「待って」
「無理!」
「弁償して」
「金ねェって言ってんだろ!」
ラッカ島。
朝市のど真ん中を、一人の少年が全力で駆け抜けていた。
その少し後ろ。
メフェリア宮が追っている。
少年は必死だった。
対してメフェリアは――歩いている。
「…………」
少年が振り返る。
距離が開いている。
「なんだ、遅ぇじゃん!」
さらに走る。
角を曲がる。
「これなら――」
その瞬間。
「ねえ」
「うわっ!?」
目の前にメフェリアがいた。
少年が急停止する。
「な、なんで!?」
「走ったから」
「歩いてただろ!」
「途中から走った」
「見りゃ分かるよ!」
メフェリアは少年の手を見る。
パン。
さっき盗んだものだ。
「それ」
「……なんだよ」
「盗んだ?」
少年の表情が強張る。
「関係ねェだろ」
「うん」
「じゃあ聞くなよ!」
「でも」
メフェリアが少年を見る。
「私のお菓子落としたのは関係ある」
「まだ言ってんのかよ!」
「十個」
「細けぇな!」
「美味しかったから」
「知らねェよ!」
少年が再び逃げようとする。
メフェリアが服の襟を掴んだ。
「ぐえっ!」
「どこ行くの」
「離せ!」
「弁償」
「だから金が――」
「じゃあ働いて」
「何すんだよ!」
メフェリアは少し考えた。
特に思いつかない。
「…………」
「考えてなかっただろ!」
「うん」
「うんじゃねェ!」
その時。
市場の方から声が聞こえた。
「いたぞ!」
パン屋の店主だった。
数人の男を連れている。
少年の顔色が変わった。
「やべっ」
メフェリアが振り返る。
「お前! また盗みやがったな!」
店主が少年を指差す。
「今度こそ許さねェぞ!」
「……また?」
メフェリアが少年を見る。
「…………」
少年が目を逸らした。
店主たちが近づいてくる。
「嬢ちゃん、そいつ捕まえててくれ!」
「嫌」
「は?」
メフェリアは少年の襟から手を離した。
「私、関係ないし」
「いや、捕まえてるじゃねェか!」
「私のお菓子落としたから」
「何の話だ!?」
少年はその隙に走り出した。
「あ」
メフェリアも追う。
「待って」
「結局追ってくんのかよ!」
二人は再び路地へ消えていった。
*
しばらくして。
港町の外れ。
「はぁ……はぁ……!」
少年は壁に手をついていた。
「なんなんだよ……あんた……」
メフェリアは普通に立っている。
「メフェリア」
「名前聞いてねェよ」
「私は聞いた」
「いつ!?」
「今」
少年が睨む。
「…………カイ」
「カイ」
「そうだよ」
「何歳?」
「十五」
「ふーん」
興味があるのかないのか分からない。
カイはメフェリアを見る。
緑色の髪。
見慣れない服。
腰のレイピア。
どう見ても普通の旅人ではない。
「……あんた、何者?」
「神の騎士団」
「何それ」
「…………」
メフェリアが少し考える。
東の海の一般人なら、知らなくてもおかしくない。
「まあいいや」
「なんだよそれ」
「知らなくていい」
「偉そうだな」
「偉いから」
即答。
カイが呆れた顔をする。
「変な奴」
「よく言われる」
メフェリアの視線がパンへ向いた。
「それ」
「やらねェぞ」
「いらない」
「じゃあ見るな」
「なんで盗んだの?」
カイの表情が変わった。
「……関係ない」
「そう」
メフェリアはあっさり引いた。
カイが逆に戸惑う。
「……聞かねェの?」
「関係ないんでしょ?」
「まあ……そうだけど」
「じゃあいい」
メフェリアは踵を返した。
「待てよ」
止まる。
「なに」
「菓子は?」
「弁償できないんでしょ?」
「……まあ」
「じゃあいい」
「いいのかよ!」
メフェリアが振り返る。
「面倒になった」
「お前……!」
そのまま歩き出す。
十個。
確かに惜しい。
でも。
この少年から十個分を取り立てる方が面倒だ。
だったら新しく買った方が早い。
合理的な判断だった。
「……変な女」
カイが呟いた。
メフェリアの足が止まる。
「聞こえてるよ」
「耳いいな!」
「猫だから」
「は?」
「なんでもない」
