翌朝。
マリージョア、トップマン家の邸宅。
大きな窓から差し込む朝の光が、白を基調とした食堂を明るく照らしていた。
長い食卓には焼きたてのパンや果物、卵料理、温かなスープが並んでいる。どれも世界各地から届けられた上質な食材を使ったものばかりだが、今朝のメフェリアが気にしているのは、そのどれでもなかった。
目の前に置かれた、小さな器。
白いミルクプリン。その上には黄金色の蜂蜜が薄くかかっている。
昨夜のものとは、少し見た目が違っていた。
「…………」
メフェリアはスプーンを入れ、一口食べる。
すぐには何も言わず、もう一口。
少し離れた場所に立つ料理長も、後ろに控えている使用人たちも、黙ってその反応を待っていた。
「……いかがでしょうか?」
料理長が尋ねる。
メフェリアは口の中のプリンを飲み込んでから答えた。
「昨日より近い」
料理長の表情が明るくなる。
「では――」
「でも違う」
喜びかけた顔が止まった。
「どのあたりが違いますでしょうか」
「分かんない」
「……左様でございますか」
「でも昨日より好き」
その一言で、料理長の表情が少しだけ和らいだ。
メフェリアはもう一口食べる。
「牛乳変えた?」
「はい。昨日とは異なるものを使用しております」
「どこの?」
「北の海から献上されたものでございます」
「北の海」
「蜂蜜につきましても、昨日とは産地を変えております」
「どこ?」
「西の海でございます」
メフェリアはスプーンを止めた。
東の海で食べたプリンを作ろうとしているのに、使っているものは北の海の牛乳と西の海の蜂蜜。
「ベルネ島のもの、何も入ってないね」
「……仰る通りでございます」
「だから違うのかな」
料理長も少し考える。
「乳製品は土地や飼料によっても風味が変わります。完全に同じものとなりますと、やはり現地の材料が必要になるかと」
「じゃあ取り寄せればいいね」
料理長が一瞬黙った。
ベルネ島は東の海である。
「……ご希望でしたら、手配いたします」
「お願い」
「かしこまりました」
世界の頂にあるマリージョアまで、プリンを作るためだけに東の海から牛乳を運ぶ。
普通なら考えもしない話だが、ここではそれができてしまう。
メフェリアは最後の一口を食べた。
「でもこれも美味しい」
「ありがとうございます」
「明日も作って」
「もちろんでございます」
料理長にとって、ミルクプリンとの戦いはまだ続くらしい。
*
朝食を終えたメフェリアは屋敷を出た。
今日は任務がない。
報告も、呼び出しもない。
一日すべてが自由だった。
特に目的地も決めず、白く整えられた道を歩いていく。
豪華な邸宅。美しく手入れされた庭園。世界各地から集められた珍しい植物や彫刻。
昨日帰ってきたばかりだというのに、もう東の海にいたことの方が少し遠く感じる。
「…………」
何をしよう。
そんなことを考えながら歩いていると、前方から何人もの従者を連れた一団がやってきた。
中央にいる少女を見て、メフェリアは足を止める。
金色の髪。
天竜人特有の衣服に身を包んだ若い女性。
ロズワード家の令嬢――シャルリア宮だった。
向こうもメフェリアに気づく。
「メフェリア宮」
「シャルリア」
シャルリアはメフェリアの前まで来ると、少し珍しそうに彼女を見た。
「戻っていたアマスか」
「昨日」
「東の海へ行っていたと聞いたアマス」
「うん」
「随分長かったアマスね」
「遠かったから」
シャルリアは東の海という言葉に、あまり興味がなさそうだった。
「下界の辺境まで行かされるなんて、神の騎士団も面倒アマスね」
「船は面倒だった」
「船?」
「ずっと乗ってるから」
シャルリアが眉を寄せる。
「そこなのアマスか?」
「うん」
「……相変わらずよく分からないアマス」
メフェリアは気にしない。
シャルリアの後ろには、何人もの使用人がいる。そのうちの一人が大きな箱を抱えているのが目に入った。
「それ何?」
「何アマス?」
「その箱」
シャルリアが振り返る。
「ああ。菓子アマス」
メフェリアの目が少し開いた。
「お菓子?」
「南の海から届いたものアマス。お父上様が取り寄せたけど、兄上様が先に食べようとするから私の屋敷へ運ばせているアマス」
「美味しい?」
「まだ食べてないアマス」
「そっか」
メフェリアの視線が箱へ戻る。
シャルリアはその様子をしばらく見ていた。
「……食べたいアマスか?」
「うん」
即答だった。
シャルリアが少し呆れた顔をする。
「なら来ればいいアマス」
「いいの?」
「これだけあるアマス。私一人では食べきれないアマスよ」
「行く」
返事は早かった。
「本当に食べ物には迷わないアマスね」
「美味しそうだから」
二人はそのままシャルリアの邸宅へ向かった。
*
庭園には、ほどなくして小さな茶会の準備が整えられた。
白いテーブルの上には紅茶とともに、先ほどの箱に入っていた菓子が並べられている。
果物を使った小さなタルト。
何層にも重ねられたケーキ。
砂糖をまぶした焼き菓子。
メフェリアは椅子に座り、それらをじっと見ていた。
「食べないアマスか?」
