東の海。
世界政府の船は、穏やかな海を進んでいた。
甲板の上。
トップマン・メフェリア宮は、椅子に座っていた。
その膝の上には皿。
皿の上には、昨日の島で買ったパン。
その隣には、料理人に作らせた肉料理。
そして――。
「……違う」
メフェリアは肉を一口食べて呟いた。
船の料理人の肩が跳ねる。
「も、申し訳ございません!」
「不味くはないよ」
「は、はい!」
「でも違う」
「……何がでしょうか」
メフェリアは昨日食べた煮込みを思い出す。
濃厚なスープ。
柔らかく煮込まれた肉。
豆。
香辛料。
パンにつけて食べた時の味。
「なんか違う」
「……申し訳ございません」
「謝らなくていいよ」
メフェリアはもう一口食べた。
悪くない。
でも昨日の方が美味しかった。
料理というのは難しい。
同じ材料を使えば同じ味になるわけではないらしい。
「今度、あの料理人連れて帰ろうかな」
料理人の顔が引きつった。
「……メフェリア宮」
政府役人が近づいてくる。
「なに?」
「目的の島が見えてまいりました」
メフェリアが顔を上げる。
水平線。
小さな島が見える。
「……あそこ?」
「はい」
「何が美味しい?」
「まず任務をお願いいたします」
「分かってる」
少し不満そうだった。
*
島の名は、カルナ島。
人口数千人ほどの小さな島だった。
大きな産業はない。
港を中心に小さな町が形成されている。
世界政府加盟国でもない。
だが、航路上の都合から政府関係の船が立ち寄ることがある。
そして今回。
この島の周辺で、政府の輸送物資が複数回消えていた。
港へ船が着く。
メフェリアが降りる。
続いて数人の役人。
町は静かだった。
「……人少ないね」
「妙ですね」
役人が周囲を見る。
昼間。
本来なら市場が開いている時間だ。
だが店の多くが閉まっている。
人通りも少ない。
通りを歩く住民たちは、政府の旗を見ると露骨に目を逸らした。
メフェリアはその様子を見る。
「嫌われてる?」
役人が少し困る。
「政府を快く思わない地域はございます」
「ふーん」
メフェリアにとってはどうでもいい。
自分たちが好かれているか嫌われているか。
そんなことを気にしたことがない。
「それより」
鼻がわずかに動く。
「いい匂いする」
「メフェリア宮?」
歩き出す。
役人たちも慌てて追いかける。
「こちらではありません!」
「分かってる」
「では何故そちらへ!?」
「ご飯」
「任務は!?」
「食べながらでもできるでしょ」
できるわけがない。
だが誰も止められなかった。
*
匂いの先には、小さな食堂があった。
『カルナ食堂』
古い。
かなり古い。
入口の看板は少し傾いている。
メフェリアが扉を開けた。
「いらっしゃ――」
店主らしき老人の声が止まった。
政府関係者。
そして、その中心にいる緑髪の少女。
「……何の用だ」
歓迎されていない。
メフェリアは気にしなかった。
「ご飯」
「は?」
「食べに来た」
老人が目を細める。
「政府の連中に食わせる飯なんぞ――」
「じいさん!」
厨房から若い女性が飛び出してきた。
「何言ってんの!」
「だがな!」
「客は客でしょ!」
女性がメフェリアを見る。
「ご、ごめんなさい。何にします?」
メフェリアは壁のメニューを見る。
魚。
魚。
魚。
「魚多いね」
「この島は漁業くらいしか取り柄がないからね」
「おすすめ」
「魚介の炊き込み飯かな」
「それ」
少し考える。
「あと焼き魚」
「はい」
「魚のスープ」
「……はい」
「揚げ物も」
「結構食べるね」
「うん」
役人たちは慣れた顔で席についた。
*
料理が運ばれてくる。
最初は焼き魚。
メフェリアが箸を入れる。
皮がパリッと割れた。
白身。
一口。
「…………」
店主の老人が遠くから見ている。
もう一口。
「美味しい」
老人の眉が少しだけ動く。
次。
炊き込み飯。
魚介の出汁が米に染み込んでいる。
「これも美味しい」
魚のスープ。
「これも」
揚げ物。
「……これ好き」
先ほどまで不機嫌そうだった老人が、ほんの少し胸を張った。
「当たり前だ。この島の魚だからな」
メフェリアが老人を見る。
「おじいさんが作ったの?」
「そうだ」
「料理上手だね」
「…………」
老人が黙る。
政府の人間からそんな言葉が出るとは思っていなかったらしい。
「もう一個」
「何をだ」
「揚げ物」
「……待ってろ」
老人が厨房へ戻る。
役人の一人が小さく息を吐いた。
完全に食事になっている。
調査はどうした。
そう思った、その時。
メフェリアが口を開いた。
「ねえ」
「はい?」
「みんな、こっち見てる」
役人たちが固まる。
「……え?」
「店入ってからずっと」
メフェリアは食べ続ける。
「外に六人」
役人が窓を見る。
誰もいない。
「裏に四人」
「……!」
「あと屋根に二人」
役人の顔色が変わる。
「メフェリア宮、それは――」
「多分こっち見てる」
「何故もっと早く仰らなかったのです!?」
メフェリアが首を傾げる。
「ご飯食べてたから」
その瞬間。
ガシャァン!
