東の海。
朝。
世界政府の船が、一つの島へ近づいていた。
甲板の手すりに頬杖をつきながら、トップマン・メフェリア宮は島を眺めている。
今回の目的地――ラッカ島。
第4話の事件で発見された取引記録に、その名前が何度も記されていた。
政府から奪われた物資の中継地点である可能性がある。
つまり。
調査対象。
なのだが。
「メフェリア宮」
「なに?」
「到着後、まず現地の政府関係者と合流いたします」
「うん」
「その後、取引記録に記載されていた倉庫を調査します」
「うん」
「それから――」
「朝市ある?」
役人の言葉が止まった。
「……はい?」
メフェリアが島を指差す。
港には無数の小舟。
そのさらに奥。
色とりどりの屋根が並んでいる。
人も多い。
「市場」
「ああ……」
役人が資料を見る。
「ラッカ島では、早朝から昼頃まで大規模な市場が開かれるようです」
メフェリアの目が少し開いた。
「何売ってる?」
「魚介類、野菜、果物、香辛料などが中心かと」
「料理は?」
「屋台も多数あるようです」
「…………」
「メフェリア宮?」
「先にそっち」
「倉庫の調査が先です」
「市場終わっちゃう」
「任務です」
「…………」
メフェリアは役人を見る。
役人も見る。
数秒。
「一時間」
「いけません」
「三十分」
「いけません」
「十五分」
「交渉するものではございません」
「けち」
「何とでも仰ってください」
メフェリアは頬を少し膨らませた。
「……じゃあ早く終わらせよ」
役人は心の中で安堵した。
食べ物が絡むと、メフェリア宮は仕事が早い。
最近、それが分かってきた。
*
ラッカ島。
東の海でも比較的大きな交易港を持つ島。
港には商船が並び、朝早くから人々の声が飛び交っている。
「魚安いよー!」
「採れたてだ!」
「南から届いた香辛料だ!」
「焼きたてのパン!」
メフェリアの足が止まる。
「…………」
いい匂い。
右。
魚の串焼き。
左。
果物。
その向こう。
焼きたてのパン。
さらに奥から、肉を焼く匂い。
「メフェリア宮」
役人が釘を刺す。
「……分かってる」
歩き出す。
三歩。
止まる。
「…………」
「メフェリア宮」
「見てるだけ」
「前を向いてください」
「はい」
ものすごく不満そうだった。
*
現地の政府関係者との合流は、港近くの事務所で行われた。
「お待ちしておりました」
責任者らしき男が深々と頭を下げる。
「今回の調査についてですが――」
メフェリアは窓の外を見ていた。
市場。
「メフェリア宮」
「聞いてる」
「では……」
男が地図を広げる。
「問題の倉庫はこちらです」
港の北側。
市場からはそれほど離れていない。
「現在は?」
「使用されていないことになっています。しかし夜間に人の出入りが確認されています」
「ふーん」
「武装した者がいる可能性もあります」
「そう」
「危険ですので、護衛を――」
「いらない」
即答。
「しかし」
「一人でいい」
メフェリアが立ち上がる。
「早く終わらせたいし」
「お、お待ちを!」
もう扉へ向かっている。
役人が慌てて追う。
メフェリアが振り返る。
「ついてくるの?」
「当然です!」
「危ないかもよ」
「それをメフェリア宮が仰るのですか!?」
「じゃあ頑張って」
「何をですか!?」
メフェリアは答えず歩いていった。
*
港の北。
古い倉庫。
確かに使われていないように見える。
扉には錆。
窓も汚れている。
だが。
メフェリアは入口の前で止まった。
「いるね」
「分かるのですか?」
「うん」
「何人ほどでしょう」
メフェリアの瞳が少し細くなる。
「八……」
一拍。
「九」
「九人」
「あと奥に一人」
「では十人ですね」
「その人だけ違う」
役人が眉をひそめる。
「違う?」
「他の人、こっち警戒してる」
「はい」
「奥の人」
メフェリアが扉を見る。
「全然こっち見てない」
「……?」
「寝てるのかな」
「そんな馬鹿な」
メフェリアが扉を開けた。
「お邪魔します」
「メフェリア宮!?」
倉庫の中。
武装した男たちが一斉に振り返った。
「なっ!」
「誰だ!」
銃。
剣。
メフェリアは彼らを見る。
「世界政府」
空気が変わった。
「チッ!」
男たちが武器を構える。
メフェリアはため息をついた。
「やっぱり戦うの?」
「政府の犬が!」
「犬じゃないんだけど」
一人が撃つ。
パンッ!
