岩場から続く細い道を、メフェリアとベイルは静かに進んでいた。
海から吹きつける風が強い。
足元には砂と小石が混じり、ところどころに使われなくなった縄や壊れた木箱が転がっている。
少し先には、先ほど海から見えた古い倉庫があった。
近くで見るとかなり年季が入っている。
壁板は潮風に晒されて色褪せ、屋根の一部も錆びていた。
「本当に使われてない場所なんだね」
メフェリアが小声で言った。
「少なくとも、正式な記録上では」
「正式な記録上では、か」
「はい」
ベイルは倉庫を見ながら答える。
「この船着き場は十年以上前に主要港としての役目を終えております。現在、一部の漁師が付近を利用することはございますが、政府管理の物資が運び込まれる場所ではございません」
「じゃあ、やっぱり変だね」
「間違いなく」
二人は積み上げられた古い樽の陰で足を止めた。
倉庫の正面には三人の男がいる。
一人は扉の前。
残る二人は、船から降ろされた木箱を運んでいた。
「三人」
「船に残っている者を含めれば、もう少しいるでしょう」
「中にもいるかな」
「いるものと考えた方がよろしいかと」
メフェリアは倉庫を眺める。
正面から入れば確実に見つかる。
別に見つかっても困る相手ではない。
ただ、今はまだ中を確認していない。
「裏から行こう」
「承知しました」
二人は倉庫から距離を取り、そのまま裏手へ回った。
こちらには人の姿がなかった。
古い木材や使われなくなった漁具が積まれているだけだ。
倉庫の壁には小さな窓がある。
メフェリアは近づき、中を覗いた。
薄暗い。
いくつもの木箱が積み上げられていた。
「……いっぱいある」
ベイルも横から確認する。
その表情が険しくなった。
「想定していたより多いですな」
市場で見た八箱だけではない。
倉庫の中には、少なくとも数十個の木箱があった。
すべてが政府の物資とは限らない。
それでも、いくつかの箱には見覚えのある管理印がある。
「食べ物だけ?」
「ここからでは分かりません」
メフェリアは少し考える。
その時、中から声が聞こえた。
「それは奥だ」
二人は窓から離れた。
「今日来た分もか?」
「ああ。同じところに置いとけ」
「次はいつだ?」
「しばらく無しだ。役所の方から止めろって言われてる」
「面倒だな」
「聖地から来た奴が帰るまでだろ」
メフェリアとベイルが顔を見合わせる。
やはり同じ話だった。
「何日いるんだ?」
「知らねェよ。二、三日じゃねェのか?」
「さっさと帰ってくれりゃいいんだがな」
メフェリアは黙って聞いていた。
やはり、こちらの到着は知られている。
ただし会話を聞く限り、誰が来たのかまでは伝わっていないようだった。
「何か嫌われてるね」
メフェリアが小声で言った。
「メフェリア宮個人に対してではございません」
「分かってるけど」
「ならばよろしいのですが」
倉庫の中から、また声が聞こえる。
「それより次の買い手は?」
「いつもの連中だ。市場の奴らに回す分と、南の村に持っていく分」
「値段は?」
「今まで通りだよ」
メフェリアの表情が少し変わった。
市場だけではないらしい。
「買い手」
小さく呟く。
ベイルも頷いた。
「やはり横流しでしょうな」
政府へ納入された物資の一部を記録から消す。
それをここへ運び、別の商人へ安く売る。
商人は市場や村で販売する。
少なくとも、今聞いた話だけなら仕組み自体は単純だった。
「でも、どうやって記録から消してるの?」
「そこが問題でございます」
「倉庫の人だけじゃ無理?」
「難しいでしょう。納入記録、保管記録、搬出記録。すべてを完全に誤魔化す必要はございませんが、どこかで数字を合わせる者が必要です」
「役所の人?」
「可能性は高いかと」
メフェリアはもう一度、窓から中を見る。
男が木箱を運んでいる。
奥には机があった。
その上に何冊かの帳簿らしきものが置かれている。
「あれ」
「はい?」
「机の上」
ベイルが確認する。
「帳簿ですな」
「あれ見れば分かるんじゃない?」
「おそらくは」
メフェリアは窓から離れた。
「取ってこよう」
「メフェリア宮」
「何?」
「取ってくる、と申されましても」
「中に入って」
「それは分かっております」
ベイルは小さく息を吐いた。
「できれば、もう少々穏便な方法を――」
その時だった。
背後で木の軋む音がした。
二人が振り返る。
男が一人立っていた。
両腕で木箱を抱えている。
どうやら別の建物から荷物を運んできたらしい。
男。
メフェリア。
ベイル。
三人の視線が合う。
少しの沈黙。
男が眉を寄せた。
「……誰だ、お前ら」
メフェリアは答えなかった。
