市場へ戻る頃には、空が赤く染まり始めていた。
古い漁船が運河へ入る。
昼間とは違い、水面には建物から伸びた影が長く落ちていた。
メフェリアは船の縁に手を置き、流れていく景色を眺める。
「いい匂いする」
「市場が近づいてまいりましたからな」
ベイルが答えた。
風に乗って、焼いた魚や香辛料の匂いが漂ってくる。
昼間に歩いた市場では、夕食時を前にあちこちの店から煙が上がっていた。
「先に庁舎だよね」
「はい」
「分かってる」
言いながら、メフェリアは市場の方を見ている。
ベイルは何も言わなかった。
漁船が岸へ着く。
待っていた警備員たちに古い船着き場の場所を伝え、倉庫に残っている男たちの確保を任せた。
そのまま二人は庁舎へ向かう。
*
港湾管理局の庁舎へ戻ると、中は朝より騒がしくなっていた。
ベイルが持ち帰った帳簿はすぐに確認へ回された。
倉庫の在庫記録。
港へ運び込まれた物資の記録。
そして古い船着き場で見つけた帳簿。
三つを照らし合わせる。
それほど時間はかからなかった。
「間違いございません」
机の上に書類を広げた職員が言った。
「こちらの記録では倉庫から搬出されたことになっておりますが、届け先には到着しておりません」
「その後は?」
メフェリアが聞く。
「帳簿に記載されている品目と数量が一致しております」
「じゃあ、やっぱり途中で抜いてたんだ」
「はい」
ベイルが別の書類を取った。
そこに記されている名前を見る。
「物資管理担当のローデンですな」
「現在、呼びに行かせております」
職員が答えた。
メフェリアは近くの椅子に座って待つ。
窓の外を見ると、市場の明かりが少しずつ増えていた。
しばらくして扉が開いた。
二人の警備員に挟まれて、一人の男が入ってくる。
四十代ほど。
制服を着た、ごく普通の役人だった。
男は部屋へ入るなりメフェリアを見た。
一瞬だけ足が止まる。
「ローデン」
ベイルが呼ぶ。
「はい」
「この帳簿に見覚えは?」
机へ置かれた帳簿を見る。
ローデンの顔から僅かに血の気が引いた。
「……ございません」
「そうか」
ベイルがページを開く。
「では、ここにある名前は?」
ローデンは答えない。
「あなたの名前だって」
メフェリアが言った。
「……同姓同名かと」
「そうなの?」
「メフェリア宮」
ベイルが横から言う。
「この島の港湾管理局に同姓同名の職員はおりません」
「じゃあ違うね」
ローデンの額に汗が浮かぶ。
ベイルは淡々と書類を並べた。
「過去三か月。貴官が処理した搬出記録のうち十七件で、実際の到着量との不一致が確認された」
「それは……輸送中の紛失では」
「十七件すべてが?」
「……」
「そして、その品目と数量の一部が、この帳簿に記載されている」
ベイルが帳簿を軽く叩く。
ローデンは黙った。
「古い船着き場にいた者たちも確保される」
さらにベイルが続ける。
「彼らから話を聞けば、いずれ分かることだ」
長い沈黙。
やがてローデンの肩から力が抜けた。
「……最初は、一箱だけでした」
メフェリアが男を見る。
「一箱?」
「余った物資を回してほしいと言われたんです」
「誰に?」
「市場の商人です」
ローデンは俯いた。
最初は、本当に小さなものだったらしい。
帳簿上で余剰になっていた食料を一箱。
それを知り合いの商人へ渡した。
代わりに金を受け取った。
一度成功すると、また頼まれた。
次は二箱。
その次は三箱。
やがて倉庫の作業員にも金を渡し、搬出された物資の一部を古い船着き場へ回すようになった。
「じゃあ、あなたが始めたの?」
メフェリアが聞く。
「……はい」
「誰かに命令されたわけじゃなくて?」
「違います」
「東の海の人たちと知り合い?」
ローデンが顔を上げる。
「東の海……?」
本当に意味が分からないようだった。
メフェリアは少しだけ男の顔を見る。
「知らない?」
「何のことでしょうか」
メフェリアはベイルを見る。
ベイルも小さく首を横に振った。
少なくとも、この男から東の海で起きた一件へ繋がるものはなさそうだった。
「じゃあ、私がこの島に来ることを教えたのは?」
ローデンの顔が強張る。
「……庁舎で耳にしました」
「誰から?」
「港の受け入れ準備をしている職員たちが話していたのを……。それで、倉庫の者にしばらく物資を動かすなと伝えました」
メフェリアは瞬きをする。
「それだけ?」
「はい」
「誰か偉い人が教えたとかじゃなくて?」
「ございません」
思っていたより、ずっと単純だった。
内部から情報が漏れていたのは事実。
ただし、裏に大きな協力者がいたわけではない。
聖地から人間が来る。
港では当然、その受け入れ準備が行われる。
それを職員の一人が耳にして、自分の不正が発覚することを恐れただけだった。
「……そっか」
メフェリアが言った。
ベイルも息を吐く。
「どうやら、これ以上複雑な事情はなさそうですな」
「うん」
少し拍子抜けするくらいだった。
だが、それでいい。
わざわざ複雑である必要はない。
ローデンは警備員に連れられて部屋を出ていった。
残された書類をベイルがまとめる。
「この後、関係者への聴取と倉庫の確認を行います」
「私もいる?」
「いえ」
ベイルは即答した。