窓ガラスが割れた。
何かが飛び込んでくる。
黒い球体。
役人が叫ぶ。
「爆弾!」
ドンッ!!
*
煙。
瓦礫。
悲鳴。
食堂の壁が吹き飛んでいた。
「メフェリア宮!」
役人が叫ぶ。
煙の向こう。
椅子。
そこにメフェリアは座ったままだった。
「…………」
服が少し汚れている。
頬には小さな傷。
だが。
バキッ
傷口が塞がっていく。
まるで最初から何もなかったように。
メフェリアは頬を触った。
「……爆弾か」
外から男たちが雪崩れ込んでくる。
銃。
剣。
十数人。
「政府の犬ども!」
「ここで死ね!」
役人たちが武器を構える。
メフェリアは動かなかった。
「メフェリア宮!」
銃口が向けられる。
発砲。
パン!
弾丸がメフェリアの肩を貫いた。
身体が少し揺れる。
「……痛い」
傷が塞がる。
もう一発。
腹。
再生。
男たちの顔色が変わる。
「な……なんだこいつ……!」
メフェリアは立ち上がった。
「避けるの面倒なんだよね」
腰のレイピアへ手を伸ばす。
細い刀身が抜かれる。
「それに」
床を見る。
ひっくり返った皿。
炊き込み飯。
スープ。
そして。
「…………」
揚げ物。
さっき追加注文したものだった。
床に落ちている。
メフェリアが黙る。
店主の老人が厨房から顔を出す。
「お、おい……」
メフェリアは床を見たまま尋ねた。
「おじいさん」
「なんだ」
「これ、また作れる?」
「材料がありゃあな」
「材料は?」
老人が外を見る。
「……魚市場だ」
しかし町の市場は閉まっている。
メフェリアが襲撃者たちを見る。
「市場閉めたの、あなたたち?」
男の一人が笑った。
「だったらどうした!」
「そう」
メフェリアがレイピアを構えた。
「じゃあ、あなたたち片付けたら開く?」
「は?」
「市場」
「何言って――」
男の言葉が止まった。
ぞくり。
その場にいた全員の背筋を、何かが走った。
メフェリアの瞳。
翡翠色だった瞳孔が細くなる。
猫のように。
腕。
首筋。
頬。
黒い虎縞のような模様が浮かび上がる。
頭部から獣の耳。
腰から長い尾。
そして背中。
衣服の隙間から、黒い何かが広がる。
翼。
巨大な黒い翼。
空気が変わった。
先ほどまでそこにいたのは、小柄な少女だった。
今は違う。
人。
そして獣。
その中間。
ネコネコの実。
幻獣種。
モデル――窮奇。
「ば……化け物……」
誰かが呟いた。
メフェリアの周囲に黒い炎のようなものが漂う。
燃えてはいない。
だが、確かに揺らめいている。
恐怖。
敵意。
殺意。
この場に満ちる負の感情。
それらに反応するように。
「化け物?」
メフェリアが首を傾げる。
「失礼だね」
次の瞬間。
消えた。
「――え?」
一人の男が声を漏らす。
メフェリアは、その背後にいた。
レイピアを振る。
男の剣だけが砕け散る。
次。
翼が動く。
突風。
三人がまとめて壁へ叩きつけられた。
「撃てェ!!」
一斉射撃。
メフェリアは避けない。
弾丸が身体へ突き刺さる。
だが。
バキバキッ
黒い稲妻が走る。
再生。
その間にも歩き続ける。
「なんで……!」
「死なねェんだ!」
メフェリアは眠そうな目で彼らを見る。
「私に聞かれても困る」
レイピア。
一閃。
銃がまとめて切断される。
「それより」
一歩。
「早くして」
黒い凶気が刀身へ絡みつく。
「お腹すいた」
数十秒後。
戦闘は終わった。
*
店の外。
襲撃者たちが転がっている。
死んではいない。
メフェリアが殺さなかったからではない。
殺す必要すらなかったからだ。
政府役人が男の一人を拘束する。
「吐け! 奪った政府物資はどこだ!」
男が睨み返す。
「誰が言うか……!」
メフェリアが近づく。
男の顔色が変わる。
「ひっ……!」
「ねえ」
しゃがむ。
「市場、いつ開く?」
「……は?」
「魚市場」
「し、知らねェよ!」
「そう」
立ち上がる。
「じゃあいいや」
「待て!」
男が叫んだ。
「倉庫だ!」
役人たちが振り返る。
「港の北にある古い倉庫! そこに全部ある!」
「全部?」
