出発の日。
マリージョアから地上へ降りたメフェリアは、港に停泊する船を見上げていた。
「…………」
大きい。
東の海へ向かった時に乗ったものと同じく、世界政府の船だ。
甲板ではすでに出航の準備が進んでいる。
船員たちが荷物を運び込み、政府の役人が慌ただしく行き来していた。
メフェリアはしばらく船を見上げる。
「またこれか」
小さく呟いた。
「メフェリア宮」
声を掛けられる。
政府の役人だった。
「出航の準備が整いました」
「うん」
「お荷物はこちらでお預かりいたします」
「大丈夫。少ないから」
今回も荷物は多くない。
着替え。
任務に必要なもの。
それくらいだ。
メフェリアは船へ乗り込んだ。
甲板へ出る。
海を見る。
「…………」
これから偉大なる航路前半。
東の海よりは近い。
シャムロックはそう言っていた。
それだけは救いだった。
「何日?」
近くにいた役人へ聞く。
「天候にもよりますが、順調であれば三日ほどかと」
「三日」
「はい」
東の海へ行った時よりずっと短い。
「ならいい」
役人は何がいいのか分からないようだったが、特に聞かなかった。
やがて船が動き始める。
港が離れていく。
メフェリアは甲板からそれを眺めていた。
今回の任務。
偉大なる航路前半にある世界政府加盟国。
その港町で、政府が管理していた大量の食料が消えている。
小麦。
塩漬け肉。
チーズ。
砂糖。
果物。
現地へ着いたら、まず政府側の責任者から詳しい話を聞く。
倉庫を確認する。
記録を見る。
関係者から話を聞く。
そこまでが最初の予定だった。
「…………」
そして市場。
メフェリアの頭の中に一つ追加された。
*
三日後。
「メフェリア宮。間もなく到着いたします」
その声で、メフェリアは甲板へ出た。
海の向こう。
島が見える。
まず目に入ったのは、大きな港だった。
何本もの桟橋。
停泊する商船。
漁船。
荷物を運ぶ人々。
その奥には建物が密集している。
港を中心に発展した街らしい。
「…………」
メフェリアは手すりから少し身を乗り出して眺める。
活気がある。
少なくとも遠目から見た限り、大量の食料が消えている街には見えなかった。
船が港へ近づいていく。
すると。
風に乗って何かの匂いが届いた。
メフェリアが鼻を動かす。
「…………」
魚。
焼いた魚の匂い。
それだけではない。
パン。
何かを煮込んでいる匂い。
「…………」
お腹が空いた。
朝食は食べた。
船の上でもちゃんと食べた。
それでも空いた。
港へ着く。
船から降りると、政府側の役人たちが待っていた。
その中から一人の男が前へ出る。
「お待ちしておりました、メフェリア宮」
深く頭を下げる。
「当港の政府管理区域を任されております、ベイルと申します」
「うん」
「この度は神の騎士団より直々にお越しいただき――」
メフェリアの視線が少し横へ動いた。
港の向こう。
屋台が並んでいる。
煙が上がっていた。
「――大変恐縮でございますが、まずは庁舎へご案内を――」
「ベイル」
「はい」
「ここって市場近い?」
「…………はい?」
男が止まった。
「市場」
「は、はい。港の東側に大きな市場がございますが……」
「やっぱり」
船から見えていた。
「何か問題でもございましたでしょうか?」
「ううん」
「では、庁舎へ――」
ぐう。
小さな音。
メフェリアが自分のお腹を見る。
ベイルも見た。
「…………」
「…………」
少しだけ沈黙する。
「お食事を、ご用意いたしましょうか?」
「お願い」
即答だった。
*
港近くの食堂。
本来なら庁舎へ向かう予定だった。
その前に食事になった。
メフェリアはテーブルに座っている。
向かいにはベイル。
「急なことでございましたので、大したものはご用意できませんが……」
「いいよ」
メフェリアは厨房の方を見る。
さっきからいい匂いがしている。
しばらくして料理が運ばれてきた。
最初に置かれたのはパン。
丸く焼かれた小さなパンがいくつか。
表面には薄く焼き色がついている。
その横。
魚介のスープ。
白身魚。
貝。
海老。
野菜。
少し白みがかったスープから湯気が立っていた。
そしてもう一皿。
焼いた魚。
表面はこんがり焼かれ、上から香草と柑橘の果汁がかけられている。
「…………」