男の視線がメフェリアの腰へ向く。
レイピア。
続いてベイルを見る。
「何してやがる」
「見てただけ」
「何をだ」
「倉庫」
あまりにもそのままの答えだった。
男の顔が険しくなる。
「ふざけてんのか?」
「ふざけてないよ」
男は木箱を地面へ置いた。
そして倉庫へ向かって声を張り上げる。
「おい! 裏に誰かいるぞ!」
倉庫の中が一気に騒がしくなった。
ベイルが小さく息を吐いた。
「穏便には参りませんでしたな」
「まだ何もしてないよ」
「左様でございますな」
正面から足音が聞こえる。
倉庫の中からも何人か出てきた。
一人。
二人。
三人。
全部で五人ほど。
船に残っている者を含めても、それほど大人数ではない。
男の一人がメフェリアを見る。
「あっ……お前、市場にいた奴だな」
「うん」
「やっぱりつけてきやがったのか」
「うん」
素直に答えた。
男が一瞬言葉に詰まる。
「……何者だ」
メフェリアは少し考えた。
「メフェリア」
「名前なんか聞いてねェよ」
「何者って聞いたから」
「そういう意味じゃねェ!」
男が苛立った声を上げる。
その横で、別の男が腰の棒へ手を伸ばした。
ベイルの表情が変わった。
「控えろ」
低い声だった。
男たちの視線がベイルへ向く。
「この御方に無礼を働くことは許さん」
「何だよ、偉そうに」
「お前ら役所の人間か?」
「私はそうだ」
ベイルが答える。
男たちの表情が僅かに変わった。
だが、それだけだった。
役人に見つかった。
彼らにとっては、まだその程度の認識だった。
一人が吐き捨てる。
「だったら余計に帰れ。ここで何も見なかったことにしろ」
「それはできんな」
「じゃあ痛い目見ても文句言うなよ」
男が棒を抜いた。
その瞬間、ベイルの声が鋭くなる。
「貴様、自分が誰に武器を向けようとしているのか分かっているのか」
「知らねェよ!」
「メフェリア宮であらせられる」
男が動きを止めた。
「……宮?」
意味が分からないという顔だった。
だが。
後ろにいた年嵩の男の表情が変わった。
「おい……」
「何だよ」
「宮って……」
男はメフェリアを見る。
緑色の髪を潮風に揺らしながら立つ、若い女。
その服装。
傍らで深く敬意を払う政府の役人。
そして、聖地から誰かが来たという話。
一つずつが繋がっていく。
男の顔から血の気が引いた。
「……まさか」
「何だよ?」
「天竜人……」
空気が止まった。
「は?」
棒を持っていた男がメフェリアを見る。
「こいつが?」
「馬鹿、武器下ろせ!」
「え?」
「早くしろ!」
年嵩の男が慌ててその腕を押さえた。
棒が地面へ落ちる。
先ほどまで威勢のよかった男たちが、明らかに動揺していた。
神の騎士団。
その名を彼らは知らない。
メフェリアが何の任務でこの島へ来たのかも知らない。
だが、天竜人という存在だけは知っていた。
自分たちとはまったく違う場所にいる人間。
本来なら、こんな古びた倉庫で顔を合わせることなどない存在。
その人間が今、自分たちの目の前にいる。
「本当に……?」
一人が呟く。
メフェリアはベイルを見る。
「これ、言った方がいいの?」
「もはや隠す必要もないかと」
「そう」
メフェリアは男たちへ視線を戻した。
「そうみたい」
「そうみたいって……」
男たちは困惑している。
メフェリア自身は特に態度を変えなかった。
「それより、聞きたいことがあるんだけど」
誰も答えない。
「この荷物、どこから持ってきたの?」
沈黙。
「政府の倉庫だよね?」
一人の視線が僅かに泳いだ。
「俺たちは……運んでただけだ」
別の男が言った。
「俺たちが盗んだんじゃねェ」
「誰から貰ったの?」
「それは……」
「言うな!」
別の男が割り込む。
メフェリアはそちらを見る。
「どうして?」
「……」
男は黙った。
「じゃあ、帳簿見せて」
「何?」
「あそこにあるやつ」
メフェリアは倉庫の中を指した。
男の顔色が変わった。
それだけで十分だった。
「あれに書いてあるんだ」
「……っ!」
男が突然走った。
倉庫の中へ。
「メフェリア宮!」
ベイルが叫ぶ。
メフェリアも追う。
男が机へ飛びついた。
帳簿を掴む。
そのまま近くに置かれていたランプへ手を伸ばした。
「燃やす気です!」
「それは困る」
男が帳簿を炎へ投げ込もうとした。
その瞬間。
メフェリアが床を蹴った。
男が振り返った時には、すでにすぐ横まで来ていた。
「な――」
帳簿を持つ手首を掴む。
「駄目」
メフェリアはそれだけ言った。
男が反対の拳を振り上げる。
メフェリアは身体を少し横へずらした。
拳が空を切る。
そのまま腕を取り、足を払う。
「ぐっ!」
男の身体が床へ落ちた。
