赤い土の大陸――レッドライン。
その頂。
雲よりも高い場所に存在する世界の中心。
聖地マリージョア。
世界政府加盟国の王族でさえ、世界会議など限られた機会にしか足を踏み入れない場所。
そして――トップマン・メフェリア宮にとっては、生まれ育った故郷だった。
*
「……帰ってきちゃった」
聖地へ戻ったメフェリアは、開口一番そう呟いた。
まるで帰ってきたことを残念がっているような言い方だった。
実際、もう少し下界にいたかった。
今回の任務は予定よりずっと早く終わった。
そのおかげで二日ほど自由に食べ歩くことができた。
骨付き肉。
港で獲れた魚の香草焼き。
市場で見つけた串焼き。
それから、あの店のプリン。
悪くなかった。
いや。
かなり良かった。
メフェリアは先ほどまで食べていた料理を思い出す。
「……また行こ」
小さく呟いて歩き出したところで、
「メフェリア宮」
呼び止められた。
世界政府の役人だった。
男はメフェリアの姿を確認すると、すぐに深々と頭を下げる。
「お戻りでしたか」
「今戻った」
「任務のご報告をお願いしたく――」
「終わったよ」
「……はい?」
役人が顔を上げる。
メフェリアは眠そうな顔のまま続けた。
「だから、終わった」
「い、いえ。任務が終了したことは伺っております。報告書の提出を――」
メフェリアの足が止まった。
振り返る。
露骨に嫌そうな顔だった。
「書かなきゃダメ?」
「規則ですので……」
「口で言う」
「書面でお願いいたします」
「面倒」
「……申し訳ございません」
メフェリアは少し考える。
そして。
「あなた書いて」
「わ、私がですか!?」
「私が話すから」
「しかし、それは――」
メフェリアは再び歩き出した。
「よろしく」
「メ、メフェリア宮!?」
後ろから声が聞こえる。
聞こえないふりをした。
*
神の騎士団。
天竜人の中でも、さらに特殊な立場にある者たち。
その本拠となる区画へメフェリアは戻ってきた。
扉を開ける。
「ただいま」
返事を待つこともなく、中へ入る。
メフェリアにとっては見慣れた場所だった。
「随分と遅い帰還だな」
声が飛んできた。
メフェリアがそちらを見る。
フィガーランド・シャムロック聖。
神の騎士団の団長。
メフェリアは少し考えた。
「遅い?」
「任務そのものは三日前に終了している」
「うん」
「では、その三日間は何をしていた」
「ご飯食べてた」
一切の悪びれもない。
沈黙。
「……三日間か」
「うん」
「任務終了後、速やかに帰還しろとは言わなかったか」
「言ってた気がする」
「ならば何故戻らない」
「せっかく下まで行ったのに、すぐ帰ってくるの勿体ないでしょ」
メフェリアは持っていた紙袋を持ち上げる。
「お土産あるよ」
シャムロックは紙袋を一瞥した。
「……何だ、それは」
「焼き菓子」
「そういう話をしているのではない」
「食べる?」
「いらん」
「そう」
メフェリアはあっさり紙袋を引っ込めた。
まったく堪えていない。
「で、何かある?」
「まず報告だ」
「さっきした」
「私は何も聞いていない」
「対象は確認した。必要な情報も取った。もう動けないようにしてある」
「詳細は」
「報告書」
シャムロックの目が細くなる。
「先ほど書くのを拒否していただろう」
メフェリアが少しだけ目を逸らす。
「……役人が書いてくれる」
「お前は……」
「だから大丈夫」
近くにあった椅子へ座る。
いや。
座るというより、身体を沈めた。
完全にくつろいでいる。
シャムロックはしばらくメフェリアを見ていた。
態度には問題がある。
大いにある。
だが、任務そのものには問題がない。
今回もそうだった。
本来なら複数人で数日を要する可能性があった任務を、彼女は一人で半日ほどで終わらせている。
結果だけを見れば、文句をつける部分は少ない。
――本人の態度を除けば。
「相変わらずだな」
「何が?」
「いや」
シャムロックはそれ以上言わなかった。
*
「戻っていたのか、メフェリア」
別の声が飛んできた。
メフェリアが顔を上げる。
軍子宮だった。
「軍子」
「随分と遅い帰還だな。任務はとうに終わっていたと聞いたぞ」
「うん」
「……では何故、今頃戻ってきた?」
「ご飯食べてた」
軍子の眉がわずかに動いた。
「三日もか?」
「三日も」
「任務先で何をしているんだ、お前は」