「政府から奪った荷もだ!」
役人の表情が変わる。
「案内しろ」
男が連れていかれる。
メフェリアはそれを見送った。
「…………」
店へ戻る。
老人が壊れた店内を見ている。
「ごめん」
老人が振り返った。
「……何がだ」
「店、壊れた」
「壊したのはお前じゃねェだろ」
「そう?」
「そうだ」
メフェリアは床を見る。
「揚げ物……」
「まだ言ってんのか」
「食べたかった」
老人がしばらくメフェリアを見る。
そしてため息。
「魚が手に入りゃ作ってやる」
メフェリアの目が少し開く。
「ほんと?」
「ああ」
「いっぱい?」
「食えるだけ作ってやる」
「じゃあいっぱい」
老人が笑った。
「変な嬢ちゃんだ」
メフェリアは少し考えた。
「よく言われる」
「そうだろうな」
*
夕方。
閉まっていた魚市場が再び開いた。
事件を起こしていた集団が拘束されたことで、町にも少しずつ人が戻っている。
カルナ食堂。
壁には穴。
窓も割れている。
それでも厨房からは油の音が聞こえていた。
メフェリアの前。
山盛りの魚の揚げ物。
「いただきます」
一つ。
サクッ。
「…………」
尻尾が動いた。
人獣型は解除している。
もちろん本物の尻尾はない。
だが、もしあれば間違いなく揺れていただろう。
「美味しい」
老人が鼻を鳴らす。
「冷める前に食え」
「うん」
役人が店へ入ってくる。
「メフェリア宮」
「なに?」
「奪われた物資を確認しました」
「そう」
「さらに、行方不明となっていた政府職員も発見しております」
「生きてる?」
「はい」
「よかったね」
言葉は軽い。
心配していた様子もない。
役人は続ける。
「襲撃者たちは、政府の輸送物資を奪い、海賊へ横流ししていたようです」
「ふーん」
揚げ物を食べる。
「詳細については船内でご報告を――」
「後で」
「しかし」
「冷める」
役人が黙る。
老人が笑った。
「嬢ちゃんの言う通りだ。揚げ物は熱いうちに食うもんだ」
メフェリアが頷く。
「分かってるね、おじいさん」
「何年料理人やってると思ってやがる」
メフェリアがもう一つ食べる。
外。
夕暮れの港。
再び人々の声が戻っている。
メフェリアはそれを見ることもなく、料理を食べ続けた。
島を救った。
政府職員を救出した。
奪われた物資も取り戻した。
だが本人には、英雄になったつもりなど欠片もない。
ただ。
美味しい昼飯を邪魔された。
だから邪魔した連中を片付けただけ。
それだけだった。
*
夜。
政府船。
メフェリアは甲板に寝転がっていた。
「……食べた」
満足。
隣には老人から持たされた魚の揚げ物。
夜食用だった。
役人がやってくる。
「明朝、次の港へ向かいます」
「うん」
「その後、予定通り本来の調査地点へ」
「分かった」
珍しく素直だった。
「それと」
役人が一枚の紙を差し出す。
「先ほど押収した物資の中から、妙なものが発見されました」
メフェリアが紙を見る。
「なにこれ」
「取引記録です」
「誰の?」
「現在確認中ですが……」
役人の表情が険しくなる。
「今回の一件。単なる海賊への横流しではない可能性があります」
メフェリアが身体を起こす。
紙を見る。
複数の島。
船。
人名。
そして金額。
どうやら思っていたより大きな話らしい。
「…………」
「メフェリア宮?」
メフェリアがため息をつく。
「面倒なのになってきた」
海風が緑色の髪を揺らす。
遠く。
暗い海の向こう。
彼女の知らないところで、いくつもの出来事が動き始めていた。
海賊。
海軍。
世界政府。
そして、まだ名も知られていない者たち。
メフェリアは取引記録を折り畳んだ。
「まあいいや」
「よろしいのですか?」
「うん」
紙を役人へ返す。
そして夜食の袋を開ける。
「明日考える」
「…………」
「今はこっち」
魚の揚げ物を一つ取り出す。
まだ少し温かい。
メフェリアは満足そうに一口かじった。
世界が動き始めても。
今の彼女にとって。
温かいご飯より優先されるものは――。
まだ、それほど多くなかった。