翌朝。
聖地マリージョア。
神の騎士団の一角に、一人の少女がいた。
トップマン・メフェリア宮。
二十一歳。
神の騎士団員。
そして――現在、非常に機嫌が悪かった。
「……眠い」
理由は単純だった。
朝が早い。
メフェリアは椅子に深く身体を沈めながら、大きなあくびをした。
目の前には何枚かの書類が置かれている。
その向こうに立っているのは、神の騎士団団長――フィガーランド・シャムロック聖。
「聞いているのか」
「聞いてる」
「では、今説明した内容を言ってみろ」
「東の海に行く」
「それだけか」
「…………」
メフェリアは少し考えた。
「船に乗る」
「そういう意味ではない」
「じゃあ分かんない」
シャムロックの眉間に皺が寄った。
「お前は……」
メフェリアは机の上の書類を一枚取った。
視線を落とす。
東の海――イーストブルー。
四つの海の中では比較的平穏とされる海域。
今回の任務は、そこで活動している世界政府関係者との接触だった。
政府の管理下にある物資の一部が、輸送途中で消えている。
一度や二度ではない。
調査に向かった役人からの連絡も途絶えていた。
海賊の仕業なのか。
現地の組織が横流ししているのか。
あるいは別の何かか。
原因を確認する。
必要なら排除する。
それだけだった。
メフェリアが紙を置く。
「やっぱり面倒」
「だからお前を行かせる」
「なんで?」
「一人で済むからだ」
「他の人でもいいじゃん」
「他は別の任務がある」
「私も忙しいよ」
「何にだ」
「色々」
「具体的に言え」
「ご飯とか」
沈黙。
シャムロックが無言でメフェリアを見る。
メフェリアも見返す。
先に視線を逸らしたのはメフェリアだった。
「……分かったよ」
「最初からそう言え」
「でも条件」
「聞くだけ聞こう」
メフェリアが身を乗り出す。
さっきまで眠そうだった瞳が、ほんの少しだけ開いた。
「東の海って何が美味しい?」
「…………」
「団長?」
「知らん」
「知らないの?」
「何故私が東の海の料理事情を把握していると思った」
「役に立たない」
「メフェリア」
「冗談」
まったく冗談に聞こえなかった。
*
数日後。
東の海。
世界政府の船が、穏やかな海面を進んでいた。
甲板。
メフェリアは手すりにもたれ、海を眺めている。
「……平和」
偉大なる航路とは違う。
天候は比較的安定している。
巨大な海王類が突然現れることも少ない。
海賊の脅威も、他の海域と比べれば小さい。
少なくとも、メフェリアにはそう見えた。
「暇」
隣にいた政府役人が苦笑する。
「東の海は“最弱の海”とも呼ばれておりますから」
「最弱?」
「はい。海賊の平均懸賞金などを見ても――」
「ふーん」
興味が失われた。
メフェリアは海を見る。
強い海賊がいるかどうかなど、どうでもいい。
むしろ弱い方がいい。
面倒事が少ない。
「メフェリア宮」
「なに」
「まもなく補給のため島へ寄港いたします」
「島?」
「はい」
メフェリアの耳が――実際に動いたわけではないが――反応したように見えた。
「町ある?」
「港町がございます」
「店は?」
「……あると思われます」
「何が美味しい?」
「申し訳ございません。そこまでは……」
「みんな知らないんだね」
何故か役人が申し訳なさそうに頭を下げた。
*
港へ着く。
政府船が停泊すると、周囲が少しざわついた。
世界政府の旗。
そして船から降りてきた、見慣れない服装の少女。
ただしメフェリアは、周囲の視線など気にも留めていない。
「二時間後に出航いたします」
役人が言う。
「二時間?」
「はい」
「短い」
「補給のみですので」
「四時間」
「は?」
「四時間にして」
「い、いえ、しかし――」
メフェリアが役人を見る。
「ダメ?」
役人の顔が引きつる。
相手は天竜人。
しかも神の騎士団員。
断れるはずがない。
「……四時間後に出航いたします」
「ありがと」
メフェリアはさっさと町へ向かった。
役人はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
*
港町は賑わっていた。
魚。
野菜。
果物。
香辛料。
市場には様々な食材が並んでいる。
メフェリアはゆっくり歩いた。
「……へぇ」
見たことのない果物を手に取る。
店主が一瞬固まった。
政府の船から降りてきた少女。
身なりも明らかに普通ではない。
何者なのか分からない。
「これ何?」
「えっ」
「これ」
「あ、ああ! そいつは、この辺りで採れる果物で……」
「美味しい?」
「もちろん! 甘酸っぱくてな!」
「一個」
「あ、ありがとうございます!」
メフェリアは果物を受け取った。
そのまま歩き出す。
「……あの、お代……」
足が止まった。
振り返る。
「お代?」
「へ?」
メフェリアは本気で意味が分かっていない顔をしていた。
生まれた時から天竜人。
欲しいものは用意される。
金を払って買い物をするという行為そのものに、ほとんど馴染みがない。
数秒。
「あ」
昨日、役人から言われたことを思い出す。
下界では品物と金銭を交換する。
知識としては当然知っている。
ただ、自分でやる習慣がない。
「いくら?」
「さ、三百ベリーで……」
メフェリアは懐を見る。
何もない。
