下界の飯は悪くない   作:ボヤージュ500億

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仕事の後の夕食

市場へ戻る頃には、空が赤く染まり始めていた。

 

古い漁船が運河へ入る。

 

昼間とは違い、水面には建物から伸びた影が長く落ちていた。

 

メフェリアは船の縁に手を置き、流れていく景色を眺める。

 

「いい匂いする」

 

「市場が近づいてまいりましたからな」

 

ベイルが答えた。

 

風に乗って、焼いた魚や香辛料の匂いが漂ってくる。

 

昼間に歩いた市場では、夕食時を前にあちこちの店から煙が上がっていた。

 

「先に庁舎だよね」

 

「はい」

 

「分かってる」

 

言いながら、メフェリアは市場の方を見ている。

 

ベイルは何も言わなかった。

 

漁船が岸へ着く。

 

待っていた警備員たちに古い船着き場の場所を伝え、倉庫に残っている男たちの確保を任せた。

 

そのまま二人は庁舎へ向かう。

 

 

港湾管理局の庁舎へ戻ると、中は朝より騒がしくなっていた。

 

ベイルが持ち帰った帳簿はすぐに確認へ回された。

 

倉庫の在庫記録。

 

港へ運び込まれた物資の記録。

 

そして古い船着き場で見つけた帳簿。

 

三つを照らし合わせる。

 

それほど時間はかからなかった。

 

「間違いございません」

 

机の上に書類を広げた職員が言った。

 

「こちらの記録では倉庫から搬出されたことになっておりますが、届け先には到着しておりません」

 

「その後は?」

 

メフェリアが聞く。

 

「帳簿に記載されている品目と数量が一致しております」

 

「じゃあ、やっぱり途中で抜いてたんだ」

 

「はい」

 

ベイルが別の書類を取った。

 

そこに記されている名前を見る。

 

「物資管理担当のローデンですな」

 

「現在、呼びに行かせております」

 

職員が答えた。

 

メフェリアは近くの椅子に座って待つ。

 

窓の外を見ると、市場の明かりが少しずつ増えていた。

 

しばらくして扉が開いた。

 

二人の警備員に挟まれて、一人の男が入ってくる。

 

四十代ほど。

 

制服を着た、ごく普通の役人だった。

 

男は部屋へ入るなりメフェリアを見た。

 

一瞬だけ足が止まる。

 

「ローデン」

 

ベイルが呼ぶ。

 

「はい」

 

「この帳簿に見覚えは?」

 

机へ置かれた帳簿を見る。

 

ローデンの顔から僅かに血の気が引いた。

 

「……ございません」

 

「そうか」

 

ベイルがページを開く。

 

「では、ここにある名前は?」

 

ローデンは答えない。

 

「あなたの名前だって」

 

メフェリアが言った。

 

「……同姓同名かと」

 

「そうなの?」

 

「メフェリア宮」

 

ベイルが横から言う。

 

「この島の港湾管理局に同姓同名の職員はおりません」

 

「じゃあ違うね」

 

ローデンの額に汗が浮かぶ。

 

ベイルは淡々と書類を並べた。

 

「過去三か月。貴官が処理した搬出記録のうち十七件で、実際の到着量との不一致が確認された」

 

「それは……輸送中の紛失では」

 

「十七件すべてが?」

 

「……」

 

「そして、その品目と数量の一部が、この帳簿に記載されている」

 

ベイルが帳簿を軽く叩く。

 

ローデンは黙った。

 

「古い船着き場にいた者たちも確保される」

 

さらにベイルが続ける。

 

「彼らから話を聞けば、いずれ分かることだ」

 

長い沈黙。

 

やがてローデンの肩から力が抜けた。

 

「……最初は、一箱だけでした」

 

メフェリアが男を見る。

 

「一箱?」

 

「余った物資を回してほしいと言われたんです」

 

「誰に?」

 

「市場の商人です」

 

ローデンは俯いた。

 

最初は、本当に小さなものだったらしい。

 

帳簿上で余剰になっていた食料を一箱。

 

それを知り合いの商人へ渡した。

 

代わりに金を受け取った。

 

一度成功すると、また頼まれた。

 

次は二箱。

 