再び歩き出した。
その時だった。
ぐぅぅぅ……。
大きな音。
メフェリアが振り返る。
カイが腹を押さえている。
「…………」
「見るな!」
「お腹すいてる?」
「すいてねェ!」
ぐぅぅぅ……。
「鳴ってる」
「うるせェ!」
メフェリアはカイの持つパンを見る。
「それ食べれば?」
「これは俺のじゃねェ」
「盗んだんだから、もうあなたのでしょ」
「そういう意味じゃねェよ」
「?」
カイが黙った。
そして。
「……妹のだ」
「妹?」
「腹減らしてんだよ」
メフェリアは何も言わなかった。
*
町のさらに外れ。
古い家。
屋根には穴。
壁も傷んでいる。
「ここ」
カイが扉を開けた。
「なんでついて来てんだよ」
「暇だから」
「市場行けよ」
「あとで行く」
家の中。
小さな少女がいた。
十歳にも満たない。
「お兄ちゃん!」
「ただいま」
カイがパンを渡す。
少女の顔が明るくなる。
「パン!」
「ゆっくり食えよ」
「うん!」
少女がパンを食べ始める。
メフェリアはその様子を見ていた。
「…………」
よく分からない。
食べ物なんて。
欲しければ用意される。
それがメフェリアにとっての常識だった。
腹が減ったまま待つ。
パン一つのために盗みをする。
そんな生活を、彼女は知らない。
「お兄ちゃん」
少女がパンを半分に割る。
「半分」
「俺はいらねェよ」
「お腹鳴ってた」
「鳴ってねェ」
「鳴ってたよ」
「…………」
メフェリアが言った。
「鳴ってた」
カイが睨む。
「お前は黙ってろ!」
少女がメフェリアを見る。
「お姉ちゃん誰?」
「メフェリア」
「お兄ちゃんの友達?」
「違う!」
カイが即答する。
メフェリアは少し考える。
「お菓子十個落とされた人」
「説明がおかしいだろ!」
少女はよく分からないまま笑った。
*
メフェリアは家を出た。
「じゃあ」
カイがついてくる。
「帰るのか」
「市場」
「やっぱ行くのかよ」
「うん」
少し歩く。
「……ねえ」
「なんだよ」
「ご飯って、そんなに手に入らないもの?」
カイが止まった。
「は?」
「お腹すいたら食べればいいでしょ」
「……お前、本当にどこで育ったんだよ」
「マリージョア」
「知らねェ」
「そう」
カイはため息をついた。
「金がなきゃ食えねェんだよ」
「働けば?」
「仕事がねェ」
「なんで?」
「だから……!」
言いかけて、カイが止まる。
「最近、この島に変な連中が増えたんだよ」
メフェリアが見る。
「変な連中?」
「港の仕事を仕切ってた連中が急に変わった。逆らった奴は仕事をもらえねェ。うちの親父もそれで――」
「…………」
「なんだよ」
「その人たち」
メフェリアが首を傾げる。
「倉庫にいた人たち?」
カイの顔が変わった。
「知ってんのか?」
「さっき片付けた」
「…………は?」
「九人くらい」
「は?」
「寝てると思う」
「何したんだよお前!?」
「ちょっと」
「ちょっとで九人寝かせる奴がいるか!」
メフェリアは少し考えた。
「いるよ」
「どこに」
「ここ」
「そういう意味じゃねェ!」
カイが頭を抱えた。
*
朝市へ戻る。
カイも何故かついてきた。
「これ」
メフェリアが蜜揚げの屋台を指差す。
「お前が落としたやつ」
「……それか」
「十個」
「まだ覚えてんのかよ」
「うん」
屋台の女性がメフェリアに気づく。
「あら、さっきのお嬢ちゃん」
「十個」
「また?」
「うん」
「よっぽど気に入ったんだねぇ」
袋いっぱいの蜜揚げ。
メフェリアが一つ食べる。
「…………」
美味しい。
やっぱり美味しい。
もう一つ。
カイが見ている。
「食べる?」
「え?」
「一個」
「……いいのか?」
「うん」
一つ渡す。
カイが食べる。
「熱っ!」
「出来たてだから」
「先に言えよ!」
それでも食べる。
「…………うま」
メフェリアが少しだけ満足そうな顔をした。
「でしょ」
何故か自分が褒められたような反応だった。
「妹にも持ってく?」
「いいのか?」
「別に」
「……ありがと」
