翌朝。
メフェリアが食堂へ降りると、窓の向こうでは港町がすでに動き始めていた。
荷車が石畳の上を走り、港からは船乗りたちの声が聞こえてくる。昨日まで調べていた古い船着き場にも、朝から政府の職員が入っているはずだ。
市場から消えていた物資は見つかり、関係していた者たちも捕まえた。あとは残った確認を済ませれば、今回の仕事は終わる。
その前に、まずは朝食だった。
焼きたてのパンに卵、塩漬けの魚と野菜のスープ。
メフェリアはパンをちぎってスープにつけると、向かいに座っているベイルへ尋ねた。
「今日で終わりそう?」
「何事もなければ、本日中には」
「じゃあ明日帰れる?」
「その予定でございます」
「よかった」
メフェリアはスープを含んだパンを口へ運んだ。
いくつかの土地を回った今回の任務も、これで一区切りだ。
知らない町を見るのは面白かったし、行く先々で初めて食べる料理にも出会えた。けれど、任務が終わったのならマリージョアへ帰るのも悪くない。
自分の部屋でゆっくりしたい。
軍子たちは、もう帰っているだろうか。
そんなことを考えていると、食堂の扉が開いた。
「ベイル殿、今朝の定期報告です」
政府職員が何枚かの書類を持って入ってくる。
「ご苦労」
ベイルはそれを受け取り、朝食の横へ置いた。
メフェリアが魚を食べながら横目で見る。
「何それ?」
「各地から届いた航路情報でございます。明日の出航前に確認しておきませんと」
「海荒れてる?」
「今のところ、予定している航路に問題はなさそうです」
「ならよかった」
メフェリアにとって重要なのはそこだった。
ベイルは慣れた様子で書類をめくっていく。
天候、海賊の目撃情報、商船の航路。途中で何度か手を止めながら確認していたが、特に問題はなさそうだった。
メフェリアも興味を失い、卵へ手を伸ばす。
ところが。
「東の海から、新しい手配情報が来ておりますな」
聞き覚えのある海の名前に、メフェリアは顔を上げた。
「東の海?」
「はい」
「強い人?」
「東の海では、かなり高額です」
ベイルが書類の中から一枚抜き取り、机の上へ置いた。
手配書だった。
そこには、麦わら帽子を被った少年が写っている。
黒い髪に、大きな笑顔。
海賊の手配書にしては、妙に楽しそうな顔だった。
メフェリアはパンを持ったまま、その写真を眺める。
どこかで見たような気がする。
「懸賞金三千万ベリー。名前は――モンキー・D・ルフィ」
パンを口へ運ぼうとしていた手が止まった。
メフェリアは写真ではなく、その下に書かれた名前を見る。
モンキー・D・ルフィ。
「D……」
小さく漏れた声は、ベイルには聞こえなかったらしい。
彼はそのまま報告書を読んでいる。
メフェリアは少しだけ目を細めた。
その文字について、ここで口にするつもりはなかった。
もう一度、今度は少年の顔を見る。
「この人、何したの?」
「アーロン一味の壊滅をはじめ、東の海各地でいくつかの騒動に関わっております。それから、少し前にはローグタウンにも現れたようです」
「ローグタウン?」
思わず聞き返した。
ベイルが顔を上げる。
「ご存じなのですか?」
「行ったことあるよ」
「ローグタウンへ?」
「うん。前に東の海で任務してた時に寄ったの」
「それは存じませんでした」
「言ってないからね」
メフェリアはもう一度手配書を見る。
ローグタウンならよく覚えている。
海賊王ゴールド・ロジャーが処刑された町。
中央広場にある大きな処刑台を見上げて、死ぬ直前に笑っていたというロジャーのことを少し考えた。
それからアップルパイを買った。
あれは美味しかった。
「この人も処刑台に行ったの?」
「行ったというより、そこで処刑されかけたようです」
「え?」
思っていた話と違った。
「道化のバギーという海賊に捕らえられ、処刑台の上で首を落とされる寸前だったとか」
「それで逃げたの?」
「はい。落雷で処刑台が壊れまして」
メフェリアは瞬きをした。
「雷?」
「雷です」
「ちょうどその時に?」
「そのようです」
「すごいね」
何がすごいのか、自分でもよく分からない。
運なのか。
雷なのか。
それとも、この少年なのか。
ともかく普通ではなかった。
メフェリアは手配書を自分の方へ少し引き寄せる。
そこで、ようやく引っかかっていた記憶が繋がった。
「あ」
「どうされました?」
「この人、見たかも」
今度はベイルの手が止まった。
「ルフィをですか?」
「多分」
「どちらで?」
「ローグタウン」
あの日、処刑台を見ていた時。