その次は三箱。

 

やがて倉庫の作業員にも金を渡し、搬出された物資の一部を古い船着き場へ回すようになった。

 

「じゃあ、あなたが始めたの?」

 

メフェリアが聞く。

 

「……はい」

 

「誰かに命令されたわけじゃなくて?」

 

「違います」

 

「東の海の人たちと知り合い?」

 

ローデンが顔を上げる。

 

「東の海……?」

 

本当に意味が分からないようだった。

 

メフェリアは少しだけ男の顔を見る。

 

「知らない?」

 

「何のことでしょうか」

 

メフェリアはベイルを見る。

 

ベイルも小さく首を横に振った。

 

少なくとも、この男から東の海で起きた一件へ繋がるものはなさそうだった。

 

「じゃあ、私がこの島に来ることを教えたのは?」

 

ローデンの顔が強張る。

 

「……庁舎で耳にしました」

 

「誰から?」

 

「港の受け入れ準備をしている職員たちが話していたのを……。それで、倉庫の者にしばらく物資を動かすなと伝えました」

 

メフェリアは瞬きをする。

 

「それだけ?」

 

「はい」

 

「誰か偉い人が教えたとかじゃなくて?」

 

「ございません」

 

思っていたより、ずっと単純だった。

 

内部から情報が漏れていたのは事実。

 

ただし、裏に大きな協力者がいたわけではない。

 

聖地から人間が来る。

 

港では当然、その受け入れ準備が行われる。

 

それを職員の一人が耳にして、自分の不正が発覚することを恐れただけだった。

 

「……そっか」

 

メフェリアが言った。

 

ベイルも息を吐く。

 

「どうやら、これ以上複雑な事情はなさそうですな」

 

「うん」

 

少し拍子抜けするくらいだった。

 

だが、それでいい。

 

わざわざ複雑である必要はない。

 

ローデンは警備員に連れられて部屋を出ていった。

 

残された書類をベイルがまとめる。

 

「この後、関係者への聴取と倉庫の確認を行います」

 

「私もいる?」

 

「いえ」

 

ベイルは即答した。

 

「メフェリア宮に直接ご対応いただく必要はございません」

 

「本当?」

 

「はい。残りはこちらで処理できます」

 

メフェリアの表情が少し明るくなった。

 

「じゃあ終わり?」

 

「メフェリア宮のお仕事としては」

 

「よかった」

 

「随分と嬉しそうでございますな」

 

「だって」

 

メフェリアは窓の外を見る。

 

すっかり夕方になった市場。

 

店先には明かりが灯り、人が行き交っている。

 

「お腹空いた」

 

ベイルは少しだけ笑った。

 

「では参りましょうか」

 

「うん」

 

 

庁舎を出ると、昼間とは違う市場が広がっていた。

 

夕暮れとともに露店の明かりが灯り、通りには仕事を終えた港の人間たちが増えている。

 

昼は魚や野菜を売っていた場所にも、小さな屋台が並び始めていた。

 

鉄板の上で魚が焼かれる。

 

大きな鍋から湯気が上がる。

 

串に刺した肉を炭火で炙っている店もあった。

 

メフェリアはゆっくり歩く。

 

「昼よりお店増えてる」

 

「夕方から営業する店も多いのです」

 

「へえ」

 

一軒の屋台の前で足が止まる。

 

大きな鍋。

 

その中で白いスープが煮えていた。

 

魚。

 

貝。

 

じゃがいも。

 

玉ねぎ。

 

香草。

 

店主が木の匙でゆっくり混ぜている。

 

「これは?」

 

メフェリアが聞いた。

 

店主が顔を上げる。

 

「魚介のミルク煮だよ。港じゃ昔から食ってるもんさ」

 

「ミルク?」

 

「ああ。朝に獲れた魚と貝を野菜と一緒に煮込むんだ」

 

鍋から漂う匂いは柔らかい。

 

魚の香りに、乳の甘い匂いが混ざっている。

 

「食べたい」

 

メフェリアが言った。

 

「では、こちらにいたしましょう」

 

ベイルが答える。

 

二人は屋台の横に置かれた小さなテーブルへ座った。

 