メフェリアは首をわずかに傾けた。
弾丸が横を抜ける。
今回は避けた。
理由は単純。
「服汚したくない」
朝市へ行くからだった。
次の瞬間。
メフェリアの姿が消える。
「え――」
レイピア。
一閃。
男の銃が真っ二つになる。
柄で顎を打つ。
一人。
振り返る。
二人目の剣をレイピアで弾く。
そのまま足を払う。
三人目。
「囲め!」
四方から男たちが迫る。
メフェリアの顔に変化はない。
眠そうなまま。
「面倒……」
ほんの少し。
武装色。
細い刀身が黒く染まる。
数秒後。
「…………」
役人が呆然としていた。
床には九人。
全員気絶。
メフェリアはレイピアを鞘へ戻す。
「終わり」
「……はい」
「市場行っていい?」
「まだです」
「なんで?」
「奥に一人いると仰ったではありませんか!」
「あ」
忘れていた。
*
倉庫の奥。
小さな部屋。
扉を開ける。
「…………」
一人の男が椅子に座っていた。
老人。
いや。
五十代くらいだろうか。
目の前には酒。
そして料理。
男が肉を食べている。
メフェリアを見る。
「……誰だ?」
「世界政府」
「そうか」
肉を食べる。
反応が薄い。
メフェリアは皿を見る。
「それ何?」
役人が頭を抱えた。
「メフェリア宮!」
「だって美味しそう」
男が笑った。
「食うか?」
「食べる」
「メフェリア宮!!」
「冗談」
一応、冗談だった。
多分。
男が酒を飲む。
「外の連中は?」
「寝てる」
「そうか」
驚かない。
メフェリアの目が少し細くなる。
「あなた、ここの偉い人?」
「違う」
「じゃあ誰?」
「料理人だ」
「…………」
メフェリアの表情が変わった。
役人が嫌な予感を覚える。
「料理人?」
「ああ」
「これ作ったの?」
「そうだ」
「一口」
「メフェリア宮」
役人の声が低くなる。
メフェリアが少し考える。
「……先に仕事する」
「ありがとうございます」
何故礼を言っているのか分からない。
「この倉庫」
メフェリアが男を見る。
「何に使ってる?」
「密輸だ」
あっさり答えた。
役人が驚く。
「密輸!?」
「俺は雇われて飯作ってるだけだ」
「誰に?」
「知らん」
「嘘」
メフェリアが即答する。
男が彼女を見る。
「なんで分かる」
「なんとなく」
正確には。
敵意。
恐怖。
緊張。
先ほどまで全くなかった男の感情が、一瞬だけ揺れた。
窮奇の感覚。
「誰?」
男が黙る。
メフェリアも黙る。
「…………」
「…………」
「料理冷めるよ」
男が皿を見る。
「そうだな」
「だから早く言って」
「お前、変な奴だな」
「よく言われる」
男が笑った。
そして。
一つの名前を口にした。
*
数十分後。
政府役人たちが倉庫を調べていた。
大量の箱。
武器。
薬品。
政府から奪われた物資。
そして。
「メフェリア宮」
役人が一枚の紙を持ってくる。
「やはりカルナ島で発見された記録と一致します」
「そう」
「複数の海賊団へ物資が流れているようです」
「そう」
「さらに背後には仲介人がいる可能性が――」
「そう」
「聞いておられますか?」
「聞いてる」
メフェリアは別のものを見ていた。
時計。
「市場」
「…………」
役人がため息をつく。
「一時間だけです」
メフェリアが振り返る。
「ほんと?」
「調査に必要なものはこちらで押収します」
「ありがとう」
さっきまでの無表情が嘘のようだった。
「行ってくる」
「護衛を――」
もういない。
「……速い」
戦闘の時より速いんじゃないか。
役人は本気でそう思った。
*
朝市。
メフェリアは立っていた。
右を見る。
左を見る。
「…………」
多い。
ものすごく多い。
串焼き。
魚。
パン。
スープ。
果物。
菓子。
肉。
どれから食べるか。
神の騎士団員として数々の判断をしてきたメフェリアにとって。
今日一番難しい選択だった。
「……まず」
肉。
串焼き。
一口。
「美味しい」
次。
魚。
「これも」
次。
パン。
「…………」
中に肉が入っている。
「これ好き」
そして。
一軒の屋台で足が止まる。
小さな丸い菓子。
油で揚げられている。
上から甘い蜜。
「これ何?」
屋台の女性が笑う。
「知らないのかい? ラッカ島の名物だよ」
「名物?」
「“蜜揚げ”さ」
「甘い?」
「とびきりね」
「一個」
一口。
サクッ。
中はふわふわ。
熱い。
そして甘い。
「…………!」
メフェリアの目が完全に開いた。
「美味しい」
「だろ?」
「もう一個」
「はいよ」
「あと十個」
「十個!?」
「持って帰る」
「毎度あり!」
メフェリアは袋を受け取る。
一つ。
また食べる。
「…………」
機嫌がいい。
かなり。
*
その時だった。
「おい!」
市場の向こう。
騒ぎ。
「捕まえろ!」
一人の少年が走っている。
十代半ばくらい。
手にはパン。
後ろから店主が追いかけている。
「泥棒!」
少年が人混みを抜ける。
メフェリアの横を通る。
その瞬間。
ぶつかった。
「あ」
袋が落ちる。
時間が止まった。
蜜揚げ。
十個。
地面へ。
一個。
二個。
三個。
ころころ。
メフェリアが下を見る。
少年も見る。
「…………」
「…………」
少年の顔から血の気が引いた。
「ご、ごめん!」
メフェリアがゆっくり顔を上げる。
「…………」
「わざとじゃないんだ!」
少年が後退する。
メフェリアの目が細くなる。
猫のように。
「それ」
「え?」
「私の」
「…………」
少年が走り出した。
「待って」
メフェリアも歩き出す。
「弁償して」
「金ねェよ!」
「じゃあ買って」
「だから金ねェって!」
「じゃあ働いて」
「嫌だよ!」
二人が市場の中へ消えていく。
遠くから追いついてきた政府役人が、その光景を見る。
「…………」
頭を抱えた。
「何をなさっているのですか……」
世界政府の密輸事件。
謎の仲介人。
東の海で動き始めた海賊たち。
調査すべきことはいくらでもある。
だが。
トップマン・メフェリア宮。
二十一歳。
神の騎士団員。
現在の最優先事項。
**落とされたお菓子十個分の弁償。**
世界の命運とは何の関係もない追跡劇が、
港町の朝市で始まった。