「メフェリア宮に直接ご対応いただく必要はございません」
「本当?」
「はい。残りはこちらで処理できます」
メフェリアの表情が少し明るくなった。
「じゃあ終わり?」
「メフェリア宮のお仕事としては」
「よかった」
「随分と嬉しそうでございますな」
「だって」
メフェリアは窓の外を見る。
すっかり夕方になった市場。
店先には明かりが灯り、人が行き交っている。
「お腹空いた」
ベイルは少しだけ笑った。
「では参りましょうか」
「うん」
*
庁舎を出ると、昼間とは違う市場が広がっていた。
夕暮れとともに露店の明かりが灯り、通りには仕事を終えた港の人間たちが増えている。
昼は魚や野菜を売っていた場所にも、小さな屋台が並び始めていた。
鉄板の上で魚が焼かれる。
大きな鍋から湯気が上がる。
串に刺した肉を炭火で炙っている店もあった。
メフェリアはゆっくり歩く。
「昼よりお店増えてる」
「夕方から営業する店も多いのです」
「へえ」
一軒の屋台の前で足が止まる。
大きな鍋。
その中で白いスープが煮えていた。
魚。
貝。
じゃがいも。
玉ねぎ。
香草。
店主が木の匙でゆっくり混ぜている。
「これは?」
メフェリアが聞いた。
店主が顔を上げる。
「魚介のミルク煮だよ。港じゃ昔から食ってるもんさ」
「ミルク?」
「ああ。朝に獲れた魚と貝を野菜と一緒に煮込むんだ」
鍋から漂う匂いは柔らかい。
魚の香りに、乳の甘い匂いが混ざっている。
「食べたい」
メフェリアが言った。
「では、こちらにいたしましょう」
ベイルが答える。
二人は屋台の横に置かれた小さなテーブルへ座った。
しばらくすると、深い器が運ばれてくる。
白いスープの中に、大きく切られた魚とじゃがいもが入っていた。
殻付きの貝もいくつか見える。
横には厚く切ったパン。
メフェリアは匙を取った。
まずスープを一口。
「……おいしい」
温かい。
ミルクの味はするが、思っていたより重くない。
魚と貝から出た味がスープ全体に広がっている。
玉ねぎは柔らかくなるまで煮込まれ、甘みがあった。
次に魚を食べる。
白身が簡単にほぐれる。
「昼の揚げ魚とは全然違う」
「同じ魚でも料理法で変わりますからな」
ベイルも食べている。
メフェリアはじゃがいもを匙で割った。
中までスープを吸っている。
「これ好きかも」
「お気に召しましたか」
「うん」
パンをちぎる。
そのまま食べてから、今度はスープへ少し浸した。
柔らかくなったパンに魚介の味が染み込む。
メフェリアはもう一口食べる。
「こっちもいい」
昼間に食べた揚げ魚。
市場で見た果物。
そして今食べている温かい煮込み。
同じ港町でも、時間が変わるだけで食べられるものが変わる。
メフェリアは市場を眺めながら匙を動かした。
少し離れた場所では、仕事帰りらしい男たちが酒を飲んでいる。
子供を連れた女性がパンを買っている。
魚屋では、残った魚を安く売ろうと店主が声を張り上げていた。
マリージョアでは見ることのない夕方だった。
「ベイル」
「はい」
「この島の人って、毎日こういうの食べてるの?」
「毎日かどうかは存じませんが、この辺りでは珍しい料理ではございません」
「いいな」
メフェリアはもう一口スープを飲む。
「聖地ではお召し上がりになりませんか?」
「似た料理はあるよ」
「では、それほど珍しくは――」
「でも違う」
メフェリアが言った。
ベイルが顔を上げる。
「向こうだと、もっと綺麗に作るから」
魚の骨は完全に取り除かれる。
貝も殻から外される。
野菜は形を揃えて切られる。
器も料理に合わせたものが用意される。
もちろん、それはそれで美味しい。
「こっちは魚も大きいし、貝もそのままだし」
メフェリアは器を見る。
「でも、こっちの方が港で食べてる感じする」
「なるほど」
「魚がここで獲れたって分かる」
ベイルは少し考えてから頷いた。
「料理だけではなく、場所も含めて味わっておられるのですな」
「多分」
メフェリア自身、そこまで深く考えていたわけではなかった。
ただ、知らない土地へ行って。
知らない通りを歩いて。
そこで暮らしている人間が普段食べているものを食べる。
それが好きだった。
器の中身が少なくなっていく。
最後に残ったスープをパンで拭うようにして食べた。
「ごちそうさま」
「よく召し上がりましたな」
「お腹空いてたから」
「満足なさいましたか?」
メフェリアは少し考える。
「うん」
それから、通りの向こうを見る。
果物を並べた店がまだ開いている。
黄色い果実。
赤い果実。
見たことのない紫色の実もある。
「……でも」
「はい」
「甘いものなら、まだ入るかも」
ベイルはメフェリアの視線の先を見た。
そして小さく息を吐いた。
「参りましょうか」
「うん」
メフェリアは席を立った。
事件はひとまず片付いた。
東の海との繋がりも見つからなかった。
なら、今はそれでいい。
明日になれば、また調べることが出てくるかもしれない。
次の任務が届くこともある。
けれど今夜くらいは、この島をもう少し見て回ってもいいだろう。
メフェリアは明かりの灯った市場を歩き出す。
目指すのは、通りの向こうにある果物屋。
その隣からは、何かを焼く甘い匂いも漂ってきていた。