しばらくすると、深い器が運ばれてくる。

 

白いスープの中に、大きく切られた魚とじゃがいもが入っていた。

 

殻付きの貝もいくつか見える。

 

横には厚く切ったパン。

 

メフェリアは匙を取った。

 

まずスープを一口。

 

「……おいしい」

 

温かい。

 

ミルクの味はするが、思っていたより重くない。

 

魚と貝から出た味がスープ全体に広がっている。

 

玉ねぎは柔らかくなるまで煮込まれ、甘みがあった。

 

次に魚を食べる。

 

白身が簡単にほぐれる。

 

「昼の揚げ魚とは全然違う」

 

「同じ魚でも料理法で変わりますからな」

 

ベイルも食べている。

 

メフェリアはじゃがいもを匙で割った。

 

中までスープを吸っている。

 

「これ好きかも」

 

「お気に召しましたか」

 

「うん」

 

パンをちぎる。

 

そのまま食べてから、今度はスープへ少し浸した。

 

柔らかくなったパンに魚介の味が染み込む。

 

メフェリアはもう一口食べる。

 

「こっちもいい」

 

昼間に食べた揚げ魚。

 

市場で見た果物。

 

そして今食べている温かい煮込み。

 

同じ港町でも、時間が変わるだけで食べられるものが変わる。

 

メフェリアは市場を眺めながら匙を動かした。

 

少し離れた場所では、仕事帰りらしい男たちが酒を飲んでいる。

 

子供を連れた女性がパンを買っている。

 

魚屋では、残った魚を安く売ろうと店主が声を張り上げていた。

 

マリージョアでは見ることのない夕方だった。

 

「ベイル」

 

「はい」

 

「この島の人って、毎日こういうの食べてるの?」

 

「毎日かどうかは存じませんが、この辺りでは珍しい料理ではございません」

 

「いいな」

 

メフェリアはもう一口スープを飲む。

 

「聖地ではお召し上がりになりませんか?」

 

「似た料理はあるよ」

 

「では、それほど珍しくは――」

 

「でも違う」

 

メフェリアが言った。

 

ベイルが顔を上げる。

 

「向こうだと、もっと綺麗に作るから」

 

魚の骨は完全に取り除かれる。

 

貝も殻から外される。

 

野菜は形を揃えて切られる。

 

器も料理に合わせたものが用意される。

 

もちろん、それはそれで美味しい。

 

「こっちは魚も大きいし、貝もそのままだし」

 

メフェリアは器を見る。

 

「でも、こっちの方が港で食べてる感じする」

 

「なるほど」

 

「魚がここで獲れたって分かる」

 

ベイルは少し考えてから頷いた。

 

「料理だけではなく、場所も含めて味わっておられるのですな」

 

「多分」

 

メフェリア自身、そこまで深く考えていたわけではなかった。

 

ただ、知らない土地へ行って。

 

知らない通りを歩いて。

 

そこで暮らしている人間が普段食べているものを食べる。

 

それが好きだった。

 

器の中身が少なくなっていく。

 

最後に残ったスープをパンで拭うようにして食べた。

 

「ごちそうさま」

 

「よく召し上がりましたな」

 

「お腹空いてたから」

 

「満足なさいましたか?」

 

メフェリアは少し考える。

 

「うん」

 

それから、通りの向こうを見る。

 

果物を並べた店がまだ開いている。

 

黄色い果実。

 

赤い果実。

 

見たことのない紫色の実もある。

 

「……でも」

 

「はい」

 

「甘いものなら、まだ入るかも」

 

ベイルはメフェリアの視線の先を見た。

 

そして小さく息を吐いた。

 

「参りましょうか」

 

「うん」

 

メフェリアは席を立った。

 

事件はひとまず片付いた。

 

東の海との繋がりも見つからなかった。

 

なら、今はそれでいい。

 

明日になれば、また調べることが出てくるかもしれない。

 

次の任務が届くこともある。

 

けれど今夜くらいは、この島をもう少し見て回ってもいいだろう。

 

メフェリアは明かりの灯った市場を歩き出す。

 

目指すのは、通りの向こうにある果物屋。

 

その隣からは、何かを焼く甘い匂いも漂ってきていた。

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