」
東の海へ出発してから今日まで、この役人は最後まで変わらなかった。
メフェリアはしばらく無言で見つめていたが、相手が折れる気配はない。
「分かった」
「ありがとうございます」
「終わったら帰っていい?」
「もちろんです」
それを聞いた途端、メフェリアの歩く速度が少し上がった。
*
パンゲア城。
長い廊下を歩いていると、すれ違う政府役人や衛兵たちが次々と道を空けていく。
やがて、向こうから数人の従者を連れた天竜人が歩いてきた。
華美な衣服を身につけた、いかにも世界貴族らしい男だった。
男はメフェリアに気づくと足を止める。
「おや。トップマン家のメフェリア宮ではないかえ」
「うん」
「しばらく姿を見なかったが、どこへ行っていたのだえ?」
「東の海」
「東の海?」
男は露骨に顔をしかめた。
「そのような場所へ、わざわざ?」
「任務」
「神の騎士団というのも大変だえ。わちきなら、下々民のいる場所へなど降りたくもないえ」
「そう?」
「当然だえ。下界など、何があるか分かったものではないえ」
メフェリアは少し考える。
東の海で見たものが頭に浮かんだ。
ラッカ島やベルネ島の町並み。
ローグタウンの処刑台。
ゴア王国の城壁。
そして――
「でも食べ物美味しかったよ」
「……食べ物?」
「うん。チーズとかプリンとか、あと飴も」
男の表情が変わった。
「下々民の作ったものを食べたのかえ?」
「食べたよ」
「…………」
信じられないものを見るような顔をされた。
メフェリアは首を傾げる。
「美味しいのに」
「そ、そういう問題では――」
「メフェリア」
別の声が廊下に響いた。
振り返る。
赤い髪の男がこちらへ歩いてくる。
フィガーランド・シャムロック。
神の騎士団団長。
彼の姿を見ると、先ほどまで話していた天竜人がわずかに姿勢を正した。
「シャムロック聖」
シャムロックは男へ一瞥を向けたあと、メフェリアを見る。
「戻ったか」
「うん。今着いた」
「随分長かったな」
「東の海遠い」
「そういう任務だ」
「知ってる」
いつも通りの会話だった。
シャムロックはメフェリアの隣にいる政府役人へ目を向ける。
「これから帰還報告か?」
「はい」
「俺も聞く」
「承知いたしました」
それだけ言うと、シャムロックは歩き出した。
メフェリアも自然にその隣へ並ぶ。
先ほどの天竜人が声をかけた。
「シャムロック聖」
シャムロックが足を止める。
「何だ」
「い、いや……わちきはこれで失礼するえ」
「そうか」
男は従者を連れて去っていった。
メフェリアはその背中を見る。
「行っちゃった」
「用がないなら放っておけ」
「うん」
すぐに興味を失う。
三人はそのまま廊下を進んだ。
「シャムロック」
「何だ」
「報告、長いと思う?」
「お前次第だ」
「私?」
「必要なことだけ話せばいい」
「分かった」
少し間を置く。
「眠くなったら?」
「寝るな」
「…………」
政府役人は二人の後ろを歩きながら、何も聞かなかったことにした。
*
帰還報告は、メフェリアが期待していたほど短くはなかった。
ラッカ島で発生した世界政府管理物資の強奪。
ベルネ島で発見された密輸拠点。
ローグタウンで拘束した連絡役。
そして、ゴア王国での東の仲介人の拘束。
政府役人が順を追って説明していく間、メフェリアは椅子に座って聞いていた。
最初こそ普通にしていたものの、しばらくすると頬杖をつき始める。
向かいに座るシャムロックは資料へ目を通していた。
「ゴア王国の拠点は?」
「東の仲介人を拘束した直後、仕掛けられていた爆薬によって地下施設の一部が崩落しました。回収できた資料については、すでに調査へ回しております」
シャムロックが資料を一枚めくる。
「他の拠点は」
「押収した帳簿から判明したものについては、各地の政府機関へ情報を共有しております。残党についても順次処理される予定です」
「なら十分だ」
シャムロックが資料を閉じる。
「東の仲介人から何か出そうか?」
「現在尋問中ですが、押収した資料との照合が進めば、別の取引経路が判明する可能性はございます」
「分かった。何か出たら騎士団にも回せ」
「承知いたしました」
メフェリアが顔を上げる。
「終わった?」
政府役人が最後の資料を確認する。
「本日の帰還報告は以上でございます」
「本当に?」
「はい」
メフェリアはすぐに立ち上がった。
「じゃあ帰る」
シャムロックが資料から目を上げる。
「今帰ってきたばかりだろう」