メフェリアの目が少し明るくなる。
「こちらはこの港でよく食べられている料理でございます」
ベイルが説明する。
「今朝獲れた魚介を使っております」
「朝?」
「はい」
メフェリアは焼き魚を見る。
「さっきまで海にいたの?」
「まあ……そういうことになりますな」
「新鮮」
「この街では、それだけが取り柄のようなものでして」
メフェリアが魚を一口食べる。
「…………」
皮が香ばしい。
中は柔らかい。
柑橘の酸味が脂と合う。
「美味しい」
「それは何よりでございます」
もう一口。
次にスープ。
魚介の味が濃い。
けれど重くない。
貝の旨味。
海老の甘み。
野菜も柔らかく煮込まれている。
メフェリアはパンを取る。
ちぎる。
スープにつける。
食べる。
「…………」
もう一度つける。
ベイルは向かい側で静かに待っていた。
「これいい」
「パンを浸す食べ方は、この辺りでは一般的でございます」
「そうなんだ」
メフェリアはまた食べる。
スープを吸ったパン。
さっきまでとは全く違う。
「パンだけでも美味しい」
「この島では小麦も多く作られておりますので」
「資料に書いてあった」
「ご覧になられたのですね」
「うん」
「では、乳製品についても?」
「チーズ」
「はい。そちらも名産でございます」
メフェリアの手が止まる。
「ある?」
「……チーズでございますか?」
「うん」
「もちろんございます」
「食べたい」
「承知いたしました」
ベイルが店員へ声を掛ける。
しばらくして。
追加の皿が置かれた。
数種類のチーズ。
柔らかいもの。
硬いもの。
少し黄色みの強いもの。
メフェリアは一つずつ食べる。
「これ好き」
柔らかいものを指す。
「そちらは近郊の牧場で作られているものでございます」
「買える?」
「市場であれば」
市場。
また出てきた。
「あとで行く」
「市場へ、ですか?」
「うん」
「ですが、その前に庁舎で今回の件について――」
「分かってる」
メフェリアはパンを食べる。
「仕事してから」
「……承知いたしました」
ベイルが少し安心したように答えた。
メフェリアは食事を続ける。
焼き魚。
スープ。
パン。
チーズ。
どれも美味しい。
東の海で食べたものとはまた違う。
同じ魚でも、場所が変われば料理も変わる。
「…………」
メフェリアは少しだけ機嫌がよかった。
やがて皿が空になる。
「ごちそうさま」
「お口に合ったようで何よりです」
「美味しかった」
メフェリアは満足そうに水を飲む。
それから立ち上がった。
「じゃあ行こう」
「はい。庁舎へご案内いたします」
二人は食堂を出る。
外へ出ると、港の賑わいが戻ってきた。
商人の声。
荷物を運ぶ音。
船員たちの声。
そして、少し離れた場所に見える市場。
メフェリアはそちらを見た。
「…………」
行きたい。
けれど。
先に仕事。
シャムロックにも言われた。
メフェリアは市場から視線を外した。
「倉庫ってどこ?」
「庁舎の裏手にございます」
「先に見られる?」
「もちろんでございます」
「じゃあ見たい」
「承知いたしました」
歩き出す。
少し進んだところで。
メフェリアはふと足を止めた。
「ベイル」
「はい」
「食料がなくなったのって、あの市場にも関係ある?」
ベイルの表情が僅かに変わった。
「……なぜ、そう思われたのでしょうか」
「なんとなく」
メフェリアは市場を見る。
船から降りた時。
食堂へ向かう時。
さっき店を出た時。
何度か見ていた。
活気のある市場。
大量の食材。
荷物。
人。
けれど。
「運んでる人、多いよね」
「港町ですので」
「うん」
メフェリアは市場の入口を見る。
「でも、政府の倉庫の印が付いた箱もあったよ」
ベイルが黙った。
メフェリアは彼を見る。
「あれ、普通?」
「…………」
少し間が空く。
「いえ」
ベイルの声が低くなる。
「本来であれば、あの市場へ出るはずのないものです」
「やっぱり」
メフェリアは市場を見る。
さっきまで。
魚。
パン。
チーズ。
そればかり考えていた。
でも、ちゃんと見ていた。
「じゃあ」
メフェリアが言う。
「庁舎の前に、あっち行こう」
今度は。
食べるためではない。
少なくとも。
今のところは。
メフェリアは市場へ向かって歩き出した。