人混みの向こうを一人の少年が走っていった。
麦わら帽子。
赤い服。
周りを見ながら、あっという間に人混みの中へ消えていった。
本当にそれだけだった。
「処刑台を見に行った時、こんな帽子の人が走ってた」
「顔はご覧になりましたか?」
「ちゃんとは見てない」
「では、別人ということも」
「あると思う」
それでも似ている。
特にあの麦わら帽子は印象に残っていた。
あの時は、名前も知らない通行人だった。
それが本当にこの少年だったなら、いつの間にか三千万ベリーの賞金首になっている。
しかも――D。
メフェリアの視線が、もう一度その文字へ向かった。
「今どこにいるの?」
「すでに東の海を出た可能性が高いと見られております」
「偉大なる航路?」
「おそらくは」
「そっか」
なら、今はそれでいい。
もし自分が知る必要のある何かがあるなら、その時はシャムロックから話が来るだろう。
メフェリアは手配書をベイルへ返した。
「もうよろしいのですか?」
「うん」
「随分と気になさっておりましたが」
「見たことある人かもしれなかったから」
「なるほど」
ベイルは納得したように手配書を他の書類へ重ねた。
メフェリアも朝食へ戻る。
スープはすっかり冷めていた。
「冷めちゃった」
「手配書を長くご覧になっておりましたからな」
「ベイルが見せたんでしょ」
「これは失礼いたしました」
メフェリアは冷めたスープを一口飲む。
温かい方が美味しかった。
それでも全部食べた。
モンキー・D・ルフィ。
その名前だけは、しっかり覚えた。
*
朝食を終えると、二人は昨日調べた古い船着き場へ向かった。
昨日までとは違い、周囲には政府職員や警備員が行き交っている。倉庫の中でも木箱が開けられ、中身と帳簿を照らし合わせる作業が続いていた。
メフェリアは入り口から中を覗く。
「どう?」
ベイルが担当者から受け取った帳簿を確認した。
「市場から消えた物資については、大半が確認できております。関係者の供述とも一致しておりますので、残りはこちらで追えるでしょう」
「東の海の件とは?」
「今のところ、繋がりを示すものは出ておりません」
「じゃあ別だったんだ」
「その可能性が高いかと」
もっと複雑なものが出てくるかと思っていた。
けれど、実際に調べてみれば、政府の管理物資をこっそり市場へ流して利益を得ていただけだった。
もちろん、それで許されるわけではない。
ただ、これ以上メフェリアが追いかけるものでもなさそうだ。
「じゃあ、終わり?」
「はい」
ベイルは帳簿を閉じた。
「残りはこちらで引き継ぎます。シャムロック聖への正式な報告書も、本日中にまとめておきます」
「分かった」
「明朝には、マリージョアへ向かう政府船をご用意いたします」
メフェリアは頷き、それからふとベイルを見る。
「ベイルも来るの?」
「いえ。私はここへ残ります」
「そっか」
考えてみれば当然だった。
ベイルが一緒に動いていたのは、この島での調査を補佐するためだ。
それでも、ここ数日は毎日のように顔を合わせていた。
市場を歩いて、倉庫を見張って、昨日は漁船にまで一緒に乗った。
明日からいなくなると思うと、少しだけ変な感じがする。
「短い間ではございましたが、メフェリア宮のお役に立てたのであれば――」
「待って」
「はい?」
「まだ明日までいるよね?」
「はい」
「じゃあ、それ明日でいいよ」
ベイルが口を閉じた。
少しして、小さく笑う。
「承知いたしました」
「もうお別れみたいだったから」
「少々気が早かったようです」
「うん」
メフェリアも笑った。
二人で倉庫を出る。
港から吹いてきた潮風が、メフェリアの緑色の髪を揺らした。
明日にはここを離れる。
マリージョアへ戻ったら、まず自分の部屋へ帰ろう。
それから軍子やキリンガムにも会いたい。
ソマーズも戻っているだろうか。
そこまで考えたところで、メフェリアの足が少し遅くなった。
何か忘れている。
「どうされました?」
「なんか忘れてる気がする」
「お荷物ですか?」
「違う」
もっと別の何かだ。
誰かと何かを約束していたような気がする。
けれど、思い出そうとすると出てこない。
「まあいいや。そのうち思い出すと思う」
「大切なことでなければよろしいのですが」
「多分大丈夫」
そう言って、メフェリアは再び歩き出した。
港には朝の陽射しが差し込み、停泊している船の帆が潮風を受けて揺れている。
明日からは帰り道だ。
その途中で予定外の寄り道をすることになるなんて、この時のメフェリアはまだ知らなかった。