「家に帰るの」
「……そういう意味か」
「お風呂入りたい」
「好きにしろ」
メフェリアはそのまま扉へ向かう。
しかし、途中で何かを思い出したように振り返った。
「シャムロック」
「何だ」
「東の海って行ったことある?」
「ああ。昔の任務で何度かな」
「美味しいものあった?」
「覚えていない」
「なんで?」
「食事をしに行ったわけじゃない」
「もったいない」
シャムロックの眉がわずかに動く。
「何がだ」
「色々あるのに」
「お前は何をしに行っていたんだ」
「任務」
「なら同じだろう」
「任務しながら食べた」
「そうか」
「チーズ美味しかったよ」
「聞いていない」
「プリンも」
「もう帰れ」
「言われなくても」
メフェリアは扉を開け、そのまま部屋を出ていった。
扉が閉じる。
室内に静けさが戻った。
政府役人が資料をまとめ始める。
シャムロックはその様子を見ながら尋ねた。
「ずっとあんな調子だったのか」
役人は少し考える。
「概ね」
「そうか」
「ただ、任務自体は滞りなく遂行されております」
「分かっている」
シャムロックにとって、それは最初から疑うようなことではなかった。
政府役人は資料を重ねながら、ふと思い出したように口を開く。
「ベルネ島では、乳製品を随分お気に召しておられました」
「それも報告事項か?」
「いえ」
「なら何故言った」
「……失礼いたしました」
シャムロックは小さく息を吐き、次の資料へ手を伸ばした。
*
パンゲア城を出たメフェリアは、そのままトップマン家の邸宅へ戻った。
大きな扉が開く。
見慣れた廊下。
見慣れた家具。
そして、ずらりと並んだ使用人たちが一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、メフェリア宮」
メフェリアは足を止める。
東の海へ出てから、それほど長い月日が経ったわけではない。
それでも、見慣れた場所が少しだけ懐かしく感じた。
「ただいま」
使用人たちがわずかに顔を上げる。
その中から、一人の使用人が進み出た。
「お食事はいかがなさいますか?」
「あとでいい」
「かしこまりました」
メフェリアは数歩進んだところで止まる。
「あ」
「いかがなさいましたか?」
「料理長いる?」
「はい」
「あとで呼んで」
「承知いたしました」
「作ってほしいものあるから」
使用人は少しだけ意外そうな顔をした。
「どのようなお料理でしょうか?」
「プリン」
「プリン、でございますか?」
「うん。白いやつ」
「……承知いたしました」
「蜂蜜もかかってる」
「料理長へお伝えしておきます」
「お願い」
それだけ言うと、メフェリアは今度こそ自室へ向かった。
*
扉を開ける。
広い部屋。
見慣れた家具。
窓の向こうに広がる、マリージョアの白い街並み。
そして、大きなベッド。
「…………」
メフェリアはそこまで歩いていくと、そのまま身体を投げ出した。
柔らかな感触に身体が沈む。
顔を枕へ埋める。
船の寝台とは全然違う。
「やっぱりこれ」
しばらく、そのまま動かなかった。
ようやく帰ってきた。
東の海での仕事も、ひとまず終わった。
残った資料や捕らえた者たちの処理は、これから政府側が進めていく。
少なくともメフェリアが、すぐ東の海へ引き返す必要はない。
それだけで十分だった。
「…………」
目を閉じる。
ベルネ島の牧草地。
ローグタウンの賑やかな通り。
ゴア王国の高い城壁。
色々な場所へ行った。
面倒なことも多かったし、船にはもうしばらく乗りたくない。
けれど、食べたものは悪くなかった。
特に、ベルネ島のミルクプリン。
「同じの作れるかな」
小さく呟く。
マリージョアには世界中から食材が集まる。
料理人だって一流だ。
なら、きっと作れる。
そう考えているうちに、別のことを思い出した。
「お風呂……」
帰ってきてから、ずっと楽しみにしていた。
けれど。
ベッドが思っていた以上に気持ちいい。
起き上がるか。
もう少しこのままでいるか。
メフェリアは枕に顔を埋めたまま、しばらく真剣に悩んでいた。
東の海での任務を終え、メフェリアはマリージョアへ帰ってきた。
世界貴族として生まれ育った場所。
神の騎士団員として戻る場所。
そして今は何より、自分のベッドがある場所。
いつもの日常が、再び始まる。
その最初に待っているのが、ベルネ島で食べたミルクプリンの再現になるとは――
この時の料理長は、まだ知らなかった。