「任務はちゃんと終わらせたよ」
メフェリアは手にしていた紙袋を持ち上げた。
「お土産もある」
「……土産?」
軍子の視線が紙袋へ落ちる。
「焼き菓子。美味しかったよ」
「下界の菓子か」
「うん」
「ふん」
そう言いながらも、軍子の目は紙袋から離れない。
メフェリアはしばらく軍子を見た。
「食べたい?」
「誰がそんなことを言った」
「じゃあ、いらない?」
メフェリアが紙袋を引っ込めようとする。
「待て」
ぴたり。
メフェリアの手が止まった。
軍子が一つ取る。
「せっかく持ち帰ったものを無駄にする必要もあるまい」
「食べたいんじゃん」
「黙れ」
軍子が焼き菓子を口へ運ぶ。
一口。
「…………」
メフェリアがじっと見ている。
「どう?」
「……まあ、食えなくはない」
「美味しい?」
「調子に乗るな」
「私が作ったんじゃないけど」
「分かっている!」
メフェリアの口元が少しだけ緩んだ。
その様子を見て、軍子が眉をひそめる。
「何がおかしい」
「別に」
「なら笑うな」
「笑ってないよ」
「笑っているだろう!」
少し離れたところで、シャムロックが二人を一瞥した。
「騒ぐなら外でやれ」
二人が同時にそちらを見る。
メフェリアは紙袋を抱えたまま言った。
「団長も食べれば機嫌よくなると思うよ」
「ならん」
即答だった。
軍子が鼻で笑う。
メフェリアは、
「美味しいのに」
と呟きながら、残った焼き菓子を一つ口へ放り込んだ。
*
その日の夕刻。
メフェリアは自室へ戻った。
神の騎士団員として与えられている部屋――というより、彼女にとっては昔から見慣れた聖地の一室だ。
レイピアを壁際へ置く。
マントを脱ぐ。
そして。
ぼふっ。
ベッドへ倒れ込んだ。
「疲れた……」
任務では疲れていない。
帰還後のやり取りで疲れた。
寝返りを打つ。
天井を見る。
静かだった。
下界とは違う。
マリージョアには何でもある。
世界中から最高級の食材が集められる。
望めば一流の料理人が食事を作る。
それが当然だった。
メフェリア自身も、それを疑問に思ったことはない。
ここは聖地マリージョア。
自分は天竜人。
欲しいものが用意されるのは当たり前。
下界の人間が自分たちとは違う扱いを受けることについても、特に何とも思わない。
それが彼女にとって生まれた時からの世界だった。
それでも。
「……あの肉、美味しかったな」
思い出したのは、豪華な宮殿の料理ではなかった。
港町の古びた店。
木製のテーブル。
少し焦げた骨付き肉。
肉汁。
店主が自信なさそうにこちらを見ていた顔。
それから――プリン。
「…………」
むくり。
メフェリアが起き上がった。
机へ向かう。
そこには世界地図が置かれていた。
広げる。
指を滑らせる。
世界には、まだ行ったことのない場所が山ほどある。
知らない料理。
知らない食材。
知らない味。
下界そのものには大して興味はない。
だが。
そこにある料理には、興味がある。
「次……どこ行こう」
地図を眺める。
偉大なる航路。
四つの海。
無数の島。
メフェリアの指が東へ動いていく。
その時だった。
コンコン。
扉が叩かれる。
「メフェリア宮」
「なに」
「団長より伝言です」
嫌な予感がした。
「……明日、新たな任務について話があるとのことです」
沈黙。
「明日?」
「はい」
「休みは?」
「存じ上げません」
「…………」
メフェリアはベッドへ倒れ込んだ。
「面倒……」
枕へ顔を埋める。
数秒。
また顔を上げた。
「どこ行くか聞いてる?」
「いえ。詳細は明日とのことです」
「そう」
少し考える。
「食べ物が美味しいところならいいな」
「……は?」
「なんでもない」
「では、失礼いたします」
扉が閉じる。
静寂が戻ってきた。
メフェリアは再び地図を見る。
まだ知らない島。
まだ知らない料理。
そして――。
まだ出会っていない人間たち。
本人は知らない。
この頃。
東の海の小さな村では、一人の少年が海へ出る日を待ち続けていた。
その少年がやがて世界政府にとって巨大な脅威となることも。
聖地マリージョアを揺るがす存在になることも。
当然、メフェリアには知る由もない。
仮に今それを聞かされたところで――。
「ふーん」
で終わっていただろう。
今の彼女にとって重要なのは世界の未来ではない。
明日の任務先に、
美味しい店があるかどうか。
ただ、それだけだった。