「どれからにしようかなって」
「どれでも同じアマス」
「違うよ」
「何が違うアマス?」
「最初大事」
シャルリアには理解できなかった。
メフェリアはしばらく悩んだ末、小さなタルトを選んだ。
一口。
「…………」
「どうアマス?」
「美味しい」
そのまま二口目。
シャルリアも別の菓子を取る。
「東の海でも、そんなに食べていたアマスか?」
「うん」
「何を食べたアマス?」
「いっぱい」
「だから何をアマス」
メフェリアは少し考える。
「チーズ」
「そんなものマリージョアにもあるアマス」
「ベルネ島のは違った」
「何が?」
「分かんない」
シャルリアが手を止める。
「何が違うか分からないのに、違うと言っているアマスか?」
「うん」
「意味が分からないアマス」
「あとミルクプリン」
「プリン?」
「白くて、蜂蜜かかってる」
「それだけアマス?」
「うん」
「そんなもの、ここでも作れるアマス」
「作ってもらったよ」
「ならそれでいいでしょう」
メフェリアが首を横へ振る。
「なんか違う」
「…………」
シャルリアは紅茶を置いた。
「面倒くさいアマスね」
「料理長も困ってた」
「当然アマス」
「だからベルネ島から牛乳取り寄せる」
「東の海から?」
「うん」
「プリンのためだけに?」
「うん」
シャルリアはしばらくメフェリアを見つめていた。
「そこまでするなら、作った人間を連れてくればいいアマス」
メフェリアの手が止まった。
「…………」
「何アマス?」
「それ思いつかなかった」
「…………」
今度はシャルリアが黙る番だった。
「メフェリア宮」
「なに?」
「頭は大丈夫アマスか?」
「大丈夫だよ」
「そういう意味ではないアマス!」
メフェリアはタルトの続きを食べる。
少し考えてから言った。
「でも作り方聞くだけでいいかも」
「好きにするアマス」
「そうする」
話が終わった。
シャルリアは呆れたように紅茶へ手を伸ばす。
しばらく静かな時間が流れた。
メフェリアは次の菓子を選び、シャルリアもケーキを食べる。
やがてシャルリアが口を開いた。
「東の海はどうだったアマス?」
「さっき言ったよ」
「食べ物以外の話アマス」
メフェリアは少し考える。
「色々あった」
「それでは何も分からないアマス」
「町とか、島とか」
「だから、どうだったのアマス」
メフェリアはタルトから顔を上げた。
庭園の向こうには、マリージョアの白い街並みが見える。
東の海とは何もかも違う。
「面白かったよ」
シャルリアが少しだけ目を細めた。
「面白い?」
「うん」
「下界が?」
「マリージョアにないものいっぱいあったから」
「…………」
シャルリアには、いまひとつ理解できないようだった。
「下々民ばかりでしょう」
「いっぱいいた」
「気分悪くならなかったアマスか?」
「別に」
メフェリアは焼き菓子を一つ取る。
「美味しいもの作る人もいたし」
シャルリアは何とも言えない顔をした。
「メフェリア宮は変わっているアマスね」
「よく言われる」
「褒めてないアマス」
「知ってる」
あっさり返される。
シャルリアは少しむっとしたようだったが、それ以上は言わなかった。
*
夕方。
自分の邸宅へ戻ったメフェリアを待っていたのは、料理長だった。
「メフェリア宮」
「なに?」
「ミルクプリンについて、新しい試作品をご用意いたしました」
メフェリアの足が止まる。
「食べる」
「先ほどお菓子を召し上がってきたのでは?」
「なんで知ってるの?」
「シャルリア宮の邸宅よりご連絡がございましたので」
「…………」
知られていた。
「食べられるよ」
「夕食もございます」
「プリンは別」
料理長は少し迷った末、小さな器を運ばせた。
朝とはまた違うミルクプリンだった。
メフェリアは一口食べる。
「…………」
もう一口。
料理長が尋ねる。
「いかがでしょうか?」
「近い」
料理長の顔が明るくなる。
「今までで一番」
「では――」
「でも違う」
表情が戻った。
「……左様でございますか」
「でも」
メフェリアはもう一口食べる。
「これも好き」
料理長が顔を上げた。
「本当でございますか?」
「うん」
ベルネ島で食べたものとは違う。
けれど、これはこれで美味しい。
同じでなくてもいいのかもしれない。
そう思い始めている自分もいた。
「明日も作って」
「もちろんでございます」
「二個」
「一個です」
「まだ何も言ってないよ」
「二個と仰いました」
「…………」
「一個です」
メフェリアは料理長を見る。
料理長も引かない。
「一個半」
「一個です」
「けち」
「お食事をきちんと召し上がっていただくためです」
「食べるのに」
「でしたら、夕食後にもう一度ご相談ください」
メフェリアは少し考えた。
「分かった」
今回は意外とあっさり引いた。
どうせ夕食を食べれば、もう一個もらえるかもしれない。
空になった器を置き、メフェリアは席を立つ。
東の海から戻って二日目。
任務も戦いもない。
プリンの味に悩み、シャルリアと菓子を食べ、料理長とプリンの数を交渉する。
マリージョアでの日常が、少しずつ戻ってきていた。