埃が舞う。
メフェリアは落ちた帳簿を拾った。
「これ、借りるね」
「……何なんだよ、お前」
床に倒れた男が呻く。
メフェリアは帳簿についた埃を払う。
その間にベイルが倉庫へ入ってきた。
「お怪我はございませんか?」
「ないよ」
「それは何よりでございます」
外にいた男たちは、もう抵抗する気を失っていた。
ベイルが彼らを壁際へ集める。
メフェリアは机に帳簿を置いた。
ページを開く。
数字。
日付。
品目。
取引先らしき名前。
数ページめくった。
さらにめくる。
そして止まる。
「……ベイル」
「はい」
「分からない」
「でしょうな」
「読んで」
「承知しました」
ベイルが隣へ来る。
帳簿へ目を通していく。
しばらくすると、その指が一か所で止まった。
「ございました」
「何が?」
「物資をこちらへ流していた人物です」
そこには名前が記されていた。
メフェリアも横から覗き込む。
「誰?」
「港湾管理局の物資管理担当官でございます」
「偉い人?」
「それほど高い役職ではございません。ただ、倉庫への搬入と在庫記録には触れられる立場です」
「一人でできる?」
「完全には難しいでしょう。しかし倉庫側に協力者がいれば、ある程度は可能かと」
ベイルはさらに帳簿を確認する。
取引の量は多くない。
一度に数箱。
多い時でも十数箱。
それを何度かに分けて持ち出している。
始まったのも数か月前だった。
「思っていたより小規模ですな」
「そうなの?」
「はい。組織的な大規模密輸というより、立場を利用した横流しと見るのが妥当でしょう」
メフェリアは帳簿を見る。
「じゃあ、その担当官と倉庫の人たちが少しずつ抜いて売ってた?」
「現時点では、その可能性が最も高いかと」
東の海での一件と似ている部分はある。
だが、この帳簿の中に同じ者たちが関わっている証拠は見当たらなかった。
物資を記録から外して横流しする。
手口が似ているというだけで、すべてが同じ事件とは限らない。
「東の海の事件とは関係ないのかな」
「現状では何とも申し上げられません」
ベイルは答えた。
「少なくとも、この帳簿から直接の繋がりを示すものは見つかりませんな」
「そっか」
メフェリアはそれ以上追及しなかった。
関係があるなら調べればいい。
ないなら、それでいい。
今ここにある問題を片付ける方が先だった。
メフェリアは倉庫の中を見回した。
積み上げられた木箱。
その多くは食料だった。
穀物。
干した魚。
油。
砂糖。
香辛料。
どれも島の市場や周辺の村へ流されていたらしい。
「これ、どうするの?」
「証拠として確認した後、本来の管理先へ戻すことになるでしょう」
「食べられる?」
「品質に問題がなければ」
「ならよかった」
「捨てるには惜しい量でございますからな」
外から波の音が聞こえる。
日も少し傾いてきていた。
メフェリアは帳簿を閉じた。
「じゃあ戻ろう」
「この者たちはいかがいたしますか?」
「警備の人に任せよう」
「承知しました」
「その担当官も調べて」
「もちろんでございます」
ベイルが帳簿を抱える。
メフェリアは倉庫を出た。
外はまだ明るい。
傾き始めた陽の光が、海面で揺れている。
岩場へ向かって歩きながら、メフェリアは腹部へ手を当てた。
ベイルがそれに気づく。
「いかがなさいました?」
「ちょっとお腹空いた」
「先ほど揚げ魚を召し上がっておられましたが」
「結構歩いたから」
「なるほど」
「戻ったら何か食べられるかな」
「市場へ戻れば、まだ店は開いているかと」
「じゃあ市場に戻ろう」
「その前に庁舎へ帳簿を届ける必要がございます」
メフェリアの足が止まった。
「先に?」
「先に、でございます」
「……どれくらい?」
「一時間もかからないでしょう」
メフェリアは少し考えた。
「分かった」
再び歩き出す。
「終わったら市場ね」
「承知いたしました」
古い船着き場を離れ、二人は漁船へ戻っていく。
今回の件は、思っていたほど複雑なものではないのかもしれない。
政府の物資を扱える立場の人間が、何人かと手を組み、少しずつ品物を抜いて売る。
少なくとも、今のところ分かったのはそれだけだ。
東の海の事件との繋がりも、まだ見つかってはいない。
ならば、無理に話を大きくする必要もない。
確認すべきものを確認し、関わった者を調べる。
それで終わるなら、それが一番だった。
メフェリアは漁船へ乗り込んだ。
船がゆっくりと岸を離れる。
遠ざかっていく古い倉庫を一度だけ振り返る。
それからメフェリアは、市場のある方角へ目を向けた。
仕事が片付いたら、次は何を食べよう。
今のところは、その方が少し気になっていた。