「…………」
店主も黙る。
「持ってない」
「え?」
「お金」
「…………」
妙な空気になった。
そこへ、慌てて追いかけてきた政府役人が到着した。
「メフェリア宮!」
「ちょうどよかった」
メフェリアが役人を指差す。
「この人が払う」
「は?」
「三百ベリー」
「……承知しました」
役人が財布を取り出した。
店主はますます混乱している。
メフェリアは果物を一口かじった。
しゃく。
「!」
目が少し開く。
もう一口。
「美味しい」
店主が恐る恐る笑った。
「そ、そうだろ?」
「うん」
メフェリアは役人を見る。
「十個」
「はい?」
「十個買う」
「……承知しました」
店主の顔が一気に明るくなった。
*
その後。
串焼き。
魚の揚げ物。
果物。
焼き菓子。
メフェリアの手には次々と食べ物が増えていった。
「……東の海、いいね」
完全に任務を忘れかけていた。
そして。
ある店の前で足が止まる。
小さな食堂だった。
決して綺麗ではない。
看板も古い。
だが。
「…………」
匂い。
肉。
香辛料。
野菜。
それらが煮込まれた濃厚な香り。
メフェリアの足が自然と店へ向かう。
扉を開ける。
「いらっしゃい!」
店内は混んでいた。
船乗り。
商人。
町の住民。
メフェリアは空いている席へ座った。
「おすすめ」
「へ?」
店員の女性が聞き返す。
「この店で一番美味しいの」
「そりゃあ、うちなら肉と豆の煮込みだよ」
「それ」
「パンは?」
「いる」
「飲み物は?」
「おすすめ」
「じゃあ果実水にしとくよ」
「お願い」
店員が去る。
メフェリアは頬杖をついた。
しばらくして。
大きな皿が置かれた。
肉と豆。
赤みのある濃厚なスープ。
焼きたてのパン。
メフェリアがスプーンを入れる。
一口。
「…………」
もう一口。
パンをちぎる。
スープにつける。
食べる。
「…………美味しい」
かなり好きだった。
「でしょ?」
店員が笑う。
メフェリアは頷く。
「これ誰が作ったの?」
「うちの親父だよ」
厨房を見る。
奥で大柄な男が鍋を振っている。
「へぇ」
また一口。
「マリージョアでも作れるかな」
「マリー……?」
店員が首を傾げる。
メフェリアは答えなかった。
食事を続ける。
その時。
隣のテーブルから会話が聞こえてきた。
「また出たらしいぞ」
「何が?」
「海賊だよ」
メフェリアは食べ続ける。
「最近増えたな」
「海軍は何やってんだ」
「知らねェよ。なんでも東の方じゃ、妙な海賊どもがうろついてるらしい」
「この辺まで来なきゃいいけどな」
興味なし。
スープを飲む。
「それより聞いたか? 政府の荷を狙ってる連中がいるって」
スプーンが止まった。
ほんの一瞬。
今回の任務。
政府管理物資の消失。
役人との連絡途絶。
メフェリアは隣を見る。
「ねえ」
男たちが振り返る。
「な、なんだ?」
「今の話」
「今の?」
「政府の荷物」
男たちが顔を見合わせる。
「……ああ」
「どこで聞いたの?」
「港の船乗りからだけどよ」
「どこの港?」
男が島の名前を答える。
メフェリアは少し考えた。
今回向かう予定の場所から、そう遠くない。
「ふーん」
再び食事へ戻る。
「ありがとう」
「お、おう……」
メフェリアは最後の肉を食べる。
美味しい。
任務の手掛かりも手に入った。
しかも偶然。
今日は運がいい。
「おかわり」
店員が笑った。
「気に入ったねぇ」
「うん」
「でも、結構食べるね。そんな細いのに」
メフェリアは自分の身体を見る。
「そう?」
「どこに入ってるんだい?」
「知らない」
本当に知らない。
*
四時間後。
政府船。
「メフェリア宮」
役人が困惑していた。
「はい」
「これは……」
大量の紙袋。
食材。
果物。
焼き菓子。
そして鍋。
「何故、鍋まで?」
「買った」
「鍋を?」
「煮込み作ってみたいから」
「料理をなさるのですか?」
「しないよ」
「……では何故?」
「料理人に作ってもらう」
役人は黙った。
メフェリアは船へ乗る。
「あと」
振り返る。
「行き先、少し変える」
「はい?」
「この島」
先ほど聞いた名前を告げる。
役人の表情が変わる。
「しかし、そこは今回の予定航路から外れております」
「手掛かりあるかも」
「手掛かり?」
「政府の荷物」
役人が驚く。
「どちらでその情報を?」
メフェリアが少し考える。
「ご飯食べてたら聞いた」
「…………」
「だから行く」
役人はしばらく黙っていた。
「……承知しました」
出航準備が始まる。
メフェリアは甲板へ向かった。
手には、さっき買った焼き菓子。
一つ食べる。
「美味しい」
船が港を離れていく。
目指すのは、予定にはなかった小さな島。
その島で何が待っているのか。
メフェリアは知らない。
そして――。
特に気にもしていなかった。
問題があれば片付ければいい。
それよりも。
「次の島、何あるかな」
彼女にとっては、そちらの方が重要だった。
*
同じ頃。
東の海の、とある小さな村。
一人の少年が、海を眺めていた。
麦わら帽子。
頬の傷。
そして、大きな笑顔。
少年が待ち続けた日も、もう遠くない。
海賊王を目指す少年と、
世界の頂に生まれた少女。
二人はまだ、
互いの存在すら知らない。
だが世界は、少しずつ動き始めていた。