メフェリアが首を傾げる。
「何が?」
「いや……」
カイは少し笑った。
「なんでもねェ」
メフェリアは袋を見る。
残り八個。
「…………」
一つ、カイ。
一つ、妹。
残り六個。
「足りない」
「何が!?」
「また買う」
「どんだけ食うんだよ!」
*
少し離れた場所。
政府役人がようやくメフェリアを発見した。
「メフェリア宮!」
「見つかった」
「見つかった、ではございません!」
息を切らしている。
「どちらへ行かれていたのですか!」
「色々」
「色々とは!?」
「お菓子買ってた」
「一時間以上経過しております!」
「そう?」
「そうです!」
役人はカイを見る。
「こちらの少年は?」
「お菓子落とした人」
「まだその話を……」
カイが小声で聞く。
「なあ」
「なに」
「あんた、本当に偉い奴なの?」
「偉いよ」
「どれくらい」
メフェリアが考える。
説明するのが面倒だった。
「かなり」
「分かんねェよ」
役人が青ざめている。
「き、君! メフェリア宮に対して何という口の――」
「いいよ」
メフェリアが遮った。
「でも!」
「面倒だから」
役人は口を閉じる。
カイは不思議そうにメフェリアを見る。
「宮?」
「なに」
「なんで宮なんだ?」
「そういうものだから」
「ふーん」
興味を失った。
メフェリアも気にしない。
この時。
カイは知らなかった。
自分が今、世界の頂点に住む者の一人と普通に話していることを。
そしてメフェリアも。
そんなことを教える必要があるとは思っていなかった。
*
船へ戻る途中。
役人が報告する。
「倉庫で発見された資料の解析が進みました」
「うん」
「密輸組織の次の取引場所が判明しております」
「どこ?」
島の名前が告げられる。
メフェリアが立ち止まる。
「そこ、何が美味しい?」
「……現在調べております」
「お」
メフェリアが少し驚く。
役人が胸を張る。
「学習いたしました」
「偉い」
「ありがとうございます」
何故、自分は天竜人から料理情報について褒められているのだろう。
役人は考えないことにした。
「それによりますと、次の島は酪農が盛んで――」
メフェリアの目が開く。
「酪農?」
「はい。乳製品が名産とのことです」
「チーズ?」
「有名だそうです」
「デザートは?」
「乳製品を使用した菓子も多数あると」
「行こ」
「もちろん任務で向かいます」
「今日?」
「明朝です」
「今から」
「無理です」
「なんで?」
「航海の準備がございます!」
「…………」
露骨に残念そうな顔。
役人はため息をついた。
その後ろ。
カイが手を振っている。
「おーい!」
メフェリアが振り返る。
「またな!」
メフェリアは少しだけ首を傾げた。
また。
次にこの島へ来る予定などない。
だから。
「多分もう会わないよ」
「そこは普通『またな』でいいんだよ!」
「そうなの?」
「そうだよ!」
メフェリアは考えた。
そして。
小さく手を上げる。
「……またね」
カイが笑った。
メフェリアは再び歩き出す。
数歩。
「…………」
役人が横を見る。
「どうかなさいましたか?」
「別に」
「左様ですか」
メフェリアは蜜揚げを一つ口へ入れた。
甘い。
美味しい。
下界の人間など、どうでもいい。
昨日までと、その考えは何も変わっていない。
ただ。
カイ。
その名前だけは――。
なんとなく覚えていた。
*
翌朝。
船はラッカ島を離れる。
次の目的地へ。
その海の遥か向こう。
東の海の小さな村で。
一人の少年が、小舟へ荷物を積み始めていた。
麦わら帽子を被り。
満面の笑みを浮かべながら。
「よーし!!」
少年は海を見る。
長い間待ち続けた日。
海へ出る日。
その時が、ついにやって来ようとしていた。
一方。
同じ東の海を進む世界政府の船。
「チーズ……」
メフェリア宮は、次の島の資料を眺めていた。
「ケーキもあるかな」
世界を変える少年の冒険が始まる、そのすぐ近くで。
神の騎士の美食旅もまた――。
何事もなかったかのように続いていた。